第Ⅴ部 神と人とを愛せよ

31.信者と主にある兄弟姉妹(3)

ローマ人への手紙

15章1節から13節まで


信者が主にある兄弟姉妹に対して取るべき態度

1.兄弟姉妹の弱さを担いなさい(1節)

2.兄弟姉妹の益をはかりなさい(2節)

3.兄弟姉妹に対する忍耐と励ましを持ちなさい(4節)

4.兄弟姉妹と共に心を一つにして神をほめたたえなさい(6節)

5.兄弟姉妹を受け入れなさい(7節)

6.兄弟姉妹のしもべとなりなさい(8節)

7.兄弟姉妹と共に喜び、平和、望みに満たされなさい(13節)


15章の前半である1~13節では、14章に続いて、信者と主にある兄弟姉妹の関係が書かれています。この部分の主題は、信者と兄弟姉妹、特に信者がその兄弟姉妹に対してとるべき態度、つまり、信者の間の関係についてです。この部分では、信者がその兄弟姉妹に対して、どのように具体的な愛の実践をなすべきなのか、そして、その愛の行為のもたらす結果は何であるかということについて書かれています。


(1)私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。(2)私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(3)キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。(4)昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(5)どうか、忍耐とはげましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。(6)それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。

(7)こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。(8)私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、(9)また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。

「それゆえ、私は異邦人のなかで、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」(10)また、こうも言われています。

「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」

(11)さらにまた、

「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」

(12)さらにまた、イザヤがこう言っています。

「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」

(13)どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15・1~13)


今日の学びの主題を要約しますと、「兄弟姉妹に対して忍耐を持ち、その弱さをにないなさい。主イエスはその模範を示された。」ということです。私たちはこの15章を通して主イエスの思いが何であるか、また、聖霊に満たされた人の歩みがどのようなものであるか、ということについて学びます。この部分の御言葉から、その特徴を七つに分類してみることができます。


1節には、力のない人の弱さを担いなさい、とあります。


2節には、兄弟姉妹のために生きることが書かれています。


4節には、神から忍耐と励ましを頂いて生きるようにと勧められています。


6節には、兄弟姉妹が互いに心を一つにして神をほめたたえることが記されています。


7節には、互いに受け入れなさいと書かれています。


8節には、私たちが互いに仕えあうために主は私たちのしもべとなられた、とあります。


最後に13節には、喜びと平和と望みに満たされるように、と勧められています。


私たちはすでに14章で、信者の中には二種類の人々がいる、ということを学びました。つまり、それは信仰の弱い人と強い人のことでした。14章19節は、この両方にともにあてはまる御言葉です。


そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(ローマ14・19)


この「私たち」とは、信仰の弱い人と強い人の両方について言われていることです。また、これに続いて、20~22節の前半までは信仰の強い人のために記された御言葉であり、22節の後半から25節までは信仰の弱い人のために記された御言葉です。そして、私たちが学びたいと思っている15章の1~7節までは、特に信仰の強い人のための勧めとして書かれています。信仰の強い人は、神の前にその強さに応じた責任があります。パウロは、ここでただ単に信仰の弱い人と強い人が存在している、という事実を明らかにしているだけで、別に信仰の弱い人を非難したりさばいたりしているわけではありません。パウロは、その両者に対して同じように勧めをし、どのような態度をもって信仰生活を送ったらよいのかを教えています。


あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。(ローマ14・1)


この世の中には、はっきりとイエスかノーかで答えられない問題があり、それらについては兄弟姉妹に対して深い思慮と愛とをもって答えなければなりません。実際問題として、信仰の弱い人々はつまずきやすく、私たちは深い配慮をもってその人々に接することが要求されています。ここで言うイエスかノーかで簡単に答えることのできない問題とは、私たちの具体的な日常生活における態度に関するものです。多くの場合、これらは本質的な問題ではなく、枝葉のことであって、聖書が語っているような絶対に動かすことのできない真理そのものではありません。もし、そのような真理そのものに属すような大切なことがらが問題となっているのならば、私たちは愛にもとづいて兄弟姉妹たちにもはっきりとした態度で勧めをしなければなりません。そして、決して御言葉に反する態度を取ることは許されないのです。


14~15章は、聖書の中の真理そのもの、つまり、罪と救い、私たちの希望と永遠のいのちなどについて焦点を当てて書かれているのではなく、信仰生活の実践的態度、つまり、食べること、飲むこと、聖日を守べきことなどについての細かい勧めです。しかし、特に15章には、私たちがこれらのことによって互いに傷つけあうことがあってはならない、というだけではなく、互いに同じ思いを持つことによって、主の栄光が現わされるようにとの勧めが書かれています。


