第Ⅲ部 新しい生活の歩み

12.キリスト者が罪に対して取る態度

ローマ人への手紙

6章1節から235節まで


「主とともに十字架につけられた」

Ⅰ.・・・・ということを知る必要性

Ⅱ.・・・・ということを信じる必要性

Ⅲ.・・・・ということが生活において現われる必要性



前章において私たちは、救われた人々が受ける祝福と富について学びました。第一のアダムの道、全人類の道は、滅びへの道でした。しかしながら、第二の道・・・・すなわち、イエス・キリストのなされた救いによって、望みの光がもたらされました。5章20節に「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とある通りです。


罪と債務からの救いのあるところには、新しいいのちがなければなりません。6章のテーマは、罪の問題です。というのは、信者も罪を犯す可能性があるからです。


(1)それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。(2)絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。(3)それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

(4)私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(5)もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

(6)私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

(7)死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(8)もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(9)キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

(10)なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

(11)このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(12)ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。(13)また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません、むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

(14)というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

(15)それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。(16)あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(17)神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、(18)罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

(19)あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(20)罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。(21)その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

(22)しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。(23)罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6・1~23)


6章のテーマとして、私たちはいくつかの題をあげることができます。例えば、与えられた義の結果、罪の力からの解放、信者の聖化、すなわちきよめられること、信者の罪に対する態度などです。


1節――罪の中にとどまる

2節――罪の中に生きる

6節――罪の奴隷である


こういう表現は、未信者の状態を表わしています。未信者は罪の中にとどまり、罪の中に生き、罪の奴隷として生活しなければなりません。信者の中にも罪は生きていますが、しかし、信者は罪に対して別の態度を取ります。信者にとって罪は生活を支配して動かす原動力ではないのですから。罪と債務の問題は、信者にとっては解決された問題です。すなわち債務は支払われ、罪は赦されたのです。これが義とされたことであり、聖書の言っている救いの土台なのです。しかし、義とされることがすべてなのではなく、むしろこれは始まりなのです。5章までは主イエスが「私たちのため」に何をなしてくださったかについて学んできました。しかし、6章では主イエスが「私たちとともに」何をなされたのかが記されています。


5章においては、主イエスが私たちの罪と債務の問題を解決するために死なれたということについて学びました。


6章においては、私たちが新しい歩みをするために、主イエスが私たちとともに十字架につけられ、死に、そしてよみがえられたと述べられています。


主イエスを信じる者は、罪の中にとどまることなく、新しいいのちを持っています。


主イエスを信じる者は、罪の中に生きているのではなく、神に対して生きているのです。


主イエスを信じる者は、罪の奴隷として生きているのではなく、自由にされた者として生きているのです。


未信者の世界は、偽りと享楽とあたりをかえりみない利己主義の世界です。


信者の世界は、真実と、自分をかえりみない愛と、心からの交わりの世界です。


こういうことが、6章の主な内容なのです。ローマ人への手紙6~8章までには、信者の成長ときよめについて述べられています。主イエスの救いによって、信者は債務を負うことがなく、義とされた者であるだけでなく、「聖なる者」です。


イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。(ヘブル10.10)


このことを私たちはよく考えてみる必要があります。すなわち、信者の立場は「聖なるもの」であるが、信者の状態は、しばしばこれから遠くかけ離れていることがある、ということです。


私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(IIコリント3・18)


6章の中心テーマは、信者が変えられること、すなわち信者の立場と信者の状態とがしだいに近づいてゆくことについてなのです。ところで、信者がこのように変えられることの最大の妨げは、「信者の内の罪」です。この罪は、信者が死ぬまでとどまり続けます。「古い人(6節)」すなわち、信者の古い性質は罪を肯定します。ですからこの古い人についてはどうしても解決がなされなければなりません。けれども幸いなことに、6章によればこの古い人の問題は、すでに解決されているのです。「古い人はイエスとともに十字架につけられました。」そこで、これから三つのことについて考えてみましょう。


Ⅰ.私たちは、私たちが主イエスとともに十字架につけられたという事実を「知る」必要があります。

Ⅱ.この事実を「信じ」なければなりません。

Ⅲ.この事実が私たちの生活において「現わされる」必要があります。


Ⅰ.知ることの必要性


私たちは生きている限り、何をする場合にも、行動を開始する前にまずいろいろな事実を知らなければなりません。ここで述べられている事実は、まず第一に主イエスが十字架につけられ、死に、葬られ、そしてよみがえられたこと。次に、「私」が主イエスとともに十字架につけられ、死に、葬られ、そしてよみがえらされたことです。


主イエスとともに十字架につけられたのは古い人です。古い人は、神の御心に対して逆らうという自分中心の人間的な意志を持っており、また、罪の力を持っています。3~5節には、古い人の死亡通知と新しい人の出生通知が記されています。死んだ人は、答えることも、反応することも、動くこともできせん。私たちは死人がとる態度を、罪に対しても取るべきです。いわゆる水の洗礼は、すでになされた救いの証しにほかなりません。洗礼を受ける人が水の中に沈んで見えなくなるように、私たちも主イエスとともに死んで葬られたのです。そして、洗礼を受ける人が水の中から再び出てくるように、私たちは主イエスとともに新しいいのちによみがえらされたのです。


しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・19、20)


主イエスとともに死んだということは、罪の力から解放されているということを意味しています。「罪のからだが滅びて(無力となり)、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」と6節にある通りです。


地球の引力は、飛んでいる飛行機に対しては無力です。それは引力よりももっと強い力が働いているからです。信者の内にある罪は、内住の主イエスによって無力にされています。これこそ、新しい生活の秘訣です。


