第Ⅴ部 神と人とを愛せよ
ローマ人への手紙
15章14節から33節まで
Ⅰ.真のしもべとは
1.道具
2.管
3.祭司
Ⅱ.しもべの務めとは
1.主のために生きることによって道具となる
2.従順に従うことによって管となる
3.神の平和に満たされて祭司となる
前回、私たちは15章15節までを学びましたが、ここまででローマ人への手紙の本文が終ったことになります。これから私たちが学ぶ15章11節から16章の終わりまでは、ローマ人への手紙の結びの部分にあたります。そして今回、私たちが学ぼうとしている箇所の表題は、「イエス・キリストのしもべパウロ」とすることができるでしょう。パウロはここで、彼の伝道の土台とその方法について語っています。パウロは、福音の真理を力強く語った後に、自分の個人的な意見を述べています。ですから私たちは、この箇所を通してパウロの個性についてよりよく知ることができます。もっともこのことはそれほど重要なことではありませんが、それでも私たちはキリストの真のしもべがどのような人であったか、ということをよく知ることができ、聖霊がパウロの中にあって、働いているのを目の当たりにすることができます。
(14)私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。(15)ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。(16)それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。
私は神の福音をもって、祭司の務めを果しています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。(17)それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。
(18)私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、(19)また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。(20)このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。
(21)それは、こう書いてあるとおりです。
「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」
(22)そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、(23)今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行くばあいは、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので、(24)――というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。――(25)ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。
(26)それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醸金することにしたからです。(27)彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。(28)それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。(29)あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。
(30)兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。(31)私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。(32)その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。(33)どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。(ローマ15・14〜33)
パウロは、多くの苦難を経てキリストのしもべとなりました。そこで私たちは、二つの問いについて考えてみることにしましょう。
Ⅰ.真のしもべとはどのような人のことか
Ⅱ.そのしもべの務めは何か
この問いに対してこの箇所から三つの答えを見つけることができます。つまり真のしもべとは、(1)神の道具であり、(2)管であり、(3)祭司であることです。
パウロは16節で、キリストのしもべとなる恵みについて語っています。恵みとは、人が努力によって自分のものとすることができるものではなく、神からの贈物です。本来なら受ける資格と権利を持たないはずの者がそれを受けるということ、これこそが恵みです。パウロに与えられた恵みは、単に「救われる」だけではなく、キリストの「しもべ」となるためのものでした。私たちは、ここで自分自身に対して問いかけてみなければなりません。私たちはただ主キリストを信じるだけの者なのでしょうか。それとも、キリストのしもべなのでしょうか。もし、私たちが単にキリストを信じているだけなら、私たちに与えられた恵みは半分にすぎません。神ご自身が私たちの心の目を開いてくださり、私たちが悔い改めて主を信じるに至ったことは、確かに恵みによることでした。しかし、信者はやがて主イエスのしもべへと成長させられます。これこそ、恵みにほかなりません。これは重荷ではなく、特権です。
パウロは、神のしもべであり、また道具でした。道具は、それ自体に意味があるのではなく、その道具が誰の手に握られているかが大変重要です。パウロは神の道具でしたから、主イエスの手に握られ、主イエスの支配下におかれ、すべてを主イエスにゆだねたのでした。パウロの特徴は、主がおられなければ何一つ自分からはすることができないということでした。神の道具となったパウロは、もはや自分自身に対してあまり関心を持たないようになりました。彼は、日々主に自分自身を全焼のいけにえとして捧げていたのです。
