第Ⅱ部 提供された主の救い

11.与えられた義の祝福と富(2)

ローマ人への手紙

5章12節から21節まで


Ⅰ.義とされたことの結果

1.何が与えられているか

過去─現在─未来

2.なぜ、患難さえも喜ぶことができるか

Ⅱ.アダムの不従順によってもたらされた悲惨

1.罪

2.死

3.滅び

Ⅲ.主イエスの従順によって注がれた豊かな恵み

1.義

2.いのち

3.救い


今回は、1章1節から5章11節までのまとめである5章の後半について学んでみましょう。


(12)そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(13)というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。(14)ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。(15)ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

(16)また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。(17)もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

(18)こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

(19)すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(20)律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(21)それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5・12~21)


Ⅰ.義とされたことの結果


5章の前半である1~11節を経験した者は、どんな人でしょうか。この箇所で私たちは「求めている者の努力」ではなく、「持っている者の喜びの声」を聞くことができました。主イエスを信じ受け入れた者は、はかり知れないほどの富を与えられているのです。それは、何かを欲しがっている者、あるいは何かを求めている者の声ではなく、すでにそれを見い出した者の確信と証しです。ここでは「どうか与えてください」というようなことが祈られているのではなく、与えられた神の贈り物に対する感謝がなされているのです。ここに出てくる動詞を見ただけでも、何という富が与えられているかがよくわかります。


1節─私たちは持っている

2節─私たちは導き入れられている

私たちは大いに喜んでいる

3節─私たちは喜んでおり、そして知っている

5節─私たちに注がれている

私たちは与えられている

9節─私たちは義と認められている

10節─私たちは和解させられている

11節─私たちは大いに喜んでいる


1.信者に何が与えられているか

1節─神との平和

2節─恵みに導き入れられること、神の栄光を望むこと

5節─聖霊と神の愛

9節─神の怒りからの守り

10節─救いにあずかること

11節─和解を受けること


これらのものがすべて信者に与えられていることの根拠は、主イエスが尊い犠牲を払ってくださったという事実にあります。


過去に関しては、神との平和があり、良心はもはや訴えることがなく、良心の呵責もありません。そして自分の罪と債務がことごとく赦されている、という確信が与えられているのです。


現在に関しては、主の御前に恐れることなく近づくことが許され、信者の生活を豊かにする恵みが満ちあふれているのです。はかり知れないほど多くのものが主イエスを通して贈られているのです。信仰とは、主イエスに対する態度です。主イエスを信じるということは、主イエスを持つことにほかなりません。すなわち主イエスが持っておられるものを、私たちも持つようになるのです。


将来に関しては、大きな栄光が約束されているゆえに、喜ぶことができます。もちろんこの地上においても、神の栄光を体験することができます。


もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(第一ペテロ4・14)


いかなる苦しみの中でも、神の子は望みと喜びで満たされます。これこそまことの栄光ではないでしょうか。主イエスは、次のように祈られました。


またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。(ヨハネ17・22)


主イエスと兄弟姉妹が愛によって一つに結びつけられていることこそ、まことの栄光です。しかし、聖書は未来の栄光についても数多く語っています。


あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3・3~4)


卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、・・・・(第一コリント15・43)


肉体が栄光あるものによみがえらされ、主イエスの御座の右に座し、主イエスと共に永遠から永遠まで支配するということ、これに勝る栄光はありません。そして私たちは、主イエスとともに遺産を受け継ぐように召されているのです。


もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8・17)


聖書は、私たちも主イエスに似たものとされると言っています。


愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(第一ヨハネ3・2)


2.なぜ患難さえも喜ぶことができるか


さらにパウロは、「患難さえも喜んでいる」と、驚くべきことを言っています。なぜパウロは、そのようなことを言うことができたのでしょうか。信者は、患難が決して不幸なことではなく、大いなる富にあずかるために必要な手段であることを知っています。栄光の御霊としての聖霊が、私たちに与えられています。ですから私たちは、あらゆる苦しみをも喜んで通ってゆくことができるのです。


(パウロたちは)弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。(使徒14・22)


