あとがき

あとがき

私はよく、「吉祥寺キリスト集会では、いったい何が他の教会と違っているのですか」と尋ねられることがあります。これに答えることは容易ではありませんが、簡単にまとめてみると、次の五つの点をあげることができます。


第一に、私たちの集会には「一人の牧師」はいませんが、多くの牧師、すなわち大勢の集会の面倒をみる兄弟たちがいます。この人たちはだれひとり、大学教授であっても、医者であっても、「先生」とは呼ばれません。すべての人が、「兄弟」「姉妹」と呼ばれます。羽鳥明さんは、ベルリンでの最初の伝道者大会で「日本の伝道にとっての主な妨げは牧師制度である」と言いました。もちろん彼は、牧師たちが正しくないと言おうとしたのではなく、「万人祭司制」と対立するワンマン体制、すなわち「単独牧師制」が日本では非常に強く、牧師と一般の信者との間の差が大きすぎるところに問題があるという意味でこのように言ったのです。


吉祥寺キリスト集会には、日曜日のご奉仕を行ったり、実際に信者たちの世話をしたりする兄弟が二十人以上もいます。その兄弟たちは公に定められた長老ではありませんが、だれでも悩みや問題がある時にはだれのところに行けばいいかを知っています。また、聖書の学びをする兄弟の数はだいたい五十人です。


第二に、私たちは「会員制度」を持っていません。洗礼を受けた人たちも集会の会員ではありません。「会員制度」は、しばしばおかしなものになってしまっています。霊的な交わりよりも組織的な関係のほうが強くなりがちなのです。私たちは人々に対して、決して「あなたは礼拝に来るべきです」とは言いません。だからこそ、みんな喜んで集会に来るのです。毎日曜日、約五百人の人が集ります。もし全員が来たならば、七百人を越えるでしょう。しかし日曜日に事情があって来られないご婦人たちがいます。そういうご婦人たちは毎週火曜日に集りますが、その数は二百五十人から二百六十人の間です。


第三に、私たちは「月定献金制度」をとっていません。新しく集会所を建てるために、多額のお金を必要とした時ですら、献金した人の名前を意識して書かないように注意しました。主に捧げられるものは、会計担当者も他の人も知る必要がありません。


第四に、私たちは毎週日曜日に聖餐式を行っています。それが礼拝の中心です。私たちは特別なプログラムを持たず、だれでも自由に祈ることができますし、みことばを読むことも、それについて何か語ることも自由です。中心はイエス様であり、十字架の救いの御業であり、そのために感謝と賛美が捧げられます。毎日曜日ごとの聖餐式に先だって、「救いの確信を持っていない者は、礼拝の中心である聖餐式にあずかることができないこと、また、未信者は献金することが許されていないこと」が、繰り返し集っている人々に対して述べられます。礼拝とは福音ではなく、説教でもなく、救い主に向かっての祈りと賛美であり、福音のための集会は聖餐式のあとで持たれます。


第五に、あらゆる信者が福音を宣べ伝えています。


ここで、この点について特に詳しく説明したいと思います。それというのも、多くの兄弟姉妹が、その点で問題を持っているからです。


まず、黙示録5章から一箇所見てみることにしましょう。


また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示録5・11~14)


私たちもきっと、この大いなる群衆の中に一緒にいることでしょう。この将来の希望は、いずれ現実となります。そして、数えきれないほどの群衆が、主なるイエス・キリストを礼拝し、賛美するようになるでしょう。現在は、「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」(ルカ12・32)という御言葉が当てはまるかも知れませんが、それは決して小さな群れのままで終ることはありません。


主なる神の目標は、小さな群れではなく、数えきれないほどの真の礼拝者の群れです。今世紀における最大の出来事の一つに、ウォッチマン・ニーと彼の同労者たちによって中国でなされた仕事をあげることができます。最初それは、部外者から「小さな群れ」と呼ばれました。しかしその後いたるところで、光を与えいのちを運ぶものとして、光輝く教会が発生し、いわゆる「小さな群れ」は非常に大きなものとなったのです。悪魔は総攻撃を開始しました。一万人の宣教師が国外退去させられ、わずか一日で四十九万人の信者が殺されました。その当時信者の数は、中国全体でだいたい百万人ぐらいでした。しかし現在では、二千五百万人の信者が、家庭集会に集っています。


成長は主なる神の心からの願いであり、目標です。そのために、私たちの主は一粒の麦として死んでくださったのです。たくさんの実が発生するべきです。大いなる獲物がもたらされるべきです。少ないもので満足する者はわざわいです。


実を結ばない理由として、未信者の無関心さやその地方の偶像崇拝のひどさがあげられたり、数ではなく質が問題であると言われたりするのをよく耳にします。しかし、主が絶えず新しい人を導かないようであれば、質もまた大したことはないと、はっきり言うことができます。神のことばである聖書は、私たちに具体的な数を示しています。主は、決して十二弟子だけで満足はなさいませんでした。それから少しして、七十人の人をお遣わしになり、五旬節には百二十人の人を通して、同じ日に三千人もの人が自分は主イエスのものであると告白して洗礼を受けました。そのすぐ後に、五千人の人が主イエス様を信じ、受け入れました。このように、初代教会は絶えず成長し、増え続ける教会でした。「あなたがたは地の果てまでわたしの証人となる」。これは主のご命令であり約束です。しかも主の目標は、三十倍、六十倍、百倍の実がもたらされることです。私たちも、もっと大いなることをなさりたいと願っておられる主と同じヴィジョンを持つ必要があります。もし私たちが、今の状態で満足してしまうならば、主は深く悲しまれることでしょう。


一億二千万人の日本人のすべてが、主のために福音を聞くことが、私たちの心からの願いであり、また祈りでもあります。そのための最も大切な要素は、全国各地の小教会の健全な成長であり、そのことに比べれば、いろいろな個別活動の働き例えばラジオ伝道、学生伝道、文書伝道など-は、そんなに大切であるとは思われません。しかし、誤解のないようにつけ加えておきますが、私がこのように考えるのは、先にあげたような様々な個別活動がそれ自体無意味だからではなく、そのような活動を通して福音に接したいという心を起こされた人が近くの教会に行き、そこでつまずいてしまって、福音から離れてしまうという例が、数えきれないほど多いからです。つまり、両方とも必要なのですが、教会の健全な成長の方がより重要だということです。実際、初代教会はラジオ伝道、テレビ伝道、学生伝道などをしなくても、非常に早く、しかも大きく成長しました。どうしても必要で大切なことは、主を信じる者同士の心からの一致です。現代のような、混乱したバラバラの状態が一般的になっている時代に、心から一致協力することは、何とすばらしいことでしょうか。


現代は孤独、独りぼっち、単独の時代です。以前私は、西ドイツのガイスワイドという町の一人の兄弟と一緒に一組の老夫婦を訪問しました。このご夫婦は、健康上の理由でもはや集会に行くことができなくなっていました。私たちが訪問すると、その老夫婦は「私たちはまったく無視されて、忘れさられてしまったのではないかと思っていました」と言いました。三十八年もの間、ベテスダの湖のほとりで病を患っていた病人は、主イエス様に言いました。「私を助けてくれる人は一人もいません。私のことを気遣って、心配してくれる人、私を助けてくれる人は、本当にだれもいないのです」と。


