第Ⅱ部 提供された主の救い

10.与えられた義の祝福と富(1)

ローマ人への手紙

5章1節から11節まで


Ⅰ.神との平和を持っていること

1.なぜ平安がないのか

2.いかにして平安を得るか

3.どこに平安を見い出すのか

Ⅱ.信仰によって恵みに導き入れられていること

Ⅲ.神の栄光を望んで大いに喜んでいること


4章では、アブラハムやダビデの場合を通して、ただ信仰によってのみ義とされることを学びました。また、信仰の本質や種類、さらに信仰の働きが義とされた者においてどのように表われてくるかについても学びました。


5章には、義とされたことによって、信者の得る祝福について多くのことが記されています。この5章の主題は、「与えられた義の祝福と富」とすることができるでしょう。


(1)ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(2)またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(3)そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、(4)忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。


(5)この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(6)私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。(7)正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。


(8)しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(9)ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(10)もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。(11)そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(ローマ5・1~11)


ある人は、信者に与えられる祝福というものが何か遠い将来のもののように思っていますが、聖書は現在豊かな富と祝福が与えられると言っています。


私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1・3)


このような、すでに与えられた霊的祝福のうちのいくつかがこの5章で記されています。そこで、主に三つの点について、これからご一緒に学んでみましょう。

Ⅰ.主イエス・キリストによって神との平和を持っていること

Ⅱ.信仰によって恵みに導き入れられていること

Ⅲ.神の栄光を望んで大いに喜んでいること


Ⅰ.主イエス・キリストによって神との平和を持っていること


神との平和とは、戦争の状態が終わり、平和の状態が来ることを意味しています。ここでは、平和の感情ではなく、平和の事実が重要な問題となります。人間は誰でも平和を求め、平和を必要としています。ところが、今日世界を見まわすと、政治的にも、経済的にも、社会的にも、家庭においてさえも、いたるところに争いや不和が見うけられます。このような外側の世界に表われている争いや不和は、心の中の状態が外側に表われてきているということを知らなければなりません。つまり言葉をかえて言うならば、人間ひとりひとりの心にある分裂や不一致というものが外側に表われてきているということにほかなりません。例えば、いろいろな変化や流行を追い求めるということは、心の中に本当の満足と平安がないことを証明しています。有名なゲーテは彼の全生涯において、二四時間本当に幸福だったことはなかったと言っています。なぜ人間はそのような満たされない状態にあるのでしょうか。その原因はまさに人間の心に本当の平和と平安がないということなのです。


悪者どもには平安がない。(イザヤ48・22)


悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。(ヨブ15・20)


悪者は追う者もないのに逃げる。(箴言28・1)


ここで、新改約聖書が「悪者」と言っている者は、原語を見ると「神なき者」となっていることに注意しましょう。「神なき者」は本当の平安を持つことができません。しかし聖書は、すべての人間は神なき者であり、したがって平安のない者であると言っています。人間は、だれでも平安を必要としていますが、その平安を与える者は人間ではなく神であり、ただ神の恵みによるのです。


そこで、次に三つの質問について考えてみましょう。

1.なぜ、人間には平安がないのでしょうか

2.いかにして、人間は平安を得ることができるのでしょうか

3.いったいどこに、平安の土台があるのでしょうか


1.なぜ、人間には平安がないのでしょうか


まず考えられることは、良心の呵責から罪意識が生まれ、そのために平安がないということです。


私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。(詩篇32・3~4)


神、すなわち義なる裁判官のことを思うと、私たち人間には平安がなくなります。有名なフランスの思想家であるヴォルテールは、無神論者でしたが、あるとき友だちにむかって「もしも神がいるとしたら、それは本当に恐ろしいことだ」と言ったそうです。人間は死後裁きを受けるため、人間には平安がないと聖書は言っています。


さらに、平安がない状態の原因を考えてみると、この世のさまざまなことがらに対する思い煩いをあげることができるでしょう。また満たされない願いなども原因の一つになっていることでしょう。このように、生まれつきの人間には本当の喜びと平安がないのですが、そのような絶望的な人間に対して本当の平安を与えてくださる方は、神以外におられないことを知らなければなりません。