注意しなければならないのは、パウロがここで信仰の弱い人々に対して教えさとしているのは、彼らがより高い霊的水準に引き上げられなければならないということではないということです。そうではなく、信仰の強い人が弱い人に対して忍耐と寛容とをしめすこと、そして、さらにそれだけではなく、実際にその弱さを担う者となりなさいと語っているのです。


主に対する正しい知識は、人間がほかの人に注ぎ込むことのできるようなものではありません。その人自身が自分で成長しなければなりません。そのためには、強い人は忍耐と寛容と思いやりをもって接しなければならないのです。強い人の強さとは、その人が何を知っているかではなく、何を担うかという点にあります。強い人は、ちょうど羊飼いがその羊に対してするように、愛と知恵とをもって導かなければなりません。弱い人、また迷っている人を忍耐をもって正しい道へと立ち帰らせることができない信者は、決して強い信者ではありません。信仰の強い人とは、成長した信者、霊的な信者のことです。


兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。(ガラテヤ6・1~5)


兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。(第一テサロニケ5・12~15)


その人が本当に霊的な力をもっているかどうかは、その人がほかの信者の弱さを担うことができるかどうかに現われてきます。私たちが、同じ信仰に立つ兄弟姉妹の欠点に気づかされるとき、どのような態度をとるでしょうか。私たちはそれらの欠点をさばいたり、批判したりするでしょうか。あるいは、それらの欠点が正されることをあきらめて、どうしようもないとただ傍観するだけなのでしょうか。それとも、信仰の弱い人の欠点を覆い、その弱さを担うことによって、その人を立ち帰らせるでしょうか。


ペテロは、自分自身を強い信者だと思っていました。ですから、彼は、「みながつまずいても、私はつまずきません。」と自信をもって言ったのでした。しかし、早くもその晩に彼は、「主を知らない。」と三度も否んだのです。ペテロは、主イエスに私の羊を養うように、との命を受ける前に、まず彼自身が砕かれて謙遜なものとされなければならなかったのです。


私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。(ローマ15・1)


しかし、多くの信者の場合には、このような態度が残念ながらあまり見られません。そのかわりに、高慢やうぬぼれなどのほうがはるかに見られやすいのです。聖書の真理について、ほかの兄弟よりも深い知識を持っていると自認している信者には、うぬぼれたり、ほかの信者を見下したりする危険性があります。


兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。(ローマ11・25)


だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。(ローマ12・3、16)


みこころにかなった信者は、自分自身を喜ばせるべきではありません。自分自身の欲望を追い求め、名誉や名声を求めることがあってはなりません。また、兄弟姉妹との交わりを持たずに、自分の考えだけで歩んで行こうとすることも、みこころにかなった歩みとは言えないでしょう。


私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(ローマ15・2)


私たちの持っているもの、つまり知識とか力とかは、兄弟姉妹の徳を高めるために神から与えられたものです。そのような知識や力がありながら、ほかの兄弟姉妹たちを不当に甘やかしたり、あえて対立を避けるために妥協して引き下がったりすることは、愛のゆえの行動というよりはむしろ、責任逃れであるといえましょう。私たちは、自分を通して兄弟姉妹に祝福をもたらすように召されているのです。私たちを通して兄弟姉妹が主とさらに深い交わりを持つようになり、兄弟姉妹と主とがさらに近づき、兄弟姉妹が妥協したりすることなく、喜びに満たされて信仰生活を歩むことができるようにと、主は私たちを用いられるのです。


それでは、一体私たちはどのようにして兄弟姉妹に奉仕することができるでしょうか。3節によれば、その模範は主イエスにあります。主イエスは「仕える者」となられ、ご自身のためにはなにもお求めにはならず、ただ神のみがあがめられ、神のみに栄光が帰されることを願い求められたのです。ですから「そしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」のです。主イエスが目指されたただ一つの目的は、信者が成長して神に栄光が帰されることでした。主イエスは自分の喜びや、名誉、富などとはまったく無関係なお方でした。その切なる願いは「父よ。あなたの御名があがめられますように。」ということでした。ですから「私は、自分の意志ではなく、私を遣わされた方の意志によって歩むのです。」と言われ、父なる神を喜ばせるためだけに生活なさいました。


神のために生きること、また、神の栄光を求めることは、決してなまやさしいことではありません。神はご自分の民である私たち信者について、特別な関心を持っておられます。神が私たち信者一人一人をどれほど大切に思っていてくださるか、また、その一人一人を贖うためにどれほどの犠牲を払ってくださったかということを考えてみるなら、私たちが強い信者であるかそれとも弱い信者であるかということは、それほど決定的な問題ではありません。神は、私たち信者に対して最大の関心を持っておられます。ですから私たちも、兄弟姉妹を強いか弱いかに関係なく受け入れなければなりません。


