第Ⅴ部 神と人とを愛せよ
ローマ人への手紙
12章9節から21節まで
Ⅰ.いつわりのない愛――信者に対して(9~16節)
1.真の愛は悪を憎みます
2.兄弟に対する尊敬
3.日々の勤勉
4.患難にある喜び
a.将来を見つめることの必要性
b.主を見上げることの必要性
c.聖徒に目を向けることの必要性
5.自分を虚しくすること
a.祝福すること
b.共に喜ぶこと
c.共に泣くこと
6.一つ心となること
a.高ぶらない
b.身分の低い者を大切にする
c.自分を知者と思わない
Ⅱ.平和を図ること―未信者に対して(77~21節)
1.悪を持って悪に報いてはならない
2.復讐してはならない
3.敵の頭に炭火を積みなさい
ローマ人への手紙12章全体の主題は、キリスト者と真の教会との関係です。いいかえれば、真の教会における聖霊の実と言えましょう。そして、この12章は、いままで見てきましたように三つの部分に分けて考えることができます。
第一の部分は、1~2節です。ここでは信者の立つべき基盤について述べています。すなわち、徹底的な献身についてです。献身とは、自分自身をすべて神に捧げることによってのみ、自分が聖い者とされるということです。パウロは自分自身を神に捧げることを願っていました。献身は、聖霊が信者の心の中に住んでくださることによってはじめて可能になります。
真の礼拝とは、徹底的な献身です。捧げるという聖書の言葉のもともとの意味は「近づく」という言葉でした。神に近づきたいと思う人、神についてさらによく知りたいと思う人は、自分自身を神に捧げなければなりません。主なる神は、人間の体とも交わりを持ち、ご自身のご栄光のためにお用いになりたく思っています。私たちの日々の生活の、朝起きてから夜寝るまでのすべてを神は支配なさりたいのです。
主イエスのご生涯こそ、この徹底的な献身の模範でした。
ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしい香りをおささげになりました。(エペソ5・1~2)
パウロも、徹底的な献身の模範でした。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1・21)
私たちはどうでしょうか。
私たちの肉体を構成している物質は、それ自体善でも悪でもありません。ところが、肉体は神の道具ともなれば、また悪魔の道具ともなります。ローマ人への手紙6章において、私たちは自分たちの肢体が不義の器か、義の器かのどちらかであることを学びました。旧約聖書における供え物とは、動物でした。しかし、動物は自分の意志に従っていけにえとして捧げられたのではありません。人間の罪を贖うため、強制的にいけにえとして捧げられたのでした。しかし、私たちは自分自身を自らの意志によって進んでいけにえとして捧げなければなりません。もちろん、私たちの捧げものは自分たちの罪の赦しのためではありません。私たちの罪のためには主イエスご自身がいけにえとなってくださったからです。そうではなく、私たちはもうすでに自分が主によって贖われたからこそ、自らを生きた供え物として捧げるのです。このような徹底的な献身こそ、主の喜ばれる生活です。この献身がなければ信者の生活はすべて徒労に終ってしまいます。
2節にはこの世について書かれています。「この世」とは、神を認めずに生きる人々をさしています。私たちが神によって新しくされたのなら、私たちの世に対する関係は、今までとはまったく違ったものにならなければなりません。私たちの考え、思い、感情、好み、意志、これらのものは聖霊の支配のもとに置かれなければなりません。この結果こそ、私たちが神のみこころは何かをわきまえ知るために欠くことのできないものです。
神のみこころは、神に対して自分自身を徹底的に捧げ、この世と妥協することのない人にのみ明らかにされます。ですから、主なる神のみこころを知るための必要条件は、徹底的な献身です。この献身なしに、本当の意味で主イエスに従うことはできません。
さらに、私たちは第二の部分である3~8節までを振り返ってみましょう。この箇所の主題は真の交わりでした。聖霊の導きにしたがうことによって、信者は自分自身が何であるかということを正しく知ることができます。
自信を失って、自分は役に立たないと思っている信者を神はお用いになることができません。また、それと同様に思い上がって、自分はなんでもできると思っている信者も神はお用いになることができません。ですから、自分自身を正しく認識することがどうしても必要です。私たちは信仰が進むにしたがって、自分を大切にする気持ちが少なくなり、主イエスを大切にする気持ちが大きくなってきます。このようにして私たちは自分を正しく認識することを学んでゆくのです。聖霊の賜物は、ある特定の個人に属するのではなく、集会全体に役立てられなければなりません。この賜物を用いることはひとりひとりの信者に託された責任です。一つ一つの肢体はほかの肢体に仕えるために存在しているからです。
さて、私たちがこれから学ぼうとしている第三の部分である9節からは、12章の中心的なことが書かれています。パウロはこれまでは謙遜の重要性について語ってきましたが、ここからは愛について特に強調して語っています。真の交わりの必要条件は謙遜でした。そして、これから学ぶ生きた教会の必要条件は、愛です。
