第Ⅴ部 神と人とを愛せよ
ローマ人への手紙
13章1節から7節まで
政治権力に対する態度
Ⅰ.権威とは何か
1.神によって立てられた者
2.神の定め
3.神のしもべ
Ⅱ.権威の使命は何か
1.善をほめる
2.悪を罰する
Ⅲ.この権威に対して取るべき態度
1.信者は神を認めない権力にも従うべきか
2.信者はどんな点でも従わなければならないのか
さてこれから、ローマ人への手紙13章に入りたいと思います。12章で学んだように、この13章にも多くの勧めが出てきます。これらの勧めは、前にも述べたように、すでに救いを受けた信者のためのものであって、未信者のためのものではありません。これらの勧めの根底あるのは神から与えられた新しい生活です。12章から15章までの表題は、私たちを通して現われるキリスト、とすることができます。つまり、新しくされた人生は現実に反映されなければならないということです。私たちの生活のどんな些細な部分でも、私たちの生まれながらの性質によって支配されることがあってはならないのです。
12章のテーマは、信者と集会の関係でした。13章のテーマは、信者の公的生活です。
さらに、この13章を三つの部分に分けて考えることができます。まず、1~7節までは、政治権力に対する態度についてです。次に、8~10節までは、信者の社会生活についてです。最後に、11~14節までは、社会生活における心構えについてです。
これらの政治、また社会生活は、信者にとって重要な生活の場です。そしてこれらのいずれの場においても、信者は新しくされた生活の証しを立てなければなりません。主イエスを受け入れることによって、だれでも主イエスの義を自分自身のものとすることができます。そして、この主イエスの義は、信者の日常の生活を通して外に現われなければなりません。
この7節までの部分は、特に権威に対して信者が取るべき態度を記しています。この部分に書かれていることを一言で要約するなら、キリスト者は権威に対して従順と謙遜をもって従わなければならないということです。
(1)人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(2)したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。(3)支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。(4)それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。(5)ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。(6)同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。(7)あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。(ローマ13・1~7)
ここで私たちは三つの質問を通してこの箇所について考えていくことにしましょう。
Ⅰ.権威ある者とは何か
Ⅱ.権威ある者の使命は何か
Ⅲ.この権威に対してどのような態度を取るべきか
この質問に対して、聖書は三つの答えを用意しています。
1節によれば、権威とは神によって立てられたものです。また、2節によれば、権威は神の定めです。そして4節によれば、権威は神のしもべです。
神はノアに次のように言われました。
人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。(創世記9・6)
このとき以来権威ある者は、神によって剣を帯び、悪を行なうものに対して怒りをもって報いる者と定められたのです。このように、権威ある力は実は神から与えられたものであり、権威ある者が権力を行使することは神がお許しになったことなのです。権威が神のしもべであるということは、すなわち、権威の背後には神が立っておられると言うことを意味しています。ですから、私たちが権威を単なる人間の力と見ることは間違っています。彼らを立たせられている神に目を留めなければなりません。
パウロがこの13章で問題にしているのは一人一人の権力者ではなく、権威そのもの、すなわち、神が人間の社会に与えられた秩序です。そして、権威、すなわち秩序を与える力は、神の定めであるということが再三強調されています。ですから、私たちは政治的な権威に対しても、国家権力に対しても従わなければなりません。この権威がなければ、私たちの社会は無政府状態になります。そうなれば一人一人の人間は勝手気ままなことを始めるでしょう。私たちは以前群馬県で起こった悲しむべき連合赤軍の事件を覚えていますが、もし社会が無政府状態になればこのような事件は日常茶飯事となってしまうでしょう。パウロは権威の原理を取り上げているのであって、権威の具体的な現われ、たとえば民主主義、共和主義、独裁主義、社会主義などといった個々の政治形態の優劣を論じているわけではありません。また、歴史上の具体的な政治家一人一人がどうであったかということでもありません。パウロがここで強調しているのは、支配者と民衆、あるいは政治的指導者と国民のあり方について神がどのようにお定めになったかです。この意味において、権威は神から与えられたものなのです。そして、その目的は秩序を守り、人々を保護することです。子どもたちが両親に従うべきであり、妻が夫に従うことが神のみこころであるように、人々は国家権力に従うべきなのです。
第二番目の質問は、権威の使命は何かということでした。しもべはだれでもある特定の任務を持っています。神のしもべである政治権力もまた特別の神から与えられた使命を持っています。このことについてパウロは二つのことを述べています。
