第Ⅴ部 神と人とを愛せよ

25.真の交わり

ローマ人への手紙

12章3節から8節まで


Ⅰ.信者同志の正しい関係

―1.健全な自己認識

―2.切り離すことのできない一致

Ⅱ.七つの異なった賜物

―1.預言

―2.奉仕

―3.教えること

―4.勧め

―5.指導

―6.慈善

―7.分け与えること


現代の大きな問題は、コミュニケーションの欠如です。科学の進歩や通信技術の発達にもかかわらず、人と人とのコミュニケーション、すなわち交わりはたいして進歩していません。それどころか、かえって薄くなってしまっているといえましょう。私たちはもっともっと自分の家族のことを考える必要があるでしょう。夫婦の間に本当の意味でのコミュニケーションがあるでしょうか。お互いに心からの交わりを持っているでしょうか。あるいは、両親と子どもたちとの間はどうでしょう。私たちには大勢の友達がいるかも知れませんが、いったい心が通い合う親友は何人いるでしょう。私たちの生活には十分なコミュニケーションが成り立っているでしょうか。


主イエスは次のように言われました。「わたしは、迷える羊が命と完全な満足を得るためにこの世にやってきました。」そうです。キリストとの交わりにこそ完全な満足があります。ですからもっとも大切なことは、イエス・キリストをまず知ることです。いったいどのようにしてこのイエス・キリストなる方を知ることができるようになるのでしょう。それは新しく生まれ変わることによってです。では、どうしたら新しく生まれ変わることができるでしょうか。死人が自分で再び生き返ることができないのと同じように、だれも自分の力では生まれ変わることができません。甦りの主であるキリストがそれをなしてくださいます。あなたはそれに反対してはいけません。主イエスにすべてをやっていただきましょう。


イエス・キリストを自分の救い主として、命として、また人生の主として受け入れることは、もっとも大切なことです。主イエスを受け入れるとは、自分の罪を認め、主イエスのなしたもうた救いを信じ、感謝して受けることです。


私たちの魂は神に対して死んでいます。しかし、主イエスを受け入れることによって生きるようになります。私たちの魂は、神に対してつんぼですが、主イエスを受け入れることによって聞こえるようになります。私たちの魂は、神に対して盲ですが、主イエスを受け入れることによって目が開かれます。一言で言いますと、孤独な精神生活がもう終りになるということです。愛情の渇きは完全に満たされます。あらゆる欲望とあらゆる空しい努力はなくなります。すなわち心の平安がおとずれるのです。


甦えられて、今日も私たちのまん中におられるイエス・キリストだけが、人間の心に満足を与えることができます。イエス・キリストは今日も罪の赦しというすばらしい贈物を提供してくださっています。


どうでしょう。あなたにはこの贈物を受け取る心の備えがあるでしょうか。あなたのためにも貴い血潮を流して新しい命を与えてくださった主イエスに、感謝されたでしょうか。あなたの債務は支払われ、罪は赦され、咎は取り去られたことについて、今日、感謝しようではありませんか。どうか、罪の赦しという素晴らしい贈物をためらわずに受け取ってください。罪の赦しを受け入れることは、主イエスを受け入れることです。そして、主イエスを受け入れるということは主イエスを持つということなのです。このように主イエスを自分のものとして持っている人は、永遠の命と真の平安、また本当の喜びを得ることができるのです。


わたしたちが今日学ぼうとしている箇所も実はこの真の交わりについて述べられています。ローマ人への手紙の1~8章までは、一人一人の人間の救い、そして一人一人の信者の信仰生活についての教えでした。12章からは、信者一人一人のことがらではなく、信者と集会との関係について書かれています。私たちの救いは、個人的なものですが、救われたものは集会の中にとけ込まなければなりません。信者の集会における交わりについて大切なことがらが3~8節までに書かれています。ですから、この3~8節までの主題は真の交わりとすることができるでしょう。私たちはここで集会における一致と多様性について学ぶことができます。前回、私たちは1、2節で信者の神に対する正しいあり方を学びました。今日、私たちは信者同志の正しい関係について学んでみたいと思います。


(3)私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

(4)一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、(5)大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

(6)私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。(7)奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。(8)勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。(ローマ12・3~8)


この箇所を前半と後半とに分け、まず私たちに与えられた正しい交わりの関係について学んだ後に、パウロが述べている一つ一つの賜物について考えてみましょう。


Ⅰ.信者同志の正しい関係(3~5節)

Ⅱ.七つの異なった賜物(6~8節)