2.いかにして、平安を得ることができるか


ただ、生けるまことの神おひとりだけが、平安をお与えになることができるのです。というのも、神は平和の神とも呼ばれているからです。そして神は、イエス・キリストを通して私たちに平安をお与えになるのです。それはイエス・キリストが平和の君と呼ばれているからです。


キリストこそ私たちの平和であり・・・・(エペソ2・14)


イエスは神との贖いを成就してくださいました。主イエスは、神に対する敵対関係を取り除いてくださいました。私たち人間が、神から離れている罪、すなわち債務は、主イエスの尊い犠牲によって完全に取り去られたのです。平和は主イエス・キリストを信ずることによってのみ与えられるものです。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と5章1節にある通りです。


私たちが神との平和を持っているということは、過去形で書かれているのではなく、現在形で書かれていることからもわかるように、現在私たちは神との平和を持っていると聖書は言っています。主イエスを信ずる者は、いま神との平和と贖いを持っていることを信じ確信することを許されているのです。神はもはや怒りを持っておられず、主イエスの犠牲によって完全なる贖いと和解が成就されているのです。もはや何ものも神との結びつきを引き離すことはできません。


主イエス・キリストは、あらゆる問題の解決です。そして、主イエスは、最大の問題である罪と債務をも解決してくださったのです。神の前に私たち人間は、ただ単にあわれな乞食であるのみならず、途方もない債務を負っているものです。私たちの状態は、全く望みのないものでした。ですから、主イエスがこの世に遣わされたのです。そして、主イエスは、贖いと和解を成就してくださり、主イエスを信ずる者は主の流された血潮により何のいさおがなくても洗いきよめられ、汚れのない者としていただけるのです。主イエスこそ神との平和そのものです。この神との平和は、私たちがそれを体験的に知るはるか以前に現実となったのです。主イエスは、私たちをかぎりなく愛し、私たちがまだ罪人であったとき、敵であったとき、神なき者であったときに私たちのために死んでくださったのです。8~9節によると、私たちは主イエスの血潮により義とされたゆえに「もはや罪人ではありません」。また10節によると、御子イエスの死によって神と和解させられたゆえに、私たちは「もはや敵ではありません」。そして、11節によると、私たちは今や和解を受けいれたゆえに、「もはや神なき者ではありません」。信仰によって義とされるということは、私たちの人生における最大の転機です。一撃で私たちのすべての罪と債務が取り除かれるのです。啓示によって、私たちは主イエスの価値と十字架における大いなる贖いの御業を知り、さらに、自分の罪がことごとく赦されていることを確信するにいたるのです。この事実は、人間の理性によって説明することのできないものですが、私たちの心にしっかりとした不動の確信となることのできるものです。


義とされているとは、私たちと神との間には両者を分離する隔てがもはや存在しないことを意味しています。5章を見ると、主イエスの血潮によって義とされていることこそ、使徒パウロの喜びであり、歓呼であったことがわかります。パウロはいつも自分の罪と債務のことを思いましたが、それは、彼にとって決して重荷とはならなかったのです。主イエスが債務の問題を完全に解決してくださったゆえに、もはや債務は問題とならなくなってしまったのです。主イエスを信じる者は義とされている。このことこそ、5章の一番大切な内容です。


ここで、注意しなければならないことは、何でもよいから信じれば救われる、というのではなく、ただ「主イエスを信ずる」ことによってのみ義とされるということです。イエス・キリストを信じる信仰の代わりとなるものは何ひとつありません。救う力のあるのは、ただ主イエスを信じる信仰だけです。イエスを信じる信仰は、私たちの人生をまったく変える力を持っているのです。主イエスを信じるということは、最初から最後まで主に信頼し、自分を捧げることにほかなりません。また、主イエスを信じるということは、主イエスとひとつになり、親しい交わりを持つことでもあります。このように主イエスを信じるものは、義とされ、神との平和を与えられます。主イエスが、私たちの代わりに罪に対する罰を受けてくださったゆえに、もはや私たちの罪を訴える根拠がなくなってしまったのです。


