第Ⅳ部 神の義と人の義の戦い
ローマ人への手紙
10章1節から21節まで
Ⅰ.義とされるための二つの道
Ⅱ.自己義認の道
(イスラエル、サウロ、パリサイ人)
Ⅲ.神によって義とされる道
Ⅳ.岐路に立たされている私たち
9~11章までのテーマは「自分の義と神の義との戦い」ということでした。私たちは9章を通して、神がどのようにイスラエルの民に恵みと救いを提供されたかを学んだわけです。イスラエルの民も、異邦人も、共に主の恵みにあずかるようになる、ということがすでにホセア書で預言されていました。ところが多くのイスラエル人たちは、神から提供された恵みを拒んでしまいました。一方、異邦人はこの恵みにあずかるようになったのです。つまずきの石である主イエスによって、ユダヤ人はつまずきました。しかし、異邦人は救いに導かれたのです。そのような時、イスラエル人はどのような態度をとったでしょうか。今日私たちが学ぶ10章の主題は、「提供された義に対する現在のイスラエルの態度」とすることができます。
(1)兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。(2)私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。(3)というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
(4)キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(5)モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。(6)しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降すことです。(7)また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
(8)では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。(9)なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(10)人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(11)聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(12)ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「(13)主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(14)しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(15)遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(16)しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。(17)そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(18)でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」(19)でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」(20)またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」(21)またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」(ローマ10・1~21)
私たちは、ユダヤ人たちが恵みによる義を拒み続けていることをここに読むことができます。10章の内容を一言で言い表わすならば、悔い改めと信頼を通して誰でも救われるということ、また、イスラエルの民は自分自身のした行ないのために罪に定められているということです。そこで私たちは、本文を次の四つに分けて考えてみることにしたいと思います。
Ⅰ.義とされるための二つの道
Ⅱ.自己義認の道(イスラエル、サウロ、パリサイ人)
Ⅲ.神によって義とされる道
Ⅳ.岐路に立たされている私たち
聖書は、私たちが神の前に出るために道が二つあると語っています。それは、律法による道と、恵みによる道の二つです。律法の道によれば、私たちは律法の要求を百パーセント満たさなければ義とされることができません。律法によって神は私たちに良いこととは何であるか、また、神によって何が要求されているのかをはっきりと示しておられます。もし人が律法の要求をすみからすみまで完全に満たすことができれば、その人は神の前に義とされることができます。このような人は、自分の義によって神のもとに来て救いを受けることができます。つまりこの人は、自分の正しさのゆえに救いにあずかることができたのです。ところが、このように自分の義によって神の前に義とされた人は、ただひとりを除いてはだれもいないのです。そのひとりとは、もちろんイエス・キリストのことです。
しかし、聖書の語っている第二の道は、このような自己義認の道ではなく、主イエスの義による道です。この主イエスの義による道は、私たちが自分の努力で手に入れることができるものではありません。ただ恵みによる贈り物としてだけ、私たちが受けることができるものなのです。この二つのうちで、はじめに述べた道は罪を背負った人間には決して進むことのできない道です。
律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2・10)
聖書全体は、「義人はいない、ひとりもいない」と告げています。主イエスだけが、律法を完全に行なうことができたただひとりのお方です。主イエスはご自身の義によって、神の前に義と認められました。ですから、主イエスが律法の「終わり」となられたのです。
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ10・4)
この主イエスを受け入れる者は、だれでも主イエスのゆえに義とされるのです。これが第二の道です。そこで、この二つの道をもう少し詳しく見てみましょう。