管の特徴は、主のために苦難を身に受ける備えをしているということです。また、彼は神に仕える祭司でしたから、主に仕えるとともに、人々にも仕えるものでした。祭司の第一の務めは祈ることです。パウロは30節に、祈ることは戦うことであると述べています。
これらのことについて、後でさらに詳しく考えてみたいと思いますが、ここで、第二の質問について簡単に考えてみましょう。
パウロが信者たちに願ったことは、彼らが主のために生きることによって、パウロ自身と同じように主のしもべ、道具になることでした。パウロが主張しているのは、信者が罪を赦されるだけではなく、神の道具とならなければならないということです。人間は、単に神を信じるようになるだけではなく、神に対して従順になることが必要です。18節に「キリストが異邦人を従順にならせるために、この私を用いて成し遂げてくださった、・・・・」と書いてあるとおりです。信仰の従順に至ることによって、信者は神の恵みをとりつぐ管となり、神の証人となり、世の光となることができるのです。パウロの願いは、人間が神と和解し、神との平和を持つだけではなく、人間が神の平和そのものとなることでした。神の平和が私たちの内側を完全に満たすとき、私たちは神によって立てられた祭司となります。かつて神を知らなかった異邦人は、福音に接することによって救われた信者となりました。その信者たちをパウロは祭司として神に捧げたのです。パウロは、彼らを神に受け入れられる供え物とすることを願いました。主を信じるということは、神に受け入れられ、みこころにかなうものになるための第一歩にすぎません。確かにパウロは、このように人々に勧め、願いましたが、この勧めは、まずパウロ自身が人々の前に模範となり、自分がすべてを捨てて神の御腕の中に自分自身をゆだねているのでなければ意味がありません。18節によれば、パウロは自分自身をまったく主にゆだねて、自分の思いではなく、ただ主の御力に寄り頼んで、伝道のわざを行ったことがわかります。
私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いとにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。(ローマ15・18~19)
神のしもべの力は、決して自分自身から出てくるのではありません。キリストがその人のなかで働かれて初めて現われるものです。パウロは、主イエスのしもべでしたから、自分自身を主イエスによって支配されるようにしました。彼が主によって多くの実を結んだ秘訣は、彼が主のしもべとして働いたということにあります。ぶどうのつるは、幹につながっていなければ実を結ぶことはできません。信者は主イエスによって支配されることによって初めて、主の前に価値のあるものとなるのです。
16、19節には、聖霊について書かれています。パウロが主に対して心から願っていたのは、神ご自身が彼のうちにあって働かれることであり、聖霊が彼の心に語りかけることだけを語りたいということでした。彼は自分を無にしたからこそ、兄弟姉妹たちに、あなたがたも自分を神に受け入れられる供え物として捧げなさいと言うことができたのです。たとえ、どんなに大きな代償が要ることでも、パウロは主が命ぜられることなら何でもその通りにしました。その結果、主のために多くの苦難を受け、困難を忍び、危険な事態に遭遇することになったのです。自分の安逸をむさぼることにたいして、きっぱりと背を向けることがパウロの人生態度でした。もちろん、彼は主に従うことによって多くの苦難に直面しなければならないことをあらかじめ知っていましたが、それでもあえて主に従うことを選んだのです。ローマに行くことは、パウロの多年にわたる願いでしたが、これは彼の想像もしていなかったようなかたちで実現することになったのでした。実際に彼がローマに行ったのはこの手紙を書いた後しばらくしてからで、しかも彼はローマに囚人として送られたのでした。私たちが自分で立てる計画と、神の御計画とは何と違いがあることでしょう。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55・8~9)
聖書を見ると、パウロは自分のことをいつでも主の囚人であると言っていますが、ローマ帝国のネロの囚人だと言ったことは一度もありません。彼は、目に見える現実を見ないで目を遠くに向け、ただ主のみに目を留めていたのです。それは、ネロでさえも主イエスの許しなしにはパウロに何一つできないことをよく知っていたからでした。パウロは、囚人としての立場でありながら、主のために大きな働きをし、実に多くの実を結びました。彼は牢獄のなかで多くの手紙を執筆しました。ピリピ人への手紙によれば、彼は捕われの身でありながら多くの人を主に導き、ローマ皇帝の臣下にも主を信じる人々が生まれたと記されています。25節では、彼はローマの兄弟たちのもとへ行くときには、ありあまるほどのキリストの祝福を携えて行くと記しています。どうして彼はこのような確信を持っていたのでしょうか。それは、主イエスがパウロのうちにあり、また彼が主イエスのうちにあったからです。パウロは、自分自身はただ主が自由に働いてくださるための道具であり、管であり、祭司であるとわきまえていました。主イエスがご自身のしもべを通して自由に働かれ、そのしもべが主の中に隠されるようになれば、そこにはキリストにある満ち溢れるばかりの祝福が与えられます。
ローマの兄弟姉妹たちに対するパウロの願いは、彼らの持っている忠実さが成長し、いっそう熱心に主に仕えるように高められることでした。パウロの伝道はいつでも都市で行われました。そして、その都市で救われた信者たちの中から近隣の地方で伝道する兄弟姉妹が出るようにと望んでいました。そのようにして救われた信者に、彼らの身近にいる人々に対して負っている責任を示したのです。パウロは、救われた信者が一人一人個人的な主との交わりのうちに入り、自分の身近にいる人々に対してどのようにふるまうべきかを聖霊によって示され、その責任を果たすようにと願っています。これこそ、まことの伝道のありかたです。