3.いったいどこに、平安の土台があるのでしょうか


この平安とは、決して感情ではありません。感情というものは、誤った方向にそれる可能性があるため、感情に身をゆだねることは大変危険であると言わなければなりません。平安の土台は、神との関係が新たに回復されたという確信にあります。私たちが罪を告白し、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるならば、罪は赦されると聖書は語っています。私たちはこの御言葉にしっかりと立つとき、確信を与えられます。従って、確信の土台は私たちの理解や感情ではなく、神の御言葉にほかなりません。そして、平安の土台は、良心の呵責にさいなまれることなく、また訴えられることもないことにあると言えましょう。平安の土台は、私たちが本当に主に従っていきたいという意志にもあります。人間の自分勝手なわがままは、不和と不一致をもたらす大きな原因です。しかし、そのような自分勝手なわがままが支配され、小さくなってゆくにつれて、ただ主にのみ仕え、主にのみ従ってゆきたいという意志が心を占めるようになるのです。


地上では、あなたのほかに私は誰をも望みません。(詩篇73・25)


神との平和を持っている者は、もはや死を恐れることがありません。それは、なぜかというと、完全な平安のうちにやすらうことができるからです。この神との平和は、絶えず移り変わるようなものではなく、決して変わることがありません。またこの平安は、私たちの魂が感じとるようなものではなく、主イエスが私たちの罪と債務をことごとく取り去ってくださったという事実そのもののうちにあります。


「神との平和」は、主イエスの十字架において現実となりました。


「神との平和」とは、一回かぎりのものであり、永遠に失われることのないものです。けれども、それに対して「神の平安」は失われる可能性があるものです。


そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4・7)


キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。(コロサイ3・15)


もし、私たちが自分勝手な道を行くならば、この「神の平安」は失われてしまいます。しかし、ゴルゴダにおける贖いの御業は「神との平和」であり、私たちがどうあろうとも、いつも変わることがありません。


Ⅱ.信仰によって恵みに導き入れられていること


このことは、つまり絶えず主の御臨在に近づくことができる、ということです。ひとたび罪を赦された者は、もしかしたら私はまた罪を犯してしまうのではないかという不安を抱くかもしれません。私たちは、再び望みのない状態、人間的な虚しい努力に身をゆだねるために贈われたのではありません。罪と債務の後に出てくる問題は、新しいいのちの形成ということです。私たちは、いくら義とされても、自分の力で自分を新しく造り変えることはできません。しかし、主イエスは、私たちに迫り私たちを脅かすすべてのものよりも大いなるお方です。豊かないのちが約束されているのです。主の恵みによって、私たちは、すべてのものに打ち勝つことができるのです。ではいったい、恵みとはどのようなものでしょうか。恵みとは、律法と全く反対のものです。


律法は、人間から義を要求しますが、

恵みは、私たちにイエス・キリストの義を価なしに与えてくださいます。

律法は、良い行ないを要求し、常にモーセを指し示しますが、

恵みは、主イエスを指し示し、ただ信仰のみを求めるのです。

律法は、主の祝福を功によって得ることを要求し、

恵みは、価なしにイエス・キリストにあって祝福を与えてくださることです。


つまり、恵みとは、価なしに与えられる神の贈り物にほかなりません。この恵みは、罪人として主イエスのみもとに来る人すべてに与えられるのです。この恵みは、信者の全生涯を担っていくものです。ですから5章2節には、「いま私たちの立っているこの恵み」という表現が使われているのです。信者の全生涯は、初めから終わりまですべてこの恵み以外の何ものでもありません。「悔い改め」は、神がお与えになった恵みです。


人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。(使徒11・18)


「信仰」が神からの賜物、つまり恵みであることも記されています。


あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2・8)


「奉仕」もまた、神からの賜物、すなわち恵みです。


私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。(ローマ15・16)


「成長」もまた、主イエスの恵みであることがわかります。


私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(第二ペテロ3・18)


苦しみを受けながらも「忍耐」することは、神の賜物、すなわち恵みです。


人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。(第一ペテロ2・19)


