第Ⅳ部 神の義と人の義の戦い
ローマ人への手紙
9章1節から15節まで
Ⅰ.1~8章と9~11章の比較
Ⅱ.選ばれた民すなわちイスラエル
八つの特権
1.子とされること
2.栄光
3.契約
4.律法
5.礼拝
6.約束
7.先祖・預言者
8.キリスト
Ⅲ.神の選びと人の決断
「神の愛」の上巻、ローマ人への手紙1~8章までの学びに引き続き、この下巻は9章からごいっしょに学びたいと思います。まず、始めのテーマは、「イスラエルの歴史における自分の義と神の義の戦い」です。そして、これが9~11章までの中心的なテーマとなっています。今日は、そのうちの9章1~135節までを学びたいと思います。聖書の本文は次の通りです。
(1)私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。(2)私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。(3)もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(4)彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。(5)先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
(6)しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、(7)アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。(8)すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。(9)約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」(10)このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。(11)その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「(12)兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「(13)わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。(ローマ9・1~13)
この箇所は三つの部分に分けることができます。
Ⅰ.1~8章と9~11章の比較(1~3節)
Ⅱ.選ばれた民、すなわちイスラエル(4~5節)
Ⅲ.神の選びと人間の決断(6~13節)
パウロは1~8章までで救いについてを中心に教えていますが、9~11章では主にイスラエルの歴史について述べています。ローマ人への手紙全体の中心テーマは「義」です。1章から3章20節までは、ユダヤ人の内にも異邦人の内にも、義人はいない、ひとりもいない、ということが繰り返し述べられています。3章2節から5章までには、主イエスによってもたらされた神の義が提供されているという喜ばしい福音が記されています。そして、6~8章までは、その提供された義を自分のものにした人がどのようにその義を体験するか、すなわち新しい生活の歩みについて述べられています。私たちがこれから学ぶ9~11章は、主イエスによってもたらされた義のみが神によって認められる、ということを、イスラエルの歴史を考えることによって明快に実証しているのです。
また、1章から3章20節までは、主イエスを持たない人間の努力のむなしさについて、そして、21節から7章までは信仰について、すなわち、主イエスは自分のために何をなしてくださったのか、自分と共に、何をなしてくださったのかということについて詳しく語られています。さらに8章では、私たちの内に住みたまう生ける望みである主イエスについて語られています。そして、これから読み進む9~11章は、この主イエスに対してどのような態度をとるかということの重要性について、言いかえれば、キリストは「万物の上にあられる」ということについて私たちに深く教えているのです。
さらに別の観点からこのローマ書を見てみるなら次のようにもまとめることができるでしょう。3章20節までは「罪」について。21節から5章までは「義とされること」について。そして6~8章までは「聖化」、つまり「信者の成長」について記されていると言えます。そうしますと、これからの中心となる9~11章までは、「神から提供された恵みを受けること」と、「その恵みを拒むこと」の結果について記されていると見られます。
このようにいろいろな角度からまとめてみますと、全体として前半の1~8章までは神の救いがその中心的な内容です。その救いとは主イエスによって全人類のために成し遂げられたものであって、信じる者には例外なく値なしに与えられるものです。後半のうち、9~11章までは、提供された救いに対してイスラエルの民がどのような態度を取ったかを私たちに示しています。この9~11章についてその内訳をみてみますと、9章では過去のイスラエルの歴史について、10章では現在のイスラエルのありさまについて、そして、11章では未来のイスラエルに起こるべきことがらについて述べられています。
過去においては、神の義と恵みがイスラエルの民に対して提供されていました。ところが、残念なことにイスラエルの民の大部分は、提供された神の救いの道を拒んでしまったのです。この事実をパウロは非常に悲しんで嘆いています。そしてその嘆きと悲しみを9章1~2節で訴えています。8章においては、信者の喜びと信仰の勝利について記されています。罪人は神の子どもとされ、主イエスに似た者とされます。ところが、8章から9章に移るやいなや、信仰の勝利が嘆きの声に変わりました。この二つの節には何と大きな違いがあることでしょう。自分を全然かえりみないパウロの愛がここにあらわれています。8章においてパウロは、「私たちをキリストの愛から引き離すのは何者であるか。」と信仰を証ししています。それにもかかわらず、パウロはイスラエルの民を救うためならば、パウロ自身がキリストから引き離されてもかまわないとまで断言しています。もちろん、キリストから引き離されるということがどんなことか、パウロは十分に承知していましたが、人間が人間を救うことは不可能であるということも知っていたのです。
