第Ⅱ部 提供された主の救い

8.恵みによって信者に与えられる神の義

ローマ人への手紙

3章27節から31節まで


Ⅰ.なぜ神は御自身の義を提供なさることができるか

血潮の代価が支払われたゆえ

Ⅱ.神が罪人に義を提供することができるための条件は何か

イエス・キリストのみもとに行くこと

Ⅲ.義の結果は何か

1.神の義を誇ることはできない

2.信仰の道が律法に抵触するものか


前回で私たちは、「ヨベルの年」について聖書から学びました。レビ記25章と27章には、ヨベルの年について記されています。安息の年と同様に、ヨベルの年には種をまいたり刈り取ることが禁じられており、その年には休まなければならないことが記されています。この場合、人間だけでなく土地もまた休ませなければなりません。今日では、土地を休ませるどころか、反対に人工肥料や農薬など人間が作ったものを用いてでも土地から収穫物を少しでも多く取ろうと一生懸命になっています。これもまた、現代人が昔の人たちよりも健康でなくなったことの一つの原因になっているようです。


七年目ごとに種まきや収穫物の刈りとりを止めて休むことが、イスラエルでは習慣となっていました。それは神の御心だったからです。この神の戒めを忠実に守ってそれを実行するならば、主の豊かな祝福にあずかることができたわけですが、七年目ごとに休むことができるためには、その前の年に、二年分の収穫がなければならないことになります。


安息の年は、七年目ごとに巡ってきますから、ちょうど四十九年目も安息の年であり、その翌年の五十年目はヨベルの年となり、二年間種をまくことも収穫することも休まなければならなかったわけです。これはイスラエルの民にとっていわば試練の年であり、これを通してイスラエルの民は主により頼むことを学ばなければならなかったのです。すなわちイスラエルの民は、このように目に見えるものから目を離し、完全に主により頼まなければならなかったのです。


土地は神の定めに従って正しく分割され、それぞれの所有となった土地はかってに売買したり譲り渡したりすることを許されませんでした。しかしながら、貧しいために土地を売らなければならず、自分の土地を手放してしまったような人にも、このヨベルの年には、もとどおり以前自分が所有していたものを返されるという特別の定めがあったのです。したがって、土地の売買が永久に続くということはなく、定められた期間には、必ず始めの状態にもどるようになっていたわけです。そして奴隷もまたヨベルの年には解放されました。


しかし、いったい何のためにヨベルの年があったのでしょうか。主は、自分の所有物や自由を失ったイスラエルの民に、もう一度もとどおりの状態に立ち返ることができるようにとヨベルの年を定められたのです。イスラエルの民はだれでも一つの逃れ道、解放、そして新しい出発があることを知っていました。ヨベルの年はまさに主の恵みの年でした。


神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。(イザヤ61・1~3)


このヨベルの年に与えられる本当の開放は、主イエスとその救いによって始まったと言えます。ですから、主イエスはナザレでこのイザヤ書の部分をお読みになられたのです。


「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4・18~24)


私たちも今日、ヨベルの年に生きています。ローマ人への手紙1~3章によれば、そこには逃れ道のない状態、人間の罪と堕落のことが歴然と記されていますが、3章21節になってはじめて「しかし、今は」という言葉が出てきます。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」。


今は、恵みの時、今は、救いの日です。(第二コリント6・2)


とパウロは言っております。


そこで、今日学ぶ3章27~31節までの主題は、「恵みによって信じる者に与えられる神の義」、とすることができます。


(27)それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

(28)人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが私たちの考えです。(29)それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。(30)神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

(31)それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・27~31)


この箇所では三つの問いが問題とされています。

Ⅰ.何ゆえ神はご自身の義を提供なさることができるか

Ⅱ.神が罪人に提供なさる義が実現する条件は何か

Ⅲ.義の結果は何か


Ⅰ.何ゆえ、神はご自身の義を提供なさることができるのか


神は、全知全能であるがゆえに、ご自身の義を提供なさることができるのでしょうか。罪に対しては、なんらの罰も要求なさらないのでしょうか。


「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのです」という23節の御言葉は、特にキリスト以前に生きていた人々に関して言われています。またこの御言葉は、律法と神に近づくすべを知っていたユダヤ人の民にもあてはまることは言うまでもありません。ヘブル人への手紙の著者が言っているように、動物の血を流すことによっては、本当の意味での罪を取り除くことはできないのです。


雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。(ヘブル10・4)


かつてのイスラエルの民が、主に近づくために動物の血を流したことは、外面的、形式的な罪のきよめを意味してはいましたが、本当の意味での根本的な罪の赦しとはなっていなかったのです。


それではいったい、罪の問題はどのようにして解決されたのでしょうか。3章25節の後半にその答えが記されています。「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」。すなわち、神はイエス・キリストの血が流されるという本当のきよめの道が開かれるまで、罰することをなさらなかったのです。流されたイエス・キリストの血は、人間の罪のためのなだめの供え物を意味しています。「あがない」という言葉は、一定の代価を支払って解放することを意味しています。その当時、奴隷市場で奴隷を買いとる場合にも「あがなう」という言葉を用いました。それのみならず、買いとった奴隷を全く自由な状態においてやることもこの「あがない」という言葉の中に含まれています。


そのようなあがない(=贖い)は、主イエスが十字架におかかりになることによって成就されましたが、それは金や銀などによるのではなく、主ご自身の尊い血潮によってなされたのです。


贖いとは、まず支払われた代価による解放、罪の債務からの解放、また罪の力からの解放、そして新しいいのちに至るための解放を意味しています。


イエス・キリストは、単になだめの供え物となっただけでなく、贖いそのものです。このことからもわかるように、神は、罪を放っておかれるのではなく、罰を下さなければならなかったのであり、しかも御子イエス・キリストの上に下され、その結果十字架における死とならざるをえなかったのです。


ご自身のいのちを犠牲にすることによって、主イエスは、尊い代価を支払ってくださいました。救いにいたる道は、主イエスの血を信じること以外にありません。神は、主イエスがなしてくださったことのゆえに、義としてくださるのです。神は、黒を白と言ったり、不義なる者を義であるなどと言うようなことは絶対になさいません。神は、御子イエスが尊い代価を支払って贖いを成就なさり、そのために尊い血潮が流されたゆえに義としてくださるのです。全人類の債務が支払われ、贖いが成就されたゆえに、神は罪をお赦しになるのです。


Ⅱ.神が罪人に義を提供することができるための条件は何か


この節から明らかなように、人間は功や律法の行ないによっては、決して義とはされないのです。義とは徹頭徹尾神の恵みによるものであり、しかもそれは、罪人に対する神の愛、あわれみによるまったく自由な贈り物です。ですから、人間がしなければならないただ一つのことは、主イエスのみもとに行くことです。というのは、主イエスが人類に対するなだめの供え物となられたからです。


救いに至る道を歩むこと」、そして、提供された贈り物を「受け取ること」、このことが信仰であると聖書は言っているのです。


神は、全く逃れ道のない絶望的な状態の中にも入ってこられ、新しい逃れ道を作ってくださったのです。主イエスの流された血潮によって、救いに至る新しい道が開かれました。私たちはこの道を歩んでいるでしょうか。私たちはイエスによってなされたことを、本当に信じているでしょうか。「信仰によって」主の贖いの御業が自分自身のものとなるのです。


主イエスによって成就された贖いは、すべての人に提供されるべき贈り物です。しかしながら、どうして多くの人は、この贈り物を受けとろうとしないのでしょうか。その理由には、


第一に、多くの人は何が自分のものとならなければならないかを「知ろうとしない」ことがあげられます。


第二に、事実成就されたことがらを「信じようとしない」ことも考えなければなりません。


第三に、救い、贖いを「必要としていない」ことも大きな妨げとなっています。


第四に、提供されたすばらしい贈り物を「受けとろうとしなかった」ことも大きな原因です。


信仰とは一体何でしょうか。信仰とは、備えられた道を歩むこと、そして提供された贈り物を受け取ることです。


「行ないによる道」は、自分の努力によって神の前に義となろうとする試みであって、この道は、滅びに至るものです。


これに対し「信仰による道」は、提供されたすばらしい贈り物を素直に受け取り、主によって成就された贖いを信ずることであって、この道は永遠のいのちに至るものです。


つまり、一方は自分の力で義にいたろうと一生懸命もがいているのに対し、他方は主によって成就された贖いを信じ、受け入れたため、喜びの声をあげているのです。


ここで注意しなければならないことは、信仰とは、救いに至る道にすぎず、救いそのものではないということです。与えられた贈り物を受け取るということは、決して贈り物を作ることではありません。贈り物を受け取ることによって、初めてその贈り物が自分のものとなるのです。備えられた道を歩むということは、自から道を開くことではなく、あくまでもすでに開かれた道を歩んでいくことにすぎません。信じることによって自分を救うことはできませんが、主イエスのなされた救いが自分のものとなるのです。ですから、パウロは27節で、「私たちの誇りはすでに取り除かれた」と言っているのです。


