第Ⅲ部 新しい生活の歩み

18.至上の頌栄

ローマ人への手紙

8章3節から3節まで


Ⅰ.三つの非常に困難な問題

1.私たちを訴える原因

2.私たちを罪に定める原因

3.私たちを引き離す原因

Ⅱ.三つの非常に大切な質問

1.訴える者は誰か

2.罪に定めるのは誰か

3.神から引き離すのは誰か

Ⅲ.三つのすばらしい事実

1.神は私たちの味方であられる

2.キリストは私たちのために生きていてくださる

3.私たちは圧倒的な勝利者である


今日のお話の準備をしながら、ローマ人への手紙8章31~33節は非常に難しい箇所だということに改めて気付かされたしだいです。この箇所は、ただ理解するだけならば、そんなに難しいとは言えませんが、ここは感謝と歓喜に満ちており、それゆえに人間的な言葉で説明することが困難なところだからです。


二、三日前に、ソ連のクリスチャンが書いた手紙を読みました。シベリアのある村で、ある晩幾人かのクリスチャンが集っていたそうです。そこへ、非常に遠くからやってきた機関車の運転手が部屋の中に飛び込んできました。彼が十五冊の聖書と注解書を鞄の中から出して机の上に置いて見せますと、人々はその宝物のような聖書を前にして、感謝のあまりその場にひざまずいてしまいました。彼らにとっては、聖書はそれほどまでに貴重なものだったからです。約二十分間の静寂の後、一人の兄弟が感謝のために祈りはじめました。すると他の人々もそれに続いて次々と賛美をはじめ、その祝福の集いは夜が明けるまで続いたということです。


私たちが今日学ぶ箇所を読むときにも、私たちは御前にひざまずき、沈黙せざるをえなくなります。その後で私たちにできることは、ただ主の前に礼拝することだけです。


(31)では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(32)私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(33)神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。(34)罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

(35)私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

(36)「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。

私たちは、ほふられる羊とみなされた。」

と書いてあるとおりです。(37)しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

(38)私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、(39)高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・31~33)


この箇所は非常に力に満ちた箇所であり、私たちの言葉をもっては語り尽くすことの不可能なほど豊かな内容を持っています。この箇所の主題を「至上の頌栄」とつけることができるでしょう。三つのことがらをこのテキストを通して考えてみたいと思います。


Ⅰ.三つの非常に困難な問題

Ⅱ.三つの非常に大切な質問

Ⅲ.三つの非常にすばらしい事実


Ⅰ.三つの非常に困難な問題


私たちにとって、非常に困難な三つの問題とは、次のものです。


1.私たちを訴える原因

2.私たちを罪に定める原因

3.私たちを引き離す原因


もし、私たちに罪があるなら、それは訴えられる原因となります。問題の原因は罪であるということを、人はだれでも知っています。多くの人々は自分の犯した罪の罪悪感に苦しめられます。この人々はノイローゼになって精神科医を訪れますが、そこで彼らが受けるアドバイスは「あなたが今ある状態をそのままで認めたらどうですか。そんな罪悪感なんてたいしたものじゃありませんよ」というものでしょう。このアドバイスに従うことによって、問題は本当に解決されるでしょうか。多くの悲観論者は、そんなことはない、と言うでしょう。私たちが罪を犯せば、私たちは罪に定められます。こうして人は、喜びも生きるための力も無くしてしまいます。罪の問題が解決されないうちは、人は罪に定められたままであり、生きておられる神との交わりを持つことができません。罪を犯し、罪に定められ、神から離れる、この三つのことは連鎖反応のように起こることです。あなたの罪の問題は、解決されているでしょうか。罪の問題が解決されていなければ、罪の重荷があなたの上に重くのしかかってくるのであなたには喜びがありません。もし、罪の意識が解決されなければ、あなたは絶望に追いやられます。罪の問題を解決するということは、罪を過小評価するということでは決してありません。人間的な慰めも、努力も、罪の問題を解決することにはなりません。主イエスのみが、この罪の問題に十分な解決をお与えになることができるのです。


こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)


イエスを救い主として受け入れた人は、イエスの内にあり、もはや罪に定められることはありません。過去においても、現在においても、未来にあっても罪に定められることはありません。あなたはキリスト・イエスにある者ですか。あなたは主のもとに行かれ、主は決してあなたを拒まなかった、ということを経験されましたでしょうか。罪の赦しを持っておられますか。ローマ人への手紙8章1節は、人間の考え出したことではなく、神からのよき音信であり、動かすべからざる事実です。覚えておいていただきたいことは、


私たちを訴える原因がある

私たちを罪に定める原因がある

私たちを神から引き離す原因がある


ということです。生けるいのちの泉であり、とこしえの喜びの源である神から離れてしまうという可能性があるのです。もし、私たちがイエスを主として受け入れ、罪に定める原因を取り除いていただくなら、永遠に滅びゆくことから私たちは免れます。主を信じるようになった人々は、自分の罪のゆえに訴えられる原因はもうなくなってしまった、罪に定められることはもはやない、我らの交わりは父と御子との交わりである、ということを告白したのです。


