第Ⅴ部 神と人とを愛せよ

34.警告・奨励・賛美

ローマ人への手紙

16章17節から27節まで


Ⅰ.警告

1.分裂を引き起こす人たちについて

2.自分の欲に仕えている人たちについて

3.信者を惑わす人たちについて

Ⅱ.奨励

1.善にはさとくあれ

2.悪にはうとくあれ

Ⅲ.賛美

1.主のみが堅く立たせ、信仰の従順に導く

2.主のみが知恵に富む

3.主のみに栄光あれ


いよいよ私たちは、ローマ人への手紙の最後の部分を学ぶことになりました。前項で私たちは、ローマの集会の兄弟姉妹について学びました。彼らは模範的な信者であり、聖霊に満たされて主に仕え、互いに主にあって完全に一つにされた心を持っていました。また、彼らにはすべてを主のためにだけ行いたいという心からの願いがありました。私たちは、彼らについて学ぶことによって多くの勧めと励ましを与えられました。ローマの集会の兄弟姉妹たちは、主のために生きるということは兄弟姉妹のために生きることだ、という確信を持っていました。神の霊がローマの信者たちを支配し、その結果彼らはイエス・キリストの支配の下におかれるようになりました。こうして神のみこころが実現されたのです。


16章全体を通して最も頻繁に用いられ、また最も重要な表現は「主にあって」また「キリストにあって」です。「主にあって」という言葉は、「主にあって互いに同じ思いを持つようにされている」、また「主ご自身と一つの思いになっている」ことを表わしています。当時の信者たちは、いわゆる教義の内容に賛同したから信者になったのではありません。彼らの内にキリストが住まわれ、彼らもまたキリストの内に住むことによって、彼らが信者であることを証ししたのです。主に自分自身を捧げずに主を信じている、ということはできません。私たちは、自分の自我を主に明け渡すことによって、初めて互いに一つとなることができるのです。


信者になるとは、単に聖書が真理であると認めるだけでは十分ではありません。また、御言葉に信頼することだけでも十分ではありません。信者になるということは、自分を無にして、自我を主に明け渡すことを意味しています。


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・20)


ですから、私たちにつきつけられた最も重要な問いは、自分の自我によって生きるか、自我を主に明け渡して主のみこころに生きるかのどちらであるか、という問いです。主が私たちの中で自由にお働きになることができるかどうかということです。従って信仰とは、神の意志を理解し、それを受け入れることではなく、主に対する従順です。自分自身を完全に主に捧げることによってのみ、信者は主によって用いられる道具となりえます。それゆえ、パウロは16章で何度も「従順」あるいは「信仰の従順」について語っているのです。信仰の従順は、真実の礼拝をもたらします。このことを心に留めながら、ローマ人への手紙の最後の部分である聖句を読んでみましょう。


(17)兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。(18)そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。(19)あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。(20)平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

(21)私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。(22)この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。(23)私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。

(25、26)私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人人に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、(27)知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ16・17~27)


これから私たちが学ぶ、16章後半のテーマは、「勧め・警告・賛美」とすることができます。「勧め」は、信仰の従順に到達した信者に対して書かれています。この信者たちは、自分の命を捨てて、兄弟のために生きるという決意があり、忠実な心、誠意、練達した業をもって熱心に主に仕え、自分自身を空しくして主に仕えることによって、彼ら自身の生涯を主に対する証しとしました。


続いてパウロは彼らに二つの勧めを与えました。それは19節に書かれているように、まず第一に「善についてはさとくあり」、第二に「悪についてはうとくあれ」ということです。そしてこれらのパウロの警告は、分裂を引き起こす人々、自分の欲に仕える人々、信者たちを惑わそうとしている人々に向けられています。これらの人々の背後にサタンが働いていたことは疑いの余地がありません。


平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16・20)


また、パウロは、この手紙の一番最後を、主に対する賛美の言葉でしめくくっています。この賛美は、三つの内容を含んでいます。


第一に、主のみが信者を堅く立たせ、信仰の従順に導くことができること。第二に、主のみが知恵に富む唯一の神であること。そして第三に、主のみに栄光があるようにということです。