「与える」ことも、神の恵みです。


さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(第二コリント8・1、2)


イエス・キリストが再び来られるとき、私たちが「主の御姿に似たものと変えられること」もまた、神の恵みであることがわかります。


ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(第一ペテロ1・13)


私たちは、ただ単に信仰生活の初めのときだけでなく、全生涯にわたって、神の恵みを体験することができるのです。


恵みとは、何か漠然としたものではなく、イエス・キリストにおいて具体化されたものです。すべてをこの主イエスにゆだねることは、本当にすばらしいことです。主イエスは、すべてをお見通しになり、御自分の計画の内にいっさいを導いておられます。しかし、これは決していわゆる宗教によって与えられるものではなく、ただ主イエスによってのみ与えられるものです。


主イエスは比類のないお方です。主は、御自分の御計画を遂行する力を持っておられます。大いなる忍耐と愛を持って、私たちひとりびとりに配慮をしておられるのです。主の目的は、主を信ずる者が、主の御姿に似た者に造り変えられることです。「私たちは恵みの中に立っている」とパウロは言っています。私たちに対して注がれる恵みは、三つの泉から、あるいは、三つの管を通って流れてくると言えます。


第一に、主との交わりであり、祈ることです。

第二に、御言葉に親しむことであり、聖書を読むことです。

第三に、信者同士の交わりであり、集会を大切にすることです。


「私たちは恵みのなかに立っている」ということは、すなわち神の恵みが罪よりもはるかに大いなるものであることを意味しているのです。


「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(第二テモテ2・13)


主の恵みは、永遠に変わることがありません。主イエスとその恵みは、ほかの何ものにも比べることができない比類のないものです。しかし残念ながら、信者のなかには成長しないで同じところをいつまでも足踏みしている人がいます。そのような人たちは恵みの中に立っておらず、恵みが自由に働くことを妨げて主を悲しませているのです。


私たちは、

「過去」に対しては、神との平和を持ち、

「現在」に対しては、恵みの中に立ち、いつも主の御前に近づくことができ、

「将来」に対しては、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」。


Ⅲ.神の栄光を望んで大いに喜んでいること


私たちはいままで「過去」の問題として罪と債務の問題を、そして「現在」の問題として新しいいのちの形成の問題を考えてきました。そこで、これから「将来」の問題として、主の御手に守られている信者のことについて学んでみることにしましょう。


信者は次のように告白します。「私の過去は清算され、債務は支払われ、絶えず神との平安を与えられている。現在主の恵みが私の生涯を新しく造り変え、主が私のことを心配してくださる。将来に対して、来たるべき栄光のゆえに確信と喜びと崇拝が生じてくる」。


この来たるべき栄光は、私たち人間の努力によるのではなく、主イエスのいさおによるものです。私たちは、この栄光にあずかるに値しないものですが、ただ神の一方的な恵みの贈り物として受けることが許されています。望みは、ただ主イエスに基づくものであり、また主イエスのなされた御業に基づくものです。ただ主イエスを持っている者だけが、本当の望みを持っているのです。


イエスなき人は望みなき人です。


私たちは、二四時間先すらも知ることができませんが、主イエスはすべてを永遠にいたるまで御存知です。この主イエスに信頼することが許されているとは、何という特権でしょうか。ですからパウロは、「喜んでいる」あるいは「誇りに思っている」と言わずにはおられなかったのです。いかなる宗教や哲学も、死後の将来に至るまで解き明かすことはできません。それができるのは、ただ主イエスおひとりだけです。黙示録21章22節には、来たるべき新しい世界が記されています。


私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。(黙示21・22)


主イエス御自身が、私たちのためにあらかじめ備えていてくださるのです。この事実を真剣に思うとき、私たちは圧倒され、自らを恥じ、礼拝せざるをえなくなるのです。


将来を見て、心安らかにいられるということは、何という富でありましょう。今日主イエスを信じ受け入れ、すべてを主に明け渡す者は、自分の過去がすでに清算されてしまったこと、そして言い表わすことのできない栄光が自分を待っていることを確信することができるのです。


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