第Ⅴ部 神と人とを愛せよ

28.信者の公的生活(2)

ローマ人への手紙

13章8節から14節まで


Ⅰ.信者の社会生活

1.借りてはならない

2.互いに愛し合いなさい

Ⅱ.信者が社会生活を営む上での心構え

1.眠りからさめなさい

2.闇のわざを捨てなさい

3.光の武具を着けなさい


13章の主題は、信者と公的生活についてです。前回私たちは、13章の1~7節までを学びました。この部分の主題は、信者の政治権力に対する態度でした。これに続く部分について、私たちは13章の後半、すなわち8~14節までを、二つのポイントに分けて考えてみたいと思います。


8~10節までは、信者の社会生活についてであり、11~14節までは、信者が社会生活をおくる上での心構えについてです。


簡単に要約しますと、新たな義、すなわち神から与えられた義は、自らその人の表に現れてくるようになるということです。主イエスは私たちにただ新しいいのちを与えられただけではなく、そのいのちが具体的な形として人の表面に現れてくるようにと願っておられます。まず、本日の御言葉をお読みしましょう。


(8)だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。(9)「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなたのように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。(10)愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(11)あなたがたは、今がどのようなときか知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。(12)夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(13)遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。(14)主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(ローマ13・8~14)


Ⅰ.信者の社会生活


私たちが社会生活を行うために、つまり、人々と協力して社会生活を営むために、聖書は二つのすすめをしています。それは、8節に書かれているように、誰に対しても何の借りもあってはいけないこと、そして、互いに愛し合いなさい、ということです。ほかの人に対して、借りを持たないということは、私たちが祝福のうちに共同生活を営むために必要な条件です。今日の時代に特徴的なことの一つに、人々が互いに借りをつくりあうということがあります。借りをつくることはキリスト者にとってはあまりよいこととはいえないでしょう。


私たちの信じている天の父は、すべての物を支配しておられ、私たちはその父によって必要な物をことごとく与えられるのです。ですから、人間に対して借りをつくるということは、決してよい証しにはなりません。主は再びこの地上に、私たち信者を天に引き上げるために来られますが、その日、その時はいつか分からないと聖書に書いてあります。私たちは、いつ主が来られてもよいように備えをしていなければなりません。そのためには、他人に借りがあるということはふさわしくないことでしょう。聖書は信者に、いついかなる時にも福音にふさわしく歩むようにと教えているからです。


続いて、第二の命令は、互いに愛し合いなさいということです。これは、聖書が私たちに語っている対人関係の上でのすすめです。愛するものは、隣人に対して害を与えません。神の意志はモーセの十戒に現されていますが、それら全体を統一する基盤が愛なのです。神の愛のあるとき、律法は成就されます。


私たちは、神から愛されるには足りない者ですが、それでも、主はそのような私たちに対していのちを捨ててくださいました。主が、私たちを先に愛してくださったから、私たちは互いに愛し合います。これは私たちの義務であり、主が私たちのためにいのちを捨ててくださったことに対して、私たち信者が持っている責任です。


ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5・1~2)


子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3・18、16)


愛は、自らを捧げて隣人に対して益を図ることです。本当の愛は、他人の喜びを喜びとし、他人が幸せになるのを見て満足することです。たとえば他人の幸せな結婚生活を見て、それを心から祝福する気持ちになり、決してその結婚生活を故意に乱したりねたむ思いをもったりすることのないことです。本当の愛は、ほかの人々のいのちを心から尊重します。他人を傷つけたり、ましてや殺そうなどという思いを持つことはありません。また他人の持ち物に対して尊重の念を持ち、ねたむことはありません。本当の愛は、決してほかの人々をうらやんだり、何かをせしめようなどという思いを抱くことはありません。


本当の愛とは、このようなものであり、もしこのような愛を持った人々が構成する国家があるとしたら、その国にはもはや犯罪も起ることがなく、自己中心の行為もない地上の天国であるといえましょう。主が再び来られるまでは、残念ながらこのようなことは起こりえません。しかし、一つ一つの集会はこの世の中にあって、この地上の天国となりうる可能性を持っているのです。この真実の愛は、キリスト者の持つ特権であるのみならず、キリスト者の義務でもあります。このような愛は、生まれながらの人間には備わっていません。この世の人々の大部分の行いは、この真実の愛とは反対のものであり、ねたみや憎しみによるものであることが多いのです。


私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。(テトス3・3)


