第Ⅲ部 新しい生活の歩み
ローマ人への手紙
7章1節から13節まで
Ⅰ.律法からの開放――死によってのみ
1.妻(信者)
2.第一の夫(律法)
3.第二の夫(イエス)
Ⅱ.律法の目的
1.罪を明らかにする
2.悔い改めをもたらす
3.救い主に導く
今日は、ローマ人への手紙7章1節から13節までを学んでみたいと思いますが、その前に、今まで学んできた6章までの内容を、簡単に振り返ってみたいと思います。それは三つに分けてまとめることができます。
1.最初に私たちは3章20節までの箇所で、次のようなことを学んできました。それは「キリストを持たなかった私たち」ということでした。実は、聖書はこのことを罪と言っているのです。なぜならこのような人は、自分の行ないに頼ろうとするでしょうが、その人には神の義は与えられないのです。
2.次に私たちは5章2節までで「私たちにとってのキリスト」ということを学んできました。その中で私たちは、神によって義とされるということがどういうことであるかを学んできました。さらに、信仰ということ、すなわち神から与えられる義について学んできました。
3.最後に6章と7章とにおいて、私たちは「キリストとともにある私たち」ということを学んできました。今日は、このことを続けて考えてみたいと思います。ここでは、まず第一に聖化ということ、第二に信頼ということ、そして第三に神の栄光を現わすということが中心となっています。この7章を通して、これらの点をよりよく学んでみたいと思います。
(1)それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――(2)夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。(3)ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
(4)私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
(5)私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。(6)しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
(7)それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
(8)しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
(9)私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。(10)それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。(11)それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。(12)ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
(13)では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。(ローマ7・1~13)
有名なローマ人への手紙6~8章までの一番大きなテーマは、信仰を与えられた人の「新しい生活の歩み」ということです。6章を見ると、その中に私たちはひとつの特徴的な言葉をみつけることができます。それは、「知っている」、あるいは「知らないのですか」という表現です。これらの言葉は、6章の中に四回出てきますが、いずれも「知る」ことの大切さを強調しています。そこで、今日の箇所である7章1節を見てみますと、そこにも「知らないのですか」という言葉が使われていることに気づきます。聖書が「知る」あるいは知識ということを言うときには、それはいつでも本当の知識のことについて語っています。本当の知識とは、頭の知識ではなく、体験的に知るようになった知識のことを示しています。本当の知識だけが、人を解放し、人を自由にすることができるのです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17・3)
というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(Ⅱペテロ1・3)
信仰を与えられた人が喜んで受け入れている本当の知識とは「私の汚れた罪は、主イエスが流された血潮によって、すべて洗い流された」という知識です。
次のような話があります。あるひとりの伝道者が大学に招かれました。彼は、ある教授に招かれてクラスに話をするはずでしたので、そのために主に祈り、十分に準備して出かけてゆきました。学生たちに話し終ると、招いた教授は最後に一言付け加えて言いました。「今日のお話はとってもよいお話でした。ただ、もうすこし短かければもっとよかったと思います」。これを聞いた伝道者はがっかりしてしまい、重い足を引きずるようにして家に帰っていきました。彼は家に着くと早速、その教授に一通の手紙を書き、その日のことについて心からおわびをしました。しばらくして、教授から返事の手紙が届きました。開けてみると、そこには英語で次の三つの言葉が書いてあるだけした。
forgiven_forgotten__forever!
