第Ⅳ部 神の義と人の義の戦い

23.されど神は

ローマ人への手紙

11章1節から36節まで


Ⅰ.残された者たち

Ⅱ.異邦人の救い

Ⅲ.イスラエル全体の救い


私たちがいま学んでいる9~11章には、イスラエルの歴史のことが書いてあります。このイスラエルの歴史を見ると、イスラエルの民にとって一番大切な問題が、次のことであることが分かります。それは、神から提供され、値なしに受け取ることが許されている義を自分のものにするか、それともそれを拒んで自分の正しさ、つまり自分自身の義を求めるかということです。自分自身の力で追い求めた義は、決して神によって認められることはありません。これは、イスラエルの民にとっての問題であったばかりではなく、私たちにとってもおろそかにできない問題です。私たちは、恵みによって与えられた主イエスを自分の人生に受け入れるか、さもなければ自分自身の義を追い求めるかのどちらかなのです。イスラエルの民は、主イエスによって与えられた神の恵みを拒んでしまいました。ですから彼らは、神の裁きの下におかれています。これが10章までの内容でした。11章はこのようなイスラエルの状態にも関わらず、神がイスラエルに対してどのようなご計画を持っておられるかということについて、すなわち、将来のイスラエルの姿について記しています。その標題は、「されど神は・・・・」です。


(1)すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。(2)神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。

(3)「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」

(4)ところが彼に対して何とお答えになりましたか。

「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」

(5)それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。(6)もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。(7)では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。(8)こう書かれているとおりです。

「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

(9)ダビデもこう言います。

「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。(10)その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

(11)では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。(12)もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。(13)そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。(14)そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人かでも救おうと願っているのです。(15)もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。

(16)初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。(17)もしも、枝のなかのあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、(18)あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。(19)枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。(20)そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。(21)もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

(22)見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。(23)彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わせることができるのです。(24)もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られもとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

(25)兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、(26)こうしてイスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。

「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。(27)これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

(28)彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

(29)神の賜物と召命とは変わることがありません。(30)ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、(31)彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。(32)なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。(33)ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(34)なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。(35)また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。(36)というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11・1~36)


私たちがこれから学ぼうとしている11章は一つの問いによって始まっています。「神は、ご自分の民を退けてしまわれたのですか。」これはイスラエルの民にとっては、何よりも大切な質問です。確かに、10章を見るかぎりはイスラエルは神に退けられてしまったように思えます。しかし、パウロは聖霊によって「絶対にそんなことはありません。」と答えているのです。イスラエルはその不信仰にもかかわらず、神によって与えられたその使命の故に退けられることはありません。イスラエルの民は、民族全体としては神から提供された恵みを拒みました。このようなイスラエルの態度に対する神の答えはどうだったでしょうか。三つの答えがこの11章で語られています。それをこれから順番に見て行くことにしましょう。


Ⅰ.残された者たち


第一の答えは、イスラエルの歴史には、神から提供された救いを受け取って神に喜ばれる歩みをした人々がいつの時代にも民の中にいたということです。1~7節は、このことについて語っています。神は、ご自分の民をお見捨てになりません。その証拠に、いつの時代でもイスラエルの民の中に神によって祝福された人々がいました。旧約聖書をみるといつでもそのような人々がいたことが分かります。恵みを追い求め、恵みにあずかることができた人々がいかなる時代にも存在しました。エリヤの時代には、そのような人々が七千人いたと言われています。妥協することなく、神の側に立った人々が彼らのうちに絶えたことはありませんでした。新約聖書の時代におけるパウロもそのうちの一人でした。恵みを追い求めないものは、恵みに対して盲になり、その結果かたくなな心にされてしまいます。神に対して盲になること、また聾になることは神の裁きです。神の恵みとは何だろうかと考え研究することよりも、恵みを追い求めることの方がはるかに大切です。それと同じように、私たちが信じられるかどうかではなく、信じたいと思うかどうかが大切です。それは、主を信じようとする人々には、神ご自身が信じることのできる力を与えてくださるからです。


イスラエルの歴史を見ると、いつもこのように恵みを追い求め、恵みにあずかった人々がいました。ところが、この恵みを拒み、自分の力で義を求めようとする人々は、神によってその心をかたくなにされてしまいました。神は今日もなお自分自身をすべて神に捧げる人を求めておられます。この神の求めに対して、私たちはいったいどんな態度を取るでしょうか。御言葉は次のように語っています。


あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。(ヘブル12・17)


これは、神の責任ではなく、人間の責任です。恵みを拒み続けると、無関心になります。これも神の裁きです。神の声に聞き従うことを望まなければ、聾になってしまいます。


神は、イスラエルの民にご自身の義をお与えになろうと望んでおられました。しかし、彼らはそれを分かっていながら拒んだのでした。彼らは自分自身の力によって神の前に義とされることの方を望んだのです。その結果、彼らは虚しい努力を続けなければならなかったのです。これも神の裁きでした。前回学びましたように、自分自身の義を求める人の特徴は、「私ならできる。」と思うことでした。それに対し神によって義とされる人の特徴は、「私は信じる。」ということです。信じたいと思う人には、信じるべき方をも示されます。そして、大勢の不信仰な民の中にも、このような態度を取った人々がいつもいたのでした。