9節からのパウロの勧めは信者に対して語られたもので、未信者のための道徳ではありません。新約聖書では、私たちが自分の力で遂行することのできる道徳についてではなく、聖霊によって新しくされた新しい生活について書かれています。どのような宗教にも、道徳律が存在します。つまりそれは、人間の中に少しでも残っている良いものが成長してくるようになることを願っているからです。道徳とは、人間のあるべき理想的な状態を示しているものです。しかし、人間の努力は皆みじめな結果に終ってしまいます。聖書はこれとはまったく違ったことを私たちに示しています。聖書によれば、人間の中には何一つとして良いものがないために、神は人間を退けられ、キリストと共に十字架につけられたのです。自分自身に破産し、主イエスによって新しい命を体験した人は、この新しい人生を歩むことができます。神は、私たちに不可能なことを要求なさることはありません。
9~21節の主題は、信仰生活において信者がお互いにすべきこと、また未信者に対して取るべき態度についてです。それではまず、この箇所を読んでみましょう。
(9)愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。(10)兄弟愛を持って心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(11)勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(12)望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。(13)聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。(14)あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。(15)喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(16)互いに一つ心となり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。(17)だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。(18)あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(19)愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐は私のすることである。私が報いをする、と主は言われる。」(20)もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。(21)悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ2・9~21)
私たちはさらにこの部分を二つに分けて考えることができます。9~16節までは、信者に対する態度の勧め。17~21節までは、未信者に対して取るべき態度の勧め。
しかし、この二つのどちらにも共通して勧められていることは、いつわりのない愛です。そしてこの偽りのない愛の現われとして、6項目に要約されるさまざまな勧めが語られています。これからそのひとつひとつについて考えてみたいと思いますが、ここで語られている愛とは、もちろん人間的な愛についてではなく、神の愛、すなわち主イエスの愛であることに注意してください。
1.真の愛は悪を憎みます
神のみこころに従わず、隣人の心におもねる人は、真の愛を行っているとはいえません。未信者は根本的に自分自身のことを中心に考え、自分の利益を求めています。世の中には、大変礼儀正しい人がいますが、そのような人々も必ずしも真実の愛を行っているとはいえません。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3・18)
真の愛は罪を憎みます。
ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。(イザヤ5・20)
主なる神はいかなる罪をも嫌われます。ですから、私たちもあらゆる罪を嫌い憎まなければなりません。私たちは罪に対してはっきりした態度を取らなければなりません。多くの信者の場合、罪に対する態度のうち四分の三ぐらいは、まあどうでもいいのではないか、という気持ちのようです。しかし、例えばダビデは罪に対してはっきりとした態度を取りました。
主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。(詩篇139・21~22)
真の愛は悪を憎みます。あなたはどうでしょうか。
2.兄弟に対する尊敬
信者はみな主イエスに属しています。主イエスは一人一人のためを思っておられ、一人一人を愛しておられます。主イエスが一人一人をこのように大切に扱っておられるのですから、私たちも尊敬を持ってたがいに仕え合うべきです。兄弟たちもやはり私たちと同じように主イエスが愛してくださっているのですから、尊敬し合うべきで、劣っているところがあるからといって決して軽蔑するなどということがあってはなりません。
私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛していないものは、死のうちにとどまっているのです。(第一ヨハネ3・14)
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3・12~14)
地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。(詩篇16・3)
私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。(詩篇119・68)
3.日々の勤勉
真の愛は熱心に主に仕えることを目標とします。怠惰や安逸をむさぼることが入り込む余地はありません。確かに神の愛は熱心さを伴います。私たちの行いが、すべて主に対する愛に根ざしていることこそ信仰の結果です。