Ⅰ.警告


まず始めにパウロは、ローマの集会に対して警告をしています。パウロは、サタンの攻撃は恵まれている集会に対して特別に強く働くものであるということをよく知っていました。主のみこころが大切にされるときに、悪魔はいつでも攻撃を加えてきます。パウロは集会に対する悪魔の攻撃を次のような言葉で表現しています。


しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。(第二コリント11・14)


私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒し回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。(使徒20・29~30)


当時のローマの集会は霊に燃えていて、神の御光と力とを輝かせていました。これは、この世を支配するサタンの支配の中に神の力が入り込んだことを意味しています。悪魔は集会を外面から攻撃することに成功しないとき、集会を内側から駄目にしようと試みます。今日の日本において、悪魔は教会を外面的な力で破壊することはできません。なぜなら、今日の日本では宗教の自由が憲法によって保証されており、教会は法律で守られているからです。パウロは、悪魔の攻撃がどのようなものであるかを一人一人の信者が見分けることができるように、この警告を書き記しました。


ローマの集会は、ユダヤ人や異邦人の信者たちで構成されており、決して単純ではありませんでした。旧約聖書の影響を強く受けていたユダヤ人の信者の一部の人には、ユダヤ人が神から退けられた民族であり、かえって異邦人が救いの恵みにあずかるということを信ずることは難しいことでした。また、異邦人の信者たちは、救いは恵みによる、ということをよく知っていましたが、主イエスを十字架につけたのはユダヤ人であったとして、彼らを偏見の目で見ることがありました。パウロは集会内で、ユダヤ人と異邦人の対立が起こらないように常に心を配り、彼らが主にあって完全に一つになることをいつも祈り求めていました。


キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁をうちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。(エペソ2・14~18)


信者たちは、教義の上では、ユダヤ人と異邦人との間になんの区別もないことをよく知っていました。しかし現実にそれらを守ることは難しいことでした。あるユダヤ人は、使徒を装ってパウロの建てた教会をつぎつぎと訪問してはその教会を分裂させ、信者たちをつまずかせようとしました。ガラテヤ地方の都市である、デルベ、ルステラ、イコニウム、アンテオケでは、こういった偽使徒たちが成功をおさめました。パウロは、これらの集会のために祈りによって戦い、また、生みの苦しみを体験しました。その結果として、彼らがはじめの愛を持ち、愛と喜びと献身の思いで、主に仕えるように勧めることができました。そのほか、コリント、コロサイ、ピリピの集会にも、これらの偽教師たちは現われました。パウロは、彼らがすぐにでもローマの集会を訪問するであろうことをよく知っていました。パウロは信者たちに、彼ら偽使徒たちは悪魔の道具であるから、彼らとの交わりを避け、彼らから離れるようにと注意を促しました。偽使徒たちの一部は律法学者であり、信者たちを再びモーセの律法の縄目へ引き戻そうと試みましたし、また他の人たちは哲学者であり、天使崇拝をさせようとしました。


あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結び付くことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、『すがるな。味わうな。さわるな。』というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のきき目もないのです。(コロサイ2・18~23)


これら偽使徒たちがめざしていたのは、主イエスの栄光ではなく、自分自身の欲を満たすことでした。


また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。(第一テモテ6・5)


事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。(第二コリント11・20)


これがパウロの心の痛みでした。主イエスによって自由にされた信者たちが、これらの人々によって気がつかない内に奴隷にされていたからです。


彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ3・19)


どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。(ピリピ3・2)


パウロはいつでも誠の愛に満たされて、信者たちが常に和合するようにとすすめていましたが、ここでは手厳しい言葉で彼らを呪ったのです。パウロは、信者一人一人が主の光の内を歩んでいるかどうか気をつけるだけでなく、集会の中に分裂を引き起こそうとする悪魔の働きにも注意しなければならないと教えています。彼らを見分ける試金石は、ただ神の御言葉だけです。神の御言葉に従わない者を集会は拒絶しなければなりません。


