第Ⅲ部 新しい生活の歩み

17.生ける望み

ローマ人への手紙

8章1節から30節まで


Ⅰ.今の時の苦しみ

Ⅱ.本当の解放を求める祈り

御霊の働き

1.確信を与える

2.力を与える

3.聖霊の権威

Ⅲ.神に選ばれた者


今日の主題は、「生ける望み」ということです。一般に「望み」という場合には、将来の何か良いこと、例えば幸せとか、福祉とか、正義、救いというようなことを期待しながら、待っている人間の態度を言います。それは人間の本質であり、人間だけが持つことができるものです。とりわけ若い人は希望で一杯ですが、比較的年長の人でも静かな望みを心に秘めているものです。ですからもはや望むことが何もなくなってしまうような時には、ただ絶望と死だけしかないように思ってしまいます。


聖書の言う望みとは、将来行なわれる救いの完成を確信を持って待ち望むことです。そしてこの望みは、ただ信仰からのみ出てくるものであり、いかなる訓練、あるいは試練の中にあっても必ず勇気を与えてくれるものです。この聖書の望みは、一般に言われているような望みとは相容れないものです。


一般的な望みは、常にこの世に向けられていて、本当の確かさがないために心の奥は虚しさに支配されています。それに対して、聖書の望みは主イエスから与えられた望みのゆえに、この世のあらゆる虚しいものを捨てる力を持っており、そのために心は常に満たされ、慰められ、力を与えられます。生き生きとした望みの秘訣は、いったい何でしょうか。それは、私たちが自分自身を見たり、他人を見たり、私たちを取り巻く周囲の状況を見たりすることをしないで、望みそのものであられる主御自身を見上げることにあります。それは、心配や不安、恐れからの解放を意味しています。今日は、この私たちの「生ける望み」について、学んでみましょう。


(18)今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(19)被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。(20)それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。(21)被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。(22)私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(23)そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。


(24)私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。(25)もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。


(26)御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈たらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。


(27)人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(28)神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(29)なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。


(30)神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ8・18~30)


Ⅰ.「生ける望み」は、今の苦しみを通して本物であるかどうかが試されています。ですから18~23節までは、「今の時の苦しみ」と題することができます。


Ⅱ.「生ける望み」とは、内に住みたまう御霊の実です。15章13節に「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」とあります。ですから24~27節までの題は「本当の解放を求める祈り」とすることができます。


Ⅲ.「生ける望み」は、自分は神によって選ばれた者であるという確信に基づいています。そこで28~30節までは「神に選ばれた者」という題をつけることができます。


この三つのことがらについて、これから学んでみたいと思います。


Ⅰ.今の時の苦しみ


人間ができる唯一の正確なことは、数学的な計算だけです。例えば、地図を作る人が、百%完全な地図を作ることは不可能です。また同様に、歴史家も過ぎ去った事実について百%完全に記述することはできません。人間ができることで百%完全にできることは算数の計算だけです。2たす2は4ですが、このことを疑う人はおそらくいないでしょう。パウロが18節で「私は考えます」と言っている「考える」という言葉は、実はこの「計算する」という意味の言葉なのです。パウロがここで考慮に入れていることは事実のみです。パウロがここで言っている今の苦しみとは、パウロの想像でも、うわごとでもありません。これはパウロにとって現実でした。パウロは私たちが考える以上に多くの苦しみに会っていました。


私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。(IIコリント11・25〜28)


ここでパウロは、「今の時」という言葉を使っていますが、「今」とは永遠に続くものではなく、限界のあることを意味しています。苦しみにははっきりとした目的があり、またどこかへ至る道であり、手段です。


パウロは自分の肉体が弱いということを知っていました。パウロは病気がちであり、たいていいつもどこかが悪い状態であったようです。


パウロは、外にも内にも重荷を負っていました。外面的には迫害を受けていましたし、内面的には教会に対する心づかいがありました。


パウロは、滅びゆく物に束縛されて、悩みが絶えなかったのです。


ところがパウロは、来たるべき栄光を待ち望んでいましたから、今の時の苦しみと将来啓示されようとしている栄光とを比較してみて、この苦しみが栄光に比べれば、取るに足りないものであるということを証ししたのです。もしパウロが、自分の苦しみを、啓示される栄光と比べることをしなかったなら、彼はこの苦しみに押しつぶされてしまい、喜びも平和も力もうせてしまったことでしょう。悪魔は私たちを疑惑に陥れることをたくらんでいます。パウロもまた、そのことを知っていました。それゆえ、彼は18節で苦しみと栄光とを計りにかけて、今の現実的な苦しみは将来の栄光に比べれば取るに足りないことを確信したのです。私たちは信者として、もうすでに将来の栄光に部分的にあずかっているのです。


またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。(ヨハネ17・22)


この栄光とはいったい何でしょうか。次の言葉がこの栄光について説明しています。


幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。

主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1、2)


信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5.1)


私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Iヨハネ1・3)


これらの御言葉は、私たち信じるものが今日すでに持っている栄光について述べています。しかしながら、完全な栄光のすべてを私たちが自分のものとしているわけではありません。今日の私たちの状態をパウロは19節で「切実な思いで待ち望んでいる」と表現しています。ここでいう被造物とは、信者も、未信者もまた造られたすべての生物をも含みます。今日私たちが直面している困難や苦しみの原因は罪です。この罪によって、被造物は呪いのもとにあるのです。神を知らない人々は、自分の人生を運命であるとあきらめて、未来に対して不安を持ちながら生活しています。信者は、いまの苦しみがつかの間のものであり、将来主イエスの栄光にあずかるものとされる、ということを確信しています。捕虜にされた人は、近い将来自分の家族に再会することができると思えば、捕われの身であっても力がわいてきます。生ける望みを持っていない人は、悲惨です。生ける望みは、喜びと力とを与えてくれます。21節に書いてあるように、私たちには栄光の自由が約束されています。神から自由になること、つまり神の御手から逃れることは人間にはできないことですが、私たちは神のために人と世から解放され、自由になることができます。神なしに、人は自分勝手な道を歩むことはできますが、その結末は滅びと死です。22節には「産みの苦しみ」という表現が使われています。産みの苦しみとは望みのない死に対する戦いです。長いあいだ闇のなかにいた者が、生まれることによって光のもとに出されます。苦しみは栄光に至る途上にある、ということのしるしです。栄光にあずかるものとして約束された信者もまた、この苦しみを忍んでいます。彼らはその弱い肉体を悩んでいますが、栄光の御霊がもうすでに彼らの上にとどまってくださり、力を与えてくださいます。栄光の御霊は、この苦しみによって、彼らを栄光の内に導き入れます。産みの苦しみとは、実際に主イエスの御跡に従おうとする者の体験することです。つまり、信者もまた悩み、苦しみ、切実な思いで待ち望む状態にあるということです。完全な解放は、将来において行なわれます。


キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3・21)


Ⅱ.本当の解放を求める祈り


生ける望みとは、内に住みたまう御霊の実です。生ける望みとは、栄光の御霊の結実です。24~27節までは、御霊がどのような働きをするか、ということについて書いてあります。26節では、信ずる者がいかに弱く、力のない状態にあるかということについて述べています。「弱い私たち」、また「私たちはわからない」という表現が出てきます。ここでは、信者の祈りではなく、信者の内に住みたまう聖霊の祈りについて書かれています。ハドソン・テーラーという人は、神によって非常に用いられたしもべでしたが、彼は「私には聖書を読む力もない、祈る力もない、ただ私のなしうることは、イエス様によりすがることだけだ」と証ししました。御霊の力に拠り頼まない信者は、全く役に立たないものです。もし私たちが、自分自身を御霊にゆだね、御霊の導きに従うならば、御霊はいったい何を私たちになさるのでしょうか。


第一に、御霊は、私たちに確信を与えます。「私たちが神の子どもであり」、この栄光の御霊によって「私たちが栄光にあずかる者とされる」という二つの確信を与えてくれます。


第二に、聖霊は、私たちに力を与えます。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます(26節)」。


私たちは、しばしば弱く、力なく、どうしたらよいかわからず、知恵を持たない状態に陥ります。しかしそのとき、御霊は私たちを助けてくださいます。


第三に、27節から聖霊の権威について学ぶことができます。「御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださる」。


私たちがしようと欲してもできないことを、御霊はなしてくださいます。これがローマ人への手紙8章の中心テーマです。


信者は、しばしば八方ふさがりの状態に陥りますが、信者がどのような状態になろうとも、信者の内に住みたまう御霊は、力に満ち、確信に満ちています。たとえ私たちが今絶望したとしても、御霊ご自身が私たちのためにとりなしをして、私たちを助けてくださいます。こうして、私たちの弱さは祝福されたものとなるのです。私たちが、自分自身が求めることを追求するのではなく、御霊ご自身に自分を明け渡すことができれば本当に幸いです。


Ⅲ.神に選ばれた者


28~30節は、私たちが神によって選ばれた存在である、ということを述べています。生ける望みとは、自分が神によって選ばれた者である、という確信に基づいています。29、30節には、三つのことがらが述べられています。


第一に、永遠の昔から神はイエス・キリストにあって選ばれた人々をあらかじめ知っておられ、またあらかじめ定めておられました。


第二に、神は現在、あらかじめ定められた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認めてくださいました。