つまり「赦しました。忘れました。永久に。」と書いてあったわけです。
このことを、神様と信仰を与えられた人との関係にあてはめてみることができます。主なる神も、私たちの罪を赦し、忘れ、しかも永久に忘れさってくださったのです。
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43・25)
わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贈ったからだ。(イザヤ44・22)
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8・12)
わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。(ヘブル10・17)
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103・12)
この知識こそが信者の新しい生活の土台となります。そこで7章が問題にしていることは、このような知識を持つ信者が「実際生活において、この知識にふさわしい生活を行なうことができるかどうか」ということです。言いかえれば、このような知識を持った信者が神のおきてをまっとうすることができるかどうか、ということです。このことについて、7章1~13節では次のように二つに分けて考えられています。
Ⅰ.律法からの解放―死によってのみ(1~6節)
Ⅱ.律法の目的(7~13節)
1~6節までは、神のおきて、すなわち律法からの解放について書かれています。そこで述べられていることは、「死によって」私たちは律法から解放されるということです。7章の中には「おきて」すなわち律法という言葉が何回も出てきます。律法というと、すぐ私たちは十戒を思い出しますが、律法は十戒だけではありません。詳しいことには触れないでおきますが、一口で言うならば、律法とは神の御心の全体を指す言葉です。律法は私たちに何が善であるかを教えてくれます。しかし律法は私たちに律法を行なう力を与えることはしません。
律法が与えられなければ、世の中は混乱におちいるだけでしょう。律法は、良いものです。
しかし、人間には律法を行なう力がありません。だから、律法は人間の重荷になるのです。律法は人間を罪に定めるものです。法というものは、生きている間だけ人間をしばるものであって、人間が死んでしまえばもはや法は効力を持たないのは言うまでもありません。たとえば死刑の判決を受けた人が、刑が行なわれる前に何かの理由で死んでしまえば、死刑の判決はもはやその人をしばることができない、ということです。結婚の約束も、二人を結びつけているのは夫か妻かのいずれかが死にいたるまでの間だけです。もし夫か妻が死んでしまったら、残された方はすくなくとも結婚の約束にはもはやしばられてはいないことになります。「ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」と7章の3節にあります。
だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。(マルコ13・11~12)
次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。――もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。――また夫は妻を離別してはいけません。(Ⅰコリント7・10~11)
この7章の中には、「一人の妻」と「二人の夫」のことがたとえ話として書かれています。妻というのは私たち信者のことを指しています。二人の夫のうち前の夫は律法のことであり、後の夫は主イエスのことを指しています。二人の夫の間には共通している点も多くありますが、根本的には二人は全く異った者です。律法は聖なるものであり、正しいものであり、また良いものです(12節)。この点では、主イエスも同じ聖なるお方であり、正しく良いお方であられます。しかし一方、律法は飽くことなく要求するだけのものです。主イエスもある意味では同じように飽くことなく要求するお方ですが、主イエスは要求されるだけではなく、助けも与えてくださるお方です。律法は人を窮地に立たせるものです。たとえば結婚の約束、あるいは結婚のおきてとは、離婚をするな、ということですが、このようなおきては場合によっては人を窮地に立たせるものです。人間の内にある古い自我は、いつも神のおきて、すなわち神の御心に逆らうものです。人間的な努力によって神のおきてを行なおうとするならば、その結果は「死のために実を結ぶ(5節)」だけです。私たちは、死のための実ではなく「神のための実を結ぶもの(4節)」でなければならないのです。
しかしこのことは、いったいどのようにして可能となるのでしょうか。それは、イエス・キリストと新しくひとつとなることによってのみ可能となるのです(4節)。なぜならば、律法という名の夫は要求はしても、助けは与えてくれない夫ですが、イエス・キリストという名の夫は、私たちに要求をなさるだけではなく、助けをも与えてくださる方だからです。こう言いますと、私たちはだれでも、律法という夫から離れてイエス・キリストという夫に行く方がずっと望ましいと思うことでしょう。ところが、どうしたら私たちは律法という夫から離れてイエス・キリストという夫へ行くことができるのでしょうか。聖書は、ただ「死」ということを通してのみこのことができると言っているのです。「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。」と7章4節にあります。
これこそ、福音です。律法は、死んでいる人に対しては、すなわち聖書に書いてあるように、キリストとともに死んでいる人に対しては、何の要求もすることができなくなっているのです。したがって、新しい生活への歩みは、律法的な努力によることではなく、イエス・キリストの死によって律法から解放されて、イエス・キリストに従って生きることから可能となるのです。すなわち新しい生活は、イエス・キリストとひとつになるときにはじめて、可能となるのです。このような人だけが、神に対しての豊かな実を結ぶことができるのです。大切なことは、神に対して実を結ぶことができるのは決して人間的な努力によるのではなく、ただ私たちが主イエスとひとつに結びついているという事実の中から自然に出てくることにすぎないということなのです。