三千年前に、詩篇の作者は書き記しました。「私のたましいに気を配る者もいません」(詩篇142・4)と。


孤独は現代の大きな病です。人間は自分のことばかり考えます。人間が人間を独りぼっちにさせてしまいます。「私は弟の番人なのですか」と言ったカインのような態度が、今日では当たりまえのことになってしまっています。


Ⅰ.伝道活動における家庭集会の重要性


キリスト者にとって最も大切なことは、一人一人が強い責任感を持って、伝道の業に励むことです。中でも家庭を通しての伝道が、特に重要な意味を持っていることに注意すべきです。そこでこれから「伝道活動における家庭集会の重要性」についてご一緒に考えてみたいと思います。言うまでもなく、家庭集会は人に福音を宣べ伝えるという目的のための手段にすぎません。ですから、伝道活動の方が家庭集会自体よりも大切なことは明らかです。主イエスのためにたましいを獲得すること、これこそが目的であり、ただ一つの目標です。


ここで二つの問題について考えてみましょう。この二つの問いに対しては、あらゆる時代のあらゆる信者が同じ答えを出しています。第一の問いは「あなたの人生の最も大切な経験は何か」というもので、その答えは、「主イエス様との出会い以外の何ものでもありません」です。二番目は「人が人に提供することができる、最も大切な助けは何か」という問いで、答えは「主イエス様を知ることができるように、その人を助けることです」というものです。


ここでさらに、三つの点について考えてみましょう。この三つの点というのは、ある程度まで家庭集会の前提条件ともなるものです。

1.召しにふさわしく歩もうとする意欲

2.証人として生きようとする意欲

3.幾人かでも獲得しようという意欲


1.召しにふさわしく歩もうという意欲


それではまず、第一の点から見てみましょう。ここでは、「召しにふさわしい価値ある歩み」が大切です。イエス様のためにたましいを獲得することは、あらゆる信者に課せられた神の使命です。すべてのキリスト者は、この最も大切なご奉仕のために召し出されています。にもかかわらず、小羊であるイエス・キリストのためにたましいを獲得したいという情熱を、本当の意味で知っている人は極めて少ないということは、驚くべきことです。多くの信者たちは、自分の仲間や近所の人のたましいの救いに関して、全然責任を感じていません。エゼキエル書3章18節にある「わたしは彼の血の責任をあなたに問う」ということばは、私たちに大変な責任を、驚くほど冷静にまた挑戦的に示しています。


では、多くの信者たちの無関心の原因はいったい何でしょうか。第一は認識不足、第二は配慮不足、第三は想像力不足です。「人間は失われたものであり、悔い改めたくないたましいはすべて滅びに至る」という認識が不足しているということは、多くのキリスト者の特徴ではないでしょうか。また、失われた者の運命に対する配慮不足もあげられます。主イエス・キリストは、涙を流さないではいられないほど深く、一人一人のことを心配してくださいました。なぜなら主は、救われていない人の危険と滅びがどんなにひどいものであるかをご覧になったからです。救世軍のブース将軍は、ある時、救世軍の一人から、仕事があまりにも大変で全然成長ができないという知らせを受けました。将軍の答えはこうでした。「涙をもってやってみてください」。その人は、言われた通り、涙をもって仕事に励みました。その結果はすばらしいものでした。主は祝福することがおできになり、多くのたましいを獲得することがおできになったのです。最後に、一つのたましいの価値に対する想像力の不足があげられます。主イエス様は、人間のたましいを非常に価値のあるものとして尊重なさいました。それゆえ主は、すべての人を滅びから救うために、喜んで天での栄光を捨ててくださり、この地上で、貧しさ、悩み、恥、死の苦しみを受けてくださいました。一つのたましいの価値がそれほど高価なものであるならば、その救いのためには、どれほどの距離も遠すぎることはなく、どんな重荷も煩わしくはなく、いかなる配慮も面倒ではなく、いかなる仕事も難しすぎることはありません。デビッド・ブレイナードは次のように告白しています。「主の栄光のためであれば、私はだめになってもかまいません。どこに住もうと、どのような生活状態であろうと、どんな困難な体験をしようと、それが、キリストのためにたましいを獲得するためならば苦になりません」。こうした態度の結果は、インドにおけるすばらしいリバイバルでした。


私たちが必要としているのは、失われたたましいのための燃える心です。スポルジョンは、次のように証ししています。「私は、生まれて初めて一人の人間のたましいを主のみもとに導くことを体験した日ほど、言葉で言い表わせない幸福感を経験したことはありません。母親にとって、最初の子供が生まれた時ほど嬉しい時はないでしょう。また兵隊は、激しい戦いによって勝ちとった勝利を喜ぶでしょう。しかし、主イエスのために一つの失われたたましいを獲得することは、それらすべてにまさる喜びがあるのです。ですから私は、一人の人の失われたたましいを獲得することこそ、最もすばらしいことであると確信するのです」と。


前にもご紹介した救世軍のブース将軍は、訓練におけるもっとも大切なことの一つとして、「できることなら信者一人一人を、一日二十四時間地獄へ行かせたい」と言いました。なぜなら信者が、悔い改めたくないたましいの結末に待ち構えている恐ろしい現実の姿を見れば、まだその状態を知らない人々に真剣になって警告し、福音を宣べ伝えるからです。主が私たちをあらゆる眠気や無関心から引き離してくださいますように。


召しにふさわしく歩みたいという切なる願いがなければ、家庭集会をやりたいと願っても無意味なことです。結局はうまく行きません。祝福がないからです。


2.証人として生きようという意欲


次に二番目の、証し人として生きようという意欲について考えてみましょう。これもまた、主が家庭集会を祝福なさることのできる条件です。証人として生きようという意欲とはいったいどういうことでしょうか。これについては四つの事柄、すなわち愛すること、苦しむこと、走ること、重荷を負うことをあげることができます。


第一は愛することです。


人から愛されたくない人間は一人もいないでしょう。他の人から除け者にされ、孤立し、絶望的になった人は、決して幸せとは言えません。この世でも隣人を愛することについていろいろなことが言われていますが、結局はみな自分自身のことだけしか考えていません。本当の悩みは見過ごされ、過小評価されています。人間はみな、静けさと愛とを切に求め、憧れています。人間は憩いのないものです。人間は、財産を持ちたい、人から認められたいと思っています。しかしそれらの願いの背後には、永遠なるもの、真の満足を与えてくれるお方、すなわち主イエスに対する渇望が隠されています。もし私たちが主イエス・キリストを第一にし、心から愛し、その動機が純粋であるなら、私たちの周囲の人たちは自発的に主イエスを信じ、主に従う決心をするようになります。実は、今日一番必要とされているのはこのことなのです。


私たちの回りにいる人たちは、私たちがその人たちを本当に愛していること、助けてあげたいと思っていること、私たちはその人たちのために存在していること、その人たちのために喜んで犠牲を払い、時間を割こうとしていることに気がついているでしょうか。


第二に、苦しむことです。


苦しむとは、主イエスの苦しみにあずかるという意味です。主イエスは群衆をご覧になった時可哀そうに思われました。それは彼らが羊飼いのいない羊のように、弱り果てて倒れていたからです。証人として生きて行こうとする時、まず自分の周囲を正しく見る、つまり主イエスの目で見ることが大切です。それは、人々の本当の悩みを見ることでもあります。ある合唱曲の中に次のような一節があります。「今日世界が必要としているのは主イエスです。主お一人だけが世界を解放できます」。