主イエスは、すべての人々の弱さと罪と恥辱を担ってくださいました。これは、完全に自分自身を無にして、自分を犠牲にされた態度でした。私たちの歩むべき道もまた、この主が歩まれたと同じ態度です。私たちは、喜びをもって兄弟姉妹の弱さを担い、信仰の弱い人が成長するために益をはかるべきです。


オーケストラの演奏会が始まる前には、それぞれの演奏者は楽器の音の高さ(ピッチ)を一つに合わせます。私たちもまた、心を一つにして同じ思いを持たなければ、神の栄光を現わすことはできません。4~7節は、その同じ心を持つための標準として書かれました。4節で「昔書かれたもの」とありますが、これは旧約聖書を指しています。私たちにとって、旧約聖書はどのような意味を持つものでしょうか。旧約聖書は私たちを日々教え導き、忍耐と励ましと希望を与えてくれます。ここには、信者一人一人が成長して完全な者になってほしいという希望が記されています。私たちがこの希望に満たされるならば、私たちは同時に兄弟姉妹に対しても同じ希望を持つようになります。こうして私たちは、枝葉末節の問題よりもっと大切で本質的な問題があるのだということを知ります。


どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。(ローマ15・5)


神ご自身が、忍耐と励ましの神であられます。ですから私たちは、神に絶対的な信頼を置くことができるのです。


主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。(申命記32・4)


神はまた、励ましの神です。神は、私たちを強くし、力を与えることを望んでおられます。


また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、・・・・(コロサイ1・11)


神の忍耐と励ましを体験することのできた信者は、兄弟姉妹に対しても忍耐と寛容をもって励ますことができるようになります。信者の集いは、霊による一致と愛に満たされなければなりません。


見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(詩篇133・1)


もちろんここで言う兄弟姉妹の中には、強い人も、弱い人も含まれています。このような集いの中では、ねたみ心は追いやられ、互いに喜びを一つにし、重荷を担いあうことが見られます。主イエスのからだである教会には、分裂があってはなりません。かえって、それぞれの器官はお互いに配慮しあうべきです。聖霊の一致と愛の一致があるところにのみ、心を一つに合わせた賛美によって、主の御名があがめられることが成就されます。


私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。(詩篇34・3)


ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(ヘブル13・15)


意見の違いによって、信者は互いに分裂してはいけません。信者であれば、だれでも愛をもって互いに受け入れあわなければなりません。枝葉の問題にとらわれるよりも大切な問題に目を向けましょう。信者の交わりの目的は、枝葉の問題に関して議論することではなく、共に心を一つにして、神を賛美することです。これはまた、救いの目的でもありました。私たちの救われた目的はここにあるのです。しかし、このことは、ただ自分自身を無にして、主の栄光を追い求めるということによってのみ実現することが可能なのです。ですから、私たちは主イエスの模範を見て、主にふさわしく歩まなければなりません。


主イエスお一人が中心であり、いろいろな個性、多様性を持った信者の集会を一つに結び合わせることのできるお方です。主イエスはペテロに、「あなたはヨハネのようになりなさい。」とはおっしゃいませんでした。同様に、主イエスはマリアにむかって「あなたはマルタのようになりなさい。」ともおっしゃらなかったのです。主イエスは、いつも変わりない愛をもって、だれに対しても同じ愛の心をもって心配してくださいました。また、信者の弟子たちの欠点を示さずに、かえって、その欠点を覆ってくださいました。このことによって、弟子たちはお互いの意見の違いにもかかわらず、一致を保ち続けて行くことができたのです。兄弟姉妹が、心を一つにして声を合わせ、父なる神をほめたたえることが私たちの目的です。コーラスのなかには、いろいろのパートがあります。主なる神は、賛美が一本調子ではなく、互いに調和を保ちながら美しいハーモニーを奏でることを望んでおられます。信仰の弱い人も、強い人も、能力のある人もない人も、主への賛美のために一つ心になるべきです。主イエスは、正しい認識に欠ける信者たち、また疑惑の中にある人たちに、思いやりを示してくださいました。彼らを愛して、ご自分のいのちを捧げてくださいました。この心構えを私たちも持つべきです。


兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6・1~2)


キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。(第一ヨハネ3・16~17)


お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4・32)


