第Ⅴ部 神と人とを愛せよ

24.徹底的な献身

ローマ人への手紙

12章1節から2節まで


Ⅰ.あなたがたの体を、神に捧げなさい

Ⅱ.この世と調子を合わせてはいけません

Ⅲ.心の一新によって自分を変えなさい


これから私たちは、ローマ人への手紙の第三番目の部分である12~15章を学びます。


その前に、これまでの部分の復習とこれからの部分の要約を行なって、ローマ人への手紙全体をいろいろな角度からまとめ直してみることにしましょう。


1~8章までは、神の義とは何であるかについて書かれていました。すなわち、教理について述べられていました。


次に、9~11章までは、神の義のために召されたイスラエルの民の状態について書かれていました。すなわち、イスラエルの歴史についてです。


第三の12~15章では、神の義の現われとは何であるか、義の実は何であるかについて書かれています。すなわち、救われた者の歩みについて具体的に述べられています。


教え、すなわち教理とは、罪と義、「聖化」についての詳しい説明です。ここでは主に三つのことが書かれていました。第一にこの世にはひとりとして義人はいないということ。第二に神がご自身の義をこの世にくださったこと。第三にその神の義を受けるものは勝利の人生を歩むことができるということです。また、イスラエル人がたどってきた歴史の中から、実際に神が義を提供してくださったこと、その義をイスラエル人は拒否してしまったこと、そしてそれにも関わらずイスラエル人は神によって受け入れられたことが書かれていました。これから学ぶのは救われた者の歩みについてですが、そこでは主の恵みによってなされる全く新たな歩みが記されています。


それぞれの部分に表題をつけるならば、次のようになります。


1~8章

1.キリストを持たない人生

2.私たちのために死なれたキリスト

3.キリストと共にある私たち

4.私のうちに住んでくださるキリスト

9~11章―全ての者の上におられる神

12~15章―私を通して現われてくださる神


ローマ人への手紙は、全体を通して次の二つの点を強調しています。すなわち、第一に、人間の罪とその失われた状態について。第二に、成し遂げられた救いの御業によって神の大いなる愛が全人類に対して明らかにされたこと。完全な救いにあずかることが今もなお、私たちに許されており、その完全な救いにあずかるものは永遠の栄光のために召されているということです。


特に、9~11章までは、神がどのような手段をもって私たちを育まれるか、またイスラエルの歴史を通して神がご自身の栄光を究極的にはどのような形で現わしてくださるのかについて語っています。主イエスによる完全な救いを体験した人は、自分に成されたすばらしい御業に対してどのように応えたら良いのかという切なる願いを持つようになります。この答えが以下の2~15章にあります。また、この答えを簡単に要約した御言葉を、私たちはマタイの福音書23章に見出すことができます。


そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22・37~39)


私たちはこの二つの戒めの御言葉をもって、12~15章の表題とすることができます。これから学ぶこの四つの章では、新約聖書における倫理が取り上げられ、問題となっていますが、ここで聖書における倫理とこの世の倫理との違いについて少し考えてみる必要があります。この世の倫理は、国々の風土、習慣などによって規定された慣習、または生活規範です。一方、聖書における倫理は、そのような特定の地域や時代などに束縛されない、独立した生活態度です。一般に倫理とは、宗教や哲学に付随したもので、人間に様々なことを要求しますが、聖書における倫理とは、聖霊によって新しくされた人間に現われる新たな生活態度です。この二つの倫理の違いは、理想と現実との違いです。理想主義者は、自分の人生の目標を目の前に掲げていますが、それに到達することは決してありません。聖書が与えると約束している新しい人生は決して観念的なものではなく、現実に歩むことができるものとして私たちの前に示されているのです。


9~11章までは、全体からみると挿入された部分になりますから、12章は実は8章から続けて読まれるべき章です。ですから1章は8章最後の言葉を受けて、「そういうわけですから・・・・」という言葉で始まっているのです。新しい歩みは、体験した救いの結果です。信じる者は、主イエスから与えられた神の義を持っています。主イエスは聖霊によって信じる者のうちに住んでいてくださり、信じる者の新しい歩みによって主イエスが明らかにされるようになります。人の表面に現われてきたものによって、その内側に何があるのかを知ることができるからです。


