第Ⅳ部 神の義と人の義の戦い
9章14節から56節まで
Ⅰ.哀れみの器、すなわちモーセについて
Ⅱ.怒りの器、すなわちパロについて
Ⅲ.人間の責任、すなわち私たち自身に関することについて
前に学んだように、9~11章までのテーマは「イスラエルの歴史における自分の義と神の義との戦い」です。今回は9章14~26節までをごいっしょに学んでみたいと思います。
この箇所のテーマは、24節にあるように「陶器師が粘土に対して持っている権利、あるいは立場」ですが、これはつまり「人間に対する神の主権」とすることができます。
(14)それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。(15)神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。(16)したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(17)聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。(18)こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。(19)すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
(20)しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。(21)陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。(22)ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。(23)それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。(24)神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。(25)それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『(26)あなたがたは、わたしの民ではない。」と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」(ローマ9・14~26)
この箇所を通して私たちは、主なる神の偉大さと卓越性について学ぶことができます。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11・3)
まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。(詩篇33・9)
神の偉大さは人間の心では測り知ることができません。そして、人間はこの神の御手の中にあるのです。人間は意志を持たない粘土のような者ではなく、神によって形造られ、自由意志を持った者として存在しているのです。私たちは、これから次の三つの点について考えてみたいと思います。
Ⅰ.哀れみの器、すなわちモーセについて
Ⅱ.怒りの器、すなわちパロについて
Ⅲ.人間の責任、すなわち私たち自身に関することについて
哀れみの器とはモーセのことです。また怒りの器とはパロのことです。そして人間の責任とは私たち自身に関することです。すべての人は哀れみの器であるか、あるいは怒りの器であるかのどちらかになります。つまり、人間の生活を通して神の怒りが明らかになるか、あるいは神の恵みが明らかになるかのどちらかだということです。しかし、たとえどちらになろうとも、神の偉大さと主の卓越性が明らかになります。14節でパウロは「神に不正があるのですか」と問いかけていますが、すぐその後で「絶対にそんなことはありません」と力強く否定しています。神はその卓越性をいたずらにお用いにはなりません。神はいかなる時にも、その決して変わることのない恵みとその義の完全性をお示しになるために行動されます。神は、もし存在しておられるならば、完全で恵みに富み、全知全能の神であるはずです。そうでない神は神ではありません。哀れみの器であるモーセは、神の栄光のために用意された者とされたのでした。それに対して、怒りの器であるパロは、滅びのために用意された者となったのです。15節の御言葉は、旧約聖書から引用された御言葉です。
彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。(出エジプト32・8)
主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、私はしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」(出エジプト33・17~19)
主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦すもの、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の答は子に、子の子に、三代に、四代に。」(出エジプト34・6~7)
モーセによって、イスラエルの民はエジプトから贖い出されました。モーセがシナイ山の上において神と交わりをもっている間に、イスラエルの民は金で鋳た子牛を造りました。モーセは、この偶像を崇拝した民のために神にとりなし、その結果、神の哀れみを受ける事ができました。もしその時、神の哀れみがなかったとしたら、神の怒りによってイスラエルの民はもはや地上に存在しなくなってしまったことでしょう。ただ神の哀れみによって、イスラエルの民は滅びから免れたのです。
神の哀れみを人が妨げることはできません。そしてまた、この神の哀れみは人間の良い行ないによるのでもありません。神は、御自分のあわれむ者をあわれみ、御自分のいつくしむ者をいつくしむ・・・・。これは、神の自由です。神の自由意志によって人間は救われるのです。信ずる者はこの神の哀れみを体験しました。それはその人の願いや努力によるのではなく、哀れんでくださる神によることだったのです。
私たちが神に敵対する者であったにもかかわらず、神は私たちを御自分のものとしてくださいました。この事は、私たち人間には理解する事も説明する事も不可能ですが、これは神の自由意志、すなわち神の御心にそったことだったのです。モーセは自分の心を主に開きました。その結果、主はモーセに彼の罪を示すことができ、そしてモーセは主なる神の恵みを乞い願う者となりました。神の恵みを慕い求めた人は、それを体験することができます。罪人が神のもとにゆくとき、神は義務的に私たちを赦してくださるのではありません。私たちを赦すことは神の御心であるがゆえに、神は私たちを赦し、哀れんでくださるのです。モーセの心が打ち砕かれることによって、モーセは栄光のために用意された器となりました。そしてこのモーセという器を通して、イスラエルの民族全体が救い出されたのです。