Ⅰ.信者同志の正しい関係


新しく生まれることによって、私たちは主イエスの肢体となるのです。主によって新しく生まれたものは、だれでも自分の救いの確信を持っていますが、私たちがみ体なる教会の肢体である、という事実についてはっきり認識している人はあまり多くありません。キリストにある一つの体とは、霊的で有機的な結合です。この結合はいかなる人間的なつながりよりも強いものです。信者はこの事実をはっきりと知らなければなりませんし、集会の中に実際に真実な交わりを持つように変えられなければなりません。私たちは皆一つの家族です。そして、この一つの家族であるということは一時的なものではなく、永遠のものなのです。一つの家族の中で、一人一人がまったく自分かってなことをしているとしたら、その家族は真の交わりを持っているとは言えません。本当の交わりを損なう原因は自我です。高慢、自己中心、砕かれていない心、これらは真の交わりを破壊します。パウロは3節で、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」と語っています。


私たちがドイツに帰りましたとき、ある家族と一緒に一つの家で生活したことがありました。その家族には四人の子供がおり、一番下の男の子の名前はルネちゃんといいました。ある時私がその子に、「ねえ、ルネちゃん。ルネちゃんが一番好きなのはだあれ。お父さん、それともお母さん。」と尋ねてみますと、こう答えました。「僕が好きなのは僕だけだい。」


大部分の信者もこの子どもと同じように自分自身のことばかりを考えているのではないでしょうか。そうでない人はいるとしても、おそらく劣等感にさいなまれていたりして別な意味で人のことばかり気にしているというふうではないでしょうか。よく、自分は取るに足らないもので、駄目な人間だなどと卑下する人がありますが、それは日本人独特の人前だけでの謙遜か、そうでなければ、自己憐憫にすぎません。高慢は間違った態度です。けれどもこの自己憐憫も主のしもべとして決してふさわしいものとはいえません。パウロは、自分自身を神の前に正しく評価することを知っていました。


神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(第一コリント15・10)


パウロは12章3節で、「信仰の量りに応じて、」と言っていますが、これは、「主に信頼するものは、その信頼に応じて貴い働きをするものとされる。」という意味です。自分自身を正しく評価するとは、つまりまことの謙遜な自己認識とは、次のように考えることです。「主イエスは私を贈ってくださった。私は主イエスに信頼します。私は主にあってなんでも行うことができますが、主なしには何もできません。私は主によって愛されている者ですから、もはや無価値な存在ではありません。しかし、私に何かの価値があるとすれば、それは私が自分の思うことをするからではなく、神のみこころを行うからです。私が自分の力で何かをできるからではなく、主にあってなすことができるからです。」


このように主を誇ることのできる人は、健全な自己認識のできる人です。高慢と自己卑下とはともに間違った態度であり、結局は同じ自己主張の裏返しにすぎません。


あなたは信者として、主イエスの体の一部分となって、主の体を構成するべきです。あなたに託された主の使命、あなたにしかできないことを通して主に奉仕するべきです。


しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4・6)


使命を果たすことは与えられた恵みによる力によってのみ可能です。主に仕えるとは、主を個人的に信頼するということです。何をもって、私たちは主に仕えることができるでしょうか。信者同志の真の交わりが成り立つために、どのような奉仕をすることができるでしょうか。これらの問いは、私たちが常に主に対して持つべき問いかけです。


4、5節で私たちは、切り離されることのできない一致について読むことができます。つまり、私たちはキリストにあって一つの体であり、キリストご自身をその頭とし、私たち一人一人はその体の器官なのです。ここで私たちは、一つ一つの器官がほかのすべての器官に対して調和を保ちながら奉仕するさまを学ぶことができます。これは様々な奉仕の現れです。パウロはここで、ほかの人々の持っている賜物を自分の物よりもより優れたものであると思いなさい、と勧めています。一つ一つの器官は独立して存在しているのではなく、ほかの多くの器官の助けを必要とします。それと同じように、私たち信者も一人一人独立した存在であるということはありえません。一つの体の中で、たとえば口が何か美味しいものを食べているからといって、そのために目がねたみを起こす、ということはありえないでしょう。なぜなら、口はその食べ物を食べることによってからだ全体のために奉仕しているからです。同じように、人が速く歩くとき、手は足に向かって、「どうしてそんなに速く歩くのか。」と文句を言うことはありません。なぜなら、足は自分自身のために動いているのではなく、体全体のために動いているからです。


主が、自分ではなくほかの人を用いられたからといって、私たちはねたむことをしません。なぜなら主にあって私とその人とは一つだからです。私たちはお互いに交わることによって、お互いの持っている欠点について知るようになりますが、そのことによってかえって愛し合うようになるのです。主イエスは、私たちに自己犠牲の愛を持つようにと勧めておられるのではありません。そうではなくて、自己犠牲の愛を、すなわち神の愛をあふれるばかりに与えてくださっているのです。


私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5・5)