主イエスの目でもって何百万人という人々の現実の姿を見る者は、主イエスの嘆きと同じ気持ちを持ちます。そしてその人はこの世が「欲するもの」ではなく、「必要としているもの」を与えるでしょう。使徒の働きの3章に出てくる乞食は、お金や施し物を欲しがりました。確かにこの貧乏人はそのようなものさえあれば満足だったでしょう。しかし、幸運にも乞食の期待は裏切られました。そのかわり彼はもっとすばらしいものを貰いました。この乞食は自分の「欲しいもの」ではなく、「必要としているもの」を貰ったのです。


回りの人々に対して目を向けるようになると、その人は苦しみ始めます。エルサレムを思って泣いた主イエス様の苦しみを理解するようになります。エルサレムの町、そして人々が、真の平和のために必要なものを欲しいと思わず、かえってそれを受け取ることを拒んだゆえに、主イエスは苦しまれました。悔い改めて救いに至る機会を提供されているにもかかわらず、意識的に、あるいは無意識的に、人々が再三にわたって拒み続けたので、主は苦しまれたのです。


みこころにかなう教会とは、どのような教会なのでしょうか。それは、正しい教えを教えたり、この世の不信仰を裁いたりすることによってではなく、それらの下に身を屈め、本当に苦しんでいることによって見分けられます。主なる神の霊は深い同情の霊です。共に苦しまなければ、決して傷は癒されません。共に苦しむことのできない者は、主の愛を伝える者とはなれません。主が救ってくださる血潮の証しでありたいと願うなら、私たち自身が苦しまなければなりません。


第三は走ることです。まず主のみもとに走ること、それから苦しんでいる人のところに走ることが必要です。悔い改めない人間は永遠に滅びるという知識は、私たちを、たましいの救いのための目覚ましい運動へと駆り立てます。私たちがその人たちのために祈っていること、また苦しんでいることに気づく時、彼らはもはや無関心ではいられなくなります。彼らの足元の土台は取り除けられてしまいます。その結果、彼らはイエス様の御手の中に落ち着くまで、長い間精神的に動揺し続けなければなりません。


人々のところに走っていく前に、そしてまた、家庭集会を始めようとする前に、まずイエス様のところに走ってください。なぜなら、たましいを獲得することは人間の行いの結果ではなく、主なる神お一人の御業だからです。私たちが主のみもとに駆け寄って祈るなら、主は大いなる力を現してくださいます。


恐れず、大胆に主イエスの証しをすることができるように祈ってください。主イエスを十字架につけたこの世で主を証しすることは、決して簡単ではありません。初代教会の信者たちにとっても簡単なことではありませんでした。だからこそ彼らは祈ったのです。


主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。(使徒4・29)


この祈りは応えられました。


一同は聖霊に満たされ、みことばを大胆に語りだした。(使徒4・31)


備えられた人々のところに導いてくださるように主に祈ってください。だれにでも福音を宣べ伝えることよりも、常にそのために備えをしていることが大切です。「主よ。私は何をするべきでしょうか。あなたが望んでおられることを、私は行いたいと思います」という態度が必要です。ピリポはこの心構えができていました。それで主は導くことができ、用いることがおできになったのです。適切な時に適切な言葉で語ることができるように祈るべきです。主お一人だけが、どんな場合にも何が必要であるかご存じです。たましいの救いのために祈ることは、悪魔に対する宣戦布告、すなわち戦いを宣言することであるということをよく覚えておくべきです。


私たちははっきりと特定のたましいのために、すなわち一人一人の名前と結びつけて祈らなければなりません。つまり一つ一つの祈りの対象を主に示さなければならないということです。時と場所を決めた祈りも大切です。答えが与えられるまで祈り続けましょう。「少しも疑わずに、信じて願いなさい」(ヤコブ1・6)とヤコブの手紙には書かれています。


主に大きく期待しないものは主を侮るものです。主はご自分のことばを必ず守られます。とても望みはないと思われることでも主に期待しなさい。祈りは、人々を救う場合の最も力強い神の道具です。


第四は重荷を負うことです。失われている人を愛し、共に苦しみ、走る者は、周囲のまだ信仰を持っていない人々に対して重荷を負うことになります。この重荷は最も重い重荷です。男の方よりもご婦人のほうが、このことについてたくさんのことを感じていらっしゃるでしょう。主イエスを信じている多くの奥様たちは、まだイエス様を信じていないご主人を持ち、共に生活する時、まったく孤独な状態におかれますが、それに対して教会はどれだけの重荷を負っているのでしょう。真の交わりは、いつでも共に苦しみ、共に重荷を負いあう備えができているところにあります。


互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6・2)


実際の状態はどうでしょうか。集会のある兄弟は、以前統一教会に関係していました。しかしその後集会に導かれるようになり、主イエスを知ることによって救われました。彼は何年もの間集会で忠実なご奉仕をし、会社でも聖書の集いを始めました。けれども彼はその後横道にそれてしまいました。ある哲学者によって惑わされてしまったのです。その時集会はこの一人の兄弟の変化に無関心ではありませんでした。毎朝六時から七時までの間、五人の兄弟が私の住まいに来て、集会に来なくなってしまった兄弟のために共に祈りあいました。一年半の間毎日、兄弟たちは奥様方と共にこの重荷を担いました。私たちのすばらしい主は、祈りに応えてこの横道にそれていた兄弟を回復してくださいました。彼は再び用いられるようになり、四国に転勤した時、自分の家庭を開放して家庭集会を始めました。集会をするようになって最初の四カ月の間に七人の方が導かれ、イエス様を信じるようになりました。主イエス様のために人の重荷を負うものは、必ず報いられます。


私たちはここまでで、「ふさわしい歩み」と「共なる生活」という二つの点を見てきました。私たちが召しにふさわしく歩むところ、また信者の一致が明らかになるところでは、未信者たちもそれを見て驚き、やがて導かれるようになります。「見よ。彼らは何とお互いに愛しあっていることか。何とお互いの重荷を負いあっていることか」。これこそ私たちの目標であり、この世に対しての何より大きな証しです。


3.幾人かでも獲得しようという意欲


私たちは、幾人かでも多く、主のために獲得しようとする意欲を持つべきです。聖書のどこにも、すべての人が救われるとは約束されていません。しかし、主がすべての人が救われることを望んでおられることは、動かすことのできない事実です。ある人は、一人の人をイエス様のために獲得するためには、千人以上の「平信徒」と六人の「牧師」が必要であるという計算をしました。しかしこれはおかしなことです。私たちの集会では、一ヵ月間一人の人も主に導かれなければ、「いったいどうしたのでしょう。主はなぜ祝福してくださらないのでしょう。何が主の御手を妨げているのでしょう」と、お互いに話しあうようになります。


しかし今日多くの教会は、「夜通し働いても何もとれなかった」という状態におかれているのではないでしょうか。失われたたましいが主イエスを通していのちを、それも豊かないのちを見出すこと、これが主の目標であり、また信者の持つべき目標です。主イエスは救いの御業をなしておられるのです。今私たちに与えられている使命は、主の犠牲による贖いを宣べ伝えることです。