恵みを拒んだイスラエルに対して神の取られた態度は、彼らのその不従順さにもかかわらず、いつの時代にも彼らのうちに幾人かの神を恐れる人々を残しておかれた、ということです。


Ⅱ.異邦人の救い


恵みを拒んだイスラエルの民に対して、神がお示しになった第二の答えは、8~22節に書かれています。確かにイスラエルは民族全体としては神から退けられましたが、その代わりに、異邦人たちが救いにあずかるようになったのです。イスラエルの民によって拒否された神の恵みは異邦人に提供され、彼らは感謝をもってこの恵みにあずかったのです。イスラエルが堕落したことによって、異邦人は救いにあずかったのです。しかし、これは異邦人にとっては思いもかけないことでした。恵みを宣べ伝える使命を持っていたパウロは、まず始めにイスラエルの民に伝えようとしました。しかし、彼らはパウロを拒んだので、パウロは異邦人に福音を宣べ伝えたのです。


そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。」(使徒13・46)


すると、主は私に、「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。」と言われました。(使徒22・21)


イスラエルは今日、神から遠く離れた民族です。彼らは神の御言葉に耳を傾けず、神のお示しになることを見ようともしないかたくなな民とされてしまいました。このようにイスラエル民族は今日も神から退けられているのです。


17~24節で、イスラエルの民は、何度も常緑樹のオリーブの木にたとえられています。ヨハネ4章22節には「救いはユダヤ人からでるのです。」とかかれていますが、もちろん、主イエスはユダヤ人でした。パウロはここでオリーブの枝が折られて、そこに野生種のオリーブの枝が接ぎ木されたと言っています。オリーブのもとの枝が折り取られた、ということはイスラエルの民が民族として神から退けられたことを示しており、野生種の枝が接ぎ木されたというのは、異邦人が恵みにあずかるようになったことを示しています。イスラエルの民は、不信仰によって折り取られ、異邦人は信仰によって立てられました。異邦人が救いにあずかったのは、それによってイスラエルの内にねたみが起こり、イスラエルも彼らと同じ救いの道に立ち帰るためでした。また24節によれば、これは異邦人に対する警告でもあります。つまり、異邦人がイスラエルを見て、自分たちも自分の義に頼り神から退けられてしまわないようになるためでもありました。


ローマ人への手紙の2章と11章とを比較してみましょう。2章はユダヤ人に対する警告でした。それに対して、11章は異邦人に対する警告です。2章の警告は次のようなものでした。「ユダヤ人よ。あなたがたは異邦人よりも優れた者だと思ってはなりません。というのは、神は一人一人をその行いに従ってさばかれるからです。」11章では「異邦人よ。あなたがたはユダヤ人に対して高ぶってはなりません。あなたがたもまた罪を犯し続けるなら、ユダヤ人と同じように神の裁きを容赦なく受けることになるからです。」と警告されています。


イスラエルの民は、神の恵みを拒み続けることによって退けられました。しかし、神の裁きはそれだけで終るものではなく、かえって裁きによって異邦人をお救いになろうとされたのでした。ドイツのことわざに「人は色々なことを思いめぐらすが、支配するのは神である。」という言葉があります。これは聖書の中にも何回も繰り返し出てくる真理です。ヤコブの息子のヨセフは奴隷としてエジプトに売られました。しかし、このことによってやがて彼の家族全体が救われることになったのです。


あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50・20)


ダニエルは獅子の穴に投げ込まれました。しかし、まさにそのことによってダリヨス王の目が神に対して開かれたのです。その結果、人々の前に神の偉大な力が告げ知らされることとなったのです。


「この方は人を救って解放し、天においても、地においても、しるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された。」このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。(ダニエル6・27~28)


イスラエルの民は神によって遣わされた救世主を退けて、十字架につけました。しかし、主イエスが十字架にかけられたことによって、全人類に救いが及ぶようになりました。


パウロは、ユダヤ人の会堂から追放されました。しかし、その結果彼によって救いが異邦人に告げ知らされるようになったのです。全能の神は、最終的にはご自分の恵みを拒んだユダヤ人をさえ、お救いになる計画をもっておられます。


神は愛です。ですから、たとえ私たちが神を悲しませるようなことをしてしまったとしても、神は私たちのために益を図ってくださいます。私たちのどんな悩み、苦しみも、私たちが神の愛を信じることができるなら、祝福へと変えられます。私たちの立場が不利に見えるような時にも、神に信頼することによって私たちには望みが与えられます。たとえ、どんな状況におかれているとしても、主を見上げることができさえすれば、私たちの立場は希望に満たされたものに変えられるのです。


イスラエルの民によって、神は他の諸民族をも祝福することを望まれました。しかし、イスラエルの民は提供された恵みを拒みましたから、救いはまず異邦人に宣べ伝えられることになりました。「先のものは後になり、後のものが先になる。」とあるとおりです。けれども、このイスラエルの民もやがては神のみもとに回復されるということが聖書に約束されています。