人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。(詩篇4・7~8)
パウロは、罪のない者だけが人を救うことができる、ということを知っていました。罪のない者とはイエス・キリストのことにほかなりません。
神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5・2)
パウロは自分自身でイスラエルの民を救うことは不可能であっても、そのためにはいかなる犠牲をもいとわないと言っています。それは、パウロが主イエスの愛に満たされていることのあらわれです。私たちは、まだ救われていない家族と一緒に生活しているとき、あるいは、まだ救われていない友人とともにいるとき、パウロのような愛に満たされているといえるでしょうか。パウロの証ししていることは彼にとっては決して誇張ではありません。彼は9章1節で「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。」と言明しています。パウロの良心と聖霊とが証ししていることでした。私たちもそのような証しが与えられるなら幸いです。
神に選ばれたのは、世界中の多くの民族の中でもイスラエルの民だけでした。パウロはイスラエルの民に与えられた八つの特権について述べています。この八つの特権について手短かに考えてみましょう。
1.子とされること
イスラエル人は子とされる権利を持っていました。彼らは子どもとして受け入れられたのでした。出エジプト記にはこのように記されています。
「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。」(出エジプト4・2)
イスラエルの民は、子どもとして「長子権」をもっています。
2.栄光
イスラエルには栄光が与えられていました。栄光はヘブル語では「シェヒーナ」という言葉です。イスラエル人には荒野においていつも頭上に雲が従っていましたが、この雲は神のご臨在をあらわすものでした。この雲について聖書では「シェヒーナ」つまり栄光という言葉が使われています。会見の幕屋の上にはいつでもこの雲があり、神がこの雲の中におられモーセと語られたのです。このようにして栄光を与えられた民族はイスラエル以外にはありません。
3.契約
イスラエルには神の契約が与えられていました。神はアブラハムに対しては恵みの約束を与えられ、モーセに対しては律法を与えられました。
4.律法
神はイスラエル人にたいしてモーセを通して律法を与えられました。これは、イスラエル人にご自分の意志をはっきりとお知らせになるためでした。この神の意志はイスラエルの民に対して与えられたのであって、他のいかなる民に対しても与えられてはいませんでした。
5.礼拝
礼拝、すなわち聖所で神に仕えることも、イスラエルの民だけに与えられた特権でした。生ける神はイスラエルの民に対してだけご自身を啓示され、共に住んでくださり、彼らを聖なる民としてくださったのでした。ほかの国々は、まことの礼拝の対象を知ることがなかったのです。
6.約束
尊い約束は、将来においてイスラエルの民にのみ与えられるものです。
7.先祖たち、預言者
先祖たち、つまり、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、それから預言者たちもみなイスラエルの民に属し、彼らに先立って生まれたのでした。
8.キリスト
キリストも、人としてはイスラエルの民の内から出ました。しかし、たしかにキリストは彼らから、イスラエルから出られた者ですが、決してイスラエルだけの独占物ではないのです。5節には、「キリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。」とあります。主イエスはイスラエルのみではなく、万物の上におられる方であり、神ご自身だからです。
この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(Ⅰヨハネ5・20)
五百年もまえにイザヤは主イエスについて証しして、次のように預言しています。
ひとりのみどりごが、私たちのために産まれひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9・6)
主はご自身について、こう言われました。
わたしと父とは一つです。(ヨハネ10・30)
御子の本質については、次のように言われています。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1・1)
御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。」(ヘブル1・8)
このような方である御子の地上での歩みについては、次のように示されています。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2・6~11)
御子の本質と、その姿と、果たされた御業について、パウロは次のように要約しています。
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一の者となられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・15~20)