今日、多くの教会の特徴は次のようなものです。すなわち人々は討論し、組織作りをし、委員会を結成し、新しい宣伝方法を考えたり、マスメディアに入り込もうと努力したり、大会を開いたり、セミナーを計画したりして、それらの活動を祝福してくださるように主に祈ったりしています。けれども、多くの場合には、そのようなことより、ただ主の前に静まり、主にみことばを語っていただくことのほうがはるかに勝っているのではないでしょうか。人間は本質的に、大きなことをして人々をあっと言わせたいという気持ちを持っています。人は大勢の群衆を見ることはしますが、一人一人を忘れがちです。しかし今最も大切なことは、一人一人に対する集中力です。なぜなら一人一人を集中的に導かなければだれも救われないし、一人一人の救いのために集中することを通して信仰が成長しなければ、他の人を助けることもできなくなるからです。その目的を達成するために、家庭集会は大いに役立ちます。


この大きな働きをする家庭集会について、もう少し詳しくごいっしょに考えてみましょう。


一.家庭集会の前提


家庭集会は、福音を宣べ伝える手段であるべきです。ですから家庭集会の目標は、常に人々が主のみもとに来ることです。人々を主のみもとに導くことが目標であるなら、家庭集会にはまだ主を知らない人たちがいなければおかしいということになります。ですから私たちの家庭集会の前提は、必ず未信者がいるということです。未信者が一人も来なければその家庭集会はやめるようになります。というのは、信者だけが集まっても一種の分派作りになってしまい、他の信者の悪口を言うようになりがちだからです。未信者がいればそのような子供っぽいことに使う時間は全然なくなります。なぜならば、私たち一人一人の心からの願いは、まだ救われていない人々が、悪魔の支配下からすばらしい主の光の中に移されることだからです。


二.家庭集会の基本


吉祥寺キリスト集会はじめ私たちの全国にある集会では、年間数百人の方が洗礼を受けています。これは主に家庭集会の成果です。けれども私はここで家庭集会というものはこうあるべきだ、などということを言うつもりはありません。というのは、真似ごとには何の価値もないからです。家庭集会で大切なのは処方箋の通りに真似することではなく、「基本」を大事にすることです。その違いはどこにあるのでしょうか。


料理の本にはいろいろな料理の調理法、すなわち処方箋が載っています。例えばミートボールを作ろうとして本を見ると、まず挽き肉に塩小さじ三分の一杯、小麦粉大さじ一杯、胡椒少々を入れてよく混ぜ合わせ、十五個位に分けて団子状にまとめる云々と書かれています。これは一定の規則で、こういう手順でやればうまく出来上がります。しかし、残念ながら私たちが今ここで考えているテーマには、このようにすればうまくいくという一定の規則はありません。ただ、主が次のようなことばで弟子たちにお与えになった「基本」こそが、大切であるということができます。


あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28・19、20)


ここで主は、ただ単に救いを得るだけではなく、主の弟子として用いられ、主に従う者となるようにとおっしゃっています。同じ草案を、パウロはテモテに与えました。


私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(第二テモテ2・2)


この時代における主の基本構想がここに記されていますが、この基本は今日にも当てはめることができます。その基本とは、すなわち一人一人のために労するということです。


三.家庭集会を支えるルデアたちの存在


家庭集会は、教会を建てるための一つ一つの細胞のようなものです。ただ家族ぐるみの信者だけが家庭を提供するのではなく、多くの信者のご婦人たちもまた、主に用いていただくために家庭を提供しています。いうまでもなく、時間と労力とお金とを犠牲にすることも要求されます。一言で言えば、犠牲なしには成り立たないということです。


吉祥寺集会は、なぜ絶えず増大しているのでしょうか。それは、大勢のルデアがいるからです。


彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。(使徒16・15)


ある時私たちは、それまでの集会所が狭くなってしまい、新しく建てるために古い建物を壊さなければなりませんでした。日曜日には公の場所を借りて集会を行うことができましたが、平日の集まりについてはどうすることもできませんでした。その時、私たちのルデア、すなわち救われた姉妹たちが、住まいを提供することを申し出てくださいました。それで、いろいろな方の家庭で集会を持ちました。


この時家庭を提供してくださったある姉妹のご主人にとって、このことは人生の決定的な転機となりました。それまで彼は、浴びるほど酒を飲み、遊興にふけり、たびたび外国に雲隠れする、というような生活を続けていました。しかし、主が働きかけてくださった結果、今では彼は集会の中で責任を持つ兄弟の一人となっています。自分の家で開かれた主にある自由な交わりが、三人のお子さんをも主イエスに導きました。今、この家庭は家族全員が主を愛するようになり、日曜日の午前中には、中学生高校生五十~六十人の集いの場として、両親の寝室から、子供部屋、居間、台所まで、すべて各クラスのために提供されています。


四.初代教会当時から存続してきた家庭集会


使徒たちは・・・・毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。(使徒5・42)


このみことばからもわかるように、初代教会の人たちは、宮、すなわち会堂だけでなく、家々でも集会をしていました。これこそ信者たちの万人祭司制です。主は小さな集いのことを、次のようなことばで言い表しておられます。


ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18・20)


信者たちを迫害したすべての時代の施政者、権力者たちは、信者たちが家々で集まることを非常に嫌がりました。なぜならば、国家の統制力をもってしても、主の御名によって二人、三人集まっている信者たちの集まりの実態を調べることができないからです。あらゆる偽りの宣伝や迫害にもかかわらず、家々で集まる人々の集いは、使徒たちの時代から今日まで存続しています。


五.家庭集会が提供すべきもの


集まりの中心になりたいから、というような、自分勝手で不純な動機で家庭集会を始めることは許されません。集会が祝福され、接触を保つため、そして新しく信仰に導かれた人、信仰の歩みを始めたばかりの人に、霊の糧を与え、真心のこもった温かさを伝えるために、奉仕しなければなりません。多くの場合、家庭集会を通して信仰に導かれ、またそこで求めている人は、主イエスの救いの力のすばらしさを経験します。また、家庭集会は信者たちにとっての霊的成長の場でもあります。家庭集会は、温かい、個人的な雰囲気であるべきです。また多くの未信者を個人的に住まいに招待し、お茶やお菓子を囲んでの交わりの中で自由な会話の機会を持つことも非常に大切です。重要なのは一人一人を大切にすることであって、ショックを与えるようなことは慎まなければなりません。


このことについて、一つの例をあげてご説明しましょう。だいぶ前のことになりますが、家庭の中がめちゃくちゃになってしまったご家族がありました。そのご家族のお宅を訪問した時、私たちは聖歌を賛美したり、祈ったり、また聖書を開くことはしないで、最初に短い映画をお見せし、その後で自由な話しあいをしました。その結果その家のお嫁さんが主を受け入れ、主に仕える生活をなさるようになりました。


家庭集会で大切なのは、私たちが知っている知識を人々に知らせることではなく、私たちがしっかりした土台の上に立っていて、精神的な支えと真の平安とを持っているという印象を与えることです。大抵の人々は集会所、あるいは教会に来る心の準備ができていません。私たちはそういう人のところに行かなければなりません。個人的な伝道、個人的な話しあいが最も有効な伝道方法なのです。


それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(第一ペテロ4・10)