提供された贈り物を受け取ること、あるいは備えられた道を歩むこと、すなわち信じることは、決して私たちの誇りとなるものではなく、ただ神のなさった恵みなのです。


28節でパウロは、人が義と認められるのは律法の行ないや倫理、道徳、あるいは宗教などによるのではなく、ただ信仰によるのであるとはっきり言っています。ここで「人」と記されているのは、すべての人、ひとり残らずという意味です。人間はだれでもすべて罪人です。しかし、人は信頼あるいは信仰のゆえに義とされるのです。


ここに一つの良いたとえがあります。ひとりの狩人が多くの犬をつれて鹿狩りをした時のことです。猟犬は一頭の鹿を嗅ぎ出し、四方八方からその鹿を取り巻いてその輪をじりじりとせばめていきました。そして、狩人のちょうど目の前の撃ちやすいところへと鹿を追いやっていったのです。このようにして鹿は狩人の鉄砲の狙いの中へと追い出され、まさに狩人が引き金を引こうとしたとき、その鹿はもはや逃れることができないのを知って、無駄な抵抗をやめ、狩人の前に身を投げ出したのです。そして、懇願するような眼で狩人を見上げ、すべてを狩人にゆだねました。これを見た狩人は非常に心を打たれ、この鹿をあわれに思い、犬を自分のところに呼びよせて、この鹿を逃がしてやったということです。


私たちの場合も、これと同様です。神の怒りを受けるべき人間は、神から逃げようとして逃げきることができず、もはや逃げ道を失ったとき、あの鹿と同じように神の御前に身を投げ出し、あわれみを乞うほか何もできません。しかしそのとき神は、私たちをあわれみ、大いなる恵みを与えてくださるのです。すなわち、その人は神の罰、債務、罪などあらゆるものから解放されるのです。


救いに至る道は、神の提供された贈り物を受け取る信仰です。この信仰は、神の御言葉の上にしっかりと立っているものです。


Ⅲ.義の結果は何か


ここで、二つのことをよく考えてみましょう。第一は、神によって義とされた者は、決してそれを誇ることができないということです。本当の謙遜こそ義とされた者のしるしです。


第二は、パウロが31節で、「私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか」と言っていることです。すなわち、パウロが問うているのは、信仰の道が律法に抵触するものであるかどうかということです。この問いに対してパウロは「否」と答えています。この二つのものは決して対立しあうものではなく、一つのものであると言うのです。すなわち、パウロは、罪人は罰せられなければならないこと、また罪人に対する判決が下されなければならないことを明らかにしていますが、それと同時に、この罰と判決が罪人の上にではなく、その代理人の上に下されたことをも明らかにしているのです。


3章19節を見ると、すべての人が神のさばきに服すべきことが記されています。すなわち、義人はいない、ひとりもいないということです。しかし、30節には、神は義と認めてくださると記されています。人間は義となることはできないゆえに、神はすべての人間に神の義を提供しておられるのです。


いったいだれが義なる者でしょうか。神の言われていることを素直に認め、主の提供された贖いを信じ受け入れる者だけが、義とされるのです。しかし、神の提供なさる贈り物は、決して強制されるものではありません。私たちが信じようが、信じまいが、それは自由です。このことを信じないならば、私たちは罪に定められ、義とされず、永遠の滅びに至るほかありません。もしも信じるならば、債務が支払われ、主ご自身の義によって永遠のいのちを持つことができるのです。ですから義の結果は決して誇りではなく謙遜であり、律法は無とならず、信者の生活によって成就されるのです。


愛は律法を全うします。(ローマ13・10)


主イエスを愛するがゆえに、主の御心を行なうことは義とされたことの結果です。


救いに至る道が開かれました。


神の贈り物はすでに提供されています。


あなたは、この道を歩み、主によって成就された贖いという贈り物を受け取る備えができているでしょうか。


私たちはヨベルの年、すなわち、恵みの時を生きています。本当の解放、贖い、そして新しい始まりが存在しています。パウロはこのことを体験的に知り、大喜びで次のように言っています。


こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)


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