第Ⅳ部 神の義と人の義の戦い

なにものも私たちを神の愛から引き離すことはできない

ゴットホルド・ベック著



21.つまずきの石であるイエス

ローマ人への手紙

9章27節から33節まで


神の容赦のない裁き七つの例

Ⅰ.罪を犯した天使たち

Ⅱ.ノアの洪水が起こる前の世界

Ⅲ.ソドムとゴモラ

Ⅳ.エジプトの王パロ

Ⅴ.エジプトの初子

Ⅵ.イスラエルの民

Ⅶ.神の子


前項で私たちは、主なる神の人間に対する絶対的な主権、あるいは陶器師の粘土に対して持っている権利について、またそこから導き出される二つのことを学びました。


1.神である主が人間を哀れみの器としてくださいます。これは神の御心であると同時に、主から与えられる恵みです。恵みは、人間が自分の力で獲得できるものではありません。信者は誰でも、自分は恵みに値いしない者であり、裁かれてしかるべき者だということをよく知っています。それにもかかわらず、主なる神が恵みによって救ってくださったのです。


2.人間が主なる神を拒むと、主は人間の心をかたくなにされます。これは主の裁きです。人間が自分を怒りの器とすることは、神に責任があるのではなく、人間の側に責任があるのです。


これらのことを考えることによって、私たちは人間の責任ということについて学びました。つまり人間は、自分勝手な道を歩む危険性を持っています。人間は、だめになるか、それとも救われるかのどちらかです。人間が、自分を哀れみの器にするか、それとも滅びの器にするかは、そのひと自身の決断にかかっています。


今日のテーマは「つまずきの石、妨げの岩であるイエス」とすることができます。


(27)また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。

「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残されたものである。(28)主は、御言葉を完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」

(29)また、イザヤがこう預言したとおりです。

「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

(30)では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。(31)しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。(32)なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。(33)彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ9・27~33)


ここで扱われている内容は、自分の義と神の義との間の戦いです。このテーマを他の言葉で言いかえると、「容赦しない神」あるいは「神の容赦のない裁き」です。謙遜でくだかれたたましいに対しては神の哀れみがあるが、傲慢で自分を正しいとする者に対しては、神の怒りが下るということです。このことを聖書から七つの例を引いて、考えて見たいと思います。


Ⅰ.神に対して反抗する罪を犯した天使たち


多くの人々は神は愛であると語ります。しかしながら聖書の神は、真実の愛であるお方だけではなく、正しい怒りを下される方でもあります。


見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(エゼキエル18・4)


先週私たちは、人間の債務と神の裁きとは関係があるということを学びました。人間の罪に対しては必ず裁きが伴います。第一の例は、神に対して反抗する罪を犯した天使たちの例です。


神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。(IIペテロ2・4)


また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。(ユダ6)


悪魔は、かつては天使たちの頭として神に仕える者でしたが、神に反抗することによって罪を犯し、この悪魔によって天使たちも罪を犯すようになったのです。悪魔とこの堕落した天使たちは、ともに主なる神の怒りのもとにあります。裁きが容赦なくやってきます。


それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」

こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。(マタイ25・41、46)


神は、悪魔と罪を犯した天使を容赦することはなさいません。罪を犯した者には、裁きが下されます。多くの人々は、自分自身に満足しています。ですから、とりたてて他の人々に対して悪いことをしなければ神によって裁かれることはないと思っていますし、あわよくば天国に入れてもらえるのではないかと思っています。しかしながら、新しく生まれることを体験しない人は、いつか驚きとともに自分自身の状態に目を開かせられることになります。


わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者が、わたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7・21~23)


神の御心を行なうことを望まない者は、神の裁きを免れることができません。神は私たちを愛してくださる方ですが、それとともに、私たちの罪をただでは見逃すことはなさらない方です。神は、悪魔と罪を犯した天使を容赦することはなさいませんでした。あなたは、神の裁きを免れることができるでしょうか。


Ⅱ.ノアの洪水が起こる前の世界


第二の例は、ノアの洪水が起こる前の世界のことです。


また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。(Ⅱペテロ25)


主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」しかし、ノアは、主の心にかなっていた。


これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」(創世記6.5~13)


こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。(創世記7・23)


ノアは神の命令によって箱舟を作りました。この箱舟は神の避けどころを意味します。ノアは神の義と裁きを人々に告げ知らせましたが、誰も彼の言うことを信じませんでした。ただ八人だけが神を信じ洪水の裁きを免れましたが、その他の者は全部水に溺れて死んでしまいました。主イエスはこの事実を次のように説明しておられます。