奴隷たちよ。あなたがたは、キリストにしたがうように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。(エペソ6.5~7)
使いにやる者にとって、なまけ者は、歯に酢、目に煙のようなものだ。(箴言10・26)
自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である。(箴言18・9)
なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈入れ時に食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言6.6~11)
あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(第二テサロニケ3・7~12)
私たちは、日々の仕事に対して勤勉であるべきです。けれどもここに一つの危険性があります。それは、私たちが地上の仕事の奴隷になってしまう危険です。私たちは熱心で勤勉に与えられた仕事を全うしなければなりませんが、私たちの心は常に主に対して燃やされていなければなりません。私たちが仕えているのは会社の社長でも、学校の校長先生でもありません。主ご自身に仕えているのです。このような奉仕の土台はやはり、12章1節に述べられていたように、私たちの徹底的な献身です。私たちは主に対して徹底的に献身するべきなのであって、決して会社や学校に対してではありません。
4.患難にある喜び
私たちの心に神の愛が注がれているなら、どのような患難にあっても失われることのない喜びが与えられます。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5・5)
この喜びは、私たちが現在おかれている患難から目をそらし、来るべき将来の栄光に目を向けるとき与えられます。また、私たちの周囲の人間や境遇から目をそらし、主へと目を向けるときに与えられます。さらに、私たちが自分中心の願いから目をそらし、ほかの兄弟たちの入り用に対して心を用いるときに与えられます。この三つの点について詳しく考えてみましょう。
a.将来を見つめることの必要性
12節に「望みを抱いて喜び、」と書かれているように、私たちは新しく生まれることによって生ける望みを持つようになりました。その希望とは、主イエスご自身にほかなりません。ですから、私たちは喜びに満たされ、患難の中にあっても私たちに確固たる確信が与えられるのです。苦難や患難は私たちを弱めるためにあるのではなく、逆に強めるためにある訓練なのです。目に見えるものに目を留めるならば、私たちはきっと絶望し、追い詰められて八方ふさがりの状態になってしまうでしょう。しかし、そのときに私たちが未来を望み見ることができるならば、私たちには希望が与えられます。なぜなら患難は過ぎ行くものであり、主は近いからです。
主は近いのです。(ピリピ4・5)
b.主を見上げることの必要性
主に目を留めるとは祈ることにほかなりません。12節の続きには「絶えず祈りに励みなさい。」とあります。正しい導きと本当の力は上からのみ与えられます。私たちはすべてのことを祈りによって、主との交わりによってなすべきです。それ以外には何事も成し得ないからです。このようにすることによって、私たちの心は主に静められ、多くの問題は全く違って見えるようになるでしょう。
主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いとによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4・5~7)
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3・2)
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(詩篇50・15)
c.聖徒に目を向けることの必要性
私たちがここに書かれているパウロの勧めをただ表面的にだけ受け取るなら、一つ一つの勧めは互いに無関係のようにしか思われないでしょうが、実はそれぞれが緊密に関係し合っています。つまり、これらの勧めは、中心にある真の愛の現われなのです。私たちが将来を望み見るなら、それは主を見上げることになります。そして、主を見上げるならば、私たちは自分の問題にばかり捕らわれてしまうのではなく、聖徒の入り用を満たしたいという願いが起こされるようになります。兄弟の必要に心をつかうなら、私たちは自分のことを思い煩っている余裕がなくなります。このようにして自分を縛りつけている足かせから解放されることは大変重要です。
もちろん、このように聖徒の入り用に協力するということは、未信者に対して言われているのではありません。主を信頼することができる者のみが、将来に対して希望を持つことができ、そのときにだけ聖徒の必要を満たしたいという願いが湧き起ってくるからです。
集会の使命は、社会問題を考えることや福祉的な奉仕を行うことではありません。そうではなく、重荷を負っている兄弟たちに対して必要な助けを与えることです。ですから未信者は集会の援助を受けることができません。また、集会から援助を受けることのできる信者も限られた人々であるべきです。このことについてパウロはやもめの例を用いて説明しています。
やもめの中でも本当のやもめを敬いなさい。
やもめとして名簿に載せるのは、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良い業に務め励んだ人としなさい。(第一テモテ5・3、9~10)