信仰は試されなければなりません。信仰には、三つの試練があります。


その第一は、主イエスを告白することです。主イエスを告白し、証ししなければ、その人には信仰の成長はないでしょう。


第二は、日常生活における試練です。日常生活において、主イエスが本当に私たちの内に宿っておられることが明らかにされなければなりません。


第三は、最も大切な試練、つまり苦しみです。私たちはいったい、この苦しみに対してどのような態度を取ったらよいのでしょうか。


私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。(第二コリント4・8)


それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。(第二テサロニケ1・4)


患難に対して正しい態度を取る者は、豊かに祝福されます。患難に対する私たちの反応こそ決定的なものであり、それによって私たちの信仰は立ちもすれば、倒れもするのです。


「多くの患難によって」、信者は今まで以上に真剣に主を求めるようになるでしょう。


主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。(イザヤ26・16)


「苦難を通して」、私たちはさらにいっそう主の御声を聞くことができるようになるでしょう。


神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。(ヨブ36・15)


「苦しみによって」、私たちはいっそう信者の交わりを大切にするようになるでしょう。


このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。(第一テサロニケ3・7)


「患難によって」、私たちは罪の征服者となることができるのです。


このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。(第一ペテロ4・1)


ウォッチマン・ニーはかつて、「おお神よ。多くの苦しみによって我らを祝福したまえ。」と祈りました。パウロも多くの患難を経験しました。


彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕えようとしてダマスコの町を監視しました。そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。(第二コリント11・23~33)


まさに患難を通して主イエスをよりよく知るということは、はかり知れない価値を持っているのです。


将来与えられる栄光を見て、キリスト者はいかなる患難のときにも主を喜ぶことができるのです。信者は、将来に対して何の不安も持っていません。私たちは将来のことを知ることができませんが、主イエスに信頼しています。ですから、将来に関するすべてのことは解決が与えられているのです。主イエスご自身が私たちの将来です。あらゆる不安と心配は、主イエスによって慰められます。主イエスは、ご自身を信頼する者を必ず目的地まで導かれます。それですから、私たちは今誇ることができ、感謝することができる土台を持っているのです。


ローマ人への手紙の1章17節~3章20節までには、まことに恐るべき現実が記されています。すなわち、「義人はいない、ひとりもいない。すべての人が迷い出て、皆ともに無益なものとなった」ということでした。


3章21節~5章11節までには、すばらしい現実、すなわち、義と認められ、神との平和を持つことが許されている、ということが記されています。かつては失われた者が、いまや救われているのです。


そして、5章12~21節までで、パウロは以上述べたことがらをまとめて要約しています。ここで私たちは、二つの出発と二人の発端者、すなわちアダムとキリストのことを見ることができます。そこで、最初にアダムのことについて、次に主イエスのことについて考えてみましょう。


Ⅱ.アダムの不従順によってもたらされた悲惨


天地が造られたときには、人間に罪というものはありませんでしたが、後になって悪魔により罪がもたらされました。


あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。(ヨハネ8・44)


5章の19節には、人間が不従順であったために罪が入りこんできたとあります。つまり、罪の原因は不従順でした。罪とは、まず第一に行ないよりも態度です。それは人間のわがままな気持ちです。このわがままな気持ちは、神の御心に反対する性質を持っています。罪が入りこんだことによって、人間は神から離れ、自分で何でもやりたいというわがままな気持ちが生じ、「自分中心」がすべての考えや行ないを支配するようになってしまったのです。12節を見ると、全人類が罪を犯したがゆえに全人類が罪人であると記されています。罪の結果は、死です。罪によって全人類に死が入りこんでしまいました。それは、肉体的な死であり、霊的な死でもあります。アダムが罪を犯したとき、彼はすぐに肉体的に死ぬことはありませんでしたが、霊的にはそのとき既に死んでしまったのです。かつて神との親しい交わりを持っていたアダムは、いまや神を恐れ、神の御顔から逃げてしまったのです。これこそ、霊的な死です。アダムには後悔の念と悔い改めの思いが欠けていました。これこそいのちの泉からの分離、すなわち死です。さらにもうひとつの罪の結果は、滅びです。18節には「一つの違反によってすべての人が罪に定められた」とあります。人間は神によって滅びの判決を受けなければなりません。12節と18節には「すべて」という言葉が二回出てきますが、これは、例外のないことを明らかにしています。永遠にわたって神から離れていかなければならないこと、これこそまさに滅びです。