ローマ人への手紙は、1章以下新しいいのちについての記述から始まっていますが、これが12章以下のような勧めの言葉によって始まっていないのは喜ぶべきです。それは5章に書かれているように、神による平和を持っているものだけが神による勧めの言葉をも受けることができるからです。ローマ人への手紙は、まず最初に人間に与えられた神の賜物について語り、そして、12章からはその賜物を受けた人間の果たすべき使命について書かれています。最初に「生けるまことの木」の必要性について述べた後、12章からは、その「生けるまことの木」が必然的に結ぶ実について述べています。神の賜物とは、人間が福音によって新たなものとされることです。福音とは神の御力そのものです。そして、新たにされた人間は、今までの人生とは全く別の歩みをすることができるようになるのです。


12章全体のテーマは、信者と集会との関係についてです。これをほかの言葉で言い換えるなら、集会における御霊の実と言うことができるでしょう。つまり、この2章に書かれていることは、すでに救いを受けた信者に対して語られているのです。


私たちは、この2章を三つの部分に分けて考えることができます。第一の部分は1~2節で、これは信者の立つべき基盤について述べています。第二の部分は3~8節までで、ここでは集会の一致と様々な賜物の現われについて述べています。第三の部分は9~21節までで、ここには具体的な勧めについて細かく書かれています。


さらに、言い換えますと、第一の部分は、徹底的な献身について。第二の部分は、真の交わりについて。そして、第三の部分は、生きた集会について書かれていると言えましょう。


この章には非常にたくさんの命令、つまり、信者に対する勧めについての記述がみられ、それらは全部で三四にもなります。また、信者がいろいろな場において取るべき態度についても記されています。これらを分類してみると、1~3節には一人一人の信者と主との関係について、4~16節までは信者同志の関係について、そして17~21節には信者と未信者との関係について書かれていると考えることができます。


そこで私たちは1、2節から、信者が主に対してどのような態度を取るべきかということを学んでみたいと思います。


(1)そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(2)この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12・1、2)


信者が主に対して取るべき態度は、信者とほかの信者との関係や、信者と未信者との関係の基礎となります。ですから、信者が主に対する関係は、二心なく純粋で、混じりけのないものでなければなりません。神が信者に対して要求されていることを、この箇所から三つ読み取ることができるでしょう。


Ⅰ.あなたがたの体を、神に捧げなさい

Ⅱ.この世と調子を合わせてはいけません

Ⅲ.心の一新によって自分を変えなさい

この三つの点について順番に考えてみることにしましょう。


Ⅰ.あなたがたの体を、神に捧げなさい


この言葉は新約聖書全体の倫理を一言で言い表わしています。信者の新たな生活は、神への礼拝そのものであるべきです。私たちの体つまり罪の器は、神に捧げられまったく神によって支配されたものとならなければなりません。旧約聖書に出てくる全焼のいけにえと同様に、私たちは自分自身の体を余すところなく主に捧げ、私たちの主に対する献身を現わさなければなりません。恵みによって新たにされた私たちの人生を、私たちは喜びと感謝を持って主に捧げようではありませんか。私たちの霊だけでなく、私たちの魂も肉も主に捧げるべきです。主に対する私たちの新たな関係の基礎は、罪を赦され、義とされたことです。私たちが神によって新しくされたということの証拠は、私たちが自分を主に完全に捧げるかどうかということに現わされます。ところが、なんと多くの信者にこのような証拠を見いだすことができないことでしょう。新しい人生は、自分自身を主に捧げざるを得ません。信者は、誰でも自分の体は自分自身の物ではなく、神の聖霊の宮であるということを知っているはずです。かつては罪の道具であったこの体は、今は主の道具として用いられ、主の御栄光を現わし、主の御計画を成就するために役立てられなければなりません。


からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。

不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(Ⅰコリント6・13、18~20)


不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。

「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(Ⅱコリント6・14~18、7・1)


主は信じる者に、「あなたはわたしのもの。(イザヤ43・1)」と言っておられます。このことは、主が私たちの身も心もご自分のものとして要求しておられるということを示しています。信者の日々の生活は、主に捧げられたものでなければなりません。つまり一瞬一瞬が、主に対して備えられ、主の求めに応じていつでも応えられる状態にあることを主は望んでおられます。これこそ霊的な礼拝であり、これ以外の礼拝はいかなるものであれ表面的なものに過ぎず、無価値なものです。


あなたがたは、世界の光です。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5・14、16)


喜びをもって主に感謝しながら自分を主に対する奉仕に備えること、これこそが私たちの取るべき態度です。2章1節で、供え物という言葉が使われていますが、このことはパウロの証しにもあるように、私たちが瞬間瞬間に自分自身を十字架につけて主に従うことであり、またバプテスマのヨハネが証ししているように、「彼は栄え、私は衰えなければならない。」という態度です。このような態度のあるところには、神の御力が明らかにされます。


私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(Ⅱコリント4・7、10)


私たちの献身は、神に受け入れられる聖い生きたものでなければなりません。


生きた、ということは毎日が新たなことで、決して一回限りでないことをさしています。「神よ。私を整えてください。私に導きを与えてください。」これが私たちの日々の祈りでなければなりません。


聖なる、ということはこの世や罪から全く解放され、主なる神にすべてを捧げることを意味しています。私たちのなすべきことは、すべて主なる神に対してでなければなりません。


神に受け入れられる、とは常に神のご栄光を目の前にみていることです。


アサは父ダビデのように、主の目にかなうことを行った。(Ⅰ列王記15・11)


彼(ヨシャパテ)はその父アサのすべての道に歩み、その道からそれることなく、主の目にかなうことを行った。(Ⅰ列王記22・43)


主なる神はまた私たちに、「あなたがた私の息子、娘よ。私の心にかなうものたちよ。」とおっしゃりたく思っておられます。


イスラエルの民について、聖書は次のように語っています。


「『この民は、口先では私を敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ15.8、9)


しかし、これと対照的に、神に受け入れられる献身とは次のような思いから出てくるものです。


あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。(詩篇143・10)


この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。(Ⅰテモテ1・5)


Ⅱ.この世と調子を合わせてはいけません


すべてを主に捧げた人ならば、この第二番目の勧めはたやすく理解することができるでしょう。信者はこの世の習わしに捕われる必要がないということです。


世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。(ヤコブ4・4)


この世の罪から自分を聖別しなければ、神によって喜ばれる献身をすることができません。主イエスに自分を捧げることは、今までの自分の生涯に対して終止符を打つことにほかなりません。私たちはこの世から聖別されなければなりません。というのは、私たちは外面的に主に従っているのではなく、心から主に従うことを望んでいるからです。世から聖別されるということは、外面的なことを意味するのではなく、内面的なことです。


キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。(ガラテヤ1・4)


主は、ご自分に従うものに対して次のように語っておられます。


わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。(ヨハネ17・14)


もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15・19)


罪と世に対してはっきりした態度を取っている信者は、自然とその生活態度によってそのことが現われてきます。主イエスの側に立つものは世と対立することになるでしょう。ここでそのような態度を取ったパウロ、ペテロとヨハネの言葉をみてみることにしましょう。


ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。(エペソ5・7~10)


従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望にしたがわず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「私が聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。(Ⅰペテロ1・14~16)


世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。(Ⅰヨハネ2・15~17)


この世に対してはっきりした態度を取ることができず、徹底して主イエスの側に立つことをしない信者は、段々とこの世に馴染んだ者となってしまいます。「この世と調子を合わせる」とは一体どのようなことを意味しているのでしょうか。


第一に、思い煩いです。


また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。(マタイ13・22)