権威の使命は、第一に善を行なう者を誉めることであり、第二に、悪を行なう者を恐れさせることです。権威は、悪に対して堤防とならなければなりません。堤防のように悪の流れをせき止め、それらが全地を浸すのを妨げなければなりません。政府はどのようなものであれ、悪を行なう者に対して彼らが大きな恐れを持つように、懲らしめをもって報いなければなりません。また一方で、今日の世界のもっとも顕著な特徴は、あらゆる権力に対して反抗しようとすることです。また、権力に対して軽悔の念を持つ傾向が蔓延しています。それはテロリズムのような形でも現われてきています。
神は権力に剣を帯びさせることによって悪を行なう者に報いようとしています。こうして秩序を守ろうとしておられるのです。剣とは悪を行なう者を罰する権利のことです。
わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったか(創世記9・5~6)
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26・52)
とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺すものは、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。(黙示録13・10)
権威は神のしもべとしてことを行います。そして神のみが権威者にその責任を問うことができます。もっとも理想的な法律は十戒の上に立てられたものでしょう。法律が制定される目的は、人々をある一定の秩序の中に入れ、その秩序を守らせることです。それゆえ、法律は常に罰則をともないます。法律を守らない人は必ず処罰を受けることになります。権力を行使することによって、秩序を維持することができます。
もちろん、国家権力の使命と、主イエスの体なる教会の使命とは異っています。集会の使命は福音を宣べ伝え、罪人を神に立ち返らせ、信者を霊的に成長させ、あらゆることがらを通して、主イエスに栄光を帰すことです。集会はすべての人々に仕えるものであり、もっともひどい犯罪人にも愛を示すものでなければなりません。どのようなひどい不正に対しても忍耐を持たなければなりませんし、どのような状況に追い詰められても、みずから手を下して復讐することは許されません。これとは反対に、国家権力のなすべき使命は、犯罪人を捕え、不正を裁き、悪人にその報いをすることです。このように、懲らしめの任務によって権威は神の道具として用いられています。
私たちはいままでこの世に存在する権威が、その善し悪しにかかわらず、神によって立てられたものであることを見てきました。そして、神がそれらの権威を与えられたのは、社会の秩序を守り、広がる悪に対する堤防となるためであることも学んできました。そこで、三番目の問いは、私たちはこの権威に対してどのような態度を取るべきか、ということです。1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」と書かれています。自ら進んで権威に従うことは、神が信者に求めておられることです。ですから、神に従うことを望んでいる人は、神のしもべである権威にも従います。未信者は罰を恐れて権威に従います。それは、新しく生まれることを体験していない生まれながらの性質を持った人は、決して自分を従わせることを望まないからです。しかし、信者は自分の良心によって、自ら進んで権威に従います。これは新しく生まれたことの証しです。
パウロは権威に従う具体的な行動について、6~7節で税を納めることについて述べています。神のしもべである国家に税を納めなくてもよい、などと聖書には決して書かれていません。神のしもべに払わないことは、神ご自身に対して捧げないことになります。権威に対して反抗することは、神に対して反抗することにほかなりません。私たちは権威に対して従順に従うことを義務づけられています。権威は税を集める権利を持っています。これは聖書にはっきりと書かれています。神の御言葉に完全に従う人は、神によって祝福を受けます。税金に関して自分でいろいろと考え巡らすことは、ときに危険なことです。私たちは子どものように従順に御言葉に従って、神から祝福を受けたいものです。ある人々は次のように考えるかもしれません。政府は税金を集めてその一部分を無駄使いしたり、官僚たちの私腹を肥すために用いたりするかもしれません。あるいは不必要と思われる軍備の拡張に用いるかもしれません。もしそのように使われるくらいなら、私は税金を納めずにむしろそのお金を貧しい人々に施したい・・・・けれどもこのような考えは、あまり聖書的ではありません。このことはたしかに一理あるように見えますが、聖書はそのようには勧めていないのです。
それでは、さらに質問を進めて、神を否定するような政府にも私たちは従うべきなのか、という問いについて考えてみましょう。
パウロは、ネロの時代のローマ帝国の支配のもとに苦しんでいたイスラエルに生活していました。そしてパウロはこれらの多くの勧めをローマに住んでいる信者に対して書き記しました。彼はローマ帝国によってなんと多くの苦しみを味わわされたことでしょうか。何年間もの間捕われの身になり、その上結局殺されてしまったのです。ところが、彼はこのローマの政治権力に対して反抗したのではなく、かえって従ったのです。私たちは神のゆえに権威に対して従わなければなりません。神はすべての権威の上に座しておられるからです。神は諸々の権威を越えた権威であり、至上の権威です。神はすべての権威の根源なのです。
わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を制定する。わたしによって、支配者たちは支配する。高貴な人たちはすべて正義のさばきつかさ。(箴言8・15~16)
王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカドネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。神が彼に賜わった偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。(ダニエル5・18~21)
権威に対する反抗はどのようなものであれ罪です。
