第Ⅲ部 新しい生活の歩み
ローマ人への手紙
8章1節から10節まで
Ⅰ.信者にとっての二つの重要な事実
1.主のうちにある私たち――立場
2.私たちのうちにある主──状態
Ⅱ.信者の内にある対立する二つの力
1.内にすむ罪
2.内にすみたまう御霊
Ⅲ.信者の取りうる二つの態度
1.肉の歩み――聖霊の内住
2.御霊の歩み――聖霊の支配
ローマ人への手紙7章で私たちは、ひとりの生まれ変わった新しい人が自分の力で戦い、そして戦いに敗れてしまったその嘆きと叫びを知りました。
8章では私たちは、聖霊に満たされ、聖霊に導かれている信者の喜びの声を聞くことができます。今日は、最初の1~10節までを学んでみましょう。
(1)こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(2)なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(3)肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(4)それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
(5)肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(6)肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。(7)というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(8)肉にある者は神を喜ばせることができません。
(9)けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(10)もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています。(ローマ8・1~10)
7章で私たちは、律法というものが私たちに与えられているその目的は、私たちが自分たちの失われている状態をはっきり認めることができ、このことを通して救い主の必要性を認めることができるようになるためであるということを学びました。すべての信者たちは、内にある古い人の破産を体験した人々です。しかし、律法はさらに、信者となって新しく生まれ変わった人々にも霊的な破産をもたらすという目的を持っています。この新しい人の破産をも体験した人々は、絶望へ至る戦いを味わわなければなりませんでした。しかし、極めて少ないこれらの人々は、この新しい人の破産の体験の後で、新しい生活の歩みのための力を見いだすようになったのです。7章では私たちは、このような絶望にいたる戦いを体験した人の叫びを知りました。すなわち、善をしたいという願いを持ちながら、これをする力を持たない人の絶望の叫びでした。「私は本当に惨めな人間です」という叫びを聞いたのです。これこそが、もっとも深い嘆きの叫びです。引き裂かれた生活の窮みからの叫びを私たちはここに聞くことができるのです。あらゆる戦いと、あらゆる試みにもかかわらず、すべてが虚しかったのです。しかし8章において、私たちはこれとは全く逆の喜びの叫びを聞くことができます。それは勝利の叫びであり、勝利の歌が聞かれるのです。この1~10節までの中から、私たちは三つの重要な点について考えてみたいと思います。
Ⅰ.信者にとって大切な二つの事実について
Ⅱ.信者の心の中にある対立する二つの力について
Ⅲ.信者の取りうる二つの異なった態度について
私たちは、ローマ人への手紙7章までで、このなかに記されているいくつかの重要な事実について注目してきました。3~6章では、私たちは主イエスの十字架と復活という重要な事実について考えてきました。「事実」はそれだけでは何の力にもなりません。もし、私たちがその「事実」を自分のものにしないかぎり、それだけでは力にはならないのです。
8章において、私たちはもう一つの重要な事実について見ることができます。それは、聖霊の降臨、すなわち信じる者に神の聖霊が下ったという事実です。主イエスを救い主として受け入れた人は、罪の赦し、神との平和、永遠のいのちを持つだけでなく、その人のうちに神の聖霊を宿すことになるのです。
3~5章のテーマは、神によって義とされているということ、すなわち、義認でした。その中で、「私たちは主イエスを通して何を与えられているか」ということを学んできたのです。
信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5・1)
福音の主なる内容は、主イエスが私たちのために死んでくださり、またよみがえってくださり、そして、今もなお私たちのために生きていてくださるということです。
6章のテーマは、罪からの解放、すなわち、私たちが自由にされているということでした。その中で私たちは、「私たち自身が主イエスと共にどのようになったか」ということについて学んできました。私たちも主イエスと一緒に十字架につけられ、主イエスとともによみがえり、主イエスとともに生きている、ということです。
