第Ⅲ部 新しい生活の歩み
ローマ人への手紙
8章11節から17節まで
Ⅰ.救いの意味
1.愛されていること
2.生きたものとされていること
3.解放されていること
Ⅱ.聖霊の働き
1.新しいいのちを与えること
2.新しい歩みを備えること
3.相続人とすること
Ⅲ.戦いの目標
1.死ぬべきからだを生かすこと
2.神の相続人となること
3.御子の姿に似た者となること
ヨハネの福音書11章を読みますと、そこにはラザロのよみがえりについて記されています。私たちはここに救いの素晴しさの一つの例を見ることができます。
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」(ヨハネ11・43)
主が今日も私たちの心の目を通して、その救いのすばらしさを啓示してくださいますように。本日私たちが学ぶローマ人への手紙8章の11~17節の主題も、この救いのすばらしさということです。
(11)もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
(12)ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
(13)もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
(14)神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(15)あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。(16)私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(17)もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8・11~171)
本日の箇所から、三つの点について考えてみたいと思います。
Ⅰ.救いの意味について
Ⅱ.聖霊の働きについて
Ⅲ.戦いの目標について
救いとは、
第一に、愛されていることであり、
第二に、生きたものとされることであり、
第三に、解放されることを意味しています。
ラザロの出来事を通して、このことを知ることができます。主イエスがラザロを愛しておられたということは、ヨハネ11章に三回述べられています。「あなたが愛しておられる者が病気です。(3節)」「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。(5節)」「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。(36節)」。
愛されていることを知ることは、その人に力と勇気を与えます。だれにも愛されていない人は、疑い深くなり、希望のない状態になり、孤独になります。生きておられる神は、私たち一人一人を愛しておられます。主は変ることのない愛を持って私たちを愛しておられます。主の愛は、愛される者がどのような状態にあっても、変わることなく注がれる愛です。主は、私たちがその愛にたとえ応えなくても、あるいは私たちが主の愛を拒絶するようなことがあったとしても、変わらず私たちを愛していてくださいます。救いの意味とは、主の示しておられるこの愛に対して心の目を開くことです。
第二に、救いとは私たちを生きたものとします。ラザロは生かされる、ということを体験しました。聖書は、あらゆる人間は神に対して死んだものであると言っています。御霊が、人間の神に対して死んでいた霊に代わって私たちの内に住んでくださるとき、その人は生きたものとされ、救いにあずかることができるのです。言いかえるなら、それは救われたということです。多くの知識を所有しているということは問題ではありません。また、主イエスに従うことを決心するだけでも十分とは言えません。それは、理想主義者ならばだれでもそのようにすることができるからです。最も大切なことは、生きたものとされること、つまり、御霊が人間の内に住んでくださることです。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません(9節)」。救いの三番目の意味は、解放です。多くの人々が、今述べられたことを体験しました。つまり、主イエスに愛されており、御霊によって生きたものとされたということを体験するようになりました。彼らは、救いの確信を自分のものとしたのです。彼らはもう裁きに会うことがないということをはっきりと知るようになりました。しかし多くの信者は、ラザロと同じような状態にあります。ラザロは自分が愛されており、生きたものとされたということを知っていました。けれども、ラザロはそれでもなお手と足を長い布で巻かれ、顔は布切れで包まれていたのです。つまり、目は見ることができなかったし、手足は布に妨げられて自由に歩きまわることができなかったのです。私たちはラザロと同じような状態にいるのではないでしょうか。解放される前のラザロと同じような状態にある者は、救いの素晴しさをまだ知っていないと言えましょう。救いとは、解放されること、全く自由にされることをも意味しています。ラザロは完全な自由を体験しました。ヨハネ12章2節を見ると、ラザロがイエスと共に食卓についていたと書かれています。食卓につくことは交わりを持つということを意味しています。多くの信者は救いの一部分しか体験していないと言えましょう。彼らは日々の生活において、瞬間々々を主との交わりのうちに過ごすということを知りません。これは本当に悲しむべきことです。私たちは完全な救いを体験するために召されているのですから。
