第Ⅴ部 神と人とを愛せよ

30.信者と主にある兄弟姉妹(2)

ローマ人への手紙

14章13節から23節まで


つまずきを与えない配慮と、確信の上に立ち続けること

Ⅰ.生まれながらの性質

1.侮ること

2.さばくこと

3.つまずきを与えること

Ⅱ.新しい性質

1.兄弟姉妹に対する愛

2.互いの平和と霊的成長を追い求めること

3.他人の良心を尊重すること

Ⅲ.愛は自由よりも買い


前章では、集会の中で弱い信者と強い信者との間にどのような問題が起こりうるか、また、その問題の解決策はどうであるかということについて学びました。


この章では、引き続き信者と主にある兄弟姉妹との関係、特につまずきを与えない配慮と、確信の上に立ち続けることについて14章の後半から学んでみましょう。


(13)ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ(14)以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。(15)もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。(16)ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。(17)なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(18)このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

(19)そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(20)食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。(21)肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。(22)あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。(23)しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14・13~23)


まず、この13~23節の内容を簡単に要約してみましょう。ローマの集会には、二種類の信者がいました。ある信者は昔から伝えられた宗教的な慣習に心を煩わされており、別の信者はそのような取り決めには支配されずに自由にふるまっていました。だれが模範的な行いをしているかということはそんなに大切なことではありません。私たちが、主を恐れる気持ちをもって主の前を歩み、自分自身を捨てて愛をもって生活することは、主によって与えられた自由を奔放に活用するよりもはるかにすぐれたことです。大切なのは、自分自身の良心の声に耳を傾けること、また同時に相手の良心も尊重することです。


ある青年が、どうしても映画に行きたいと思いましたが、そのことを知った母親はあまり嬉しく思いませんでした。そこで、その青年は映画に行くことを断念しました。お母さんがその理由を彼に尋ねますと、彼はローマ人への手紙の14章15節を示して答えました。


もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。(ローマ14・15)


この御言葉の「食べ物」のところにいろいろな言葉をあてはめて考えてみることができます。この青年は、映画という言葉を入れて考えたのでした。


確かに私たちが主に従うなら、もう以前のようにほかの人々の意見によって煩わされることがなくなります。もし、私たちがほかの人々の意見によっていちいち動揺するなら、私たちのうちにキリストの形が現わされることはありません。私たちは、主ご自身をこそ見つめるべきであり、他人の意見に左右されるべきではありません。このことは前回学んだとおりです。


これから学ぶ箇所は、一見すると前回の学びと正反対のことを語っているように思われるかもしれません。それは、これから学ぶ聖書の箇所に書かれているのは、私たちが他人につまずきを与えないためには、細やかな配慮が必要であり、他人を尊重する気持ちが大切だ、ということだからです。このことは前の章で学んだことと矛盾しているように思えるかもしれません。しかし、他人につまずきを与えないように配慮することは霊的な生活態度であり、ほかの人を導くためにはどうしても必要なことなのです。聖霊は、御言葉によって敏感になった私たちの心に語りかけて、神のみこころのとおりに導きたいと思っておられます。今までも繰り返し述べて来ましたように、私たちの互いの交わりの中には主がいてくださり、主の現れがみられなければなりません。私たちは生まれながらの性質をもっていますから、そのことに気を付けながらどのように振舞ったらよいのかをいつもこころがけていなければなりません。そこで、まず、この生まれながらの性質から考えてみましょう。


Ⅰ.生まれながらの性質


私たちのうちには生まれながらの性質があって、それは3節によれば互いに侮りあう原因となり、10節によれば互いにさばきあう原因となっています。さらに、13節によれば互いにつまずきを与えあう原因ともなっています。このことは、多くの問題の出発点です。だれにでも自己中心の思いや、自分自身を判断の基準としてほかの人々を批判する傾向があります。聖霊は私たちが生まれつきのままで歩むことを望んでおられるのではなく、御霊の実を結ぶことを望んでおられるのです。8~10節には、そのための秘訣が記されています。キリストは一人一人の信者の主であり、キリストのみがさばく権利をもっておられます。


Ⅱ.新しい性質


聖霊は、ここで三つのことを勧めています。


15節によれば、私たちは自分の兄弟姉妹に対して、全き愛を示さなければなりません。


19節によれば、私たちは平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めなさいと言われています。


さらに、22節によれば、ほかの人の良心に対する尊重の思いを持たなければならないと書かれています。種々の困難や対立を克服するためのもっとも望ましい方法は、その困難に直面してい当事者たちが共に主の采配のもとにおかれることです。主イエスの導きは個人的なものであり、一人一人異なっているでしょう。しかし、私たちは集会で一致を現わすべく努力しなければなりません。


