第Ⅱ部 提供された主の救い
ローマ人への手紙
4章1節から25節まで
神によって義とされる人はどんな人か
Ⅰ.アブラハムのように御言葉を決して疑わない者
Ⅱ.ダビデのように御言葉に徹頭徹尾より頼む者
Ⅲ.私たちはいったいどうなのか
前回は、ローマ人への手紙3章において、神の前に義とされることについて学びました。自分の人間的な努力によって義とされようとする試みは、全く価値のないものであり、神の前には認められません。人間はすべて神の前に債務者であり、その債務はあまりにも大きいため、人間の力によっては支払うことができません。3章は、新しい道、神によって備えられた道を示しています。
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3・24)
また3章では、神がくださる贈り物を素直に受け取ることが非常に大切であること、すなわち信仰によって受け取ることの大切さを明らかにしています。
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ3・28)
今日これから学ぶ4章の内容は、次のようにまとめることができます。
アブラハムを通して、またダビデを通して、「信じるとは一体いかなることか」あるいは、「神によって義とされる者はいかなる者か」ということです。
(1)それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。(2)もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。(3)聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。(4)働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。(5)何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(6)ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「(7)不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。(8)主が罪を認めない人は幸いである。」
(9)それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、(10)どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。(11)彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、(12)また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。(13)というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。(14)もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。(15)律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
(16)そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。(17)このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。(18)彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。(19)アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。(20)彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、(21)神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
(22)だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。(23)しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、(24)また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。(25)主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ローマ4・1~25)
そこでこれから、信じるとはどういうことかというこの主題について4章を三つに分けて考えてみましょう。
信じるとはどういうことか
Ⅰ.アブラハムを通して
Ⅱ.ダビデを通して
Ⅲ.私たちについて
疑いもなく、アブラハムは信仰によって義と認められた人でした。
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15・1~6)
ローマ人への手紙4章2~4節には、ふたたび二つの正反対の道、すなわち行ないによる道と信仰による道、あるいは行為による道と信頼による道が記されています。私たちはアブラハムの生涯を通して、彼が良い行ないをしたことを知っています。例えば彼は、カルデヤから出たときに自分のふるさとや友人を捨てて、神の命令に従いました。また彼は、カナンの地に入ったとき、すぐに祭壇を築き主の御名を宣べ伝えました。また彼は、良い地を選ぶか、劣る地を選ぶかという選択に直面したとき、自分を全く無にして良い地をおいのロトに譲ったのでした。おいのロトは非常に欲が深く、自分中心の性格を強く持っていましたが、あるときケドルラオメルというエラムの王に敗戦した結果、捕えられてしまいました。しかしロトを救うために、アブラハムは彼に戦いをいどみ、大きな勝利をおさめてロトを救いだすことに成功しました。その時、ソドムの王がアブラハムにすべての財産や戦利品などを与えようとしましたが、それに対してアブラハムは「私は何ひとつ取らない」と主に誓って言ったのです。
この二、三の例を見ただけでも、アブラハムが多くの良い行ないをしていたことがわかります。そのことを通して、ロトとソドムの王はアブラハムの偉大な人格に深い感銘を覚えたに違いありません。しかしアブラハムは、神の前に義とされるためにこれらの良い行ないをしたのではなく、神と一つに結びついていたことの結果として自然に出てきたことであったのです。主イエスは次のように言われました。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5・16)
そしてヤコブも「実りのない信仰は死んだものです」と言っております。しかし、いかに良い行ないであったとしても、それは神に義とされるためには何の役にも立ちません。アブラハムは義とされるために良い行ないをしたのではなく、反対に義とされた結果良い行ないをしたのです。
なぜアブラハムが義と認められたのかということについて、いくつかの点を考えてみましょう。
義とされるにあたって、決定的なことは何でしょうか。それは、アブラハムの信仰ではなく、神の御言葉だったのです。信仰は、神の御言葉に基いているものです。ただ、神がお語りになるときのみ、信仰が土台を見い出すのです。神の御言葉のない信仰とは、いわば土台のない家のようなものです。アブラハムは、いろいろな神の約束の御言葉を与えられました。
あなたの子孫はこの星の)ようになる。(創世記15・5)
ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。(創世記15・4)
ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。(ガラテヤ3・16)
創世記12章によると、地上のすべての民族がアブラハムに約束されたイエス・キリストによって祝福されることが明らかです。