住まいもまた一つの賜物であり、それを通して有益な奉仕がなされます。聖書にでてくる言葉や言いまわしの多くは、未信者にとってなじみの薄いものです。そのため正しく理解されなかったり、まったく誤解されたりすることが少なくありません。その点小さなサークルなら個人個人に親しみやすい言葉で聖書の真理を説き明かすことができます。


真の愛はさまざまな方法を生み出します。主イエスの愛をもって、失われたたましいのために苦労することが大切です。個人の住まいの気持ちの良い雰囲気は緊張感を和らげ、個人的な接触の機会を作り出すことができます。まず最初に家庭集会を通して主に結びつけられ、それから信者の群れである集会、あるいは教会につながるようになります。家庭集会は極めて聖書的です。


そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。(使徒2・46、47)


そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。(使徒5・42)


こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。(使徒12・12)


私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。(使徒20・8)


こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。(使徒28・30、31)


キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。(ローマ16・3~5)


どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。(コロサイ4・15)


姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。(ピレモン2)


コルネリオの家でも獄吏の家でも家庭集会があったことは確実です。預言者たち、使徒たち、主イエスは、家々で主なる神と神の御業について語り、病人を見舞い、癒し、孤独な人を慰め、罪人に神に立ち返るように呼びかけ、お互いに慰めあい、喜びあいました。


一五二五年に、ドイツの宗教改革者マルチン・ルターは次のように書きました。「心からキリストを愛し、キリストに仕えたいと思う人は、家々に集まり、そこで祈り、聖書を読み、洗礼を授け、聖餐式にあずかるべきです」。


家庭集会は生き生きとした教会の現れであるべきです。家庭集会を通して教会は発生し、成長しました。初代教会の頃は、家庭集会が普通の姿でした。そして迫害によって信者たちは再び家庭集会をやらざるをえなくなりました。いわゆる「経験主義」の父と呼ばれるフィリップ・ジェイコブ・スペイナーは家庭集会のために語りました。そしてジンセンドルフもまた、キリスト者の家庭では、どこででも家庭集会があるべきだと述べました。二十世紀になってからは、中国、インド、アフリカにおいて家庭集会を通して数え切れないほど多くの人が主に導かれました。


これまでに述べてきた五つの点についてまとめると、次のようになります。


初代教会の起源と成長に家庭集会は非常に大きな意味を持っていました。いわゆるリバイバルは非常に小さな集団、あるいは個人個人から生まれ、しばしば家庭集会によって担われました。迫害の時代には、家庭集会は信者に生き残るただ一つのチャンスを提供しました。主の使命に忠実であろうとするならば、家庭集会はどうしても必要です。収穫は刈り入れられなければなりません。すなわち主によって備えられたたましいは、私たちによって見出され主に導かれなければなりません。それは小さな家庭集会の中での方がはるかに容易です。


聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1・8)


私たちは主イエスの証人となるべきです。まずエルサレム、すなわち「自分の家」で証人となるべきです。家庭集会は個人伝道のための最もすばらしい「可能性」です。ただし、言うまでもないことですが、家庭集会は集会や兄弟姉妹の欠点を話しあう場所ではありません。


伝道のためだけではなく、信者の成長のためにも家庭集会はどうしても必要です。それによって人はよりよく知りあうようになり、一人一人の悩みを理解し、語りあうことができるようになります。家庭集会では人は「お客様」としてではなく、積極的に中に入って参加することができます。


Ⅱ.キリスト者の使命


ここで家庭集会の目標でもある「私たちが主イエスから与えられている使命」についてご一緒に考えてみましょう。


あなたは、真に親しい人が救われて欲しい、と思っていられるでしょうか。もし思っているなら、祈りの名簿を作り、その人たちのために規則的に祈り始めてください。主のみ約束に信頼しなさい。機会をとらえて、あなたにとって主イエスがどのようなお方であるか、一番わかりやすい証しをしてみてください。そして主が働いてその人々をみもとに引き寄せてくださることを主に感謝してください。というのは、主は必ず約束を守ってくださるからです。主は嘘をつかれません。


成熟した実を見出しなさい。収穫は熟しています。それは神のみことばです。悩みと神の霊によって備えられ、主を受け入れる用意のある人たちは、いたるところにいます。その人たちは真の救いを待ち望んでいるのです。大学にも職場にも、主婦の間にも、喜んでイエス様のところに来る人たちはあらゆるところにいます。しかし、どのようにすればイエス様のところに行けるのか、だれもその人々に話してくれません。あらゆる時代を通しての最大の誤りは、多くの信者が「未信者は神について何一つ知りたいと思わない」と思い込んでしまっていることです。人間が福音についてまったく無関心になってしまっているという考えは、偽り以外の何ものでもありません。人間は永遠なるもの、変わらないもの、存続するものを求める気持ちを持っています。聖霊はこれについて知りたい思いを引き起こさせてくださいます。しかしこれらの人たちはどのようにして主のために獲得されるのでしょうか。


福音を宣べ伝える機会を狙いなさい。何百万人もの人口を抱える大都会では、ともすると身近な隣人、例えばクリーニング屋さんとか魚屋さんの存在を見失いがちです。私たちは非常に多くの伝道の機会を与えられています。家庭で、友達や親戚や近所の人や会社の同僚の間で、また電車の中で、路上で、いたるところで福音を宣べ伝える機会があります。あなたの目標は、一つの失われたたましいのために全精力を傾けることです。信頼が得られるまでその人のために時間を作り続けなければなりません。そうでなければ、その人は最後まで心を開くことがないでしょう。


人を主に導こうと思う時には、忍耐をもってその人の話を聞き、議論などは慎まなければなりません。その人が本当に救われたいと願うならば救われ、それを望まないならば救われません。すべてはその人次第であり、その人自身の責任であることを示してあげましょう。話しながら絶えず主により頼む理性を持ちましょう。いろいろ質問された場合、答えとして前面に出てくるのは、あなたの経験よりむしろ神のことばであるべきです。ただ一つの武器は神のことばです。


信者はだれでもキリストの大使であり、まだイエス様を知らない人々に、主なる神との和解を受け入れ、滅びから救われるように教えてあげなければいけません。主なる神が主イエスを通して約束してくださった救い、また助けの御手を、真理を求めている人たちに提供してあげましょう。主の助けは人生のどのような場面でも、たとえどんなに絶望的であっても、死に直面しても、裁きの時にさえ、永遠に変わらず助けであり続けます。


証しの中心はいつも主であるべきです。すなわち私たちはイエス様の死によって永遠のいのちを約束され、主の復活によって死は私たちに対して力を失ったということが中心となるべきです。私たちは決して裏切られることのない、生き生きとした望みを持っています。イエス様のみが唯一の証人です。


主は呼んでおられ、招いておられます。また主は決断を迫っておられます。主は明日のことよりも今日のことを思っておられます。主は人間を変えるだけでなく、新しく作り替えることを望んでおられます。主が招いて解放してくださる人は、煩わしい人間関係から解放され、死の恐怖から解放されたことの証人となるのです。主によって解放された人は喜びと感謝に満ち、主のために進んで奉仕したいと願うようになります。主は絶えることのない喜び、いかなる悲しみも奪い去ることのできない喜びを与えてくださいます。