このようにして、これらのイスラエル人に与えられた数々の特権を考えるときに、彼らが全く特別に選ばれた民であったということは疑う余地がありません。この特権はただ神の恵みによって与えられたものであり、決して彼らの手柄によるものではありませんでした。これらの賜物は、値なしに恵みによって与えられたものだったからです。それではなぜ、神はイスラエルの民をこのように特別にあつかわれたのでしょうか。残念ながら私たちにはそれを説明することはできません。私たちは、ただ神がイスラエル人を愛しておられたから、これらのものをお与えになったのだという事実を知っているのみです。パウロもまたこの説明をしようとせずに、ただ、それらをお与えになった神をほめたたえています。
このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。(ローマ9・5)
このようにしてイスラエルの民は、神から非常に多くの特権を与えられておりましたが、彼らの大部分はその特権を自分のものとして受け取ろうとはしませんでした。ですから、彼らの苦難の原因は神にあるのではなく、彼ら自身の不信仰、不従順、すなわち罪にありました。パウロが4~5節で、イスラエルに与えられた特権について一つ一つ詳しく述べたのは、ローマの教会には多くのイスラエル人が属していたからでしょう。パウロは、肉によるイスラエル人、つまり、アブラハムの子孫がすべて真のイスラエル人なのではないと言っています。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6・15~16)
神のイスラエルに属する人とはどのような人のことでしょうか。誰が一体真のイスラエルといわれることができるでしょうか。真のイスラエルとは真の信者のことにほかなりません。主イエスを受け入れる者、聖霊によって主イエスと結ばれている者、そのような人こそが新しく造られ、永遠のいのちを持っている者です。神のイスラエルとされるための条件は、新しい創造、すなわち、新しく生まれることです。このことは、神のみことばと聖霊による以外には不可能です。ただ単にアブラハムの子孫であるというだけでは、何の意味もありません。主イエスはあるとき、ユダヤ人たちと次のようなことをお話になったことがありました。
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。・・・・あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ8・33~47)
8節には「神の子ども」という表現が出てきますが、「神の子ども」とは一体どのような人を意味しているのでしょうか。それは、神のことばと霊とによって新しく生まれ変わった者のことです。あなたは「神の子ども」として新しく生まれ変わることを、すでに体験されましたでしょうか。
ここでは、神の選びについて書かれています。神は、アブラハム、イサク、そして、ヤコブをお選びになりました。神はカルデヤのウルに住んでいる者たちの中から、ほかならぬアブラハムひとりをお選びになりました。そして、神はアブラハムの子孫のうちからイシマエルではなく、イサクを、さらにイサクの子どものなかからエサウではなくヤコブをお選びになったのです。なぜ、アブラハムが選ばれ、イサクが選ばれ、ヤコブが選ばれたのでしょうか。この問いに対してもやはり明確な答えは用意されていません。主なる神の導きは、私たち人間には理解することができません。しかし、その導きは間違いのない完全なものです。神の選びは、人が救われるか、滅びるかということに対してあるのではなく、私たちに対して特別な使命を与えるためなのです。神はイスラエルの大部分を、イシマエルやエサウのように神の道具としてはお用いにならず、かえって取り除かれました。このことは、イシマエルやエサウをはじめとする多くのイスラエル人が滅びたということなのではなく、彼らが自分たちに与えられた使命を果たさなかったゆえに無益な者に引き渡されてしまったということなのです。私たちはすでに、神のみこころはすべての人が救われることである、ということを学んだはずです。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(Ⅰテモテ2・4)
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Ⅱペテロ3・9)
悔い改めて神から提供された恵みを自分のものにするなら、永遠の救いを手にいれることができます。しかし、この恵みを拒否するなら永遠の滅びに定められます。それゆえ、人間の決断は非常に大切なのです。
信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。(マルコ16・16)
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3・36)
信じることを否む者、すなわち、聞き従わない者は罪に定められます。
わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。(ローマ9・13)
神が人間を憎まれるとき、その憎しみは人間の憎しみと異なった聖なる憎しみであり、義の憎しみです。と言うのは、その憎しみの原因がほかならぬ私たちの罪だからです。神は、罪や不従順や感謝を知らない心を憎みます。
また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。(ヘブル2・16~17)
これこそが、イスラエルの大部分が選んだ道、つまり、自分自身の思いで歩もうとした道の結果にほかなりませんでした。私たちクリスチャンもこのような多くのイスラエル人たちと同じ道を歩む危険性を十分に持っています。主なる神は常に正しく完全です。たとえ、神の導きが私たちにとって間違っているように思えたとしても、その導きは完全であり正しいのです。主のみこころは私たちにとって益となること、つまり、最上の道を歩むことなのです。これらのことを、今日の学びを通してみなさまにぜひ覚えていただきたいと思います。