第Ⅱ部 提供された主の救い

7.人間はいかにして神の前に義とされるか

ローマ人への手紙

3章2節から26節まで


Ⅰ.律法による道=自分の義

Ⅱ.神の全く新しい道=神の義

1.ヨベルの年、恵みの計画

2.契約の上に血がある救いの成就


ここからは第2部に入ります。まず、ローマ人への手紙3章24~26節を学んでみましょう。


(21)しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(22)すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

(23)すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(24)ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(25)神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(26)それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ3・21~260)


Ⅰ.律法による道


私たちは今までのところで、すべての人が神の前に債務者であることを見てきました。人間に対する神の判断は、例外なく「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」ということです。人間は神に対し、また同胞に対し、罪を犯したと聖書は言っています。


ところが3章21節からは、全く新しいテーマが展開されます。3章21節から5章21節までは、「神が、イエス・キリストにある救いを提供しておられる」ことが主題となっています。神は、罪人に対する救いを御計画になり、イエス・キリストによってそれを行なわれ、罪と負債からの贖いを罪人に提供なさいました。


3章20節を見ると、「律法によっては、かえって罪の意識が生じる」と記されています。自分自身の債務を知ること、そして心から出てくる罪を知ることは、大変なことであり、恥かしいことです。しかしながらこのことは、どうしても必要なことなのです。救いの確信を得るためには、自分の罪を知ることがどうしても必要です。病人だけが医者を必要とするのであり、聖霊によって罪を認めるようになった者だけが救い主の必要性を感じるのです。


ある信者と未信者が、ドイツの有名な温泉であるカールスバッドで次のような話をしたそうです。その未信者は大金持ちでしたが、胆石症の治療のためにこの温泉にやってきたのでした。彼は信者にむかって言いました。


「もちろん私だって神の存在を否定しているわけではないのです。しかし、どうして救い主なるものがなければならないのか、その必要性が感じられないのですがね。」


すると、それを静かに聞いていた信者の人は、次のように答えました。


「でもちょっと考えてみてください。あなたはいま胆石症を直すためにこの温泉にきておられるでしょう。いままで四、五十年間、元気な時はこの温泉など全然必要としていなかったでしょう。しかし胆石症になってはじめて、病気がいやされるためにこの温泉が必要になったのではありませんか。信仰の問題も実はそれと全く同じなのです。つまり自分が罪に対して全く盲目であったときには、救い主などどうでもよかったでしょうが、いったん自分の罪に対して心の目が開かれ、自分が神から離れていることこそ罪であると知ったときには、どうしても救い主を必要とするのです。聖書にも記されているように、イエス・キリストによらなければ、父なる神のみもとに行くことはできないのですから、私たちはどうしても救い主なるイエス・キリストを必要としているのです。」


人間はだれでも、心に書かれている律法を持っています。そして、その中のある人々は、聖書に書かれている律法も知っています。しかし神の前には、これらの人々の間に区別がなく、すべての人は罪と債務を持っており、神から離れてしまっているのです。律法を犯す者は神の前に債務があります。そしてその人の心のなかにはいつも不安と心配があるのです。


この不安と心配から、非常に大切な問い、すなわち人間はいかにして神の前に義とされるか、という問いが出てくるのです。神と人との間の壊された関係を正しいものにするという可能性は、人間の側に存在しているのでしょうか。それとも全く絶望的に、永遠の滅びとさばきとに服さなければならないのでしょうか。この問いに対して私たちに慰めを与えるすばらしい答えが21節に記されています。「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、神の義が示されました。」


ローマ人への手紙の1章から3章20節までに、私たちは神の前に義とされる一つの道を見てきました。そこではユダヤ人も異邦人もそれぞれ自分の道を歩んでしまったことが記されています。しかし、人間の力で神の前に義となろうとする努力に対する神の判断は、次のようなものでした。


「義人はいない。ひとりもいない。」神が受け入れることのできるような人はいない!


