第Ⅲ部 新しい生活の歩み

14.人間のジレンマ


ローマ人への手紙

7章14節から25節まで


Ⅰ.律法の目的

1.古い人を破産へと追い込み、イエスに導くこと

2.新しい人を破産へと追い込み、御霊の支配へと至らせること

Ⅱ.新しい人に対する三つの事実

1.自分の内に罪が宿っている

2.欲する善をなすことができない

3.欲していない悪を行なっている

Ⅲ.新しい人が行なう新しい律法

1.私ではない、内に住みついている罪

2.私ではない、内に住みたもうイエス


今日は、ローマ人への手紙7章14節以下の後半の部分について学んでみたいと思います。


(14)私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。(15)私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

(16)もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。(17)ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。(18)私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(19)私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。(20)もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

(21)そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。(22)すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、(23)私のからだの中には異った律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。(24)私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

(25)私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ7・14〜25)


I.律法の目的


現代ほど多くのことが、人間について語られている時代はありません。子供の育てかたについて、若者の問題について、結婚のことについて、老人問題について......。私たちの周囲には、いつも問題が満ち満ちています。しかもこれらの問題については、実に多くの人たちがいろいろな意見を述べています。たとえば教育者とか、心理学者とか、精神病理学者とか、犯罪心理学者とか、社会学者といった人々がそれぞれ異った立場から、異った意見を述べあっているのが現状です。現代ほど、立派な意見や忠告や警告がなされている時代はありませんが、残念なことには、これらの意見は互いに混乱しあっていて、私たちに解決を与えてくれるものとはとうてい思えません。いったい、これはどうしてなのでしょうか。


それは、これらすべての人々が、次の三つの重要な点を見逃してしまっているからです。


第一に、人間が神のみ姿に造られているということ。


第二に、人間は、罪によって堕落してしまっているということ。


第三は、人間が善をなす力を全く持っていないということです。


したがって、これらの事実が全く忘れられているかぎり、どのような忠告がなされても、何の効きめもないのです。聖書にあるように、盲人は決して他の盲人を導くことができないのです。


もし、人間のことをすべて知りつくしているような人物がいたとするならば、それは使徒パウロであると言うことができると思います。ローマ人への手紙7章でパウロが書いていることほどに、人間の真相をよく把握しているものは他にはありません。「私はかつて律法なしに生きていました(9節)」。だれでも、ごく幼いときには、このように律法なしに生きているものです。子供は、本能的に生きており、何でも思いつくままに行動します。おなかがすけば乳を欲しがりますし、疲れるとすぐ寝てしまいます。気分が悪くなると泣きだします。子供は律法というものを持っていません。しかし子供も大きくなると、ある日、母親の「~してはいけません」という命令の声を聞くようになります。このときから、子供は新しい成長の段階に入るのです。子供は、して良いことと、してはいけないこととがあることを知るようになります。母親の言っていることがいくら良くて正しいことであっても、子供はそれに対して反抗しようとするものです。子供は母親の言うことなどなかなか聞きませんし、自分の思ったとおりにやりたがります。母親の戒めの声を通して、子供の中から悪い性質が、つまり罪の性質が明るみに出てくるのです。これと同じように、正直な人は、律法を通して自分の内にある暗い性質が明るみに出されてくるのを認めるでしょう。


人間は頭の先から足の先まで汚れたものであり、不真実なものであり、自己中心的なものです。このように人間は罪の奴隷ですから、彼らは不幸になるのです。しかし、律法は鏡のように、人間の罪に汚れた状態を示すだけではなく、いわば道しるべとして、主イエスに至る道をも示しているのです。


イエスに向って次のように心から祈る人は、かならず新しい生まれ変わりを体験するでしょう。「私は罪を犯しました。私は汚れたものです。私は不真実なものです。私は自己中心的なものです。私は心から生まれ変わりたいと願っています。私は、あなたが私のために血を流してくださったことを心から感謝しています。どうぞ、私の神、主になってください」。このように祈る人は、かならず救いの体験を与えられます。このような祈りをする人の心は、開かれており、その人の心の中に主イエスが入ってくださるのです。まことに多くの人たちが、このようにして、主イエスが罪を赦してくださるだけではなく新しいいのちも与えてくださる方であることを体験してきたのです。


どのようにして、主イエスはすべての人の個人的な救い主になってくださることができるのでしょうか。主イエスの救いに対して感謝をささげ、自分の生活を主イエスの支配にゆだねることによって、主イエスは私たちひとりひとりのための個人的な救い主となってくださるのです。