モーセの五書、つまり、創世記から申命記までにおいて、モーセは神の律法をあますところなく記しています。神の律法を行なう者は生き、律法を破る者は死ななければなりません。イスラエルの民は何とかしてこの律法による道を歩もうとしました。自分自身の力によって義とされようとすること、これがユダヤ人の特徴でした。このようにして、イスラエルの民は神の提供された道を断固として拒んだのです。
「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。」(使徒13・46)
これがイスラエルの民の悲劇でした。彼らはへりくだることを望みませんでした。律法は、常にあなたがたはこれこれをしなければならない、と私たちに要求してきます。律法の要求は自分自身の力ではとうてい満たすことのできないものであり、生まれつきのままの古い人間には無理な要求です。自分自身の力や努力によっては、生まれながらの人間は新しい人間に生まれ変わることができません。律法の道は次のように語っています。律法の道を歩む者は、従うことを望みませんし、へりくだることも望みません。また、主を認めることを望まないで、何事でも自分自身の思いでなすことができると思っています。御名に助けを呼び求めようともしませんし、神の御声に聞き従うことなど考えてもみません。このような者は、神に対して反抗する者です。パウロはユダヤ人の特徴について、彼らは神に対して熱心であると語っています。確かに彼らは大変熱心であるかもしれませんが、その熱心は真理に基づくものではありません。つまり、彼らはヘくだろうとしませんでしたから、自分自身の置かれている状態を悟ることができなかったのです。パウロはそのような熱心さの実例を自分自身の経験に照らして示しています。彼は、自分自身の神に対する熱心さは、教会を迫害するほどであったと言っています。
その熱心さは教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3・6)
このパウロの語っている律法の義が、すなわち自己義認なのです。彼は、自分自身の状態に対して盲目であったと同時に、神に対して盲目でした。ルカ18章に出てくるパリサイ人は、この自己義認についてのもう一つの例です。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」(ルカ18・11)
今日でも、なんと多くの人々が自分自身の義をもとめて、熱心に活動していることでしょうか。なんと一生懸命に「私には非難されるところがない」と言おうとしていることでしょうか。ところが、彼らの熱心さは、残念ながら正しい熱心さだと言うことができないのです。彼らの熱心さは自分自身から出たものですから、どこまでいっても神を認めるようにはならないのです。
聖書はこの第二の道を、「神による義」あるいは「信仰による義」と呼んでいます。恵みの道の特徴は、人間の神に対する信仰と信頼です。10章は、この道について私たちに示そうとしています。
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(ローマ10・4、9~11、13)
主イエスは律法を完全に守られただけではなく、律法を破った人々の上にとどまっている神ののろいと裁きをも取り除いてくださったのです。それゆえ、主イエスは私たちにとって義となられたのです。主イエスを受け入れる者には、神の聖霊が与えられます。この聖霊は律法を行なうことができる力を持っています。ですからもう私たちは天に昇る必要はないと聖書は教えています。というのは、主イエスが天から下って来てくださったからです。また、私たちは地の奥底にくだる必要もありません。主イエスが死者の中から引き上げられ、死を克服されたからです。パウロは「みことばはあなたの近くにある。」と語っています。私たちはみことばを正しく聞くことができさえすれば、信仰が与えられるのです。
信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10・17)
信仰の土台となるのは、神のみことばです。そのみことばを聞く者は生きた信仰を持つ者となります。「信じる人はみな義と認められるのです。」とあるとおりです。主イエスを受け入れるということは、とりもなおさず義を自分のものにするということです。
今まで見てきましたように、私たちに与えられている二つの道とは、律法による道と恵みによる道です。私たちはこの二つの道を二つのはしごにたとえることができるでしょう。
第一のはしごは地上に立っているはしごで、このはしごを人は下から上へ自分の力で登り、神に達しようと試みますが、結局は不可能です。このはしごを登ろうとする者は、その目的を達することができません。この世の宗教は、多かれ少なかれこのはしごのようなものであると言うことができるでしょう。それに対して第二のはしごは、上から下へとかけられています。たとえば大きな船の上から降される縄ばしごのようなものです。このはしごは、行ないのはしごではなく、恵みのはしご、あるいは信仰のはしごと名付けることができます。そのはしごの一番下の段をつかめば、その人は救われるのです。
それでは、神は第一のはしご、つまり行ないによるはしごをどうして人間にお与えになったのでしょうか。ガラテヤ書3章24節によれば、「律法は私たちをキリストへ導くための養育係り」であると書かれています。誰でも始めはこの律法による道を歩んで、神に到達しようと試みます。自分で罪を捨て去って律法を行なおう、自分こそそれをすることができるという確信を持っているのですが、このような人が歩もうとしている道は大変危険な道であると言わなければなりません。なぜなら、彼は完全を要求されるからです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。(ヘブル10・28)
罪から来る報酬は死です。(ローマ6・23)
その者たちはやがて時いたって神の白い御座の前に出るようになります。そして、その時もはや恵みは閉ざされており、一人一人の上に神の裁きがくだされるのです。
「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3・10)