第三に、神は将来において、義と認めた人々をさらに栄光にあずかる者としてくださいます。


この節は、過去においてしばしば誤って解釈された節です。ある人たちは、人間はあらかじめ信者と未信者に定められており、未信者に定められている人はいくら求めても神を見い出すことができないと主張します。このことはとんでもない間違いです。主イエスは「わたしのもとに来る者を、決して拒まない」とおっしゃってくださいました。聖書は、主イエスがすべての人のために死なれたこと、そして、すべての人がイエス・キリストにあって生きるために主は死なれたと言っています。それではいったい、この節をどのように理解したらよいのでしょうか。


神は、永遠の昔から主イエスを受けいれるようになる人々をご存じであられ、主イエスの血潮によってきよめられ、義とされるようになる人々をご存じでした。


神は、私たち人間に自由意志をお与えになり、私たちが恵みを受けるか、それとも恵みを拒むものになるかを私たちにお任せになりました。


神は、恵みを受ける人々を、すなわち、救われる人々をあらかじめご存じでしたが、その人々を定めておられたのではありません。神が定めておられたのは、自由意志をもって主イエスを受け入れた人々が御子に似る者となることでした。いわゆる予定説というのは、信仰、すなわち救われる人々に対することではなく、救われた人が後になって間違いなく栄光にあずかるものとされる、ということを述べているのです。義と認められた人々は、必ず栄光にあずかるものとされます。救いに関しては、すべての人々が救われるようになることが神のみこころであると、聖書ははっきりと語っています。


神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(Iテモテ2・4)


主は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(IIペテロ3.9)


神様は、すべての人がただへりくだる心を持って恵みを受け入れれば、恵みを与えてくださると約束しておられます。


パウル・フンベルグは、非常に祝福されたドイツの伝道者でしたが、彼は最後の審判の情景を次のように夢に見ました。最後の審判の日に、羊と山羊を分けるようにすべての国々の民が主イエスの御前に集められ、主イエスはご自分の右におられる人々に「祝福された人たち。御国を受け継ぎなさい」と言われ、左にいる人たちに「のろわれた者ども。私から離れて、永遠の火に入れ」と言われました。のろわれた者ども、と言われた人々は、主イエスの御声を聞いていちもくさんに逃げだしましたが、そのうちの三人が恐ろしさで足がすくみ、縮みあがってしまい、逃げることができなくなり、その場に立ちすくんでしまいました。そして、その人たちは主イエスの左手にある釘のあとを見たのです。彼らは、互いに語りあいました。


「おい、イエス様の手の釘のあとを見たか。イエス様は私たち滅びる者の罪のためにもいのちを捨ててくださったのだ」「そうだ、私の滅びの責任は私たち自身にある」「どうして私たちは、イエス様を受け入れずに拒んだのだろうか」。


人生において最も大切なことは、主イエスを救い主として受け入れることです。死んでからの後悔は役に立ちません。恵みによって信仰に導き入れられた人々は、御子の姿に似たものに変えられます。この確固とした確信によって生ける望みが生まれます。28節には「私たちは知っています」とあります。この確信は、信者にとって非常に大切なものです。神の御計画を成就するために、すべてが働きます。悪魔は私たちを主イエスから引き離し、私たちの確信をぐらつかせようとチャンスをねらっています。しかしながら、悪魔でさえも、神の目的を成就するための道具にすぎません。主イエスは私たちの手をしっかりと握っておられ、私たちが離そうとしてもイエスの方でその手を離されません。


「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10・28)


私たちはすべてのことを理解し尽すことはできませんし、私たちの目は完全に曇りのないものとされてもいませんが、それでも私たちの直面している問題や悩みの背後には主イエスがおられ、すべてご存じであられるということに私たちは確信を持っています。すべてのことを働かせて益としてくださるためには一つの条件があります。その条件とは、神を愛するということです。神を愛する愛は、無条件の愛でなければなりません。神の愛を受け入れる人は、神を心から愛するようになります。


最後に二つの節を比較してみましょう。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)


なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8・29)


初めに引用した節では、主イエスは神のひとり子と書かれています。次の節には、主イエスは長子となられると書いてあります。この二つの言葉の違いはいったい何でしょうか。神のひとり子は、彼に続いて他の兄弟たちが生まれることによって長子となります。神のご目的は、一つの家族をつくること、主イエスと他の多くの兄弟たちとの家族をつくることです。主イエスを救い主として受け入れる人は、新しく生まれる人です。新しく生まれた人は、御子の姿に似たものになる、ということを神が定めてくださいました。神が定めてくださったことは必ず成就します。私たちもまた主イエスに似たものと変えられるのです。これこそ私たちの確信であり、私たちの生ける望みです。


愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(Iヨハネ3・2、3)


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