Ⅱ.三つの非常に大切な質問


三つの大切な質問とは、次のものです。


1.訴える者は誰か

2.罪に定めるのは誰か

3.神から引き離すものは誰か


第一の、訴える者については、私たちの心と、悪魔と、そして神ご自身が私たちを訴えることができます。私たちの心については、次のように書かれています。


たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。(Iヨハネ3・20)


私たちは、自分の心を責めるものがあることをしばしば経験します。もし、私たちが主イエスに属する者であるなら、私たちは自分の考えや、自分の感情ではなく、御言葉を大切にするべきです。神は、誰をも罪にはお定めになりません。罪は主イエスにあって、いっさい解決されているからです。十字架にかけられたときの主イエスの御言葉は「すべてが終った」というものでしたが、これは、いっさいの罪が解決されたということを示しています。なぜなら、主イエスは、私たちの罪のゆえに懲らしめをお受けになり、主イエスの流された血潮によって、私たちの罪はいっさいきよめられており、私たちを罪に定める原因は、もはや存在しないからです。主イエスの復活によって、神は、主イエスの救いの完全さをお認めになったのです。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです(33節)」。


信仰によって、主イエスを受け入れる人は、誰でも神によって義と認められるのです。このことが、クリスチャンの喜びです。義とされるということは、罪の赦しをはるかに越えて、すばらしいことです。罪が赦されるということは、犯した罪がつぐなわれるということを意味するにすぎませんが、義とされるということは、その人が、イエス・キリストのゆえに今まで一度も罪を犯したことがなかった者のようになる、ということです。主イエスの義は、信じて受け入れたその人自身のものになるのです。


私たちを訴えることができるのは、誰でしょうか。それは第一に、今学びましたように、私たちの心ですが、第二番目に、悪魔が私たちを訴えます。


「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」(黙示12・10)


今日、悪魔が信者を神の御前で訴えているのです。悪魔は、私たちを疑惑に陥れ、私たちの信仰の力を失わせようと策略を尽くしています。非常に大切なことは、主イエスが十字架についてくださり、復活してくださることによって、悪魔の力を砕いてくださったということです。主イエスは、この世を支配する者に対して完全な勝利をおさめられたのです。主イエスのものとされた人はもはや罪に定められることがなく、死からいのちに移されており、悪魔に対して、悪魔よ退け、と言い、主イエスの血潮に感謝することができるのです。


私たちを訴えるもの、その第三にあげることができるのは、神です。全人類は、神の告発のもとにあったのです。すべての人類は、罪に定められており、呪いのもとにあり、神から引き離されていました。けれども神は、そのひとり子である主イエスを世に送ってくださり、イエスに苦しみをお与えになり、十字架につけることによって、私たちが訴えられることからの逃がれ道を開いてくださったのです。それゆえに、私たちを訴える原因は、もはや永遠に存在しないのです。何というすばらしい真理でしょうか。この真理を受け入れ感謝した人は、この真理がもたらす自由を体験したのです。神は私たちを訴える権利をお持ちです。しかしながら、神はここでは審判者ではなく、私たちを義と認めてくださる方なのです。


第二の質問は、私たちを罪に定めることができるものは誰か、でした。主イエスが私たちを罪に定めることがおできになります。なぜなら、主イエスは神のお定めになった審判者だからです。


父はだれをもさばかず、すべての裁きを子にゆだねられました。

父は裁きを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。(ヨハネ5・22、27)


神の裁きは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことを裁かれる日に、行なわれるのです。(ローマ2・16)


神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界を裁くため、日を決めておられるからです。(使徒17・31)


イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。(使徒10・42)


主イエスは、神によって定められた裁き主です。ところが、その裁き主を自分の救い主として受け入れることによって、裁き主ご自身が私たちの罪の刑罰を担ってくださり、もはや私たちが永遠に罪に定められることはないのです。主イエスは、すべてご自分の救いを拒んだ人を罪にお定めになります。人間は、その罪のゆえに罪に定められるのではなく、救いを拒むことによって罪に定められるのです。


第三の質問は、誰が私たちを神から引き離すことができるだろうか、でした。パウロは、ここで十七の苦難を挙げています。これらのことがらは、いずれも一時的な苦難です。つまり、永続的なものではありません。パウロはすでに8章18節で、今の時の苦しみは将来の栄光に比べればとるに足りないものである、と証ししています。パウロは自分の身にふりかかってきた現実のことがらを一つ一つ挙げて言っていたのです。彼は悪魔の使いが自分を打つ、ということも体験しました。


そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。(IIコリント12・7)


筆舌に尽くしがたい苦しみをパウロは体験していました。


私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。(IIコリント11・23〜28)