パウロは14節でけがれている食べ物などない、と語っています。パウロはかつてはパリサイ人で、食べ物についてこれとはまったく違った考えを持っていました。ところが、主イエスに出会ったことによって、実に多くのことを新たに学んだのです。多くの困難や苦難を通してこれらのことを学ぶように導かれたのでした。新しく生まれた私たちも、みことばに示されるままに新たな思いを持たなければなりません。それ自体が汚れている食べ物など何一つありませんが、もしある兄弟が特定の食べ物についてけがれていると思っているなら、彼のためにそれを食べないことはふさわしいことです。言うまでもなく、それを食べると罪になると思っている人は、食べてはいけません。もし、人がその兄弟を愛しているなら、食べ物のような些細なことでその兄弟をつまずかせるようなことがあってはいけません。当時のローマの集会では、このように食べ物のことについて問題がありましたが、パウロはそれについて、愛という一つの原則を示すことによって解答を与えています。次に、この愛の原則についてその意味を考えてみましょう。


Ⅲ.愛は自由よりも貴い


ギリシャ哲学によれば、物質には悪いもの、悪い性質があるという考えがあります。ところが、聖書には物質それ自体には悪いところも良いところもなく、問題なのはその用い方であり、それによって良くも悪くもなるという考えが示されています。ですから、物質のことなどでほかの兄弟に対する思いやりや愛を失うようなことがあってはならないのです。神を忘れ、兄弟姉妹を忘れることによって、いわゆる唯物主義の萌芽が生まれました。この唯物主義、あるいは物質主義が、ときには資本主義によって利用され、また、社会主義によって利用されたりしますが、いずれも物質に目を奪われ、神を忘れてしまっている点で間違った出発点であると言えましょう。他人をさばこうとする態度は、本当に深刻な罪です。私たちがさばくことを許されているのは、自分自身だけです。


しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(第一コリント11・31)


もちろん、愛のない態度、また自分中心の態度はさばかれざるを得ません。もし、私たちが自分で自分の欠点や罪に気付いてそれを捨てるなら、そのことによって彼は兄弟たちの喜びとなることができるでしょう。「あなたの目の中の梁をまず取り除けなさい。」と書いてあります。パウロ自身は強い信者の側に立っていました。


キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ10・4)


神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。(第一テモテ4・4~5)


しかし、パウロは同時に、愛のゆえにあなたがたの自由を弱い信者をつまずかせるような場合には用いてはならないと語りました。たばこを吸うことや、酒を飲むことなどについても同じことが言えます。だれも自分の考えを他人に押しつけることは許されません。一人一人の信者は、ほかの兄弟姉妹が持っている確信について配慮することが必要なのです。


ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。(第一コリント8・13)


パウロはどんな肉でも食べてもかまわない、ということを知っていましたが、肉を食べることがほかの兄弟のつまずきになるならその自由を用いない、と言っています。


キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3・16)


愛のゆえに自分の持っている自由を用いないということは、まさにこの御言葉の意味しているところです。主が私たちに対して赦しを与えてくださっているから、私たちには自由がある、ということだけではなく、私たちに、兄弟姉妹に対する愛があるかどうかということも問題です。というのは、主はその兄弟姉妹のためにもいのちを捨てられたほど愛を注いでおられるからです。私たちの行ないが兄弟をつまずかせることになるのなら、それはたいへんなわざわいです。


17節には、神の国について書かれています。「神の国」とは、私たちの人生そのものを神が支配してくださることです。神の国は、外から与えられる法律や命令などによって造られるものではなく、私たちの徹底的な献身によってもたらされるものです。主イエスの愛が私たちを促して、私たちを神の国としてくださるのです。主が私たちの人生の支配者であることの証しは、私たちの平安と喜びです。アルコールを飲まない、肉を食べない、また流行を追わないなどということは、それ自体は徳でも善でもありません。けれども、私たちが神に対する愛、兄弟姉妹に対する愛からそれらを遠ざけるなら、それはよいことなのです。神が求めておられるのは、このように神に対する従順と隣人に対する自分を顧みない愛と、信者一人一人が主イエスに似たものとされることです。主イエスが、私たちを通して現わされることは、神が喜ばれることであり、また、主イエスを知らない人々が導かれる早道です。ここに書かれているような、食べるか食べないかというような枝葉の問題よりも、私たちが神に対する、また兄弟姉妹に対する愛をもって行動しているかどうかということの方がはるかに大切な問題です。意見の相違による対立が表沙汰にされるということは、信者がまだ霊的に未熟であるということの証しにほかなりません。これは私たちの平和と一致を妨げるものです。