パウロは、聖徒の欠乏を自分の欠乏だと思いなさい、自分のことだと考えて助けなさいと言っています。主なる神は私たちをほかの人々のために心を砕くことができるようにしてくださいます。初代教会はこの良い模範を示しています。彼らはすべての持ち物を共有し、乏しい人はいなかったと書かれています。私たちも自分の持ち物に対して正しい態度を取らなければなりません。私たちに与えられたものは、主に仕えるために用いるべきです。パウロは持ち物を共有することを命じてはいませんが、持ち物に対して次のような勧めをしています。
この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。(第一テモテ6・17~19)
私有財産を聖書は認めています。しかし問題は、私たちの持ち物に対する態度にあります。私たちが持ち物を所有しているのであり、持ち物が私たちを支配しているようであってはいけません。ですから、パウロは「旅人をもてなしなさい。」と言っています。もてなしは単に信者に対してのみではなく、未信者に対してもするようにと勧められています。「もてなしなさい」という言葉は原語によれば「追い求めなさい」とか「熱心に願い求めなさい」という意味の言葉が用いられているからです。
5.自分を虚しくすること
続く14節には「あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。」とあります。信者は未信者に対して憎しみの心を持ってはいけません。また信者は、だれもが未信者から憎まれたりいやがられたりすることを経験しています。憎むものに対して、信者が取るべき態度は祝福だと聖書は言っています。祝福とは他の人の益を図り、他の人の願うことをすることを意味しています。信者がこの地上に存在するのは、他の人々が主の祝福を受けるようになるためにほかなりません。救いと光、愛が信者によって明らかにされるべきです。私たちは私たちに向けられる憎しみ、ねたみ、反対に対してどのようにしたら良いのでしょうか。主イエスの取られた態度は次のようなものでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(第一ペテロ2・23)
私たちは福音書の中にしばしば「イエスは黙っておられた。」「イエスは何も言わなかった。」「イエスは何もお答えにならなかった。」という言葉が出てくるのを知っています。自分を虚しくすることは祝福する者となることです。そしてそれはともに喜び、共に泣く者となることです。もちろん、自分を虚しくすることは自分でできるようなことではありません。これは聖霊の実です。真の愛は自分自身を忘れさせるからです。共に喜ぶということの例は、次の箇所に書かれています。
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰ってきて、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言うでしょう。(ルカ15・4~6)
花嫁を迎えるものは花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。(ヨハネ3・29)
このように自分を虚しくした人間の代表は、バプテスマのヨハネでした。
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハネ3・30)
このような態度を取ることができるものだけが、本当の意味で人と共に喜ぶことができる人です。さらに、私たちは聖書の中に「共に泣く」と言うことの多くの例を見いだすことができます。
エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まってきて、民は激しく涙を流して泣いた。(エズラ10・1)
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。(ヨハネ11・33~36)
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。(ルカ19・41)
真の愛によって人は変えられ、自分を忘れて共に泣くようになります。
6.一つ心となること
真の愛のあるところでは、人々は互いに一つの心となることができます。一つの心になるとは、まったく同じことを考えるようになるということではありません。愛によってたがいに尊敬し合い、心が通い合う交わりのある集いになる、ということです。この点についてもまた、主イエスは私たちに模範を示されました。
こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。・・・・それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ2・1~5)
信者は互いに助け合い、同じ目的を目指し、主の栄光を望んで互いに励まし合わなければなりません。16節には、「身分の低い人に順応しなさい。」とありますが、これは貧しい人、賢くない人、小さい人々に心を合わせるということです。つまり、思い上がった考えや高慢を捨てて、信者同志が一つになることが大変重要なのです。
主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。(箴言16・5)
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4・6)
これらの御言葉は未信者に対してではなく、すでに救いを受けている信者に対して語られたものです。
よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富むものとし、神を愛するものに約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。(ヤコブ2・5)
自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(箴言3・7)
パウロも、「自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」と言っています。うぬぼれる者、砕かれていない者は、主がお用いになることができません。
自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(箴言26・12)
愛は自慢せず、高慢になりません。(第一コリント13・4)
今日の世界のもっとも一般的な特徴は、自分自身を「知者」と考えることです。このような考えを持つ人はやがて自分の本当の姿を知ったときに失望せざるを得ません。主イエスは、ご自分を知者であるとされたことは一度としてありませんでした。そうではなく、私は父のみこころを行っているだけである、と言われたのです。
私たちは与えられた神の愛を現わすために、特に未信者に対しては平和を図るべきであると書かれています。そしてこの平和を図ることについては17節以下に三つのことが命令されています。
1.悪をもって悪に報いてはならない
2.復讐してはならない
3.敵の頭に炭火を積みなさい
この三つのことについて簡単に考えてみましょう。
1.悪をもって悪に報いてはならない
だれでも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。(第一テサロニケ5・15)
主イエスは私たちに対して「あなたがたは私の証人です。」と言われました。ですから私たちもまた主イエスと同じように、決して悪をもって悪に報いてはいけません。私たちの態度はその点で十分用心深いものである必要があります。
私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。(詩篇101・2~3)
真の愛によって私たちの心が満たされるとき、私たちはすべての人々に対して平和を保つことができるようになります。パウロは真の愛について次のように述べています。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(第一コリント13・7)
2.復讐してはならない
このように、真の愛を与えられるようになった人は、喜んで自分の権利すらも放棄しようとするようになります。しかし、生まれながらの人間は、自分自身の要求を追求し争いを好みます。互いの利害関係が対立し感情的になったとき、復讐の心がわいてきます。この世では「そんなことをするのなら、こうしてやる。」という態度を取ったとしても当然のことのように思われがちです。しかし聖書は、信者には自分自身で復讐をする権利はない、と言っています。
復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。私は主である。(レビ19・18)
ダビデもまた自分自身で復讐する権利を持とうとしませんでした。彼は復讐するチャンスがあったにもかかわらず、あえて主の御言葉に従おうとしたのです。
彼は部下にいった。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(第一サムエル24・6~7)
主イエスもまた、ご自身で復讐なさることはありませんでした。真の愛は真の自由をもたらすからです。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカ23・34)
3.敵の頭に炭火を積みなさい
これは旧約聖書からの引用です。
もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。(箴言25・21~22)
かつてしばしば行われた刑罰のように、炭火の上を裸足で歩くことならばあるいはできるかもしれませんが、頭に燃える炭火を積むと言うことは、耐えがたいことです。敵にパンを食べさせ、水を飲ませること、このように対立関係にある敵に対して愛のある態度を示すということは、その敵にとってはまさに頭に炭火を積まれることです。このように理解しがたく常識では理解できない愛を示された人は、その愛の真実の前に降参せざるを得ないでしょう。もし私たちが復讐したくなったときには、このようにせよ、と神の御言葉は語っています。なぜなら、真の復讐は神に委ねるべきものだからです。
復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。(申命記32・35)
敵に対する態度はまた、主イエスの取られた態度のうちに啓示されています。復讐してはならない、という言葉はネロの時代のローマに住んでいたクリスチャンに対して語られた御言葉でした。当時の信者は、ローマの憎しみに対して打ち勝つ力をこの御言葉から与えられました。その力とは主イエスの愛でした。信者は敵に対してどのように振舞うべきでしょうか。信者は攻撃的になってはいけません。たとえ攻撃されたとしても、それに仕返しをするということがあってはなりません。悪に対して悪をもって報いることをせず、善をもって悪に打ち勝ちなさい、と言われています。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(第一ペテロ2・22~23)
私たちの態度もそのようであるべきだと思います。