人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイ24・37~39)


ノアの時代の人々は、罪の支払う報酬は死であるということを忘れてしまい、神は罪を見逃しにされる方ではないということを忘れ去っていました。しかしこれは今日の私たちの状態に似ていないでしょうか。多くの人々は、大変忙しい毎日を過ごしています。そして最も大切なことを忘れてしまっています。つまり自分と神、主との交わりを忘れているのです。主イエスは「人は新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。あなたは新しく生まれることをすでに体験なさったでしょうか。ノアの時代、箱舟に逃れた者たちは、死を免れることができました。今日の私たちにとって、主イエスの救いがノアの箱舟に相当します。すなわち、主イエスによってのみ、父なる神のみもとに行き、天国に入ることができるのです。


Ⅲ.ソドムとゴモラ


第三の例は、ソドムとゴモラです。


また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。(Ⅱペテロ2・6)


愛の神は、このソドムとゴモラという二つの都市の罪を、容赦されなかったのです。


そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。(創世記19・24~25)


罪には必ず、容赦のない裁きがくだされました。この裁きは私たちに対する警告です。ソドムとゴモラに当時住んでいた人たちは、神の裁きをおそれようとせずに、それを馬鹿げたことであるとあざ笑いました。


そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げていった。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。(創世記19・14)


主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる。(ナホム1・2、6)


「だれがその燃える怒りに耐えられよう」という、この質問に対して、聖書はこう答えています。主イエスによって新しく生まれることを体験することによって、神の怒りを免れることができると。


Ⅳ.エジプトの王パロ


第四の例はエジプトの王パロです。前回学んだように、パロは神が働いておられることをよく知っていました。モーセとイスラエルの民の背後には、生ける神が立っておられることも知っていました。しかし、それにもかかわらず彼はへりくだらなかったのです。パロはわかっていながら主を拒むことによって、主の主権を軽んじたのです。パロは何度も何度も神の語りかけを体験しましたが、その度に神を拒みました。彼は神の御声を聞くことを欲せず、くだかれることも欲しなかったのです。もしパロが神の前にへりくだったならば、まちがいなく彼は哀れみの器となったことでしょう。けれども彼は、怒りの器に定められたのです。もちろん神はパロをもお救いになりたいと思っておられましたが、パロは真理を知ることを望みませんでした。神は正しい方ですから、人間の罪を見逃すことはなさいません。それゆえ、パロは裁きに会ったのです。


Ⅴ.エジプトの初子


第五の例は、エジプトの初子、つまり初めて生まれた子供のことです。


真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。(出エジプト12・29)


出エジプト記を通して、私たちは二つのことを学ぶことができます。一つはすばらしい救いの体験であり、もう一つは神の容赦のない裁きです。いったい何によってこの違いが生じたのでしょうか。この決定的な相違をもたらしたものは、「血」です。神は裁きを免れることはできないと言われましたが、それと同時に、救いの道をも示してくださいました。羊の頭にイスラエル人がその両手を置き、その羊をほふり、流された「血」を戸口のかもいに塗ることによって裁きを免れるようにされたのです。羊に手を置くことは、手を置いた人の罪が羊にうつされたことを意味していました。そしてその羊はイスラエル人の罪の身代わりとしてほふられたのです。流された「血」は、裁きが通り過ぎた、もう終ったということを意味しています。


それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9・22)


もし、私たちが裁きに会いたくなければ、私たちのためにも「血」が流されなければなりません。主イエスの血潮は、私たちの罪のためにすでに流された「血」です。主イエスの「血」を信じる者は、「血」の力を体験します。罪の赦しとは、普通考えられるように宗教によってもたらされるものではなく、また、人間の考え出した立派な教えによってもたらされるものでもありません。ただ流された主イエスの血潮によってのみもたらされるのです。教えによるのではないということは、主イエスの流されたこの「血」について頭で理解することが大切なのではないということです。また、宗教によるのでもないということは、この流された「血」の力を私たちが感ずるかどうかということでもないということです。問題なのは、この血潮について、聖書が何を言っているかということであり、また聖書の語っていることを私たちが「信じる」かどうかということなのです。聖書が、主イエスの流された「血」について語っていることを信じるならば、私たちはこの「血」に対して感謝をささげるようになります。そして、そのように感謝をすることによって、私たちは血潮の力を体験することができるのです。血潮の力を体験したならば、その価値を理解することもできるようになります。