しかしながらパウロは、これらの苦難に動揺することが決してありませんでした。たとえ犬が月に向って何時間もほえ続けたとしても、月は犬のほえ声に動揺するようなことがあるでしょうか。「我関せず」です。これと同様に、パウロも常にこの世から聖別されており、この世的な苦難はパウロに対して何の影響も与えることができなかったのです。それゆえパウロは、私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか、と語ったのです。つまり、引き離すのは「誰」であるか、と言っているのであって、「何」ですか、とは言っていないのです。結婚式で誓約が交されるとき「神が合わせられたものを、人は離してはならない」という御言葉が引用されますが、それと同様なことがここでも言われています。私たちをキリストの愛から引き離すのは、人間でもなければ、その人の境遇でもありません。私たちを引き離すことができるようなものは誰ひとりとして存在しません。主イエスは「私の手から誰も奪いさることのできるものはいない」とおっしゃいました。主イエスによって神と合わせられた者は、永久に主イエスと一つです。


Ⅲ.三つの非常にすばらしい事実


最後に、三つのすばらしい事実について考えてみたいと思います。


1.神は私たちの味方であられる

2.キリスト・イエスは私たちのために生きていてくださる

3.私たちは圧倒的な勝利者である


全知全能の神は私たちの味方であられます。そのことは、私たちの人間的な知能では理解できない事実です。それゆえパウロは「これらのことからどう言えるでしょう」と言ったのです。パウロはこのことに対して、適当な言葉を見いだすことができずに、ただ賛美と感謝をすることができたのみでした。神が味方であるなら、誰も私たちに敵対することができません。神はご自分が味方である、ということをご自分の御子を死に渡すことによって証明してくださいました。そしてそのことは、主イエスと一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださったということを意味しています。私たちを怒りの裁きから守り、私たちを神の栄光にあずからせてくださるために、神は、御子を十字架におつけになったのです。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)


私たちの過去に関して、誰が私たちを訴えることができようか、という質問をするとしましょう。その答えは、誰ひとりとして私たちを訴えることはできないということです。なぜなら、神ご自身が私たちの味方であられるからです。


現在について言えば、つまり、誰が私たちを罪に定めることができるだろうか、という質問に対して、私たちは次のように答えることができます。誰も私たちを罪に定めることはできない。というのは、主イエス・キリストが私たちの為に死んでくださり、また、私たちのために生きていてくださるからです。主イエスは裁き主であられます。しかし、主は信者をお裁きになることはありません。信者に対しては、主はとりなしていてくださるのです。


将来に対する次のような質問があります。誰が我々を主から引き離すことができるであろうか。これに対して私たちは、誰もできない、と言うことができます。なぜなら、復活された主を通して、私たちは圧倒的な勝利者であり、すべてのことに打ち勝って余りがあるのですから。


苦難や迫害を通して、主に属していないものは離れていくようになります。しかし一方、イエスに属する者たちは、苦難や迫害を通してこそ主イエスをよりよく知るようになるのです。36節には、私たちは「ほふられる羊とみなされた」と書いてありますが、このことは私たちが苦難に出会うということをあらかじめ預言しているのです。


愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(Iペテロ4・12~14)


このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。(Iテサロニケ3・3~4)


確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(IIテモテ3・12)


苦難の目的は三つあります。


1.信者を霊的に成長させるため、つまり、信仰を精錬するためです。

2.神に栄光を帰するためです。

3.そして、未信者が救われるためです。


パウロはステパノの殉教に感じて、心につきささるものがあり、そのことによって後になって救われるようになりました。


私たちはすでに28節において「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ということを学びました。苦難の最終的な目的は、信者がイエスに似たものとされることです。信者が苦難に会うということは、疑いもなく定められていることです。しかし、他ならぬその苦難の中にあって、圧倒的な勝利者となることもまた約束されているのです。その勝利とは、はかることのできないほどの勝利です。昔、ローマ帝国のある皇帝が、部下の将軍に次のように言いました。「私たちの勝利は、ひとえに神によるものだった。もし、私たちが同じような戦いをもう一度することになったら、それは、勝利をおさめたとしても、負けたも同然であろう。」


聖書で述べている勝利とは、このようなわずかな勝利ではなく、言葉で言い表わすことができないほどの絶大な勝利なのです。


私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4・13)


神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。(IIコリント2・14)


二つのことがらを通して、私たちは圧倒的な勝利者となることができます。それは、神の御霊が私たちの内に住んでくださることによって、また、神の右に座しておられるイエスが私たちのためにとりなしてくださることによってです。このような事実によってパウロに確信が生まれたのです。「私はこう確信しています(38節)」。


主イエスは復活なさることによって悪魔に打ち勝たれました。悪魔が力をふるうことができるのは、私たちが不信仰に陥っているとき、または、不従順に陥っているときです。私たちが完全に主イエスにお委ねし、主に従えば、悪魔は私たちに対して何ひとつすることはできません。


主イエスが啓示してくださった生ける神の愛から、いかなるものも私たちを引き離すことはできません。永遠に私たちは主イエスと結ばれた者です。それゆえ、私たちは主イエスに私たちの愛と礼拝を捧げるのです。主イエスは復活なさいました。そして、この主イエスが絶対的な主なのです。この主イエスが、私たちのために生きておられます。このことが、私たちの喜びの源なのです。


(上巻終り)


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