ユダヤ人は神の示された道を歩もうとせず、不信仰だったため神から退けられました。異邦人は信仰によって救いを獲得しましたが、もし、彼らが神のいつくしみの中に留まっていなければ切り落されてしまうと22節に述べられています。神との交わりの内に留まらないものは、やがて高慢になります。高慢とは、すなわち自分自身を正しい思うこと、自己義認に他なりません。この高慢は神がなによりも忌み嫌われるものです。ですから神を恐れることは確かに知識の初めです。


Ⅲ.イスラエル全体の救い


神の恵みを拒んだイスラエルの民に対する神の第三の答えは、23~36節にあるように、イスラエル全体が救いにあずかるようになるということです。イスラエルの民に対する裁きは、永遠に続くものではなく一時的なものです。25節によれば、この裁きは「異邦人の完成のなる時まで」と記されています。イスラエルが霊的な事柄に対して盲にされた、という神の裁きはいつか終るようになります。「異邦人の完成」とは、神が定められた異邦人の救われる者の数が満たされることです。こうして、神のご計画が成就されるのです。キリストのからだなる教会は天に引き上げられ、イスラエルの救いはそのときから始まります。


23節には「再びつぎ合わす」ことが書き記されています。また、26節には「イスラエルはみな救われる」とあります。このようにイスラエルの民全体が神に立ち帰ることが約束されています。主イエスの血によって、彼らの罪は必ず贖われるのです。やがて、彼らは自分自身の義を追い求めることをやめ、神から与えられた賜物である主イエスを自分のものとするようになるのです。私たちには測り知ることのできないほどの神の寛容がここに現わされています。主なる神は世界中で一番かたくなな民であるイスラエル民族に対して勝利されようとしておられるのです。神は恵みを拒んだイスラエルを退けられましたが、イスラエルの民に対する選びのご計画を放棄されることはありません。3章では異邦人も、またユダヤ人も神はおなじように不従順の内に閉じ込められました。


ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(ローマ3・9、19)


ところが11章31~32節によりますと、ユダヤ人も異邦人もすべての人が神によって哀れみを受けることが約束されています。


彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。(ローマ11・31~32)


異邦人の時の終るまで、エルサレムは異邦人に踏み荒されます。(ルカ21・24)


つまり、救いのときもまた永遠に続くわけではなく、異邦人の時の終るまでがその「救いの時」なのです。


神は言われます。

「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6・2)


恵みにあずかりたいと思う人、救いにあずかりたいと思う人は、今日でもまだそれを味わい知ることができます。


私たちは今までイスラエルの歴史を通して学んできましたが、それはただ単に知識を得るためだけに学んできたのではありません。そうではなく、私たちの真の目的は自分自身の魂の救いを得るためにほかなりませんでした。ローマ人への手紙11章の内容は使徒の働き16章13~16節に端的に示されています。


ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。

「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。」(使徒15・13~18)


この箇所を要約しますと、次のようになります。

1.主なる神は、異邦人の中からご自身の民をお召しになります。これは、今日の神のみわざです。(14節)

2.イスラエルの回復です。(16節)イスラエルの回復の時は、異邦人の救いの時が終った後に始まります。

3.それから、全世界にイスラエル人による宣教が行われます。ユダヤ人は一人残らず神のしもべとして用いられるようになります。


ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ11・33)


すべてのものごとの源は主にあります。そして、諸々の力も主のものです。すべての行いの目的も主にあるのです。パウロはただ主なる神の測り知れない知恵と愛とを心から賛美し、神を礼拝することができただけでした。11章は神が永遠に変わらないお方であることを証ししています。


私たちがこれまで見てきたように、神の選びとさばき、イスラエルの民をお選びになったことと、その同じイスラエルの民をおさばきになったことは決して矛盾することではありません。確かに神はイスラエルの民をその罪のゆえにかたくなにされましたが、それは神が恵みに富みたまうお方であるということと矛盾しないのです。神は悔いることのない方です。それは決して失敗なさることがないからです。また、決して変わることのない方でもあります。それは、真実なお方だからです。私たちはこれらの事実をしっかりと胸に刻んで歩んで行きたいものです。たとえ私たちの目に神の導きが矛盾だらけのように見えるとしても、この事実に確信を置いて歩みたいものです。


神は、ご自身のご計画をよくご存じです。ですから、私たちはたとえ神の御心を完全に知ることができないとしても、私たち自身を完全に主の御手にゆだねて歩んでいくことができるのです。やがて時がくれば、私たちはすべてを知るようになるでしょう。そして神が本当に私たちのために善を図ってくださったということを知ることができるようになるでしょう。


イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。(イザヤ45・15)


わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55・8、9)


これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。(イザヤ28・29)


隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。(申命記29・29)


たとえ私たちは理解することができないとしても、主に対する絶対的な信頼を持って、すべてを主にゆだねて歩んでいこうではありませんか。


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