Ⅱ.神の全く新しい道


人間に罪があることは、否定することのできない事実です。そして、その罪が罰せられるということも事実です。そしてまた、人間がいのちの源である神から罪のために離れている、ということも事実です。本当に悔い改めて砕かれた人、自分の力でよくなろうとすることに全く絶望した人、神の前でちりの中に伏した人のために福音があります。この福音は「しかし、今は神の義が示された。」ということによって現われたのです。「しかし、今は。」という言葉は、全く新しい時代が始まったことを意味しています。


旧約聖書を見ますと「ヨベルの年」という言葉が出てきますが、これは喜びの年、あるいは歓呼に満ちた年という意味で、五十年ごとにやってくるものとされています。そしてヨベルの年には、それまでのすべての負債、債務などが取り払われることが特別に許されていました。しかし21節にでてくる「しかし、今は。」ということばは、旧約聖書時代のヨベルの年よりも、さらに新しいものが始まることを示唆しています。


「神は全ての罪を赦す」というはかりしれない恵みが、主イエスを通してもたらされたのです。


神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。(イザヤ61・1~3)


「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4・18~21)


しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神のであって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ローマ3・21~22)


3章20節までは「人間が何をするか」について記されていますが、3章21節からは「神が何をするか」について記されています。


ここには、逃れ道のないような場合にも神の御手が差し伸べられ、しっかりととらえてくださることがはっきりと記されています。神は、滅びゆく人類の運命を変えようとなさっておられます。まばゆいばかりの光が、人間の罪の淵と闇とを深みに至るまでくまなく照らし出すのです。


今まで私たちは、裁く者としての神を見てきました。しかし怒りの神は、同時に罪人でさえも義とされる救いの道を提供しておられます。そんなことがいったいどうして可能なのでしょうか。旧約聖書の中には、このことを指し示す「象徴」が出てきます。契約の箱がおかれているところには、かならず神が御臨在なさいました。そしてその契約の箱の中には、石に書かれた律法がおさめられていました。大いなる贖いの日には、この契約の箱の上に血がふりかけられました。それと同じように、キリスト・イエスの血が流されることによって、裁く神、判決を下す神は、恵みを与える神となられたのです。罪人に対する神の罰は、イエスの上にくだされました。これはすなわち、イエス・キリストが十字架上で注がれた血潮は、「代価がすでに支払われた」ことを証明している、ということです。この事実にもとづいて、ヘブル人への手紙の著者は、次のように書き記しました。


こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10・19~22)


人間が破った律法は、主イエスの血によって覆われました。主イエスという救い主の血潮によって、債務者は債権者に変わることが許されました。つまり、債権者と債務者は、全く入れ替ったのです。債権者は債務を請け負い、債務者は義を受け取るようになったのです。罪によって債務が生じ、債務を負うことによって死が生じる、と聖書は言っていますが、主イエス御自身が、全人類のかわりにこのことを一身に受けてくださったのです。そのことによって、全人類は義とされ、永遠のいのちを提供されたのです。


20節と21節とは、全くの対照をなしています。つまり20節では「律法」について、21節では、「啓示」について記されているのです。律法は要求し、判決を下します。人間は自分の力で律法を守ったり行なおうとしますが、実際はそれをすることができないのです。あらゆる宗教は、律法を成就しようとする人間の試みです。しかし律法を成就しようとする努力の結果は、絶望以外のなにものももたらしません。律法の正反対のものこそまさに福音であり、神の啓示なのです。こういう理由から、パウロは21節で「しかし、今は」という表現を使ったのです。


失われた人間、滅びに定められた人間は、自分の力では自分を救うことができず、また逃れ道を見い出すことすらできないのです。ですから、上から神の啓示がなされたのです。第一の道は、律法によって義とされる道でしたが、人間の罪の無力さのゆえにふさがれてしまったのです。20節に記されているとおり「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないのです」。