律法に従って歩もうとしている人、すなわち自分の努力によって良くなろうとしている人というのは、むちを持った男に尻をたたかれながら歩いている牛のようなものです。これに対して、主イエスと共に歩もうとしている人、すなわち主イエスにすべてをゆだねて歩いている人は、主イエスとくびきを一つにして歩いている牛に似ています。主イエスがその人と共に歩んでくださり、その人を常に助けてくださるからです。パウロという人は律法を大変良く知っていました。律法が人間をしばりつけ、人間から自由を奪い取ってしまうものであることを知っていたのです。
主イエスの救いの目的は、人間に本当の自由を与えるということでした。本当の自由というものは、自分の好きなことが何でもできるということではありません。もしそのような自由が人間に与えられるならば、人間のやることはただ自分の欲望のままに生きることであり、悪魔的な考えのとりことなることだけであり、平気で罪を犯すようなことだけでしょう。これらのことが、果たして本当の自由と言えるでしょうか。決してそうではありません。本当の自由とは、私たちがイエス・キリストとひとつになるときにだけ、与えられるものです。4節にあるように、「死者の中からよみがえった方と結ばれる」ということが、本当の自由への道なのです。
「恐れるな。わたしがあなたを贈ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43・1)
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(Ⅰコリント6・19~20)
主イエスに結びついている人は、自然のうちに実を結ぶようになるのです。ぶどうの木に自然にぶどうの実がなるようなものです。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15・8)
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5・22)
だから、自分で何かを努力してしようとしなくても、自然にできるようになるのです。
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。(詩篇40・8)
このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。どうかあなたの義によって、私を生かしてください。
そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。
ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。(詩篇119・40、45、159)
この詩篇の作者のように、私はあなたの戒めを慕っています、求めています、愛しています、ということのできる人は、神がその人を主イエスとひとつにされた人です。このように、主イエスとひとつにされるということが、新しい生活の秘訣なのです。
7~13節までの内容は、私たちが陥りやすい考えについて述べられています。それらはたとえば「自分という人間は、そんなに悪いものではないのではないか。」「罪とは、そんなに恐しいものなのだろうか。」「律法に対する弁護論」などであり、つまりこの箇所では、律法の目的について書かれているのです。
聖書は、人間がだれでも例外なく堕落しきったものであると言っています。と言っても、初めから自分が罪に対して盲であり、自分のしていることがすべて罪であり、自分は神から遠く離れてしまっているということを知っている人はだれもおりません。律法を与えられて初めて人間は、何が善であり、何が悪であるかを知るようになります。罪というのは自我のことであり、律法の働きは人間の隠された心の奥底を明らかにすることです。もしも、人間の心の奥底が明らかにされるなら、そこにあるのは、人間の自我というものでしょう。それでは、このように人間の自我をえぐりだす律法は、果たして罪なのでしょうか(7節)。律法は、先にも述べたように、だれの心の中にでもある自我を明るみに引きだすだけの役目を持つものです。例えて言えば、外科医はメスを持って患者の患部を切り出しますが、外科医の使うメスは果たして悪いものでしょうか。決してそのようなことはありません。また、汚れた顔をした人が鏡の前に立ちますと、鏡は汚れた顔をそのまま映しだしますが、果たして鏡は悪いものでしょうか。決してそのようなことはありません。それと同じように、人間の心の中にある自我、あるいは罪をえぐりだす律法、罪を映しだす律法も、決してそれ自体悪いものとは言えないのです。
律法は良いものです。人間の患部をいやし、人間の汚れた顔を洗うためには手術や洗顔が必要です。それと同じように、人間の罪の問題を解決するためにも、神による手術、汚れのきよめが必要なのです。病気を知らない人は、病気を直そうとは思いません。これと同様に、自分が罪の病を持っているということを知らない人は、罪を直そうとはしません。律法とは、実に私たちが罪の病を持っていることを私たちに指摘するものなのです。したがって、律法は私たちに罪を示し、その後で、私たちを罪の悔い改めに導き、さらに、私たちを主イエスという避けどころ、のがれ場へと導いてくれるのです。
律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。(ガラテヤ3・24)
神の御言葉という鏡を通して初めて、私たちは自分が罪を犯しているものだということ、すなわち聖なる神から遠く離れてしまっているものであることを知ることができるのです。ですから、神を受け入れた人たちは、神の御言葉によって自分が滅びそうな者であり、自分が汚れたものであり、罪深いものであることを知り、それを認めた人々なのです。ところが、主なる神を受け入れたことのない人たちは、自分がこのようなものであることを知ることができずにいるのです。詩篇24篇3~4節でダビデは、だれが主の山に登りえようか、と問い、これに対して、手がきよく、こころがきよらかなものである、と答えています。私たちは、どうしたらきよい手ときよらかな心とを持つことができるでしょうか。ただ、イエス・キリストの血によるほかはないのです。
律法というものは、一方において罪の恐ろしさに目を開かせ、他方において神の恵みへと導ものなのです。
神の御言葉は、あなたの山のような罪をあなたに教えると同時に、あなたの罪が赦されている、という知らせをも教えているのです。
ですから、私の罪は主イエスの血潮によって赦され、忘れられ、しかもとこしえまでも忘れられてしまった、ということができる人は、本当に幸いです。もし、あなたがこのように言うことができないようでしたら、どうか次のように神様にお祈りをしてください。
「神様、どうか聖書の言葉を通して、自分がどんなにみじめなものであるかということを明らかに示してください。」
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6・23)