3~6章まででは、結局、信者が今置かれているその立場について説明がなされているのです。悔い改めた罪人が、主イエスの流された血潮を信じたときに、その罪人は「アダムにある生活」という立場から、「キリストにある生活」という新しい立場へと移し変えられるのです。このようにして、救われた人はキリストの内にあり、その立場は永遠に変わらないのです。神の目から見ると、御子イエスの外に出てしまった信者の生活というものはありえないのです。信者が生まれ、根をおろすべき土台は主イエスだけなのです。新しい生まれ変わりを通して、信者は新しい性質を与えられ、新しく造られた者となるのです。この新しく造られた人は、また新しい生活の環境を必要としています。というのも、その中においてのみ信者は成長することができるからです。この新しい生活の環境とは「キリストの中にある生活」なのです。
この新しい立場について、8章は私たちに教えています。主イエスを受け入れた人はキリストの内にあります。その人は、もはや罪に定められることがないのです。しかし、10節を見ますと、私たちはキリストにあって「新しい立場」を与えられているばかりでなく、私たちは「新しい状態」のなかにおかれていることも知ることができます。そこで私たちは、このことによって二つの重要な事実を知ることができるのです。第一は、キリストの内にある私たちの新しい立場ということ。第二は、私たちの新しい状態です。
キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6・4)
神様の御心は、私たち信者が本当の意味での新しい生活をすることです。しかし7章に入って、私たちは私たち信者がこのような本当に新しい生活をするために何の力も持っていないということを見てきたのです。つまり善をしたいと思うけれども、その力が私たちの肉の内にないということでした。しかし8章に入りますと、それにもかかわらず信者が本当の意味での新しい生活をすることができる、ということを見ることができるのです。
7章に出てくる言葉は、いつも「私たち」です。しかし8章になりますと、「御霊」という言葉が盛んに使われているのがわかります。7章で使われている「私たち」という言葉は、もちろん未信者を指しているのではなく、主イエスを愛し、従っていこうとする信者を指しているのです。しかし、信者の最善の努力でさえも、結局は敗北に終ってしまったのです。
3~5章までは、神に義とされるということ、6章では、罪からの解放ということ、そして、8章に入って私たちは勝利の生活について学ぶことになるのです。8章においては、主イエスが私たちのために何をしてくださったのかということも、私たちが主イエスとともにどのような立場が与えられているかということも書かれてはいません。ここでは、主イエスが私たちの内にどのようなことをなさろうとしておられるか、ということが述べられているのです。つまり、神の御霊が、信者の生活のなかで、自由な力を現わすことができることの必要性ということです。もし、人が主イエスを受け入れると、その瞬間に神の御霊はその人の身体を宮として、その人の内に住んでくださるのです。そして、その御霊は神ですから、その人は力強い助け手を自分のうちに宿すことになり、もはや孤独ではなくなります。
7章において、新しい人は自己の破産を告白して、「私は本当に惨めな人間です」と言いました。しかし、このような私たちの告白に対して、8章では、御霊の方から「私ができます」と言っているのです。7章では、信者の方が「私は善がしたい」と願っているのですが、8章では、御霊が「私が善をすることができます」と言っているのです。したがって、新しく生まれ変わった人には御霊とともに働くということが大切なのです。すなわち、「私がしたい」と言う人と、「私ができます」と言う御霊とが一緒に働かなければならないのです。
「何かがしたい」と言うのは生徒ですが、これに対して、教師は「私はそれができる」と言う者です。登山に連れて行かれる人は「私は山に登りたい」と言うでしょう。これに対して「私は山に登れます」と言う人がこの人を連れて行くのです。破産してしまった信者は、御霊という機関車がなければ動くことができない貨車のようなものです。
信者の心の内にある対立する二つの力というのは、信者のなかにある「罪の力」と、これに対する「御霊の力」のことです。信者のうちにある罪の力は、善をしたいという信者の願いよりも大きなものです。2節では二つの原理、すなわち、いのちの御霊の原理と、罪と死の原理が書かれています。「原理」というのは、いつでも決まった働きをする力のことを言います。ですから信者がこの二つの原理のいずれに従うかということが大切な点となります。もし私たちが、罪の原理の下に立つなら私たちは罪を犯すしかなく、いのちの原理の下に立つならもはや罪を犯すことがないのです。