聖霊の働きによって、主イエスからもたらされた救いが私たちのものとなり、私たちの体験となるのです。聖霊には三つの働きがあります。
1.聖霊のみが、新しいいのちを与えることができます。
2.また、聖霊は新しい歩みをするための力を与えます。
3.さらに、聖霊のみが私たちを相続人としてくださるのです。
第一に、聖霊が新しいいのちを与えることができる、ということについて考えてみましょう。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(ヨハネ6・68)
聖霊が内に住んでくださることによってのみ、私たちは神の子とされるのです。9~11節にそのことがはっきりと記されています。聖霊を宿している、ということが救われているということの証拠です。
あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。・・・・あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか。(Ⅰコリント6・15,19)
私たちは生ける神の宮なのです。(Ⅱコリント6・16)
私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5・5)
このような御言葉は、確信に満ちた御言葉です。聖霊が与えられているということに対して単に漠然としたことを述べているのではなく、確信を持って書かれているのです。神と一つにされたという確信は、神の子の喜びです。主が私たちの父であり、また私たちは、神の子どもである、ということを知ることは私たちに大きな力づけを与えます。真の信者はだれでも、私たちは神の家族の一員である、ということを知っています。どのような教派、教団に属していようと、本当の信者は人間的な枠組みを越えて神の家族として一つである、ということを確信して喜んでいます。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」と15節にあります。
御霊御自身があかししてくださること、これが最も大切なことです。理性によって確信をつかんでいるというのではなく、感情によって約束されているというのでもなく、御霊御自身があかししてくださるのです。この御霊のあかしがなければ、その人には一番大切なことが欠けていると言えましょう。この確信を持ちたいとはお思いになりませんか。神の御霊が、あなたは神の子どもであると告げてくださるのです。新しいいのち、永遠のいのちのみが神の御霊を与えることができるのです。
第二に、御霊は、単に新しく生まれる力を与えるだけでなく、新しく歩む力をも与えてくださいます。子どもが生まれるということは大きな喜びです。ところが、生まれたままで少しも成長しないとしたらどうでしょうか。それは悩みの種となります。新しく生まれただけで少しも成長しない信者の場合にも、同じことが言えます。これも本当に大きな悲しむべきことです。ラザロの場合を振り返ってみましょう。彼は手と足を長い布で巻かれており、顔は布切れで包まれていましたが、それは取り去られなければなりませんでした。さもなければ主イエスを見ることも、交わりを持つこともできなかったでしょう。ラザロが食卓について主と交わりを持っていたときには、もうこれらの布は取り去られていました。信者はだれでも自分は愛されているということと、生かされているという体験を持っています。しかし、まだ葬りの布をからだに巻いたままでいるような信者は、新しい歩みを踏み出すことができません。顔が布で覆われているなら、主イエスを見ることもできません。
多くの信者は、目に見えるものに目を奪われ、自分の感情や自分の問題を見つめていて、自分を大事にし、消極的な信仰生活、つまり、目に見えるものの背後にいます主イエスを見過ごしているのです。よみがえらされたラザロは、まだ束縛された状態にありました。ラザロは自分自身を解放するという力を持っていませんでした。これと同じように、新しく生まれた信者も自分の努力で良いことを行なう力もなければ、主イエスのために生きるという力さえも持たないのです。しかし、私たちにはできないことを、御霊はなさることができます。このことが、8章に述べられている信者の人間的な努力に対する神の解答です。御霊の力は新しく生まれた人に、今まで彼が欲してもできなかったことを行なう力を与えます。新しく生まれることによって、私たちの神に対する関係は新たなものとなりました。かつて私たちは神に逆らい、霊的に盲で、つんぽでしたが、今は、主との交わりのうちに主の喜ばれることをするように変えられたのです。御霊が内に住んでくださることによって神の子とされた信者は、相続人とされる特権を与えられています。ところが、現実に相続人となるためには成長して、相続するための資格を得なければなりません。
相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。(ガラテヤ4・1)