人間は、新しく生まれ変わることによって神の愛を体験すると同時に、その愛を自分のものとするようになります。


ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

この希望は失望に終ることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5・1~2、5)


神の命令は、自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ、です。神の愛を獲得した人は、もはや他人を憎むことができません。そのような人は、言葉によると行いによるとを問わず、隣人に対して危害をくわえたり、いのちをそこなったりすることはできません。またこのような人は姦淫や、盗み、むさぼりの念を持つことがありません。


真の愛は、自分を他人から孤立させておくことはできません。なぜなら、愛は必ずほかの人に語りかけていく性質のものだからです。この神の愛が、私たちの行いや言葉の源とならなければなりません。この愛が、人生のあらゆる場面において主導権を持つようにならなければなりません。9節に書かれている神の命令は、私たちが自分の持ち場を踏み越えて、他人の領域に踏み入ることがないように、という神の禁止条項です。ここでは、人間の愛が書かれているのではなく、神の愛について述べられているのです。神の愛が、具体的な現れをとったのは、主イエスにおいてです。キリスト者が、主イエスによってより強く支配されればされるほど、キリスト者も主イエスの愛を強く反映する者となります。


主イエスによって愛されている者は、ほかの人々をも愛することができるようになります。


Ⅱ.信者が社会生活を行う上での心構え


信者が新生を体験すると、真の生きた望みを持つようになります。信者が将来において天に引き上げられることは、信者の希望です。


主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合なさい。(第一テサロニケ4.16~18)


主がまもなく来られるということこそ、キリスト者の生きた希望であり、信者の思いのすべてとならなければなりません。私たちが、ただ頭でこのことを理解し、信じようとしているということと、実際に私たちが日々主を待ち望む生活をおくっているということには大変な相違があります。ですから、パウロは私たち信者に対して三つのすすめを書きおくったのです。


1.眠りからさめなさい

2.闇のわざを捨てなさい

3.光の武具を着けなさい


この三つの点について簡単に考えてみましょう。まずパウロは、眠りからさめるべき時刻がもうきている、と言っています。彼の生涯はまさに一日一日が主を待ち望む生活でした。ですからパウロは、ローマの信者たちにしっかり目を覚ますようにと書きおくったのです。彼は自分がどのような時代に生活しているかをはっきりと認識していました。パウロは自分の生きている時代を永遠の光に照らして見ていたのです。


そのとき、御霊が補佐官の長アマサイを捕らえた。

「ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。」

イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。(第一歴代誌12・18、32)


かつてダビデは、誤解された結果荒野に追放されましたが、その時、「時を悟った」人々はダビデとともに荒野で過ごすために家庭を捨て、仕事を捨ててダビデに従って行きました。彼らは、ダビデが王として召されたにもかかわらず捨てられたのを見て、「時が迫っている」ことを知ったのです。この人々は、ダビデとともに迫害を忍んだ人々でした。彼らは、その時こそダビデの側に立つべきであるということを知っていたのです。


今日という時もまた、私たちが霊的な眠りをむさぼっていてよい時ではありません。私たちははっきりと主イエスの側に立たなければなりません。皆が眠り込んでしまっているようなときには、うっかりすると、自分も眠りに連れ込まれてしまう危険性があります。このような危険性から逃れるためには、私たちはどういう心がけが必要でしょうか。それは、主イエスに目を留めながら生活するということです。模範的な信者であるエペソのキリスト者たちに対して、パウロは目を覚ましなさいと勧めたのでした。


明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(エペソ5・14)


またヨハネは次のように警告しています。


小さい者たちよ。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。(第一ヨハネ2・14)


聖書は、何が近づいているか、について三つのことを述べています。


1.時が近づいています。


夜はふけて、昼が近づきました。(ローマ13・12)


この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示録1・3)


「この書の預言の言葉を封じてはいけない。時が近づいているからである。」(黙示録22・10)


2.主の来られる時が近づいています。


主は近いのです。(ピリピ4・5)


あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。(ヤコブ5・8)


3.全ての終わりの時が近づいています。


万物の終わりが近づきました。(第一ペテロ4・7)


時が近づいており、主の来られるのが近づいており、そして、万物の終わりが近づいています。ですから、パウロは、闇のわざを打ち捨てて光の武具をつけようではないかとすすめているのです。人が闇から離れようとするならば、そこには必ず戦いが起こります。私たちは主イエスの力によってのみ、この戦いに勝利をおさめることができます。私たちが誤解してはならないのは、パウロは「あなたがたは、これから光の子どもになりなさい。」といっているのではないということです。そうではなく、「あなたがたは、もうすでに光の子とされたので、光の武具で勝利を得なさい。」と言っているのです。