一つ一つの器官は、体全体が正常に働くためにそれぞれかけがえのない使命を持っています。


しかし、同一の聖霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。からだは一つでも、それに多くの部分があります。ですから、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだです。主にある兄弟たちもそれと同様です。

こういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、体の中で比較的に弱いとみられる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。(第一コリント12・11~12、20~22、25)


キリストの体は、キリストの器官であり、また道具です。主イエスはその体を通してこの地上において御業をお示しになりたく思っておられます。ですから、一つ一つの器官が自分の使命をよくわきまえてその使命を実行することが非常に大切です。このことは、実際には信者が自分自身の自我を捨てることを意味しています。自分を捨てることによってのみその人は主によって用いられるようになるのです。また、そのときにのみ完全な満足を得ることができます。このような心構えができている人は、主イエスと同じように、「私の喜びは父のみこころを行うことです。」と証しすることができます。新しく生まれた人は、だれでも、主のみからだの器官です。それゆえ、一人一人の信者が主のみからだ全体の中にあってどのような立場にあるか、どのよう奉仕をもって仕えるべきか、と言うことをよくわきまえ知ることが大切です。


第一に大切なことは、私たちがキリストにあって一つの体である、と言う事実をはっきりと知ることです。


第二に、私たちはその体にあって様々な賜物をもって主に仕える使命を持っているということを知ることです。


器官のうち、一つとして独立して存在することができるものはありません。一つ一つの器官は、神からの祝福を得るためにほかの者の助けを受ける必要があります。私たち一人一人は、ほかの信者に対して責任を持っています。一人一人はほかの信者に奉仕するために召されているので、もしある人が祝福を受けるとすれば、それはその人を通してほかの人々も祝福を受けるためにほかなりません。


みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。(第一コリント12・7)


Ⅱ.七つの異なった賜物


1.預言


預言とは、神の御言葉を実際に私たちの信仰生活においてどのように生かすべきかを告げることです。ここで大切なことは信者の良心と意志です。


預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。(Ⅰコリント14・3)


信者を霊的に成長させるために、この賜物は必要不可欠なものです。預言を通して、信者一人一人の罪が明らかにされ、主の栄光も現されます。集会の目的も預言を通してはっきりと示されています。預言する者は、いわば集会の目の役割を果していると言えましょう。


預言をないがしろにしてはいけません。(Ⅰテサロニケ5・20)


どうして預言をないがしろにしてはいけないのでしょう。それは、預言によって罪を犯している人が責められるためです。


罪を犯しているものをすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。(Ⅰテモテ5・20)


預言者ナタンはダビデのもとに行き、罪を犯しているのはあなたです、と言いました。このように預言者の務めは非常に難しい務めです。というのは、多くの信者は彼ら自身罪を抱えているからです。ダビデは、そのときに直ちに悔い改め、主のもとに立ち帰りましたが、今日の信者のなかにはこのダビデのように罪に対して決然とした態度を取る人が大変少なくなっています。預言をする者は、二つの危険性を常に持っていることに注意するべきです。第一は、外側から加えられる迫害や中傷であり、第二は、預言をするもの自身の心の中にある罪です。ですから、預言する者は常に神の霊によって語るべきであり、自分の霊によって語ることのないように自分自身を十分に吟味していなければなりません。このような側面から、預言をするものは吟味されなければならないのです。


預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。(Ⅰコリント14・29)


預言の内容に聖書と少しでもくい違うことがらがあるとすれば、それはただ集会に混乱をもたらすものですから、否定されなければなりません。間違った預言をするという可能性は、常に存在しています。ですから、常に主に対してすべてを頼ってゆくという姿勢が大切です。


2.奉仕


奉仕とは、汗とほこりにまみれて主に仕えることを意味しています。大切なことは、私たちの奉仕がどのような内容のものであるかということではなく、その奉仕がただ主にたいしてのみなされたかどうかということです。私たちは人々に仕えるか、主に仕えるかのどちらかの態度しかとることができません。主の栄光のみを追い求めているか、あるいはほかのものを求めているかのどちらかです。自分自身を完全に主に捧げることがなければ、奉仕はありえません。自分自身に目を留める人や、ほかの人々に目を向ける人は実際問題としてこの奉仕の務めにあずかることができません。ですから、この奉仕の際に一番大切なことは主に対する忠実さです。


3.教えること


預言の場合には、信者の良心と意志に対して語りかけますが、教えは信者の理性に訴えかけるものです。教えとは、聖書の真理を人間の理性で分かるようにくだいて説き明かすことです。聖書を通じて、神の真理を人々にはっきりと伝えることは今日非常に大切な務めです。ですから、教えの内容は常に聖書に合っているかどうか吟味されなければなりません。聖書の御言葉に自分の意志で何かを付け加えたり、聖書の御言葉を割り引きして考えることなどは神によって呪われる行為です。