主の証し人として主の救いの御業を宣べ伝えるということは、人々を集会に、あるいは教会に招くことを意味するのではありません。多くの人は会員にされようとしていることに気がつくと、身を退けてしまいます。私たちは主の証人として召し出されているのであり、結果はどうであっても主が責任をとってくださいますから、主に任せることができるのです。


人間は今日、いかなる宗教をも望んでいません。多くの人は教会と何の関わりも持ちたくないのです。彼らは宗教的な形式に関心を持っていません。しかし主イエスが証しされる時、多くの人は主の力、主の愛、主の赦しを経験したいと望むようになります。


救われるために何をなすべきかと真剣に問うことから、信仰は始まります。だれでも救われるにはどうすればよいか、教えられる必要があります。私が知っているすべての人は、主が私のところに導いてくださったのですから、全員が私から救いについての正しい知識を聞くべきです。私には伝える責任と使命があります。主なる神の救いの訪れを隠してはなりません。このように主を証しする義務は、私を他の人と会話をするように導いてくれます。救われた人は、一人残らず、すばらしい救いという喜びの訪れを他の人々に伝え、他の人々もまた主と出会うことができるように努力すべきです。家庭集会の目的は、人々が主のみもとに行くように導くことです。あれもこれもといろいろなことがなされていますが、決定的に大切なこと、すなわち主イエスのみもとに人々を連れて行くことがしばしばおろそかにされがちです。


主イエスを証しする時私たちが経験することは、主のゆえに非難され、罵られ、責任を押しつけられることです。しかしたいていの場合、それは本当の気持ちを隠すために行っているうわべだけの反論にすぎないのです。例えば教会の欠点や信者とその弱さ、神とその挫折、聖書の矛盾、世界史における無意味な出来事の数々などが指摘され、非難されます。しかし多くの人たちは、私たちが考えているよりも、はるかに救いを求めていることを忘れてはなりません。もちろん一人の人が救われるためには、しばしば長い道のりが必要です。まず挨拶から始めて、自己紹介を経て、最初の親しい会話、さらに最初のお茶への招待といった具合です。出会いと、交わりなどの接触はしっかりと結びつけられなければなりません。この接触こそ信頼の芽生えとなるものです。正しい時に正しいことを言うためには信用されていることが必要です。相手を無視するような態度をとったりすれば、その後で会話を続ける機会はもう二度と訪れないでしょう。何が許され何が許されないのかを見分ける分別がどうしても必要です。その瞬間を切に待つことと、強制しようとすることは別のことです。会話はあらかじめ備えられなければなりません。私たちが行なうことが、その方の心の戸を開くか閉じるかの鍵を握っているということができます。


私たちの行動によって、他の人は信仰が人間を変えるということを感じることができるはずです。私たちは主に属する者として、主を証しする使命を持っています。私たちが主イエスに対する愛によって行動することは決してむだなことではありません。必ず実を結びます。主のみことばがむなしく戻ることはないと知ること、また小さなことにも忠実であれば必ず報いられると知ることは、新たな勇気を与えてくれます。


人が救われるのは、大きなことを通してよりも小さな愛の働きかけを通しての方が一般的であり、大きな跳躍より小さな歩みの方が自然な姿です。すなわち人は、聞いてすぐ救われるのではなく少しずつ導かれていくのです。


話を聞くことは話したいと思うことより大切です。多くの場合、人は話すチャンスを与えられると、かたくなな堅い心を開きます。また、話し方、感情、話す速さは、その人が話を受け入れるか拒否するかを決める鍵となるものです。聖書講義はしばしば一方通行の独演となり、相互交流が不可能となりがちです。けれども大切なのは、お互いに聞きあい語りあうことです。まず語りあうこと、それからその人を主との交わり、すなわち祈りに導くことが大切です。


主イエスのみもとに導かれた人は新しい者に作り替えられます。話す相手の人が心を開けば開くほど主のみもとに導かれる可能性が大きくなります。ですから最大の戒めは忍耐です。ここで覚えていただきたいのは、主のこと、聖書のことを弁明することが大切なのではなく、幼子のように主を証しすることこそ大切だということです。かたくなな心も愛と誠実さを知ることによって開かれていきます。非常識なことをすればいかなる交わりも成立しません。相手を煩わせたり侮辱したりすれば、その人は心を閉ざしてしまいます。心の扉を無理にこじあけることはできませんし、そんなことをする必要もありません。


どのように語るかということも重要です。興奮してしまうと、いっぺんにだめになってしまいます。自分のものにしようとするのではなく助けたいという態度こそ大切です。雄弁な講演よりもたとえ拙くても真心から出てくる言葉の方がはるかに効果的です。たとえ私たちが完全に失敗したと思うようなことがあっても、それが真心から出ているのであれば主が必ず実を結んでくださいます。


あらゆる人間は主なる神が人間に何を求めているか、主の目標とご計画が何であるかを知る権利を持っています。主イエスのゆえに、生ける真の神がどれほど私たち一人一人を愛しておられるか、知らない人がいてはなりません。それを宣べ伝えることはキリスト者の使命であり責任なのです。


福音を宣べ伝えることは、「生きがいのある人生」を公に告げ知らせることに他なりません。今日、大部分の人は、家庭においても職場においても充実した生活を送ることができなくなっているというのが実情ではないでしょうか。そういう状態から解放されるためには、どうしても主イエスが必要なのです。回りの人たちが悩んでいるのを見過ごしにすることはできません。ですから福音は宣べ伝えられなければならないのです。


そのために、お互いが語りあい、聞きあうことが必要です。お互いの交流がなければ、相互理解も信頼も成り立ちません。話しあうことによってお互いに理解しあい、励ましあい、助けあい、慰めあうことができるのであり、それらのことが相手を決断にまで導くのです。相手の人が日常生活の中でどんなことを考え、何を望み、どんな悩みがあるのかということを知るための努力や苦労を惜しんではなりません。


どうして人は救いに対する渇望を持つようになるのでしょうか。多くの場合それはいわゆるキリスト教の教えによるというよりは、主の恵みによって変えられた人が証しをすることによってです。もし私たちが一人一人を自分の家に招待するなら、それに応じる人は少なくないでしょう。だれが招待されるべきでしょうか。悩んでいる人々、孤独な人たち、彼らのために祈るようにと主に示された人たち、すなわちすでに主によって備えられた人たちです。ではどのように招待するべきでしょうか。最も大切な伝道方法の一つは、お客として心からもてなす精神です。一杯のお茶に招待したり、福音的なカセットテープを聞かせたり映画を見せたりすることも一つの方法です。


人はだれでも交際を求め、必要としています。個人的に話をしたいと思っています。私たちが考えているよりはるかに多くの人たちが、当時のギリシャ人のように「私たちはキリストを見たい!」という切なる願望を抱いています。「刈り入れの時は近づき、実は熟しています」と主なる神は言っておられます。こういう主なる神のビジョン、神の見方が私たちにも必要です。備えられたたましいは、主イエスのみもとに導かれなければなりません。それはあなたによって、また私によってなされなければなりません。


犠牲なしにはいかなる実も結ばれません。主イエスの愛が、私たちを駆り立てなければなりません。悩んでいる他の人たちと共に悩むことを、主は望んでおられます。主イエスの愛をもってこの世の悩みを見るなら、福音を宣べ伝え、証しをせざるをえません。