しかし、もうひとつの別の道は、神が拓かれた道であり、神の思いです。律法を守り、神の義を尊び、さばきをも軽んじないで、神の義を提供するのが第二の新しい道です。


しかしながら、次の事実は変わることなく存続するのです。つまり、律法は聖なるものであり、すべての人間は罪を犯したゆえに神の前に義人として立てる人は一人もいず、神は罪人をそのままの状態で義と認めることはできません。もしもそうしたならば、それはご自身の律法に反するものであり、義も真理もくずれてしまうことになるからです。


新しい道は、神の義であって、人間の義ではありません。それは神からくるものであって、神の義は、人間の義と何のかかわりもありません。神の義は、神の賜物であり、上からの啓示です。神の義は一つの人格です。すなわち主イエスです。主イエスを信じることによって、神の義が私たちのものとなるのです。


神は私のために、ご自身のおひとり子を通して、大いなる犠牲をなしてくださいました。罪人を永遠の滅びから救うためにはいかなる犠牲も大きすぎることはありませんでした。


ドイツで好んで用いられる子供の祈りは、次のようなものです。


「イエス様の血潮と義、それこそ私の大事な宝です。これを持って行けば、天国で神様の前に立つことができるのです。」


これは、この箇所でパウロが言わんとしていることを、最も端的に表現したものであると言えましょう。


私たちはすでに主イエスの義を持っているでしょうか。これこそ、一番大切なことなのです。



二つの道
Zwei Wege

永遠の滅び
(Ewige Verdammnis)

白い御座
(Weisser Thron)


(Tod)


(Sünde)

私はできる
(Ich kann)

律法・モーセの十戒
(Gesetz)

永遠の栄光
(Ewige Herrlichkeit)

キリストの裁きの座
(Preisrichterstuhl Christi)


(Leben)


(Gerechtigkeit)

私は信ずる
(Ich glaube)

イエスの死
(Tod Christi)

人間の努力
(行為の梯子)
Menschliche
Anstrengung

神の恵み
(信仰の梯子)
Göttliches
Erbarmen



主イエスは、次のように言っておられます。


もし、あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義に勝るものでないなら、あなたがたは、決して天の御国にはいれません。(マタイ5・20)


律法学者たちは、自分の力で律法を行なおうとしました。主イエスは、彼らについて次のように言われたのです。


ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ23・5)


神の義とは、人間の努力の結果ではなく、全くいさおなしに与えられる神の賜物です。義とは、債務を支払う以上のものです。神の義とは、あらゆる債務と罰から完全に解放されている状態を意味しています。神は、義とされた者を、一度も罪を犯さなかった者として取り扱われます。


神の義について、私たちは例の放蕩息子の話からよく知ることができます。放蕩息子が罪を悔い改めた時、父親は彼を抱いて迎えましたが、このことは完全な罪の赦しを意味していました。それだけではなく、父なる神は、悔い改めた放蕩息子に上等の着物を与え、召使いとしてではなく、もとどおりの息子として前と同じ権利と自由を与え、彼のために盛大な祝宴を開かれたのです。


大切なことは、神と人間との壊れた関係が回復されることです。しかし人間は、自分の行ないによっては、決してこの状態に達することができません。


人は律法の行いによっては義と認められず...律法の行ないによって、義と認められるものは、ひとりもいないからです。(ガラテヤ2・16)


律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。(ガラテヤ3・11)


神は、人間の行ないの結果としてではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、義を提供なさっておられるのです。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)


神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5・21)


主イエスを自分の救い主として受けいれる者は、救いと赦しと、永遠のいのちを与えられるのです。


大いなる贖いの日のとき、イスラエルの全体は、自分たちの罪がことごとく消しさられ、神との和解を与えられることを確信していました。パウロは、次のように告白することができました。


神が、その愛する方によって私たちに与えてくださった恵の栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1・6)


主イエスは、私たちひとりひとりがパウロと同じように告白することを望んでおられます。


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