それと対照的なのはパロです。パロは、モーセのように神に対して心を開くことをしないで、かえって自分の心をかたくなにしました。モーセはイスラエルの全体を救いに導きましたが、パロはそれとは逆にエジプトの全体を神の裁きにおとしいれました。モーセはへりくだることによって主に栄光を帰しましたが、パロは心をかたくなにして主に反抗しました。神は、パロがかたくなな者となることをあらかじめ知っておられました。神がパロにエジプトの王という地位を与えたのは、その立場と権力を与えることによって彼の神に対する不従順を明らかなものとし、滅びに向かって行く者として熟させることによって怒りの器とするためだったのです。出エジプト記に、「それでも、パロの心は、かたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。」という表現が、何回も繰り返しでてきます。
それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が仰せられたとおりである。
しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。(出エジプト7・13、22)
ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。
しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。(出エジプト8・15、19、32)
パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。(出エジプト9・7、34)
これらの箇所に、パロは自分の心をかたくなにしたと書いてあります。この結果、神は裁きとしてパロの心をさらにかたくなにしたと聖書に書いてあります。
しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。(出エジプト9.12)
しかし主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。しかし、主はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。(出エジプト10・20、27)
モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。(出エジプト11・10)
「わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。
主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。(出エジプト14・4、8)
パロは、神が生きておられ、働いておられるということをよく知っていました。パロは、「神の指」(出エジプト8・19)が働いたため、エジプトをぶよが襲ったということも知っていました。しかし、それにもかかわらず神の言うことを聞き入れなかったのです。神の忍耐を足げにし、神の警告に耳をかしませんでした。それゆえ、神はパロを御自身に対してめくらにし、つんぼにされたのです。パロは自らの救いを拒むことによって神の前に愚か者となり、自らの滅びをまねいたのです。ところが、結果的にはパロは神に反抗することによって、神の御計画を成就する者となりました。神が成就なさろうとする御計画を妨げることのできるような人間は一人として存在しません。
このようにして、私たちはパロを通しても、やはり主なる神の偉大さとその卓越性を知ることができます。主なる神は絶対的な力を持つ世界の支配者です。人間がたとえ神に従わず、へりくだりの心を持たないとしても、そのことによって、かえって人間は神の御計画の推進者となるのです。全ての事柄を通して、神は御自身の計画を成し遂げられるからです。ですから、神に対して反抗することは愚かなことであり、また大変危険なことだということを知らなければなりません。
パロが怒りの器となったのは、彼自身のかたくなさのためであり、彼に責任があります。パロが怒りの器となり滅び行く者に定められたことは、神の勝手な思いではなく、パロ自身の罪の結果なのです。
モーセとパロを通して、私たちは、大切な次の二つのことを学ぶことができます。
1.哀れみの器とされることは、神の意志によるものであり、恵みによるのであるということです。
ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義とみとめられるのです。(ローマ3・24)
2.人が自分を怒りの器とすることは、その人の神に対する反抗や心のかたくなさのゆえです。神はそのような人を、かたくなな者とし、滅びゆく者とする権利をお持ちになっておられます。
最後に、人間の責任についてもうすこし詳しく学んでみましょう。神の目的は、全ての人々が例外なく救われることです。それは、これらの聖句から明らかです。
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネ6・40)
神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(Ⅰテモテ2・4)
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Ⅱペテロ3・9)
しかしながら、この神の御心が実現するためには、人間が神の恵みを受けようとする心構えを必要とします。19節以下において私たちは、神と人間の絶対的な相違を学ぶことができます。多くの人々は、神を理解することができないため、神にどこか不完全なところがあると考えたり、神が気まぐれに事をおこなわれるかのように考えてしまいます。しかし、それはとんでもないことです。神は絶対的な主であられ、世界の支配者です。神は決して約束を取り違えるようなかたでもなければ、間違いをおかすこともありません。けれども、これに対して人間は、独善家で自分の主張することを容易に訂正せず、自分自身を正しい者とするみじめで近視眼的な存在であり、神に敵対するものです。
謙遜に歩む者、従順に従う者、自分自身を信仰によって主に明け渡す者、こういう人々は、主からの祝福を受けます。ですから、この主の豊かな祝福を体験しない人があるとしたら、それはその人に責任があります。
わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ。―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18・23)
彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33・11)
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。(ヤコブ4・14)
人間は霧のようなものです。私たちは今日学ぶ箇所を通して、このことを深く心に留めたいものです。このことを示すために、主は陶器師と粘土のたとえを用いて、私たちに働きかけておられます。主は陶器師であり、私たちは御手のうちにある粘土です。
イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ。―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。(エレミヤ18・6)
ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造ったものに、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。(イザヤ29・16)
ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造ったものに抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。(イザヤ45・9)
粘土が神によって用いられるようになるか否かは、私たち人間自身の決断によるのです。
ですから、だれでも自分自身を聖めて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。(Ⅱテモテ2・21)
人間のわがままな思い、つまり神に対して不平を言い、神に対して指図をしようという思いは、自分自身に滅びを招くことになります。主の御言葉を受け入れ、主に従う者は、主によって用いられる器となるのです。
人間は、その本性から言って怒りの器であり、不従順の子です。しかし聖書のどこをさがしても、神が人間を滅びに定めたとは書いてありません。しかしながら人間が生まれたままの状態、すなわち怒りの器であることに留まろうとするなら、その人間は裁きに会い滅びに会うのです。それゆえ聖書は何度も繰り返して、神との和解を受け入れなさいと私たちに告げているのです。主イエスを受け入れるものは、神の子供とされると聖書に書いてあります。人間の内に住んでおられる主イエスは、栄光の望みです。内に住みたまう主イエスは成長して、私たちの内にキリストが形造られなければならないのです。主なる神が、私たち人間を造られたのは、私たちを通じて神の栄光が現われるようになるためです。自分を主なる神に開き明け渡すならば、その人を通じて神は御自身の栄光をあきらかになさることができます。しかし主なる神に反抗し、恵みを拒み、神が与えられた光をしりぞけるものは、そのしりぞけた恵みを神から永遠に取り去られ、滅びゆく者と定められるのです。
主なる神は、永遠の昔にもうすでに私たち人間のうちで誰が主を受け入れ、従順に従う者になるかということを知っておられました。しかし、神は今日豊かな時代、恵みを提供しておられます。その神は、忍耐をもって怒りを抑えておられるのです。その理由は、私たちが悔い改めて導かれるためです。
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2・4)
神の慈愛に対する私たちの態度は、それを軽んずるか、感謝をもって受け入れるかのどちらかしかありません。
パロは自分自身をかたくなにすることによって、神からさらにかたくなな者とされてしまいました。このように人間の債務と神の裁きは、常に関係があります。また、パロは自分自身をかたくなにし、怒りの器となったにもかかわらず、そのことによっても、また神は御自身の偉大さと卓越性をあきらかにされたのです。次の御言葉によって、それはあきらかです。
それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。(出エジプト9・16)
イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト14・31)
ミリヤムは人々に答えて歌った。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」(出エジプト15・21)
モーセ、ミリヤム、そしてイスラエルの民全体は、エジプトのパロのかたくなさを通して、主なる神の偉大さと卓越性を見た結果、主に感謝しほめたたえました。15章1節から1節をみればイスラエルの民だけではなく周囲の国々の民も、主を恐れるようになったと書いてあります。すなわち、9章15節の預言は、ここに成就されたのです。
「それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。」(出エジプト9・16)
ローマ人への手紙9章24節から26節までには、主の哀れみが単にユダヤ人だけではなくやがて異邦人にも及んで、怒りの器を恵みによって哀れみの器としてくださることが書かれています。新約時代になり主の復活の後、五旬節には三千人の人々が提供された恵みを受け入れました。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(使徒2・38、41)
彼らは哀れみの器とされたのです。哀れみの器は栄光のためにあらかじめ用意されたものです。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ8・20~30)
主イエスの十字架は、全人類に向かって「あなたがたはわたしの民ではない。死に定められた者である。しかし、もし提供された恵みを受け入れるなら、哀れみの器と変えられるのだ。」と私たちに語っています。私たちはいったい哀れみの器でしょうか。それとも怒りの器でしょうか。どちらの器になるかは私たちの責任です。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(第一ペテロ2・6~8)
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3・36)