Ⅱ.勧め


パウロは次にローマの集会の従順な信者に対して勧めの言葉を述べています。ローマの信者たちの特徴はその従順にありました。彼らは妥協せずに御言葉だけに従ったのです。彼らは神の言葉を単に頭で理解したのみでなく、実際に神の言葉に従って歩む者となりました。彼らはその従順のゆえに、他の集会の間でも評判になりました。ローマの集会の信者たちにとって、主イエスは救い主であるだけではなく、現実に日々の生活を支配する主であったのです。彼らは、主に救われただけでなく、真心から主に仕えるものとなりました。その従順は、主イエスご自身が彼らを支配されていたことを示しています。先の偽使徒たちについて、パウロは彼らは主イエス・キリストに仕えないものであると語っています。彼らは主イエスの栄光ではなく、自分自身の富と名誉を追い求めたのです。この偽使徒たちの態度は、表面的あるいは人間的には、愛と思いやりと忍耐と寛容に満ちているかのようでした。しかし実際、彼らの態度の背後に働いていたのは悪魔でした。当時、パウロが彼らに対してとった態度は愛も寛容もないように見えたかも知れません。主イエスがご自分の十字架について預言して語られたときに、多くの人々は「だれがこのような教えに耐えられよう」といって、イエスから離れて行きました。当時の彼らは、主イエスをかたくなで厳しく、また愛のない方と言ったのです。


18節には「純朴な人たち」という言葉がでてきます。これは純粋で真実な信仰を持っているが経験に乏しい信者のことをさしています。彼らは主イエスの血潮によって罪を許された者でしたが、悪を見分ける能力をまだ持っていませんでした。パウロは、彼らがいつでも主に従う決意を持っていることをよく知っていましたが、そこにはまた悪魔の落し穴があり、彼らがそれにかかってしまうのではないかと心配していました。ですからパウロは彼らに対して「善にはさとく、悪にはうとくあってほしい」と書き送ったのです。これは興味深い表現です。上からの知恵によってはじめて、私たちは本当によいもの、正しいもの、また、主のみこころにかなうものを見分けることができるのです。


主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、よい明察をえる。主の誉れは永遠に堅くたつ。(詩篇111・10)


天から与えられる知恵とは、第一に神を恐れることです。私たちは主の臨在を知り、内に住みたまう主に従うことによって上からの知恵をいただきます。私たちは、何が正しいことであるかを見分けるためには、神から与えられた知恵が必要なことを学びました。しかし悪に対しては、私たちはこのような上からの知恵を必要としません。私たちは、ただ素直で、真実であり、正直であればよいのです。悪を見分けるためには、知恵は必要ではなく、素直な心があればそれで足りるのです。主の前で正直であることは、無邪気な心と混じりけのない心とを意味します。そして悪を見分けるには、これがあれば十分です。正直な心を持っているなら、いつでも悪を拒絶するからです。


兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。(第一コリント14・20)


異性関係において誘惑はつきものですが、誘惑は異性関係ばかりではなく、宗教にもあります。純粋で真実な信仰を持った信者たちでさえ、このような偽信徒たちの宗教面の誘惑に対しては、あぶない面をもっています。なぜなら、これらの偽預言者たちは言葉巧みに話し、すべてを主に従おうと決心している若い信者たちを惑わすからです。悪魔は、常に純粋な信者たちを主の道から引き離そうとすきを狙っています。主イエスご自身に信仰の土台を置き、神のみ言葉に確信の土台を置いている信者は、偽信徒たちの巧みな言葉の中に隠れている毒を見分けることができます。偽信徒たちの働きは、集会の中に毒をまき散らすことでした。それゆえパウロは、このような手厳しい言葉で彼らをののしったのです。


あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。(第二ヨハネ10~11)


間違ったことを教える人は、その生活そのものが主の御言葉から外れています。彼らは、ただ自分が興味を持つことだけを追い求めるのです。純粋な混じりけのない信者を、このような間違った教えの罠から守るのは一体なんでしょうか。それは、無条件に主に従うこと、また、無条件に主の御言葉に従うことです。羊飼いである主の御言葉に聞き従い、その御声を聞き分ける者は、まことの羊飼いでない人々の声をも聞き分けます。


彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げだします。その人たちの声を知らないからです。(ヨハネ10・4~5)


わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネ10・27~28)


それでは、どのようにすれば主の御声を聞き分けることができるのでしょうか。そのためには、私たちが毎日仕事につく前に主の御言葉を聞き、またそれを自分のものにしなければなりません。主の御言葉を味わわないで一日を始めるなら、決して勝利を得ることはできません。