律法は、このようにして、人間を徹底的な破産に追い込みます。しかしそれだけではなく、このように破産を体験した人は主イエスのみもとに行き、このお方が決して破れ果てたものを追い出すことなく、受け入れてくださるということを体験するのです。主イエスとの個人的な出合いの体験を通して、人は主イエスの血潮のきよめの力を体験するのです。


ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5・1)


私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1・7)


しかし律法は、私たちの「古き人」を破産へと追い込むばかりではなく、私たちの「新しい人」をも破産に導くのです。このことを私たちはローマ人への手紙7章を通して見ることができます。新しい人は、自分の罪が赦されていること、自分は神の子であるということ、また、自分は神のものであるということを知っています。しかし、このように生まれ変わった新しい人、すなわち信者が律法を行ない、神様の御心にかなった生活を始めようとするやいなや、その人は必ず同じように自己の破産へと導かれるのです。


たとえばアブラハムは、「私はちり灰にすぎないもの」であると告白しています。またイザヤは、「わざわいなるかな。私は滅びるばかりだ。私は汚れたくちびるのものだ」と叫びました。ヨブは「私は自らを恨み、ちり灰の中で悔います」と言っています。パウロもまた「私は罪人の頭です」と告白しているのです。これらの人々はみな、いうまでもなく信者でした。しかし、この人たちは、事実、破産へと追い込まれて、このような告白をのこしているのです。ですから、何が悲しむべきことであるかと言いますと、実に多くの信者たちがいまだにこのような「破産へと導かれていない」ということです。このような破産を求めたことのない信者は、いまだに自分の力で主に仕えようと努力しているのです。


従って、律法の目的は、次の二つのことであると言えるのです。


1.生まれながらの人たちを破産へと導いて、主イエスのみもとへと来るようにさせること。


2.生まれ変わった人たちを同じように破産へと導いて、御霊の完全な支配のもとに至らせること。


Ⅱ.生まれ変わった人に対する三つの事実


生まれ変わりを体験したパウロは、7章14節以下で自分の中に三つの事実があることを確認しています。


1.私のうちには罪が宿っていること。(17、18、20、23、24節)


2.私は善を欲してはいるが、それをなすことができないということ。(19、22節)


3.私は悪を行なっているが、それは自分がそう望んでしているのではないということ。(19節)


14~25の間には、「私」ということばが25回以上も出てきますが、この私という言葉は未信者を指しているのではなく、信者を指しているのです。7章は私たちに、信仰に入った人の本当の姿を示しているのです。パウロのように、神様の望んでおられるとおりに自分の本当の姿を認めた人たちは幸いです。


生まれ変わった信者は、心から良いことをしたいと望んでいますが、彼にはそれができないのです。ですから人は、自分の心の中が引き裂かれて、悩むのです。それは、自分のしたいことが実際にはできないからです。すなわち、信者の心の内に住んでおられる御霊の力と、同じく信者の心の内に根づいている罪の力との戦いであるということができるでしょう。主イエスの望んでおられることは、信者が一切の妥協を排して、ご自身に従ってくることです。しかし、信者にはそれをする力がありません。ですから、信者は、主イエスに従っていこうとすればするほど、失望し、落胆して力を落してしまうのです。このようにまじめに努めようとする信者の結果は、7章24節にパウロが言ったように、「私は本当にみじめな人間です。」という叫びとならざるをえないのです。このように欲しながら実際には行なうことのできない人は、本当にみじめさを経験します。


しかし、その状態にとどまり、がっかりしてしまう信者が何と多いことでしょうか。これらの信者たちは、ただ自分の罪が赦されたということと、神との平和が与えられているということだけがすべてであると思い、聖書には喜びや勝利についても書いてあることを知りながらも、実際には自分のみじめさを悩み続けて、7章に書かれているようなみじめな生活を一生涯続けていくのです。


けれども、主イエスは私たち信者をこのようなみじめな生活に導かれるために、私たちを救われたのではなく、私たちを「圧倒的な勝利者」にするために私たちを救ってくださったのです。


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8・32、37)


この14~25節までの間で、私たちは私たち信者が引き裂かれた心の持ち主であることを教えられます。私たちの肉の内には、罪が住みついており、この罪が私たちの肉を通して私たちの魂に戦いをいどんでいるのです。私たちの内に住みたもう御霊は、主イエスに対して「しかり」と応え、私たちの肉なるものは「否」と叫んでいるのです。ここに私たちの心の戦いがあるのです。この戦いは信者にとって一生涯続けられる戦いです。


新しく生まれ変わった人の中には、やはり罪の性質が残っているのです。このことを聖書ははっきりと教えています。この事実を否定する、いっさいの教えは誤った教え、すなわち異端です。人間の中から罪を完全に取り除こうとすれば、人間のいのちを取り去らなければ不可能です。しかし、主イエスは私たちからいのちを取り去ることを望んでおられるのではなく、私たちをご自身の道具として用いられようと望んでおられるのです。