もしエジプト人が、イスラエル人と同じように子羊をほふってかもいに血を塗ったならば、彼らも裁きを免れたことでしょう。ところが彼らは、おそらくイスラエル人のしていることを馬鹿げたことであるとあざ笑ったのでしょう。そしてその結果は裁きでした。


しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1・7)


Ⅵ.イスラエルの民


第六の例は、イスラエルの民です。


もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。(ローマ11・21)


台木とは、イスラエルの民を意味しています。私たちはすでに9章で、神が選ばれた民族はイスラエルだけだったということを学びました。神はイスラエルの民をご自分の瞳にたとえられるほど愛されました。


主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。(申命記32・10)


しかしこのイスラエルの民は神を拒み、神の御子を十字架につけました。イスラエルの民は、神の提供された救いを受けること望まなかったのです。


ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(マタイ23・37、38)


ユダヤ人たちは、自分自身のりっぱな行ないによって自分を義としようと望んだのでした。つまり彼らはへりくだって悔い改め、神から提供された義を子供のような信頼をもって受けようとは望まなかったのです。恵みの神に信頼するかわりに、彼らは自分自身の力で自分をより良くしようと思ったのです。神の恵みが提供されているにもかかわらず、彼らはその恵みを拒んだのです。その原因は不信仰です。


そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。(イザヤ8・14)


この預言は成就されました。提供された恵みを高慢に拒む者にとっては、主イエスは妨げの石であり、つまずきの岩であり、このような高ぶりにある彼らは滅びます。一方、へりくだって信仰によって主イエスを受け入れる者は、救われて栄光を受けるようになります。自分自身の努力に頼ろうとする歩みには、安らぎも救いもありません。自分の力に頼ろうとする者は、自分が罪人であるということを認めませんし、自分の力では神を喜ばすことができないということを知りません。イスラエル人の特徴は、高慢と自己中心と闇のわざを愛することでした。彼らは、神の御声に耳を傾けようとしませんでしたし、救いを受けることも、主イエスの前にへりくだることも望みませんでした。


家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(詩篇118・22、23)


捨てられた石、つまり主イエスは永遠の救いの礎となられました。私たちが主イエスに対してどのような態度をとるかで、私たちが永遠に滅びるか、あるいは永遠に生きるかが決まります。


御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3・36)


また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」(ルカ2・34)


このシメオンの預言は成就されました。神の恵みの提供を受ける者は救われます。


Ⅶ.神の子


最後の例は、神の子です。


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8・32)


わたしたちはこれまで、愛の神は同時に罪を容赦されない神であるということを学んできました。神は、悪魔と堕落した天使を容赦なさいませんでした。また、洪水前の世界をも容赦されませんでした。ソドムとゴモラも、パロも、エジプトの初子も滅ぼされました。そして、台木の枝であるイスラエルの民でさえも容赦なさいませんでした。赦されなかった理由は、全て彼らの罪のゆえです。しかしまた聖書には、神はご自分のひとり子をも容赦されなかったと書いてあります。主イエスは、潔くしみも汚れもない、罪を犯されなかった神の御子でした。それではなぜ、主イエスは神によって赦されなかったのでしょうか。


まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。


しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53・4、10)


なぜイエスは、罰せられ、神に打たれ、苦しめられ、容赦なく捨てられたのでしょうか。その答えは、同じイザヤ書の3章5節にあります。


しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53・5)


主イエスが十字架上で死なれたのは、御自身の罪のためではなく、私たちの罪のためです。私たちの罪を贖い、私たちに永遠の命を与えるために、神は御自身の御子を容赦せず、惜しまず死に渡されたのです。それは十字架上で主イエスが、「なにゆえ、私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれたほどでした。神は御自身の御子を惜しまれませんでした。神は十字架上にご自身の御子をご覧になったのではなく、全世界の罪そのものをご覧になったのです。


神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5・21)


神が、御自身の御子をお見逃しにならなかったのは、神の私たちに対するまったき愛の現われです。


罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6.23)


主イエスを拒む者は容赦なく裁きに定められますが、主イエスを受け入れる者には、恵みと哀れみが与えられるのです。つまずきの石は同時に神の恵みへの道です。自分の義に頼って救われようと思う者は主イエスにつまずきます。神の道を拒むこと、このことが人生における最大の失敗です。しかし主イエスに信頼する者は、決して失望させられることがありません。


彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」(詩篇34・5)


この部分は、文語訳聖書によると「彼らの顔は、恥赤らむことなし。」となっています。あなたもこの主イエスを信頼なさいませんか。


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