「夜はふけた。」とパウロは語っています。夜とは、不信仰のことです。神と神の御言葉に対する反抗のことであり、また風俗や道徳が退廃することを指しています。13節には正しくない生活が具体的に挙げられていますが、これは、信者に対して語られていることに注意してください。それはつまり、信者といえどもこの様な生活、すなわち、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活を送る可能性があるということです。


闇のわざとは、次のようなものを指しています。ねたみ、金銭欲、高慢、自己中心、嘘をつくこと、汚れ、愛のないこと、この世との妥協、責任感のない生活などです。


光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。(ヨハネ3・19)


なぜ、このような人々は光よりも闇のほうを愛したのでしょうか。彼らは、光に来て、悔い改めることを望まなかったからです。罪から解放されようと望む人は、光のもとに来て、自分の罪を告白しなければなりません。


自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(箴言28・13)


闇のわざとは、ちょうど麻酔薬のようなものです。闇のわざによって、信者は罪に対して無感覚になり、霊的に眠らされてしまうからです。このような信者は、目覚めて祈っている者であるとは決して言えません。ですからパウロは、あなたがたは眠りからさめるべき時刻がもう来ている、と言っているのです。これは、光と闇との激烈な戦いにほかなりません。主イエスの側に立とうと望む者は、みな闇のわざの力をその身に被らなければなりません。


私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6・12)


私たちは、罪に対して断固とした態度を取るべきです。私たちの心のうちに、主イエスの支配する領域が広がれば広がるほど、主の来たりたまう時はそれだけ近くなるのです。霊的に半分眠っている状態の人々には、ほかの人を導きたいという思いも責任も起りえません。私たちの人生は、主イエスに一刻も早くお会いしたいという思いにみたされ、私たちが自らを捨てて主に仕えていきたいという思いにみたされたものでなければなりません。私たちの希望について、パウロは次のように語っています。


けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3・20~21)


パウロは私たちに対して、あなたがたは世の光であり、地の塩であるから、あなたがたの思いとその目標は主イエスでなければならないと語っています。たとえほんのわずかな妥協であってもこの世と妥協することは、このパウロのすすめを実行することの障害になります。


しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6・14)


パウロはさらにことばを続けて、14節に「主イエス・キリストを着なさい。」と書き記しています。このことは、主イエスに似たものとなりなさい、ということです。常に主イエスと交わりを保っているならば、その人は、主イエスによって満たされます。パウロは私たちに対して、自分を主イエスの内側に隠しなさいとすすめています。このことは、こうして主イエスの愛が私たちのうちに現れるためにほかなりません。


主イエス・キリストを着なさい。


人が何かを着たならまわりの人々はその着物をよく見ることができるでしょう。主イエスを私たちが着るとは、私たち自身が隠されて主が外に現れてくださるということです。肝心なことは、主イエスが人々に見られ、主イエスが輝いてくださることです。


私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3・18)


もっとも大切なことは、私たちの言葉を通して、また行いや生活態度を通して、主イエスが現されるようになるということです。これこそが真の証しです。


主イエスを着なさい。


このことは、主との絶えざる交わり、聖霊との一致、主に対する完全な信頼を意味しています。主イエスと交わる人は、主イエスの思いを持つようになり、主イエスを着た人は、肉の欲のために自分を用いることなどできなくなります。私たちの肉体は、いろいろと健康に留意したりする必要がありますが、それだけでは不十分です。甘やかさないで訓練を重ねることも必要なことです。


私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(第一コリント9・27)


私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤ5・16)


自分の肉体に対して、中途半端で曖昧な態度を取った結果、だめになってしまったキリスト者は多くいます。ですから、自分自身を完全に主に捧げるということがどうしても大切になります。次の御言葉を思いだしてください。


そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12・1)


私たちの肉体は、主の聖なる道具となるか、あるいは際限のない欲望を追い求め続けて行くものとなるかのどちらかなのです。ですから、パウロは、自らを訓練して肉の欲のために心を用いてはならないと語っているのです。


主の来られる時は非常に近づいています。


あなたはあなたの神に会う備えをせよ。(アモス4・12)


私たちには、やがて来られる主を心から喜んで迎えることができる備えがあるでしょうか。私たちが目を覚まして、闇のわざを捨て、光の武具を着けているならば本当に幸いなことです。


神の愛 前の章 次の章 町田・土曜学び会