アブラハムは、神の語られた御言葉を「聞いた」だけでなく、それを「見た」のです。創世記15章5節によれば、アブラハムが主の言葉に従って外に出て天を見上げたとき、彼の子孫が天の星の数のようにおびただしくなることを約束されたのです。アブラハムは、ただ単に神の約束を聞いただけでなく、神の救いの道を見ました。アブラハムは救い主なるイエス・キリストを見ました。そしてそのイエス・キリストによって救われた人類を見ました。救われた人の数は大空の星のように多いと聖書は言っています。
アブラハムは、神の御言葉に対していかなる態度を取ったのでしょうか。彼は御言葉に対して拒むことをせず、それを受け入れ、御言葉をないがしろにせずそれをよりどころとしました。もしもアブラハムが目に見えるものを見ていたならば、すべてが不可能に思われたことでしょう。彼とサラはひとりの男の子をさずけられると神に約束されましたが、このことも、人間的に考えたならば、あらゆる点で不可能だったのです。人間の理解力、自然の法則、科学的な知識から見て、彼の妻とすべての他の人々はそれが不可能であると答えたことでしょう。状況はまったく望みのないものでした。しかし、信仰は、そのような目に見えるもの、人間の理性に対して、このことが可能であると断言しているのです。理性に対して反対したアブラハムは「神の言葉は真理である」と確信していました。アブラハムがより頼んだ神は、ちっぽけなものではなく、全知全能なる神なのです。
9~12節までは、おもに割礼のことが述べられています。割礼とは神に選ばれた民イスラエルに属している者のしるしです。多くのユダヤ人は、そのことを誇りに思っていました。彼らは、外側のしるしである割礼があればそれだけで神に属する者であり、それだけで十分であると思っていたのです。しかしそれに対して、パウロはそれが間違っているということを2章28~29節で明らかにしています。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6・15)
アブラハムは、いつ割礼を受けたのでしょうか。神によって義とされる前にではなく、後に割礼を受けたのです。11節によれば、割礼とは義と認められたことの証印です。正しい順序は次のとおりです。まず、第一に信仰。第二に、その結果としての義認、すなわち義とされること。そして第三に、そのしるしとしての割礼です。
私たちがここで考えてきたのは、神によって義とされる者はどのような者か、という問いでした。今まで見てきたように、これに対する答は、生き生きとした信仰を持っている者、たとえばアブラハムのような者です。
アブラハムは、自分に御言葉を与えてくださった神を決して疑いませんでした。彼は心から神を信頼していました。悪魔は今日もエデンの園のときと同じように「本当に神がそう言ったのですか」と言って惑わそうとしています。神を信じる者は、神の御言葉ひとつひとつを本当に信じるのです。17節にはアブラハムが「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」を信じていたことが記されています。私たち人間には死んだもののように思われ、また全く望みがないように思われる場合であっても、主に信頼するならば、不可能が可能となるのです。18節には、アブラハムが望みえないときに望みを抱いて信じた、とあります。アブラハムは意識的に目に見えるものから目をそらし、目に見えない主に目を注いでいたのです。これこそ、本当の信仰です。
本当の信仰とは、自分や他人から目をそらし、神が必ず約束をお守りになることを確信することです。
また、本当の信仰は、いろいろな攻撃や試練によってかえって強められるものです。
21節にはこうあります。「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」神は約束されたことを成就する力を持っておられるので約束を守られる、ということを知っている者は幸いです。
本当の信仰は、神に栄光を帰するものです。私たちはいったいいかにして神に栄光を帰するのでしょうか。神を信じ、その御約束を疑わないならば、神に栄光を帰することができるのです。アブラハムの信仰は、幼子のような信仰でした。神を知らない者は、アブラハムのように幼子のような信仰のことを幼稚な考えであると言います。アブラハムは死んだも同然な自分の体を見ず、また神の約束を疑うようなこともしませんでした。
アブラハムは、神が見たものを見ました。
彼は、約束された子孫を見ていました。
彼は、創造主なる神を見上げて、この神を信頼することによって、義とされたのです。
神によって義とされた者の第二の代表者は、ダビデです。6~8節にかけてはダビデのことが記されています。私たちは、ダビデが深い罪を犯したこと、すなわち姦淫を犯し、殺人を犯したことを知っています。神は、預言者ナタンをダビデのもとへ遣わしました。預言者とは神の言葉を取りついで言い表わす者です。預言者ナタンは、罪を犯した者を罰するためではなく、回復させるために遣わされたのです。預言者によって与えられた御言葉は、ダビデに大きな重荷を負わせることになりました。
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇32・1~5)
ダビデはなぜ主が自分の罪を赦してくださった、という確信を持つことができたのでしょうか。ダビデは、神の御言葉に耳をかたむけ、それを自分のものとしたのです。
主もまた、あなたの罪を見過してくださった。(第二サムエル12・13)
姦淫と殺人という罪は非常に大きい罪でした。こんな大きな罪を神が赦したという言葉は、本当に真理なのでしょうか。ダビデは、この御言葉を疑わずに信じたのです。ですから、彼は喜びと平安と確信を持つことができたのです。神によって義とされる者はどのような者でしょうか。それは、ダビデのような者です。ダビデは神の御言葉に徹頭徹尾よりたのみました。ですから神は、彼の罪を見過してくださったのです。
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3・24)
この御言葉は、私たちの罪が赦されるために主が死んでくださった事実を明らかにしています。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ローマ4・25)
この御言葉は、私たちが義と認められるために主イエスがよみがえられた、と言っています。
アブラハムとダビデは、主の御言葉を信じました。ですから、彼らは罪を赦され、義と認められたのです。御言葉は、私たちの罪と債務がすべて支払われていると言っています。私たちはこの事実を信じているでしょうか。それとも信じないのでしょうか。私たちは、御言葉を信じるか、それとも目に見えるものだけを見るか、のどちらかです。多くの人は、救いの喜びと救いの確信を持ちたいと願っています。しかし、彼らは良い生活をすることによって義とされようと一生懸命に努力するのです。他の人々は、自分が救われているという感じを持ちたいと思っています。24節には、アブラハムとダビデが義と見なされたというのは、私たちのためでもあって、彼らがひとつの良い見本を示したとあります。神はイエス・キリストにおいて、完全なる救いを成就してくださいました。救いはもはや備えられており、私たちはただそれを受け取りさえすればよいのです。大切なことは、御言葉に対して私たちがいかなる態度を取るか、ということです。私たちは、目に見えるもの、たとえば良い行ないとか、罪などというものを見ていないでしょうか。あなたが御言葉を信じ、より頼むならば、神が約束なさったこと、つまり罪の赦しと主の義を自分のものとすることがきるのです。「信じる者は持つ」、なぜなら「与えられる」からです。
アブラハムとダビデは、神の御言葉を完全な真理として受け取りました。これこそ、彼らが義とされたことの理由です。「私はあなたの罪を見過ごした」という神の御言葉に対して、あなたはいかなる態度を取られますか。アブラハムとダビデは神の御言葉を信じたゆえに義とされました。あなたも、主の御言葉を信じたいと思われないでしょうか。