ローマ人への手紙16章の24節は、聖書の版によっては注釈としてのみ記されていますが、その内容は次の通りです。


私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがた全てとともにありますように。アーメン(ローマ16・24)


この節が、パウロの切なる願いを表現していることは疑いの余地がありません。パウロ自身体験したのが、ここに書かれている主の恵み、つまり人々に助けを与え、贖いを与える恵みでした。この主の恵みこそが、パウロが主のみ業にはげむ喜びであり、力の源であったのです。パウロはローマの信者たちに対して、彼らが幼子のような心でこの恵みを喜び、この恵みの内に安らうことを勧めました。さてパウロは、そのあとコリントのいろいろな信者たちのあいさつを取り次いでいます。テルテオが、特別にあいさつを述べています。


この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。(ローマ16・22)


これは短いあいさつですが、深い意味を持っています。「主にあって」という言葉からもわかりますように、テルテオは信者でした。またこのことから、彼がすべてのことを主のみこころを満たし主に喜ばれるために行ったということがわかります。テルテオが主にあるものであると証しをすることができたのは、本当にすばらしいことです。このように証しをすることはテルテオにとって大きな喜びでした。


Ⅲ.賛美


最後の部分はパウロの祈りであり、賛美です。パウロは、今や明らかにされた福音の奥義について語っています。この奥義とは、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、主イエスのみ体なる教会に属することが許されており、彼らは皆、信仰の従順に導かれるということです。


ここにいる私たちのすべてが、すでにこの主イエスの恵みを受けたでしょうか。私たちは、信仰の従順に到達しているのでしょうか。私たちはすべてを成し遂げることのできるお方である主を新たな目でみているでしょうか。私たちには自分の時間、自分の力をすべて主に捧げ、主の必要に備える用意ができているでしょうか。主が私たちにとって、他のなにものにもまして大切なものとなっているでしょうか。


私たちは、この最後のパウロの賛美を通して、主が私たちとまったく異った方である、ということを知ることができます。すなわち、私たちには何もする力がありませんが、主はすべてを成し遂げることがおできになります。私たちには知恵はありませんが、主は知恵に富む唯一のお方です。また、私たちは動揺しやすいものですが、主は決して揺り動かされることのないお方です。


私たちは、ローマ人への手紙が大きく三つの部分に分けられることを学びました。そして、これらの各部分はみな、賛美の言葉で終わっています。1~8章の主題は、人間は神に対して罪を犯したために罪人であり、神の怒りのもとにおかれている、ということでした。しかし、神の御子の犠牲の死によって、神は救いの道を開いてくださいました。誰でも自分の罪を悔い改め主イエスを受け入れた者は、神によって義とされる、と書かれています。主イエスとともに十字架につけられ、自分自身に対して死に、墓に葬られ、復活を体験し、高く引き上げられることは、救いと解放と勝利の秘訣です。信者の心の中に住まわれる聖霊の御力によって、信者は勝って余りがある、すなわち、圧倒的な勝利者となるのです。この事実をおぼえて、パウロは賛美をせざるをえなかったのです。この賛美を私たちは、ローマ書8章31~39節に読むことができます。


では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとうりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・31~39)


9~11章には、イスラエルの民の歴史が書かれていました。私たちはイスラエル民族を通して、神の恵みと裁きを知ることができます。イスラエルの歴史を通して、世界の歴史が一面では神の裁きを表わしており、また一方、神は人間が悔い改めてご自身のもとにたちかえることを喜んでおられることが証しされています。イスラエルの民族は偉大な過去を持ち、悲劇的な現在を持ち、また、栄光に満ちた未来を持っています。この神の知恵を知り、イスラエルの民の上に神が下された導きと恵みを見るなら、私たちもパウロとともに神を賛美せざるをえなくなります。その賛美は11章33~36節に書かれています。


ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によってなり、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11・33~36)


第三の部分、12~16章では、私たちは、主の体である教会の奥義について学びました。私たちは、信者の内に働かれる聖霊の力を見てきました。ある特定の信者が集会の中心になるのではなく、主ご自身が集会を支配してくださり、すべての信者が一致して主の栄光を現わすようになった実例を、私たちはローマの集会に学ぶことができました。ですから、パウロは喜びに満たされて賛美の祈りを捧げざるをえなかったのです。そしてこの賛美が16章25~27節です。


私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人人に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ16・25~27)


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