4.勧め


勧めとは、聖書の御言葉が信者の生活において具体的な形を取って現れるために助けとなることです。


彼(バルナバ)はそこに到着したとき、神の恵みをみて喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。(使徒11・23)


また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。(Ⅰテサロニケ2・11、12)


さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。(Ⅰコリント1.10)


私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。(Ⅰコリント4・14)


勧めもまた、神に対する使命であり、神の御霊にすべてをゆだねることを必要とします。勧めをする人はそれを聞く人が実際にその勧めに従うことができるように勧めなければなりません。正しい勧めをすれば、多くの人々はその勧めに従うようになります。これを聞く信者が勧めによって打ちのめされるのではなく、大きな喜びに満たされなければなりません。勧めによって信者は道を踏み外さないようにという警告を受けます。


罪を指摘されることは確かに苦痛ですが、その人は同時に祝福をも受けることになります。新たな道を示されるからです。


5.分け与えること


分け与えるということもまた恵みの賜物ですが、多くの人々はこの賜物について誤解したり、軽視したりしています。単に霊的なことのみならず、物質的なことにおいても、聖霊の導きによって行うべきです。


苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らはみずから進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。(Ⅱコリント8・2~4)


旧約聖書の時代には、イスラエルの民はその全収入の十分の一を神に捧げなければなりませんでした。自ら望むと望まざるとにかかわらず、そうするように義務づけられていたのです。しかし、新約聖書の時代にある私たちは、自分の意志に反して捧げることは必要ではありません。マケドニヤの信者たちは、「みずから進んで」すなわち、自発的に、また力以上に捧げたということが書いてあります。


ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(Ⅱコリント9・7)


この世の原則は、「たくさん持っているからあげましょう。」ですが、聖書の原則はたくさん持っているいないにかかわらず、「さしあげますから受けてください。」です。分け与えることは、自分の名誉のためになされるべきでもなければ、人によく思われたいためにするのでもありません。人間は本質的に物惜しみをし、人から何かを受けたいという思いを持っていますが、聖霊は私たちを、人に与える者としてくださいます。地上の富に頼ることは、私たちの信仰生活をしりすぼみにさせてしまいます。


神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(Ⅱコリント9・8)


6.指導すること


指導するためには熱心さと勤勉さが要求されます。また、本当の意味で人を指導するためには自分を空しくして、謙遜にならなければなりません。


神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、入ってきましたから。

それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。(詩篇8・1、9)


弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。(ヨハネ2・17)


イエス様に特徴的なことは、いつでも神の家族と神の家に対する熱心でした。指導するときの危険性は、その熱心さに倦み疲れてしまうことです。ですから、パウロはここで、熱心に指導しなさいと強調して勧めているのです。ほかの人々を指導することには大きな責任が伴います。指導するためには、まず指導者が自分自身を神に捧げること、また、自分自身を無にして神に仕える態度が必要です。さらに、上からの知恵、慎重な配慮、そして変わらぬ忠実さを持たなければなりません。指導する者は人々に訓戒を与えるだけでなく、一人一人に対して実の父母のような愛情を持って指導し、その人自身が群れの模範とならなければなりません。


たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。(Ⅰコリント4・15~16)


また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。(Ⅰテサロニケ2・11~12)


人に指導する者は、成長した信者でなければなりません。


「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。ですから、監督はこういう人でなければなりせん。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳を持って子どもたちを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会以外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(Ⅰテモテ3・1~7)


これと反対に、正しくない指導者について聖書は次のように語っています。


私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレパスが、私たちの言うことを聞き入れません。それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。(Ⅲヨハネ9~10)


7.慈善


貧しい人、惨めな立場におかれている人、病人は施されることを必要としています。慈善も重要な賜物です。また、慈善を行なえることは信者の特権です。なぜなら、慈善は神に喜ばれることだからです。


ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。(ガラテヤ2・10)


さらに慈善は、罪を犯した人を喜んで赦すことでもあり、つまり、その罪を後からほじくり返したりせず、かえってその欠点を覆うことだからです。弱い人々、孤独な人々は慈善を必要としています。


私たちは今まで七つの異なった賜物について考えてきました。


ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。

あなたがたは、言葉といい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かなものとされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。(Ⅰコリント7・7、1・5~7)


賜物とは、誰か特定の個人を満足させるために用いられるものではなく、集会全体の益になるために用いられるべきものです。一つ一つの器官がほかの器官のために奉仕するようになること、つまり、一人一人の信者がほかの信者に仕えるようになることが真の交わりを成り立たせます。主が私たちの心の目を開いてくださって、私たちがそれぞれに与えられた使命をよくわきまえて仕え合うことができれば、それこそ主の望まれていることなのです。


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