たとえば、エレベーターは二つの原理に支配されていると言うことができるでしょう。一つはエレベーターを下に落そうとする引力の法則です。もう一つはエレベーターを上に持ち上げようとする電力です。もし電流が通じているなら、電気の法則がモーターを動かして引力の法則に打ち勝ち、エレベーターを上へ持ち上げてくれるのです。引力の法則は常に働いています。しかしこれよりずっと強い力の法則が働けば、引力の法則の働きを打ち消してくれるのです。信者がこの地上で生活をしているかぎり、罪の力も働き続けています。けれども御霊の支配が現われるときに、この罪の力は打ち消されるのです。御霊の力に導かれる生活は、本当に新しい生活へと私たちを導いてくれるのです。私たちがいずれの力に支配されて歩むかということによって、私たちが肉のうちに歩む者であるか、それとも御霊のうちに歩む者であるかが決まってくるのです。
肉の法則は死をもたらします。しかし、御霊の法則はいのちをもたらしてくれるのです。ですから、聖書は信者の思いが肉的であるか、霊的であるかと問うています。
肉の思いは死です。
御霊の思いはいのちと平安です。
新しい人は神の御心を行なおうとしますが、できません。それは、罪の力の方が彼の願いよりも強いからです。神の御霊こそが、新しい人が願っていることを実際に行なわせることのできる唯一の力なのです。したがって、私たちが自分の力で何でもやろうとするか、それとも御霊の御支配に自分自身を明け渡すか、ということが最も大切なことになります。実際、聖霊の御支配に自分自身を明け渡すことができる人は、ただ自己の破産を体験した人だけです。
いずれの態度を私たちが取るかということによって、私たちが肉的な信者となるか、霊的な信者となるかということが決まってしまうのです。9節には「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と書いてあります。すべての信者は聖霊の住んでいる宮です。すべての信者は聖霊が心の中に入ってくださることを通して生まれ変わりを体験します。しかし大切なことは、神の御霊が私たちのうちにただ「住んでいる」かどうかということではなく、私たちのうちに「住んでおられる」御霊が実際に私たちにその御支配を現わしてくださることができるかどうか、ということなのです。信者がもしも自分自身のために何かを求めるならば、私たちの内なる御霊はいかなる御支配をも現わすことができないのです。自分自身のために何かを求めることは、神に敵対することになります。御霊はただ主イエスの栄光を求めるという目的だけを持っています。自分を否定して、御霊と同じように主イエスの栄光だけを求める人は、御霊の御支配を体験し、御霊の現わされる栄光を体験することができるのです。
真の自由とは、御霊の支配、また主イエスの御支配を受けるときに、私たちに与えらます。独立の生活ではなく、主イエスにより頼んだ生活によって、私たちは満たされた生活を体験することができるのです。主イエスにより頼んだ生活こそが、私たちに実りのある生活を与えてくれるのです。ですから、私たちはどれが私たちの古い性質に属しているものであり、どれが私たちの新しい性質に属しているものであるかを区別することが大切です。すべて古い性質に属しているものは悪魔のものであり、罪であり、暗やみに属するものです。古い性質が支配するときに、私たちは十字架に敵対して歩むことになるのです。
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ3・18、19)
パウロは常に喜びを失わなかった人でしたが、ここでは涙を流しています。この涙は未信者に対して流されたものではなく、信者に対して流されたものでした。ここで言われている信者たちは、彼らの罪が赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちを持つようになったということを知っていました。それにもかかわらず、パウロは彼らをキリストの十字架の敵と表現したのです。十字架の敵はイエスの敵とは違います。十字架の敵とは、地の物に対する思いです。それゆえパウロは繰り返して「上にあるものを求めなさい。地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3・1、2)と言っているのです。信者の生活においては、主イエスがすべてのすべてであられるか、あるいは、古い性質によってまだ支配されているかの二つに一つです。
新しく生まれることによって、人は神の御心を行ないたいという新しい性質が与えられます。しかし、この新しい性質のみでは、人は無力であり、罪の律法の下にあります。新しい歩みを現実とするための神の賜物は、聖霊です。聖霊によって主イエスは私たちのうちに住んでおられます。聖霊の目指すものは、主イエスが私たちのうちに王座を占めてくださるということです。もし、私たちが主イエスの完全なるご支配のもとに、毎日自分を投げ出すなら、幸いです。そうすることによって、私たちは「圧倒的な勝利者」となることができるからです。