30節を見ると、パウロは、自分とともに神に祈るようにと兄弟姉妹に切に願っています。これを見てもパウロが自分自身に誇りをもっておらず、まことに謙遜に主に仕えていたということがわかります。彼は、ほかの兄弟姉妹の祈りの支えがなければ、何もできないということをよく知っていました。このようにして、キリストにある一つ一つの肢体が一つに結び合わされることになるのです。パウロは、ローマにいる信者たちとはそれまで一度も会ったことがありませんでしたが、この節を見ると彼には疑いの影もなく、確信に満ちてます。主にあって彼らと一つである、ということを徹頭徹尾確信していたのです。ですから、近いうちに彼らと顔と顔を合わせて語りあうことは心からの喜びでした。
パウロにとってローマに行くことは長年の願いでした。しかしいつでもパウロは「もし主のみ心であれば。」という態度をとっていました。私たちも、パウロと同じように、主のみ前に静まり、主との交わりのうちに、御心について思いめぐらし、主の望んでおられることを知ることが許されています。パウロのように、ただ主の御心のみがなるように、そしてもし御心であれば、たとえ自分が望んでいないことであっても、主の示されるところに従うという態度をはっきりと持ち続けていたいものです。
パウロの切なる願いは、ローマの信者たちが自分の命を捨てて主に仕える決意をし、人間に頼るような信者ではなく、ただ主により頼み、すべてを明け渡して、しっかりと歩むことのできる信者となることでした。しかし、パウロにできたのは、彼ら一人一人が主とより深い交わりを持つようにと助けることができただけでした。主との深い交わりは、自分自身を神に仕える祭司として主に捧げることによって得られます。祭司の特徴は、神に対する責任をわきまえており、清い愛の心を持っているということです。パウロは皆が、毎日毎日自分自身を神に対する供え物として明け渡す生活をすることを願い、祈り求めていたのです。信者一人一人が生き生きとした証人として立てられることによって、福音のともし火を掲げて世を照らすようになるのです。
パウロは大変忙しく働いていましたし、彼の心はローマに行くことでいっぱいでしたが、それにも関わらず、彼はエルサレムにいる貧しい主にある兄弟姉妹たちのことを忘れてはいませんでした。彼はローマにいる信者に対して、エルサレムの困っている聖徒たちに物質的な援助をするようにと頼んでいますが、これは単に金銭を送るというだけではなく、ローマの信者たちとエルサレムの信者たちとが霊的な一致を持っていることの証しとして援助が行われることを求めているのです。喜んで捧げることは、真実の愛を証しします。
私たち信者の人生の目的は、私たちを通して主イエスに栄光が捧げられ、世の人々に対して、とりわけ主にある兄弟姉妹に対して真実の愛を示すことです。信者は自分のためではなく、お互いのために生活すべきであり、同じ主にある一つの体の一部分として、互いに仕えあって生きるように、とパウロは勧めています。
30~31節からは、パウロが主にあって戦っていること、また主にある兄弟姉妹のことを心配していたことがわかります。この戦いの中で、彼は自分では何もすることができず、兄弟姉妹の祈りを必要としていること、そして、彼と共に戦ってくれることを願っています。彼は、使徒として他人のために祈る立場にあっただけではなく、むしろへりくだってパウロ自身のためにも祈ってくれるように願い求めました。パウロはこのように祈りを必要としていた理由を二つ書いていますが、それは第一に、ユダヤにいる不信仰な人々の憎しみを免れるためでした。パウロは彼らに何度も殺されそうになったからです。第二に、エルサレムにいる聖徒たちのために彼は祈りを必要としていました。エルサレムのユダヤ人聖徒たちの中には律法に堅く縛られている人々がいましたが、彼らはもしかすると異邦人つまりユダヤ人以外からの供え物を受け取りたくない、という態度にでるかも知れなかったからです。これでは兄弟たちが、主にあって一つではないという証しになってしまいます。そして兄弟たちが一つになっていなければ、主イエスに栄光を帰することができません。ですからパウロはこれを心配し、祈るようにと求めたのでした。パウロは兄弟姉妹が単に言葉で祈るだけではなく、彼と共に戦うことを願っていますが、戦いとは一体何でしょうか。信仰の戦いは、暖かい部屋で静かに祈っているだけではなく、厳しいものです。あなたにとって祈りによって戦うとはいったい何を意味しているのでしょうか。私たちは、この戦いを自分の生活のうちに体験しているのでしょうか。
最後に、パウロは、「平和の神が、あなたがたすべてと共にいてくださいますように。」と書いています。この「平和の神」という表現は、新約聖書の中で何回も使われています。
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16・20)
それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。(第一コリント14・33)
終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。(第二コリント13・11)
あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(ピリピ4・9)
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(第一テサロニケ5・23)
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が・・・(ヘブル13・20)
私たちは今や神との平和を持っています。しかし、この平和の神ご自身が私たちと共にいてくださることも必要です。神との平和を得ているだけではなく、この闇の世にあって、神の平和を自分の中に持つものとならなければなりません。そのようにして、私たちはお互いに喜びあい、また憩いをえることができます。信者たちが互いに真実の愛をもって仕えあうなら、そこには平和の神が共にいてくださいます。