兄弟姉妹、一人一人は一致して神の御名をあがめるように努めなければなりません。7節に、「互いに受け入れあいなさい。」とありますが、これは私たちの交わりのなかで、互いに心を配りあいなさいということです。大切なのは、自分自身の満足を満たすことではなく、神ご自身が私たちの思いと行いとを支配してくださることです。このことによってのみ、神が栄光をお受けになることができるのです。枝葉の問題は、問題ではありません。また、信仰の強い弱いもたいしたことではありません。さらに、その兄弟が好感を持てるような兄弟かどうかも関係ありません。互いに受け入れあうこと、このことが一番大切なのです。互いに受け入れあうことは、私たちが主イエスの思いを自分のものとすることから始まらなければなりません。


8~13節には、信者がそれぞれ多様な賜物を持っているにもかかわらず、主イエスによって一致を保つことができる、と書かれています。主イエスは、ユダヤ人のためだけではなく、異邦人のためにも仕えるものとしてご自身を捧げてくださいました。そのことによって、ユダヤ人も異邦人もともに神の栄光をたたえるものとなりました。主イエスを受け入れた人は、ユダヤ人も異邦人も共に一つのものとされたのです。主イエスはまことのしもべでした。このしもべの強さは、神の前に謙遜に立つこと、また自分を無にして、兄弟を愛することによってあらわされました。まずはじめにキリストは、8節に書かれているように割礼のあるもののしもべ、つまりユダヤ人のしもべとなられました。旧約時代に、神はイスラエル民族にメシヤを与えると約束されています。この約束がキリストでした。かつて神は、アブラハムにあなたの子孫を諸々の民族よりも祝福しようと言われましたが、この「子孫」とは主イエスのことでした。そしてアブラハムは、主イエスの救いを遙かに望み見て喜んだと聖書に書いてあります。


まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。(詩篇33・4)


しかし、主イエスはただユダヤ民族だけに遣わされたのではなく、神から離れた全人類のためにも遣わされたのです。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)


主イエスが成し遂げられた救いにあずかったものは、この恵みをほめたたえるようになります。この恵みこそ、私たちの感謝が湧き出る泉です。旧約聖書の中でも、異邦人も神をほめたたえるようにと勧められています。パウロは、ここで旧約聖書から四カ所を引用しています。


第一の引用および第三の引用は、ダビデの詩篇からです。第二の引用は、モーセの言葉であり、最後の引用はイザヤの言葉です。この四つの引用はいずれも異邦人がユダヤ人と一緒に主をほめるように、ということが記されていますが、このことは、約束された平和の王国、すなわち来るべき千年王国で成就されます。そのときには、救い主イエスをイスラエル民族だけではなく、全世界がほめたたえるようになります。あなたは主イエスの救いを喜ぶ者とされているでしょうか。


この章を通して私たちは、あまり本質的でないもの、つまり枝葉の問題が私たちの間に対立を生み出し、互いに受け入れあうことを妨げていることを学んできました。本当に大切なのは、信者一人一人が互いに同じ心をもつようになり、共に主の栄光をほめたたえるようになることです。最後の13節は、私たちのために書かれています。もし私たちがほかの兄弟姉妹を主のゆえに心から受け入れるなら、私たち自身もここで書かれているように、喜びと平和と望みに満ち溢れるものとなるでしょう。ときとして私たちは、ある信者を見て、その兄弟姉妹が絶望的な状態に陥ってしまっていると思いこみがちですが、そのような兄弟姉妹のためにも主が約束されている恵みがある、ということを忘れてしまいがちではないでしょうか。神は、望みの神ですから、絶望することは決してないのです。この望みの神は、私たちをも、決して崩れさることのない恵みと望みに満たしてくださいます。この喜びと平和と望みの源になるのは、聖霊ご自身です。聖霊が、私たちを支配するなら、私たちは主イエスと同じ思いを持つようになります。そして、この主イエスの思いを持つ人は、決して自分の力で歩もうとしなくなります。聖霊によって支配されること、つまり、聖霊に満たされることは、この一致のための秘訣です。聖霊の力によって、私たちは互いに愛しあい、互いの弱さを担いあい、共に同じ心をもって神を賛美することができるようになります。人間の思い、自分自身の自我は、互いの交わりを断ち切り、分裂を引き起こします。人間は、ちょうどコップのようなものにたとえることができます。そのコップに何が満たされているかが大切だからです。ある人々は、その中に喜び、平和、寛容、謙遜、兄弟に仕えようとする態度を満たしています。また、ある人々は、高ぶり、不信仰、愛のない態度、絶望などを満たしています。聖霊の力は、今日もなお私たちに与えるに十分なものを持っています。聖霊は、主イエスに栄光を与えるものであり、その聖霊によって与えられる力により、私たちは主イエスのうちに隠されている神の富を見いだすのです。聖霊が私たちの目をはっきりと開いてくださって、私たちが神のうちに隠されている無尽蔵な富を見いだすことができるなら、本当に幸いです。


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