第Ⅴ部 神と人とを愛せよ

29.信者と主にある兄弟姉妹(1)

ローマ人への手紙

14章1節から12節まで


多様な意見と御霊による一致

Ⅰ.信仰の弱い人を侮ってはならない

Ⅱ.信仰の強い人をさばいてはならない

Ⅲ.互いに寛容と尊敬を示しあいなさい


14章の学びに入りましょう。


12章の主題は、信者と集会についてでした。13章の主題は、信者と公的生活についてでした。14章の主題は、信者と主にある兄弟姉妹です。私たちが兄弟姉妹に対して取るべき態度についてです。14章の内容を要約すれば、信仰的に強い人と弱い人が、それぞれどのような行動を取るべきか、ということについての勧めであると言うことができます。ここでパウロの語っている信仰の強い人とは、福音によって自由にされた異邦人のキリスト者を指しており、信仰の弱い人とは、臆病な心で信じていたユダヤ人のキリスト者を指しています。


さらに、この14章は二つの部分に分けて考えることができます。


初めの部分は1~12節です。ここでは、たとえ一人一人が異なった賜物を持っていても、互いに尊敬と寛容の心を持つことによって一致することができる、という恵みについて述べられています。このことを成就するための秘訣は、一人一人が自分の奉仕を主のために、また、主のみからだなる教会のために行うことです。主のみからだなる教会とは兄弟姉妹のことですから、私たちの行いは兄弟姉妹に対して奉仕するものでなければなりません。


後半の部分は13~23節までで、そこには、私たちが兄弟姉妹に対してつまずきを与えることがないように、常に思いやりを持つべきであり、またどのようなことがあっても、自分に与えられている信仰の確信の上にしっかりと立ち続けることが大切であるということが書かれています。


それでは、前半の部分について学んでみることにしましょう。


(1)あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。(2)何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。(3)食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。(4)あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。(5)ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞ自分の心の中で確信を持ちなさい。(6)日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(7)私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。(8)もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(9)キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(10)それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(11)次のように書かれているからです。

「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

(12)こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。(ローマ14・1~12)


この当時のローマの信者たちは、外面的なことがらに対していろいろな意見のくいちがいをみせていました。それで、彼らは思いやりをもって振るまい、愛と謙遜とに根ざした態度を取るようにという勧めを受けたのです。パウロは彼らに対して、お互いにさばきあうことがないように、また、一人一人が主に対して責任を負っているのだから、お互いに穏和な態度を取るべきであると語っています。


私たちは12章と13章を通して、新しい義、つまりイエス・キリストご自身が、信者の交わりを通して現わされなければならない、ということを学びました。集会の肢体がそれぞれに多様な賜物を持ちながらも、一致を実現するならば、多くの困難を克服することができます。一人一人の個性が一つに結び合わされ、さまざまな意見が一つにまとまるためには、忍耐が必要です。2、5節を見ますと、集会の中にさまざまな異なった意見を持った人々がいたことがわかります。また、13、14節を見ますと、彼らが互いに意見の対立から争ったこともあったことがわかります。ローマの集会には、ユダヤ人も異邦人もいました。それで、彼らの間にはいろいろな意見の対立がみられたのでしょう。たとえば、それは食べ物に関することであり、あるいは、どの祭日をまもるべきか、ということに関してでした。


ここでパウロは、信仰の弱い人、また、信仰の強い人という表現を使っていますが、これは何を意味しているのでしょうか。


信仰の弱い人とは、信仰の上であまり重要ではないこと、たとえば、食べ物や飲み物のことなどについて心を煩わせて、「このようなことをしたら恵みから落ちてしまうのではないだろうか。」などと常に不安にかられているような人たちのことを指しています。このようなキリスト者は、10章4節に書かれていたこと、つまり、キリストが律法を終らせられた、ということをまだ知らないのです。


コリントの集会にも、また同じような弱い信者がいました。


そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。

しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。(第一コリント8・4、7~8)


コロサイの集会の信者たちも、また同じような問題をかかえていました。


もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。(コロサイ2・20〜22)


初代教会には偽教師がいて、パウロが正しい福音を伝えて歩いた後についてまわって、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めを説いてまわっていたようです。しかし、このような定めにこだわっている信者といえども、主によって新しく生まれることを体験した信者たちであり、主イエスが心から愛を注がれた信者たちであることにかわりありません。これらの信者の特徴は、「こんなことをすれば、主と私との間に何か隔たりが入り込むのではないか」と考え、恐れることでした。当時、彼らは全然肉を食べようとはしませんでした。というのも、もしかしたらその肉は偶像に捧げられたものだったかもしれないからです。


旧約聖書にでてくるダニエルとその友達は、王様のご馳走を食べずに、野菜だけを食べたいと思いました。しかし、このことは、ダニエルたちが、弱い信者であったということを示すのではなく、彼らの信仰と献身の証しでした。


ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。

「どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。」

世話役は彼らのこの申し出を聞き入れて、十日間、彼らをためしてみた。十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。(ダニエル1・8、12~16)


ダニエルたちとは異なり、この14章に出てくる信仰の弱い人は、いつも食べ物のことなどで不安におびやかされていました。


生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(創世記9・3)


聖書にはこう書かれていますが、ユダヤ人は民族的な慣習から、食べ物に関して特別な取り決めを持っていました。ペテロのような人であっても、この取り決めと律法から解放されることは、なかなか困難なことでした。使徒の働き10章をみると、ペテロが食べ物のことを心にかけていたために、即座に主の命令に従うことができなかったと記されています。


さて、それに対して強い人は、次のような確信を持っています。つまり、人は何を食べようともかまわない、食べ物は人をけがさない、という確信です。レビ記11章1~8節には食べても良い生き物について記されていますが、これらは、もはや過去のものとなってしまった取り決めです。というのは、聖書に、キリストは律法の終りとなった、と書かれているからです。ローマ人への手紙のメッセージは、律法はもうすでに廃棄され、私たちは主イエスにつくものとされたのだ、と私たちに述べています。


14章3節によれば、人間が陥りやすい二つの危険な状態があります。一つは弱い人についてのであり、もう一つは強い人についてです。強い人は、弱い人が意味もないことにおびえているのを見て、彼らを軽蔑したり見下したりしてしまう危険性があります。また、弱い人は、強い人が何でも食べるのを見て、彼らをさばいたり、彼らの内面はけがれている、などと言ったりしてしまう危険性があります。強い人に対しても弱い人に対しても、一つの勧めが与えられています。それは、神はこの弱い人も強い人も同時に受け入れてくださっているのだから、お互いに信頼しあいなさいという勧めです。私たちは、同じ一つの恵みをいただいた者ですから、一つになることができるのです。


見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(詩篇133・1、3)


お互いの意見の相違は、主が一人一人を受け入れてくださったことを考えれば、取るに足りないことです。大切なことは、主に受け入れられているかどうかということです。兄弟が共に住むことはすばらしいことですが、それはまた、互いにさばきあうという危険性をもはらんでいます。主の導きは個人的なものです。したがって、一人一人の意見にも当然相違があるでしょう。しかし、この意見の相違は互いの一致を妨げるものではありません。もし、ある人が自分の信仰の基準をほかの人々にも当てはめようとするなら、自由な霊は失われ、他の人の良心が強制的に従わせられる、という結果になってしまいます。


生まれつき弱い体質を持った人、あるいは芯の弱い人に対しては、主はある制限を与えて彼らが堕落しないように守られます。一方信仰の強い人は、主から独特の個性を与えられており、そのような人はより大きな自由を享受することが許されているのです。たとえ、ほかの信者がいろいろな禁止条項を自分自身に課して生活していても、あるいは、全く自由な解放された生活を送っていても、それらに左右されることがないように、ただ自分自身の確信に従って歩むようにとパウロは語っています。


もし、ある信者が人間的な教えや取り決めに縛られて、ほかの人々の行いをさばくようなことがあれば、これはとんでもないことです。ところが、このローマの集会では、そのようなことは日常茶飯事だったようです。さらに、これはローマ以外のいろいろな集会でも見られた傾向であったようです。信者は、単に外面的なことがらで互いに争ったり、さばきあったりすることがあってはなりません。


4~6節には、個人的な自由と責任が強調されています。信仰の本質とは関係ない枝葉のことがらに関しては、主は一人一人の判断に任せてふさわしい自由を与えてくださいます。主は、一人一人の信者に対して、彼らが力強く、また守られた信仰生活を送ることができるようにしてくださるのです。


あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。(ユダ24~25)


誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。(詩篇41・22)


主イエスは、私たちの生涯をあますところなく御自身の支配下にお治めになり、私たちを導き、歩ませてくださろうと思っておられるのです。


すべてのことがらは、主のためになされるべきです。このローマ人への手紙14章で、パウロは何度となく「主のために」という表現を用いています。日をまもる人は主のためにそれをまもるべきであり、食べる人は主のためにそれを食べるべきです。しかし、ある特別な日だけでなく、毎日が主のためであるならば、このようなことは全く問題ではなくなります。こうして、人はほかの人々を軽蔑する危険性からまぬがれ、互いに尊敬しあうことができるようになります。たとえ、私たちがそれぞれに違った意見を持っているとしても、互いに交わりを持ち、一致を保ち続けることは可能なのです。


5節で使われている「確信」という言葉は、原文のギリシャ語によれば最上級の強い表現です。つまり、徹底的に確信を持ちなさい、ということです。


彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。(コロサイ4・12)