主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4・1~3)


自分を顧みない愛と、互いに祈りあうことを通して、私たちは兄弟姉妹の信仰を支えることができ、その兄弟姉妹の助けとなることができます。


兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。(第一ヨハネ2・10)


キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。(ローマ14・15)


神は信者の内側に働きかけられます。神はその御言葉を通して私たちが自由なものであることを示してくださいます。しかし、私たちがその自由を活用することによって、兄弟たちがつまずくなら、私たちはその兄弟のうちにある神のわざを滅ぼしてしまうことになってしまいます。


信仰の強い人は、もろもろの宗教的な取り決めや慣習から解放されています。しかし、兄弟姉妹に愛を示すために自分の自由を差し控えなければならないことは頻繁にあることでしょう。強い人は弱い人に対して心を配り、彼らがつまずかないように、また彼らの信仰を守り育てるように心がけなければなりません。


こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。(第一コリント10・31~33)


これは、自分を顧みない神の愛にならった態度です。私たちには、大きな自由が与えられていますが、私たちが兄弟に対する愛のゆえにその自由に制約を加えるのはよいことです。神の愛は、私たちに王のようにだれにも束縛されない自由を与えています。しかし、この愛は同時にいつでも互いの間に平和と一致を保ちたいという望みをいだかせるものでもあります。私たちが互いに平和を保つことは、きわめて大切なことですが、そのためには私たちが自ら自分の持っている自由に制約を加えることが必要になります。それは、兄弟姉妹に対する愛のゆえのことであり、こうして互いに霊的に高めあうことが可能になります。


このことについての証しとして、具体的な例をお話ししましょう。最近私たちの集会の交わりに、一人のアルコール依存症の兄弟が加えられました。この兄弟が悔い改めの祈りをした次の日曜日から、集会では聖餐に用いるぶどう酒が、アルコールを含まないぶどう液に変えられましたが、これは、彼に対する主イエスの愛の現われでした。普通の人と異なり、この兄弟にとっては一口のぶどう酒は死を意味するからです。私たちにとっては、主の食卓にぶどう酒を用いるという習慣よりも、この兄弟が交わりに加えられるということの方が、はるかに大きな喜びでした。このことの後、この兄弟を通して、同じ病に悩む魂が何人も導かれ、主の救いの力を体験するようになったのです。私たちは、主からアルコールを禁じられたこの兄弟たちを受け入れることによって、私たちに与えられている主にある一致の大いなる祝福に感謝することができました。


私たちが、愛のゆえに自分の持っている権利を断念するとき、神は大きな祝福を与えてくださいます。反対に、私たちが自分の自由のみを主張して、そこに愛が見られないときには、争い、さばき、軽蔑、分裂などがおこります。また、私たちの自由が信仰を伴わないとき、それは危険なものとなります。信仰とは、自分を主に捧げることによって、神との正しい関係に立つことを意味しています。私たちにとって大切なのは、あれやこれやのことがらが罪であるかどうかではなくて、私たちが本当に主に自らを捧げて仕えているかどうかなのです。


それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14・5)


それでは、どのようにしたらこの確信を自分のものとすることができるのでしょうか。22~23節によると、私たちの行いが信仰から出ていなければそれは罪となる、と記されています。ですから、私たちのいろいろなことがらに対する判断は、主イエスとの結びつきのうちにくだされなければなりません。信仰の弱い人について、パウロは次のように言っています。信仰の弱い人は、もし自分の良心に何かとがめるものが感じられ、聖霊の導きによって完全な確信に達することができないなら、そういった良心の声に従わなければなりません。


私たちは、主に全く頼りきること、主に対して自分を徹底的に捧げることによって、このような確信を自分のものとすることができるようになります。このように、主との関係から出てこないものは罪です。そのようなものは自分の罪の結んだ実であると言えましょう。私たちは、十分に自分自身を吟味して、自分の思いによって行動するのではなく、主の思いによって行動するように注意しなければなりません。


神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8・14)


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