さらに、第三に、聖霊のみが私たちを相続人としてくださるということについて学んでみましょう。もちろん、これはいままで学んだ第二の点、すなわち新しい歩みと関係があります。新しい歩みのもたらすものは相続人となるということです。新しく歩み、相続人となるために8章14節は大変重要です。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」。
ここでは、子どもという表現が使われていますが、これは本当は息子という意味です。ギリシャ語では、子どもと息子の間には大きな違いがあります。ガラテヤ4章1節によると、子どもと奴隷は財産の相続に対して同じ資格しか持っていないということが書いてあります。子どもが成長して、財産相続の権利を持ち、父親が安心してその財産を任せることができるようになったとき、息子と呼ばれるようになります。子どもは、父親の愛情に完全に信頼しているものです。息子は、ただ単に自分が愛されており、父の子であるということを確信しているのみでなく「父の御霊によって導かれる」ということを特徴としているものです。私たちは自分自身の意志によって、また考えや感情によって導かれるか、それとも御霊によって導かれるか二つに一つです。このことによって、信者が神の子どもであるか、神の息子であるかということがはっきりとわかるようになります。私たちはこれを捨てて、すなわち、自分の意志、感情、思いを捨てて、御霊に絶対的に従順に従う用意があるでしょうか。新約聖書の手紙が書かれた主な理由は、信者がなかなか成長しないという点にあります。
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えには通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル5・12~14)
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。(Ⅰコリント3・1~3)
あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。(ガラテヤ4・11、19、20)
新約聖書の手紙の目的は、神の子どもが神の息子になるためです。パウロが書いている信者に対するすすめをいくつかここにあげてみましょう。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ4・11~160)
私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(ピリピ1・9~11)
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。(ピリピ3・14~16)
こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(コロサイ1・9~12)
神の御霊に導かれる者のみが、神の救いの素晴しさを体験することができるのです。御霊に導かれる者は、あらゆる束縛から解放されます。ちょうどラザロが葬りの布から解放されたようにです。御霊に導かれる者は、人と世から完全に解放されます。主イエスに全く拠り頼む者となります。
17節によれば、相続人になるためには、御霊に導かれることだけではなく、キリストと苦難をともにすることが必要条件としてあげられています。「ともにしているなら」の「なら」とは、条件を示しています。苦難をともにしなければ、キリストとの共同相続人となることはできない、と書いてあります。御霊は、私たちに相続人となることを望んでおられます。けれども御霊の導きを拒めば、相続人の資格を失います。その例がヤコブの兄エサウです。エサウは長子として相続権を持っていました。しかし、御霊に導かれるということをなおざりにしたために、長子の権を失ってしまったのです。
あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。(ヘブル12・17)
エサウがイサクの子どもである、すなわち、神の民に属しているものである、ということには間違いがありませんが、彼は相続する権利を失ってしまったのでした。エサウは死に至るまで、いわば葬りの布にくるまれたままであった人で、救いの素晴しさを体験するまでにはいたらなかったのです。
もう一つの例は、モーセです。モーセはかつてある選択を迫られたことがありました。聖書によれば、モーセは「はかない罪の楽しみを受けるか、神の民とともに苦しむかの選択を迫られた」とあります。モーセの決断によって、モーセは救いの素晴しさを体験したのみでなく、全イスラエルの民の解放者となったのです。パウロもまたこの選択を迫られたのです。パウロはこう言っています。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり・・・・。(ピリピ3・10)
神の望んでおられることは、私たちが相続人となることです。相続人となるための道、御栄光にあずかるための道は、苦難にあずかることです。主イエスと日々交わりを持つ者だけが、苦難を共にすることができるのです。