主の約束があるにもかかわらず、自分自身を心づかいの奴隷にすることはこの世的な生き方です。主は思い煩うな、とはっきり語っています。


第二に、自分の利益だけを考えること、これもこの世的な生き方です。


この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、(ルカ16・8)


この世的な生き方をする人は、自分の利益を求め、ほかの人々の犠牲の上に立って、必要ならばほかの人を欺くことさえもやりかねません。


この世的な生き方の第三番目は、主のことを思うのではなく、他人の財産や人がどう考えるかが気になったり、自分の気持ちなどに支配されてしまうことです。


あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。(Ⅰコリント3・3)


ねたみ、嫉妬、分裂などはこの世的な生き方の結果です。


この世は悪魔によって支配されています。聖書によれば、悪魔は「この世の神」として人々を真の神の光からくらまそうと一生懸命です。


この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(Ⅱコリント4・4)


享楽を求める心、自己中心、所有欲、名誉心など、これらは皆この世的な生き方に属するものです。主は、この世と調子を合わせてはいけないと命じておられます。


Ⅲ.心の一新によって自分を変えなさい


今日私たちは、この世の中のさまざまな出来事を通して、すべてのことがらが終りに近づいているということを知ることができます。一つには、悪の実の成熟であり、もう一つは、善の実の成熟です。


不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。(黙示録22・11)


このような中にあって、聖霊は、私たちを完全に聖霊の支配下に置きたいと願っておられます。このようにして主イエスは、私たちの内に形作られるようになります。


私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3・18)


この聖霊による働きは、私たちの心の内に起こるものであり、外側に起こるものではありません。私たちの考え、感情、意志などは聖霊の働きによって完全に変えられ新たなものとされなければなりません。新しく生まれ変わることによって、私たちは新しい思いを与えられます。そして日々の生活において主と交わりを持ち、祈りつつ主のみこころを尋ね求め、そのことによって私たちが日々一層多く主のみこころを知るようになります。私たちがすべてのことがらにおいて主にみこころを問い、祈り求めるならば、私たちは主によって訓練された者となり、私たちの決定を主のみこころに沿って下すことができるようになります。


ダビデは常に主に尋ね求めた人でした。


この後、ダビデは主に伺って言った。・・・・(Ⅱサムエル2・1)

そこで、ダビデは主に伺って言った。・・・・(Ⅱサムエル5・19)

そこで、ダビデが主に伺ったところ、・・・・(Ⅱサムエル5・23)


またダビデの子ソロモンも、主のみこころを第一とした人でした。


「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。(Ⅰ列王記3・9、10)


主にお伺いを立てるならば、その人は主のみこころを知ることができます。このことは大変大切です。それは、私たちの生活の一部分が改善されるという程度に止りません。そうではなく、私たちの人生の根本が新たにされるということなのです。主を信じるものは、この世の霊と主の霊とを見分けることができなければいけません。また、人間の知恵と神の知恵との違いをも学ばなければなりません。これらの基礎となるのは、徹底的な献身です。まず、自分自身を神に捧げるならば、その人は聖霊の御力を体験するでしょう。そして、主の御姿に変えられるものとされます。


神のみこころとは何でしょうか。また、何がよいことで、何が神に受け入れられ完全であるのでしょうか。これらのことを信者はよくわきまえていなければなりません。


神のみこころとは、正しいことと、義なることをあらゆることがらから区別して知ることです。もちろん、それは私たちが主に命令されたからするというのではなく、喜びと感謝をもって自発的に主を喜ばせたいという気持ちによって行われることが大切です。


神に受け入れられるためには、たとえ私たちが人間の心で主のみこころや導きを理解することができないとしても、主のみこころを信頼してその導かれる道を歩むことです。そのためには、私たちが自分自身を神に捧げ、神によってまったく新につくり変えられたものとされることがどうしても必要です。


あなたはもう、そのような歩みを始めておられるでしょうか。神に導かれることの喜びとすばらしさをもう経験されたでしょうか。心から神の前にへりくだり、自分の人生を明け渡すならば、今日からあなたも栄光への道を歩むことができるようになるのです。


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