神にのろわれるということは、永遠の滅びに定められるということを意味しています。ところが、もし罪人である私たちが、自分自身で律法を行なおうとする力がないということを認め、神に恵みを願い求めるのならば、私たちは救いをこの身に体験することができるでしょう。
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。(ヘブル10・19~20)
ここには「イエスの血によって・・・・新しい生ける道を設けてくださった」と書かれています。自分の罪を認めた人は、自分が死に定められた人間であるということを知っています。そのような者たちにとって、神の裁きの目的は、自分ではなく主イエスの十字架です。イザヤ書53章5節には、主が御子イエスに下された懲らしめがどのようなものであったかが記されています。罪人が生きるようになるためには、主イエスの十字架が必要でした。主イエスは私たち罪人に永遠のいのちをお与えになるために私たちの代りに死なれました。
神はキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ3・25)
自分自身の罪の債務を自覚している罪人、十字架上で主イエスがその自分の罪の債務をことごとく担ってくださったということを知っている罪人は、信仰へと導かれた人です。このような人はもはや自分の力でなにかができるとは思いません。彼はもはや「私はできる」とは言わず、「私は信じる」と言うのです。その人は、信仰によって神の義を自分のものとすることができます。自分の罪が赦されていると確信し、神の義を受け入れた人は永遠のいのちを自分のものにすることができるのです。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)
このような裁きを免れた人は、終わりの日に白い御座の前に立つことはありません。そのかわりに、彼はキリストのさばきの座に現われることになります。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(第二コリント5・10)
そのキリストのさばきの座とは、キリストを信じた者たちにキリストが備えてくださった称賛の場です。その時に信者がキリストの力によってなしたわざと、信者が自分の力によってなしたわざとの違いが明らかになります。
第一の道の結末は永遠の滅びであり、第二の道の結末は永遠の栄光です。主は私たちが正しい道を選ぶことを望んでおられます。正しい道とは行ないの道ではなく、信仰による道にほかなりません。この信仰の道は10章の中でくりかえしでてきますが、旧約聖書からの引用によってさらに福音そのものをよりはっきりさせています。特に11節と13節はそれを最も簡潔に述べています。
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(ローマ10・11、13)
「だれでも」ということばは、もはやユダヤ人と異邦人との区別がなくなったということを意味しています。主イエスとともに十字架につけられた強盗はこのひとつの実例です。彼は、人々からさげすまれ、あざけられていた主イエスを自分の救い主として認め受け入れたのです。「主よ。私のことをおぼえてください。」と彼は懇願しました。これこそ信仰です。彼は主イエスを主として認める前に、自分が罪人であることを認め、またその罪を告白しました。
「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23・41)
これは自分自身が、希望のない捨てられた存在であるということを認めた人間が自分自身に対して下す判決です。悔い改めのない信仰、そのようなものは現実には存在しません。そのようなものは真の救いへ導くことがないからです。悔い改めのない信仰は、生きておられる神の福音ではありません。
最後に9節に書かれている大変重要なことについて考えてみましょう。すなわち、まず第一に「あなたの口でイエスを主と告白」するということの重要性です。主イエスを自分の主として「見いだすこと」、「認めること」、また「告白すること」。このことによって救いの確信がもたらされます。
9節で述べられている第二のことは、「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる」ことです。神のなさったことは、絶対的なことです。そのことに対して私たちのなしうることは、ただ神に信頼する、すなわち信じるということだけです。私たちは主イエスを引き降そうとする必要はありません。主イエスは天から下ってきてくださったからです。また、私たちは主イエスを死者の中から引き上げる、つまり復活させようとする必要もありません。神はもうすでにそれをなしとげてくださったからです。私たちのなしうることは、ただ神のなしとげられたみわざに信頼して、それを自分自身のこととして受け入れ、神に感謝をささげることだけです。
イスラエルの民は、確かに福音が何であるかをよく知っていました。しかし、彼らは聞き従うことを望みませんでした。
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。(ローマ10・16、21)
イスラエルの民は、神から与えられた恵みの賜物を自分のものにしようとはしないで、自分自身の力で自分自身の義を追い求めてきたのです。私たちは、律法による義と信仰による義との二つの別れ道に立たされています。この岐路に立たされている私たちは、いったいどのような選択をなすべきでしょうか。神が示された道を歩もうと望まない人は、霊的に盲目にされてしまいます。そして最終的には、イスラエルと同じようにかたくなな者となってしまうでしょう。神はみことばをもって私たちに決断を迫っています。たとえば、結婚で間違った選択をしてしまうことを「百年の不作」などといいますが、神の恵みを拒むということは、私たちにとって実に永遠の大問題なのです。
主なる神の永遠に朽ちない栄光に到達するためには、自分自身の努力は何の足しにもなりません。ただ、神のなしたもうたみわざを認めてそれを自分のこととして受け入れることによってのみ、人間は神の永遠の栄光に到達することができるのです。私たちは、イスラエルの民を例にして、現代に至るまでの約二千年の世界史において、神を認めずに自分自身の道を歩もうとすることがいかに恐るべきことであるか、ということを知ることができます。私たちはいったい神の示してくださった道のうちでどちらを選び、歩んでゆこうとしているのでしょうか。