Ⅲ.新しい律法


終りに、私たちは「新しい人はどのような律法に従うものであるか」ということについて考えてみましょう。信者は、自分の内に住む御霊に従うか、あるいは自分の内に宿っている罪に打ち負かされてしまうかのどちらかです。主イエスと出会うときにはどのような人でも、自分の生涯を主イエスに明け渡して、主イエスに従いたいという思いを持ちます。しかし、そのような信者の心の中には、決して罪の力が死んでしまっているのではなく、罪の力が依然として残っているのです。ヒューマニズムは、人間の内に善なるものがあると教えています。ですから、人間は善意を持って誠実に、また人助けをして善をなすことができると教えています。ところが聖書は、人間が良いものであるとは決して教えていません。それどころかまさにその逆で、人間は悪いものであることを教えているのです。このように、人間は本当は悪いものであることを良く知っているのは、ただ主イエスを知っている人だけです。しかし、主イエスを知っている人たちは「罪の重荷」から解放され、また「罪の力」の解放をも体験している人たちです。そのような人々、すなわち主イエスを本当に知っている人々の特徴は、ただ主イエスに従っていきたいというその願いを持っている、ということにあるのです。しかし、罪の力は依然として信者の心の中に残っているのであって、機会さえ与えられればいつでも力を振おうとしています。律法は良いものですが、人間が律法を行なおうとしても、私たちは無力なのです。律法というものは、ちょうど奴隷が鎖につながれているように、人間も罪の鎖につながれていることを明らかに示すためのものでした。律法によって、私たちは自分たちが欲しているけれども、実際にはできないことがあることを知るのです。パウロも、律法を通してこの深刻な事実を体験したのです。


肉の内にあるということは、主イエスに全くより頼んでいるのではない、ということです。


肉の内にあるということは、結局、自己に縛られているということです。


したがって、パウロは肉の内には良いことが住んでいない、と言っているのです。どんなに努力してみても、人間が悪い木であるという事実に変りはありません。人間が悪い木であるかぎり、決して良い実を結ぶことはできません。しかし、自己中心の思いとか、悪に打ち負かされやすい性質というものは、人間にとっては影のようにいつも付きまとっているのです。信者は、だれでも自己の内にあらゆることに対しての決定権がないことを認めなければなりません。結局、あらゆることに対しての決定権は、私たちの内に住みたまう主イエスの御霊か、さもなければ私たちの内に宿っている罪の力かのいずれかが持っているのです。


私たちは、自分たちの古い人間が全く無能力であり、全く堕落しきっていることを知らなければなりません。これこそが、ローマ人への手紙7章の体験です。すなわち、「私は本当にみじめな人間です」という体験です。古い人は、罪を犯すしかなく、いつもその罪の律法に縛られているのです。古い人は、徹底的に罪にまみれており、これを救う道は無いのです。古い人に、自由なやりたいことをさせると、ただ悪いことしかしないでしょう。7章は私たちに、信者も決して完全でないことを教えているのです。しかしそれにもかかわらず、信者と未信者との間には、根本的な違いがあるのです。未信者は、罪を犯しても本当に悔いることはありません。それどころか、かえって罪を犯し続けているのです。けれども信者はそうではありません。信者は罪を犯しますが、それは彼らの弱さからであり、信者は罪を犯すとこれを悔い改めようとするのです。信者は神の律法を喜んでいますが、ただ心の内には戦いがあるのです。しかし信者は、この戦いに決して失望はしません。なぜならば信者は、必ずこの戦いを通して主イエスの力を体験することができるからです。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(25節)」。


私たちは決して絶望の叫びをあげるのではなく、救いの喜びの声をあげるようになります。24節では最も深い嘆きの声を体験しますが、25節においては最も深い喜びの声を体験するのです。


この勝利の秘訣は、生まれ変わった人間の努力や力にあるのではなく、ただ生まれ変わった人間の内に住みたもう主イエスの力にあるのです。ただ一度だけの生まれ変わりだけでは十分ではありません。私たちが毎日新しく主に自分自身を明け渡すならば、それによって聖霊が私たちを通して自由に働くことができ、そして聖霊が私たちを勝利に導いてくださるのです。


聖霊が私たちを支配してくださるかどうかによって、私たちは7章17節にあるように「それを行なっているのはもはや私ではなく、私の内に住みついている罪なのです」と言うことになるか、あるいはガラテヤ2章20節にあるように「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と言うことができるかのどちらかが決まってくるのです。


私たちが全く空の器になり、主が私たちの内に力を現わすことができるようにしたいものです。


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