8節――キリストとともに生きる

10節――神に対して生きる


罪の力からの解放は、単なるお勧めでも理論でもなくまさに事実です。この事実を私たちは知る必要があるのです。


3節――あなたがたは知らないのですか

6節――私たちは知っています



Ⅱ.信じることの必要性


私たちは、すでに主イエスとともに十字架につけられた、という事実を信じなければなりません。この事実は、私たちが知ろうと知るまいと、信じようと信じまいと、受け入れようと受け入れまいと、そのようなことに関係なく厳とした事実です。この事実は、主イエスにある信者は罪の力から解放されている、ということを意味しています。問題は、私たちがそれを信じるかどうかということだけです。私たちが信じなければ、私たちの生活はそのままです。しかし、私たちが信じるならば、私たちの生活は全く変わります。


一八三四年に奴隷解放宣言がおこなわれました。このとき奴隷であった人々は「あなたがたはもう自由になったのです」と告げられました。このことを信じて受け入れた奴隷たちは自由になり、新しい生活を始めることができました。


あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であると思いなさい、と11節に記されています。私たちはこの事実をよく考えなければなりません。私は罪に対して死に、罪に従う必要はない、ということです。


罪に対して、自分は死んだ者だと思いなさい。

罪に対して、はっきりとした態度をとりなさい。

古い人に従う必要はありません。

神に対して生き、主イエスの御心を受け入れ、従いなさい。


主イエスとともに十字架につけられたということは、自分の決定や自己支配を否定することにほかなりません。


罪は、私たちがそれに賛成するときにのみ力を持ちます。イエスにすべてをささげるならば、罪に対して死ぬということが実現されるのです。


創世記に登場するヨセフが、それに対する良い例です。彼はポティファルの妻に誘惑された時、彼の古い人、すなわち古い性質はその誘惑に応じようとしたでしょうが、彼はそれに対して反対の態度をとり、次のように告白したのです。


どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。(創世記39・9)


主イエスとともに十字架につけられたという事実を信ずることは、毎日新しく自分自身を主にささげ、御声に聞きしたがうことです。私たちの古い人は、主イエスとともに十字架につけられたのです。従って、その古い人は支配をやめ、王座から追い払われるべきです。罪はなお信者の中に住み続けています。しかしながら、罪があるということはもはや信者の負債にはなりません。そうではなく、私たちの罪に対する態度こそ、私たちの責任なのです。私たちが罪に対して心を譲るならば、罪は私たちを支配してしまいます。このことは私たちの負債となります。



Ⅲ.生活において現わされる必要性


私たちが主イエスとともに十字架につけられたという事実が、私たちの生活において現わされる必要があります。私たちは、はじめにこの事実を知る必要があるということを学びました。しかし、知るということは、内的に把握することであり、心の目で見ることです。このように、この事実を知る人は全く新しい態度を取るようになります。すなわち、いままでは自分自身が支配していましたが、いまからは主イエスが支配されるようになります。これが変えられた生活の意味にほかなりません。罪が支配するのではなく、義が支配するのであり、そしてこの義とは主イエスご自身なのです。


13節と19節に「ささげなさい」、あるいは「ささげてはいけません」という言葉が用いられています。つまり、私たち信者が罪に仕えるか、主イエスに仕えるかは、私たち自身の決定にまかされていることなのです。主イエスとともに死に、主イエスとともによみがえらされたということは、主イエスとの交わりの生活を意味しています。言いかえるならば、罪はもはや支配しないということです。


14節――というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。

18節――罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

22節――しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となったのです。


信者として、私たちは罪を拒否して主イエスに仕えることができます。私たちは、罪の奴隷になるか、神の奴隷になるか、そのどちらかなのです。罪の奴隷になるということは、神にとって実りのない無価値なものとなることですが、神の奴隷になることは、私たちの生活が豊かに実を結び、永遠の価値を持つことを意味しています。


信者は、罪の支配のもとにはないのであり、そのゆえに罪を犯す必要がないのです。古い人は、罪を犯さないわけにはいきませんが、新しい人は、罪を犯す必要はありません。私たちは、主イエスの血によって買い取られたので、どちらに仕えるかを選択することができます。自由にされた者たちだけが、選ぶことができます。信者として、あなたは自由にされたのです。ですから主イエスにだけ仕えなさい。これはあたりまえのことのはずですが、あなたはいかがでしょうか。


ローマ人への手紙5章を通して、私たちは神の怒りから免れた者であることを学びましたが、6章を通して、罪の力からの解放について学んだわけです。罪の力から自由にされた者は、主イエスに自分を明け渡し、主イエスに自分自身を用いていただくことができるのです。罪の力からの解放によって、私たちは自分自身を主にささげるならば、もはや罪を犯す必要がないのです。


人間は絶対的に自由な者ではありません。人間は絶えずしもべとして仕えるべき者です。しかし、信者は救いによって主に仕えるか、罪に仕えるかのいずれかを選ぶ機会を持っています。新しい歩みは、心の新しい態度で始まります。その新しい態度とは、第一に自分自身に対する考えと態度です。信者は、自分の罪が赦されており、自分は神の子であり、神は自分の裁き主ではなく父である、ということを確信しています。そして、信者は神の御心を行ないたいという気持ちを持っていますし、神の嫌われることを避けようとする気持ちもあります。主を悩ませたようなときには、できるだけ早く再び主との正しい関係に立ちたいと願います。


私たちの救いの土台は、主イエスが私たちのためになされた御業であり、新しい歩みの秘訣は、主イエスが私たちとともになされた御業です。新しい歩みは、私たちが自らを主に捧げることによってのみ実現されるのです。私たちが自分自身を捧げるそのお方が、私たちを支配するようになります。


「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです。」(ヨハネ8・34~36)


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