Ⅲ.主イエスの従順によって注がれたあふれるばかりの恵み


パウロは12節以下で、罪のことばかりでなく「恵み」のことも記しています。一方では、過ち、債務、滅びの判決、死が記されており、他方では、神に対する正しい態度、神の恵みによる釈放、いのちが記されています。


主イエスの場合は、アダムの場合と全く根本的に違っています。主イエスには、罪、債務、死、破局がなく、反対にいのち、救い、新しい始まりが満ち満ちています。人間は、誰でも永遠に滅びの内にとどまりたいか、それともいのちである主イエスとひとつに結びついて救いにあずかりたいか、どちらかに決定しなければなりません。アダムは滅びゆく人類のかしらであり、主イエスは全く新しい救われた人類のかしらです。主イエスは御自分の流された血潮によって、罪の奴隷を買い取ってくださり、新しいいのちを与えてくださったのです。人間は誰でも、自分の意志によって生まれたのではありません。人間はみなアダムの子孫ですから、生まれたときに既に罪人でした。それに対して「新しく生まれかわる」ことは、私たちの意志によるのです。信仰によって、私たちは主イエスと結びつけられ、それによって永遠のいのちが与えられます。主イエスとひとつに結びつくことによってのみ、平和、贖い、義、救いが与えられるのです。従って、パウロは罪の力のみならず、恵みの絶大な力についても書き記しているのです。


アダムによってその子孫は罪、死、苦しみ、永遠の滅びを受けなければならなくなりました。


主イエスによって、豊かな恵みと義という贈り物が与えられたのです。


恵みとは、主イエスを信ずる者に値なしに与えられる全く自由な神の贈り物です。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」。


主イエスによって、あふれるばかりの恵みが注がれました。救われるために一生懸命努力することは全く必要ではなく、人間的な努力はかえって神に対する罪であることを知らなければなりません。


最後に特に17節と21節とを見てみたいと思います。「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」


この箇所では「支配する」という言葉が四回出てきます。その場合「支配する」とは、17節では「いのちにあって支配する」、21節では「いのちを得させるために支配する」と使われています。「いのちにあって」とは、回心した信者の中で支配する「恵み」について、「いのちを得させる」とは、与えられた恵みによって「信者」が支配するようになったということを意味しています。主イエスのない人間は、本当のいのちを知りません。そのような人の生活は全く意味の無い生活であり、死に至る病の状態と言えましょう。川の流れというものは大変力強いものです。例えば冬が去り暖かい春がやって来ると、雪がとけ川の水かさが増し、一杯になると岸辺にあふれてあたり一帯を潤します。この様子をあらわす言葉が恵みについて使われているのです。主イエスを自分の中に受け入れる者の罪は、あふれるばかりの恵みのゆえにもはや無に等しくなってしまうのです。赦された罪は、恵みのゆえにいまやどこにも見い出せません。


毎日あふれるばかりの恵みを受けている者は「支配する」ようになる、と動詞の現在形を用いてパウロは説明しています。すなわち、日々あらたに主イエスとの交わりを持つことがどうしても必要なのです。私たちは王のように支配することができるのです。けれども、あわれな乞食のようになってしまっていないでしょうか。あふれるばかりの恵みのゆえに、日々の生活において、自分の環境の上に立つことができ、支配することができるようになるのです。すなわち罪の奴隷から、罪を支配するものに変わることができるのです。そうなると、もはや死を恐れる必要は全なくなります。なぜなら、主ご自身が死を克服して完全なる勝利を成就してくださったからです。波に浮ぶボールのように周囲の人間や環境によって変わる人間が、いまやあらゆる環境の上に立ち、支配するものとなるのです。このあふれるばかりの恵みの秘訣は何でしょうか。アダムの「不従順」によって、悲惨がやって来ましたが、主イエスの「従順」によってあふれるばかりの恵みが注がれたのです。


「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4・34)


主イエスにとって、最高のものは、父なる神の御心でした。そして、主イエスの従順によって、絶えざる恵みが私たちに与えられるようになったのです。主イエスは私たちが恵みのゆえにさらに恵みを受けることを望んでおられます。ヨハネは次のように証ししました。


私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのです。(ヨハネ1・16)


私たちも、このように証しすることができれば幸いです。


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