一人一人の信者は、自分自身の確信をしっかりと保ち、求めに応じてほかの人々にその確信を語ることができるように備えをしていなければなりません。互いに愛しあうこと、また、互いに高めあうことは、何よりも大切なことです。私たちが、すべてのことがらを主のために、そして、主を愛するがゆえに行うこと、これが何よりも大切な点です。一人一人は、自分の行いを強制されてではなく、自発的になすべきです。ちょうどこれと反対のことがガラテヤ人への手紙に書いてあります。


律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ5・4、3・2~3)


こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。(コロサイ2・16~17、23)


ローマの信者たちは、たとえそれが粗末な食物であっても、例外なくすべてを感謝して食べたでしょう。彼らがこのようにしたのは主を愛するがゆえでしたから、このような信者たちを軽蔑したりしてはならないのです。また、自由に食べる信者たちもいました。彼らも感謝をもって主のためにそのようにしたのですから、彼らをさばくことも許されないのです。全てを主のために、また、主を愛するがゆえに行うこと、これが全ての行いの根本です。


もし、あなたが主に仕え、主を愛そうとしているなら、ほかの人々の考えはそんなに大切なものではありません。私たちがあまり強くほかの人々の意見に左右されているならば、私たちは主のみこころを第一とする生活を行うことができません。私たちがいつでも、主はどのようなことを望んでおられるか、と考えて歩むならば、私たちの信仰生活はほかの人々の意見によってたやすくぐらつくようなことにはなりません。私たちは、人生の旅路において道を見失うようなことはありません。それは、私たちには主の道が知らされているからです。主を見上げることによって、私たちに人生の目標が明らかにされます。一人一人の信者が主を見上げるならば、お互いに意見のくいちがいがあったとしても、互いの交わりと一致を保つことができます。


一致を保つための秘訣は、主イエスが中心にいてくださることです。主が私たちを引き離さないかぎり、私たちは互いに離されることがあってはなりません。ある兄弟が、ある姉妹が、主によって受け入れられているならば、私たちも彼や彼女を受け入れなければなりません。また、主が捨てられた信者とは、もはや交わりを持つことができません。みながすべてのことを主を愛するがゆえに行うなら、そこにはまことの一致が見いだされます。


私たちには、ほかの信者を侮ったりさばいたりする権利はありません。その権利は、主だけがお持ちになっています。ここで問題にされているのは、個々の罪の問題ではなく、信仰に立った一人一人の律法についての認識です。今日もなお、律法を文字どおり行わなければならないかどうか、ということについてはっきりとした解決が必要です。


もし、私たちのうちに罪があるならば、その罪に対して下されている判断は明瞭です。その罪は即座に捨てられなければなりません。また、私たちは悔い改めない信者から離れなければなりません。しかし、信者一人一人がただ主の栄光だけを望んでいるならば、一人一人の意見のくいちがいは大きな問題とはなりません。確かに、ローマの集会でもこのようなことはそんなに大きな問題とはなりませんでした。パウロは7節で、「私たちの中でだれ一人として、自分のために生きている者はなく、」と言っています。これは、パウロの勧めではなく、事実です。


このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6・11)


信者はキリストの血潮によって贖われ、買い取られたのです。彼らは神の子とされました。主イエスのものとされたのです。主イエスは彼らを解放し、新しいいのちに歩むための力をお与えになりました。


また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第二コリント5・15)


あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6・19~20)


主が信者のすべてを支配しておられるなら、そのことは必然的に外に現れてきます。また8節には、もし死ぬのなら主のために死ぬのです、とさえ書かれています。死は例外なく訪れてくるものですが、信者はそれに対してももはや恐れをいだく必要はありません。死は信者にとってはむしろ益である、と聖書は語っています。死によって、信者は主のみもとに行くことができるからです。主のみもとに行くことは、主によって完全に満たされ、主の栄光を自分のものとすることができるということです。


私たちの主は、主イエスですから、主の肢体である私たちが互いをさばきあうことがあってはならないと、パウロは言っているのです。しかし、現実には信者の心の中には冷たい思いが潜んでいることがあります。だからこそ、主による完全な支配が必要なのです。もし、私たちが主の御光に照らされて、自分自身の心の状態をはっきりと見つめるなら、私たちはほかの信者をさばくようなことはできないということを知ります。主イエスはほかの人をさばいたり、軽蔑したりする信者を偽善者と呼んでおられます。


さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7・1~2、5)


信仰によって主イエスを受け入れた人には、もはや未信者のようにさばきにあったり、滅びたりすることがありません。しかし信者は、時が至れば主の栄光を現わしたかどうか、また、主によって実を結んだかどうかについて、主の前で弁明しなければなりません。パウロは信者に対して次のように祈りました。最後に、それを読んで終りにしたいと思います。


私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、キリスト・イエスによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(ピリピ1・9~11)


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