ともに苦しむということは、戦いの中に投げ込まれているという意味です。信者の生活において悪魔が勝利を得る最も大きな点は、信者が見える世界のみを見て、見えない世界を忘れてしまうということです。私たちが体験している見える世界の物事は、単に見えない世界の現われにすぎません。ところで、戦いの目標とはいったい何でしょうか。
第一は、内に住まれる御霊によって、死ぬべきからだを生かされること。(11節)
第二は、神の相続人となり、キリストの相続人となること。(17節)
そして第三に、御子の姿に似たものとなることです。(29節)
私たちの死ぬべきからだは生きたものとなる、ということに間違いはありません。今日のクリスチャンは、その霊の状態とからだの状態の間に一致がありません。すなわち、信者の霊は、御霊によって生かされていますが、からだは生かされることを待ち望んでいる状態にあるのです。信者の肉体は、今なお病気や死によって縛られています。しかし、霊が生かされていることは、からだもまた生かされるということを保証しています。聖霊の住むところ、からだもまた生きたものとされます。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます(8章23節)」。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3・21)
戦いの第二の目標は、神の相続人となり、キリストの共同相続人となることです。ラザロの例で見るように、よみがえらされただけでなく、主イエスは交わりを持つことを求めておられます。私たちに対しても同様、生かされただけでなく、日々また永久に主イエスとの交わりに入ることを望んでおられます。
父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。(ヨハネ17・24)
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示録3・21)
前に述べたように、相続人になるためには、苦しみをともにすることがどうしても必要です。ラザロもまた苦難を受けなければなりませんでした。「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。(ヨハネ12・10)」。
私たちがともに苦難にあずかるものとなり、勝利を得るものとなれば、私たちは相続人とされるのです。8章12節には、この戦いについて書き記してあります。ここで言う肉とは、信者の自我にほかなりません。あなたの心が欲するもの、他ならぬそれがあなたの最大の敵です。肉に従って歩むとは、自分自身を見て、神のご栄光を目指すことをないがしろにすることにほかなりません。何を食べ、何を飲み、何を着、今夜どこに行き、いくらのお金を儲けるかといったことはそんなに大切ではありません。どうしても必要なことは、主が私たちに何を望んでおられるか、どのようにして主にお仕えすることができるか、私を通してどのようにして他の人々を救うことができるか、ということです。
大切なのは私たちが中心なのか、それとも、主イエスが中心なのかということです。
私たちは、自分の思いに従って歩むか、御霊に導かれて歩むかのどちらかです。13節によれば、私たちが自らの思い、自らの意志に従って歩めば、行き着く先は死であり、御霊によって導かれるならば、救いの素晴しさを体験するようになるとあります。
戦いの最後の目的は、29節にあるように、御子の姿に似たものとなることです。主の姿に似るものとされること、このことは想像もつかないほど素晴しいことです。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(ヘブル1・3)
私たちが主イエスと似るものとされることを、聖書は約束しています。
キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。(Ⅰヨハネ3・2)
最後に、聖書から二箇所お読みして終りたいと思います。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネ5・24~25)
ラザロは主イエスの招きを受けて墓からよみがえりました。主イエスの御言葉によってよみがえらされたのです。今日でもなお、主イエスの御声を聞いて「すべて重荷を負っている者、疲れている者はわたしのもとに来なさい。わたしはあなたを休ませてあげよう」という御招きに従っていく者は、主イエスによって生かされ、霊的な死からよみがえらされるのです。主イエスは、「わたしのもとに来るものを、わたしは決して拒まない」とおっしゃいました。死人が、霊的に死んだ者が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」...御霊に満されなさい。(エペソ5・14、18)
この御言葉は、信者のために書かれました。この人たちは生かされたものであったにもかかわらず、眠っている人々、死者の中に横たわる人々、と言われています。彼らは、葬りの布に包まれたラザロの状態でした。顔を布で覆われたラザロのように、この人々は主イエスを見ることができませんでした。それゆえ「目をさませ。起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」と呼びかけられているのです。私たちも、ラザロと同様にあらゆる束縛から解放され、主との親しい交わりに導き入れられたいものです。