かたくなな一面性や、上辺だけの偽善的行為や、極端な禁欲生活は人をつまずかせます。毎日の行動に対する律法的な指図や努力が決定的に大切なのではなく、主なる神の霊によって導かれうる生活が大切なのです。


まず聞くことができること、聞こうとすることが第一です。主のことばだけでなく、私たちが導こうと思っている人々のたくさんの言葉にも耳を傾ける必要があります。私たちだけがいつも語り手となる必要はありません。またそうであると決して用いられません。


効果的に主を証しするために大切な点をまとめると、次のようになります。まず聞くこと、それから話すこと。説教するのではなく語りあうこと。強制するのではなく提供すること。愛は相手の心を柔らかくし、熱狂は相手の心を閉ざしてしまいます。弁明することよりも幼子のように証しすること、研究したことではなく経験したことを証しすることも大切です。例えば自分が経験した病気、個人的な悲しみ、自分の不安や途方にくれた時のこと、家庭の悩み、個人的な負い目、信仰の試練、聖書や祈りについてのいろいろな経験などです。心の扉をむりにこじあけるのではなく、期待をもって叩き続けましょう。


何があっても、神のみことばを大切にすることを忘れてはなりません。また、真の信頼も必要です。このことについて例をあげてご説明しましょう。


あるとき、有名な伝道者スポルジョンのところに一人の学生がやって来て言いました。「私は、もう何カ月も説教をしましたが、だれ一人救われません」。スポルジョンは尋ねました。「あなたはみことばを宣べ伝えているときに、主がいつも祝福し、失われたたましいをみもとに引き寄せてくださると思っていますか」。学生は、「もちろんそんなことはありません」と答えました。「そこにこそ原因があるのです。あなたが信じたならば、主は祝福してくださったでしょう!」とスポルジョンは答えました。みことばに信頼すると奇跡を経験できます。主は私たちの期待に応じて応えてくださいます。


「主よ、私は何をしたらよいのでしょうか」という態度をとり続けることも大切です。ピリポはこのような態度をとったからこそ、主に導かれて普段はだれも住んでいないところ、すなわち荒野で、求めているたましいに宣べ伝えることができたのです。こういうふうに主に導かれた人は他の人を導くことができます。


さらに、人に証しするためには常識、作法、敏感さも必要です。適切な時に適切な言葉で語ること、そのためには何が助けとなるかを正しく判断することが要求されます。次にあげる例も参考になるでしょう。


ある日の午後、ムーディーはずっと一人の若者とテニスをしていました。その若者は最初は心を堅く閉ざし、個人的な会話をまったく拒否していました。しかしムーディーが一緒にテニスをすることによって彼の心を解きほぐした時、初めて若者は主のみもとに導かれ、キリストのものとなりました。これは常識的な判断力の結果です。


Ⅲ.まとめ


ここまでで私たちは、「伝道活動における家庭集会の大切な意味」についてご一緒に考えてきました。家庭集会に関してよりも、はるかに多く伝道活動に関してのことにページを割いたのは、家庭集会そのものが目標なのではなく、家庭集会はあくまでも人々が救われるための手段にすぎないからです。もちろん家庭集会は教会や集会の対立物になってはいけません。反対に、家庭集会を通して教会全体の統一が促進されるべきであり、そうでないならば家庭集会の存在理由はないといっていいでしょう。


私のことを考えてくれる人、私のために時間を割いてくれる人、私を愛してくれる人、何でも打ち明けることのできる人は一人もいない、という孤独な人たちのために、家庭集会はどうしても必要です。真の家庭集会は、求めている人たちに対する個人的な伝道に役立ちます。すなわち家庭集会は、主のためにたましいを獲得するための戦いの場、また主イエスに対する献身の場なのです。


私は広島の、ある家庭集会のことを思い出します。そこには、四人の小さな子供の母親である絶望しきった婦人が出席していました。彼女は原子爆弾によって両親を失っていました。しかし、みことばを聞くことによって、彼女は主イエスの救いを経験しました。そこにいた人たちは、このまったく絶望しきった婦人が、わずか二時間の間に、自分の経験した救いの喜びのゆえに喜びに輝き出した時のようすを忘れることができないでしょう。その姉妹はそれ以来今日まで十年間、主なる神に対する夫の拒絶的な態度にもかかわらず、主に忠実に従っています。


いま、東京の近辺では、四十箇所以上のところで家庭集会が開かれています。それらの家庭集会の原動力となっているのは、前にも述べたルデアのような姉妹たちです。このルデアのような姉妹たちは、神から遠ざかっている人たちのために一生懸命苦労し、その人たちが主に対して心を開くまで日々真剣に祈り続けます。そしてその人たちが聞いてみたいという気持ちになると、私や他の兄弟がその人にみことばを宣べ伝えるように頼まれます。ピリピのルデアがパウロと彼の同労者たちに頼み、強いてそうさせたように、またそのことを通して神の導きを知ることができたように、私たちもまた主がどのようにして家庭集会を私たちに与えてくださるかを再三経験しています。しかしそれは家庭集会のためではなく、人々を主イエスに導くため、一人でも多くの人を主のために獲得するためなのです。


ルデアのような姉妹たちの存在は、言葉では言い表せないほど貴重なものです。恐らく多くのご婦人はご主人に次のようなことを言うことがあるでしょう。「また今晩も大勢のお客様を呼んだのですか?週に一度のお休みの日ぐらい家族だけでゆっくりしたかったのに」。しかしルデアのような姉妹は決してそうは言いません。喜んで犠牲を払うご婦人は幸いです。犠牲を払う備えがあるかどうかは祈りの生活の中に現れてきます。集会の多くの姉妹たちは祈りの人です。姉妹たちの多くは毎日二百人以上の未信者の夫たちのために祈ります。ある姉妹たちは、一人三十分ずつに分けて二十四時間絶え間なく祈り続けました。集会の姉妹の一人が言いあらわすことのできない大きな悩みを抱えていたので、すべての姉妹たちが自分のことのように共に悩み、この祈りの輪が始められました。後でわかったことですが、ある人は三十分祈っただけでは足りず二時間祈り続けました。その時ほど幸せだったことはないと彼女たちは証ししています。もちろんこれは真似するべきことだというのではありませんし、またその必要もありません。しかし確実なのは、真剣に祈らなければ一人のルデアも生まれないということです。そして集会が、あるいは教会が、一人のルデアも持たないならば「夜通し働いても何もとれなかった」という状態になりがちです。


信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3・18、36)


というみことばの正しさを、私たちはだれ一人として疑いません。一度十分間だけでも、静まってあなたのお知りあいのことを考えてみてください。あなたの息子、あなたの娘、あなたの夫、あなたの妻、あなたの兄弟、あなたの姉妹、まだ主を知らない多くの知人、友人たちのこと・・・・彼らはみなすでに裁かれており、その人の上に神の怒りがとどまるということを考えた時、心に何の重荷も感じない者は新しいいのちを持っているかどうか疑わしいものです。しかし重荷を感じる者は真剣に祈り始め、そのために犠牲を払う覚悟ができています。


主によって非常に祝福され、用いられた説教者ビーチャー博士の臨終の時、一人の人が尋ねました。「ビーチャー博士、あなたはいろいろなことをご存じです。一番大切なのは何か教えてください」。答えは次のようなものでした。「神学でもなく、論争点に関する議論でもなく、たましいの救いです」。