わが子よ。主と王とを恐れよ。そむく者たちと交わってはならない。(箴言24・21)
ローマ帝国の皇帝ネロは、何千人とも知れぬ信者たちを苦しめ、彼らの首を斬り、火あぶりの刑に処し、猛獣の餌食にしました。ところがパウロはこのような極悪非道の政治権力であっても、神のしもべであることを認めたのです。たとえどんなに納得のいかない支配者であっても、それは無政府状態の混乱よりはましと言えるでしょう。パウロは当時のローマ帝国の政府を認め、尊敬を持っていました。ですから制定された法律に対して従順に従うべきであると記しています。人間はその心の欲するままを無制限に行うことを許されていません。私たちは一人でこの世に生きているのではなく、ほかの人々と共に社会生活を営んでいます。そこには秩序が必要です。法律は社会における共同生活に秩序を与えるものです。信者は自分が属している権威に対して心から進んで従わなければなりません。もちろん、権力によって不当な取扱いを受けているときに、法律で定められた方法によって、自分に与えられている権利を主張し守ることは、権威に対する反抗ではなく、むしろ権威を認め、それに従うことを意味しています。
彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。」
このため、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。また千人隊長も、パウロがローマ市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れた。(使徒22・25、23)
最後に私たちにとって大切な一つの問いについて考えてみましょう。
信者は、どのようなことでも権威に従わなければならないのでしょうか。権威の命ずることが神の御言葉に反する場合、あるいは、自分の良心に反するような場合、私たちは一体どのような態度を取るべきでしょうか。言うまでもなく、信者は神だけに従うべきであり、たとえ神に従うことによって殉教の死を遂げることがあっても、その道を歩まなければなりません。
そこで(民の指導者たちは)彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4.18~20)
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5・29)
キリスト者は決して革命家ではありません。信者は自分の属する国の中で忠実な市民としてその義務を行い、国家の命令が己の良心にもとらないかぎり、国家権力に対しても従順に従わなければなりません。私たちの良心にもとることとは、私たちが神の証し人であることを妨げ、私たちが世の光、地の塩であることを妨げるようなことです。パウロは当時の社会の政治的、社会的な秩序を無くしたり革命を起こしたりすることは考えていませんでした。
奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。(第一コリント7・21、23)
さらにパウロは上に立つものに対して祈ることをはっきり勧めています。
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。(第一テモテ2・1~2)
権威のために祈ることは、私たちがそれらに従順に従い、尊敬することを可能にします。もし私たちがどうしても自分の良心に照らして、従うことが難しいような場合でも、信仰による不従順ゆえの罰を潔く受けることは、広い意味で権力を認めそれに従うという態度を現わします。そのときには罰を受けるという心構えがなければなりません。
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。(第一ペテロ2・13~14、19)
あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。(テトス3・1)
パウロやペテロがこのように語っているとき、彼らは支配者や権威者たちが、良い者であるか悪い者であるか、また信者であるかどうかも問題にしていません。そうではなく、すべての権威は、たとえそれがどのようなものであっても、秩序を与えるものであると語っています。
先にもお話しましたように、現代社会では、多くの人が上に立つ者に対して反抗しようとしています。若者は年長者に対して反抗し、学生は教授に対して、社員は上役に対して反抗するというのが現代の世相です。神は王を立てて権力をお与えになり、同様に教師や、両親にも必要な権威をお与えになりました。
民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。(イザヤ3・5)
おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。(レビ記19・3、32)
パウロの時代に、ローマの皇帝ネロは、神から与えられた自分の権威を間違って用いました。それにもかかわらずパウロはその権威を無視しませんでした。と言うのは、ネロは暴君であったけれども神によって剣を帯びたものだったからです。従順を通して秩序を維持し、そのことによって神に栄光を帰すことができます。それは神が秩序の神だからです。
前回私たちは、私たちの行動が道徳や規範によって強制されたものではなく、私たちの内に住んでおられる主イエスの現われとなるべきであるということを学びました。物事を行う動機は愛でなければなりません。私たちが権力に従うのは、主イエスに対する愛のゆえにほかなりません。私たちが主イエスを愛するのは、主イエスが先に私たちを愛してくださったからです。主イエスは、「わたしを愛するものはわたしの命令を守ります。」と言われました。主イエスはかつてペテロに向かって、「あなたはわたしを愛するか。」とお尋ねになりました。そして、同じ質問を私たちにもしておられます。あなたは主を愛しますか。
私たちの答えは私たちの実際の行動によって示されるでしょう。