次のように祈ることができる人は幸いです。「主よ。いろいろな障害や能力のなさにもかかわらず、私を人をとる者にしてください」。主はペテロに語られたのと同じことを言われるでしょう。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4・19)と。「わたしがしよう。あなたはどうせできないからだ」と主は言っておられます。主なる神の御業は創造的な業です。主の御業によって、存在しないものも存在するようになります。人は自分の努力によって人をとる者になるのではありません。また研究や知識によってでもありません。神の創造的な業によって初めて、人をとる者となるのです。


主が弟子たちに、人をとる者として用いるために、従うように呼びかけられた時、弟子たちは自分たちの網を捨てて主に従いました。彼らは妨げとなるもの、引き止めようとするもの、副次的なもの、すなわち第二、第三のもの、そのほか自分のものはすべて捨てました。パウロもまた自分のものを捨てました。彼は言っています。


私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。(ピリピ3・7)


自分のものはすべて主の働きの妨げとなります。私たちの最大の敵は私たちの自我です。みことばは言っています。


「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」と万軍の主は仰せられる。(ゼカリヤ4・6)


家庭集会を通して最初の触れ合いと信頼関係ができ、一人一人に気を配ることがその人たちを主に導く手段となります。私たちは、私たちの高められた主が、さらに多くのことを行いたいと願っておられ、あらゆる信者を器として用いたいと願っておられることを自覚する必要があります。今の状態で満足してしまうと、成長は止まり、集会は宗教的なクラブになってしまいます。ほとんど毎週、挫折し、悩みを抱えた人たちが主の御名を呼び求め、信仰を持つようになっています。そのような成長の秘訣はなんでしょうか。集会の中には多くの、心から主に献身している兄弟姉妹がいます。この群れははっきりした目標を持っています。すなわち失われたたましいが主のために獲得されるという目標です。ですから、主を証しする機会をおろそかにはできません。またあらゆる成長のための主な奉仕は、祈りのご奉仕です。主はみことばを守り、失望させない方ですから、大いなることを期待することができ、奇跡をも確信できます。


一人の人が主に献身すると、それは他の人にも広がっていくということを、私たちは何度も経験しています。三千年前にも同じようなことがありました。イスラエル全体はゴリアテという巨人に対してはどうすることもできないと思い込んでいました。しかしダビデは違うことを考えました。彼は、生ける主なる神を侮る大胆不敵な異邦人に対して憤りを禁じ得ませんでした。ダビデが主のみ力によってゴリアテを倒した後、他の人々も多くの巨人たちを倒したと聖書に記されています。同じように一人の人が主のために失われたたましいを獲得しようとすると、その波紋が次々に広がり、他の人たちも同じ目標を持つようになります。大いなることを期待して主の前に立ち続ける者は、やがて他の兄弟姉妹が同じ霊によって捕らえられることを経験するようになります。だれもが影響を及ぼしあうのです。自分自身を大切にする者は、他の人にも自分自身を大切にさせる結果となり、それによって死が入り込んでしまう、ということを経験します。


家庭集会から始まって、今ではほとんどいたるところで祈りの集いも主によって起こされています。信仰に導かれたばかりの人はここで、共に祈ることを通して祈りを学びます。


また私たちは、原則として次のようなことを勧めています。すなわち家庭集会に一人の未信者も来ない時は、集会を開くことをやめ、求める人がいるようになったらまた始めること。また祈りの集いにおいては、信者同士が完全に一致しておらず、お互いに身を低くしてすべてを明るみに出す備えがない時はしばらくの間やめることなどです。


健全な成長、それは私たちの切なる願いです。私たちの主は言っておられます。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(ヨハネ22・24、25)


健全な成長の結果は豊かな実です。私たちの主は死に赴いてくださいました。それはただ単に私たちの身代わりになって罰せられるため、私たちの代わりに呪いを受け、罪そのものとされるためだけではなく、私たちが主のいのちの所有者となるように、ご自身のいのちを与えてくださるためでした。そして主のいのちが明らかになり、溢れるばかりに流れ出る時、もはや古い人にとどまることはできません。人間が、高められたイエス様と交わりを持つようになると、溢れ出る圧倒的な実を結ぶいのちが明らかになります。コリントの信者に対して、パウロは次のように書き送りました。


神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(第一コリント1・9)


ここにも書かれているように、最も大切なのは主の真実です。主と交わりを保ち、常に主と共に歩むために、私たちは召し出されました。主が私たちを導こうと思っておられる道は、十字架まで続いています。自分のいのちを愛する者、自分のものに固執する者、自分自身を否定する備えのない者は、霊的なかたわになってしまいます。主イエスが私たちの生活の中で第一になっているでしょうか?自己否定なしにはいかなる復活のいのち、すなわち主のいのちの現れもありえません。


今日大きな問題となっているのは、十字架のないいわゆる「キリスト教」が宣伝されていることです。私たちが十字架を、あるいはまた十字架にかけられることを恐れる時、あらゆる努力も熱心さも、またいかなる聖書的信仰も、すべて不十分となってしまいます。キリストの苦しみにあずかることなしには、成長も実を結ぶこともありえません。日々打ち砕かれるのでなければ、私たちの自我は主の働きの妨げとなります。打ち砕いた後はじめて、主はお用いになります。ギデオンと共にいた三百人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれたときはじめて、その中に入っていた松明が光を放ちました。主はご自分のところに持ってこられたパンを割くことによってはじめて、何千人もの人たちを満腹させることがおできになりました。ナルドの壺は、高価な香りを家中に満たすために砕かれなければなりませんでした。サウロが徹底的に砕かれる備えができた時、はじめて主は彼をお用いになることができました。ヤコブは腰の骨を外されてびっこを引いて歩くようになったと聖書に記されていますが、彼もまた砕かれた後ではじめて祝福を受けたのです。私たちの中にある主イエスのいのちは、私たちが日々、主に自分の意思を従わせることによってのみ明らかになります。


主が私たちに与えてくださったみことばは、目に見える世界のあらゆる現実よりも、信ずるに足るものです。私たちの主は、みことばを成就するためには、あらゆる自然の法則さえも打ち破ることができるということをよく覚えておきましょう。主は決してご自身の約束を破られません。主がすべての力を握っておられ、主のみことばは永遠に真理ですから、必ずみことばの通りになるのです。この信頼こそ私たちにとって必要なものです。間違った嫌遜さ、すなわち不信仰は主の御名を汚します。


主のために生きる備えのあるところでは、歓喜が私たちの心を満たし、それは革命的な働きをします。私たちの周囲の人々は、急にイエス様のことを聞きたいと思うようになり、主に対する飢え渇きを持つようになります。そして私たちは、備えられた心に福音を宣べ伝えるチャンスと可能性を持つようになるのです。


今こそ眠りから覚める時です。霊的な眠りは信者を堕落させる最も恐ろしい災いです。眠りは、夜あるいは暗黒と結びついています。眠りは人を無関心にし、また眠ると人は現実とはかけはなれた夢を見て、非現実的な世界に生きるようになります。すなわち闇を見なくなり、恐ろしい永遠の滅びに向かいつつある多くの失われたたましいをも見なくなります。立ち上がりなさい!眠りから覚める時が来ました。目を覚まして祈るべき時です。そしてまた、すべてを主のなさるままに委ねる時です。


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