第Ⅰ部 全人類の救いの必要性

5.ユダヤ人に対する神の啓示

ローマ人への手紙

2章17節から29節まで


Ⅰ.神はユダヤ人に何をお与えになったか

1.御心の認識

2.わきまえる能力

3.比類なき使命

Ⅱ.ユダヤ人は神の賜物で何をしたか

自分を義とするものは、

1.多くのものを知っている

2.自分の成すべきことを知っている

3.遣わされた使命を持っている

Ⅲ.ユダヤ人に対する神の判断はいかなるものか

1.外見上の体の割礼

2.御霊による心の割礼


私たちは今まで、異邦人が神の前に義とされていないゆえに、失われた者であるということをご一緒に学んできました。神は異邦人に多くのものをお与えになりました。神は、異邦人にも御自身をわからせるために、被造物を通して御自身を現わされました。ですから、神を知りたいと思う者は、被造物を通して神を知ることができるわけです。それだけでなく、神は異邦人に、心に書かれている律法と良心とを裁判官としてお与えになりました。神を知ることができながら神を知りたいと思わない者は、それゆえに、責任があります。そして、弁解の余地がなく、失われた者となるのです。


これに対してユダヤ人の場合はどうでしょうか。そこで、今日は2章1節~25節までを学んでみることにしましょう。その主題は、「ユダヤ人に対する神の啓示」です。


(17)もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、(18)みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、(19)また(20)知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、(21)どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。(22)姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。(23)律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。(24)これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。

(25)もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。(26)もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。(27)また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。(28)外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。(29)かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(ローマ2・17~29)


まず、次のような三つの質問を考えてみることにしましょう。

Ⅰ.17~20節、神はユダヤ人に何をお与えになったか

Ⅱ.21~24節、ユダヤ人は、神の賜物で何をしたか

Ⅲ25~26節。ユダヤ人に対する神の判断はどうか


Ⅰ.神はユダヤ人に何をお与えになったか


異邦人が神の御業を知っているのに対して、ユダヤ人は神の御心を知っています。聖書、すなわち旧約聖書と新約聖書は、ユダヤ人に与えられました。ですからユダヤ人は、神の御心を知っているのです。彼らユダヤ人には、神のいろいろな言葉が、すなわち聖書が与えられているゆえに、これこそまさにはかり知れない彼らの財産なのです。(3章2節参照)


ここでさらに次のような三つのことが言えましょう。すなわち第一に、ユダヤ人が神を知っており、御言葉によって神の御心をも知っているということです。神は被造物や心にある律法、あるいは良心などによって御自身を明らかになさるのみならず、御言葉によっても御自身を啓示なさったのです。


第二にユダヤ人は、自分がなすべきことが何であるかをわきまえる能力をもっています。(18節)神の御心を知る者は、なすべきことをも正しくわきまえることができます。第三に、ユダヤ人は、19~20節にあるとおり、案内人、光、導き手、教師であるべく召されています。神は、ユダヤ人がほかの民よりもすばらしく偉大であったから選ばれたのではなく、ユダヤの民を愛されたからにほかなりません。そして神は、ただユダヤ人だけを祝福するためにではなく、彼らを通して多くの民を祝福するためにユダヤ人をお選びになったのです。


Ⅱ.ユダヤ人は、神に与えられた賜物で何をしたか


この問いに対しては、21~24節までに答えが示されています。しかし残念なことにユダヤ人は、ゆだねられ示された道に従って歩むことをせず、むしろ現実にはそれに逆らうようなあゆみをしてしまったのです。

・あなたは、神の御心を知っていながら、それを行なわない。

・あなたは、他人を教えながら、自分自身の本当の姿に対しては盲である。

・あなたは、して良いこととしてはいけないこととを教えながら自分は間違ったことをしている。

・あなたは、律法を誇りとしていながら、神の御名を汚している。

ユダヤ人の特徴は、本当にへりくだって主をほめたたえるのではなく、パリサイ的に自分自身を誇ることにありました。偽りのない神の目は、人々の心の隅々までを見通し、そのためにユダヤ人に向ってこのような激しい非難の言葉をあびせざるをえなかったのです。


神はユダヤ人に多くの物をおゆだねになりましたが、それにもかかわらずユダヤ人は盗み、姦淫をし、神殿のものをかすめることをして神を侮りました。パリサイ的なユダヤ人は高ぶって、死んだ偶像を拝んでいる異邦人を上から見おろしました。ユダヤ人は、異邦人の神殿から金銀、その他宝石で作られたものをかすめとり、それを焼き捨てずに自分のものとしたため「偽善者よ」と主は非難しておられるのです。金銀その他の宝石から作られたものなど多くの偶像と結びつきをもっているものは呪われるゆえに、ユダヤ人といえども偶像から完全に離れないかぎり呪われるという主の命令をユダヤ人たちは守らなかったのです。


主イエスは、その当時、自らを義とするパリサイ的な人たちに対して、真っ向から対決をなさいました。主イエスはいろいろなことを通して、人間はだれでも惨めであわれむべきものである、という自分の本当の姿に対して心の目が開かれるようにと努力なさいました。たとえば取税人とパリサイ人とが宮で祈るときの様子をお話しになって、かたくななユダヤ人の心の目を開こうとなさいました。つまり自らを義とする高慢なパリサイ人は主によってさばかれ、反対に自分の胸を打ち続けて悔い改めた取税人は、主のあわれみを受け、祝福されて家に帰ったのです。


また、主イエスは、結婚式の時に礼服を着ないでやってきた一人の男のたとえをお話しになりました。その男は、結婚式に出るにも礼服は着ず、自分がいつも着ている普段着で、自分であると主張してなんの恥かしげもなく式にやってきました。ところが自分は正しいという高慢な心でやってきたこの男は、式場から追い払われてしまったのです。この箇所から、自分を義とする者とはいかなる者であるかを知ることができましょう。これについては三つのことを言うことができます。


第一に、自分を義とする者は、神について何も知らない者ではなく、多くのことを知っている者です。17節~18節には「あなたは、自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、御心を知り、・・・・」とあります。


しかし大切なことは、御心を知ることだけでは十分ではなく、御心を行なうことです。


主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。(ルカ12・47)


第二に、自らを義とする者は「なすべきことが何であるかを、律法に教えられてわきまえ」と18節にある通り、自分のなすべきことが何であるかをよくわきまえているのです。


では、いったいどうしてこの箇所で、このようなユダヤ人に対して主はパウロを通して告発なさっておられるのでしょうか。ユダヤ人は、他人を見分けることはしましたが、自分自身を吟味することをしなかったからです。すべてのことをよく知っており、神が他の人から何を期待しておられるかも知っていながら「自分のことについて正しく吟味することができない」ということこそ、自分を義とする者のもっとも陥りやすい病です。


さてここで少し、「自分がなすべきことが何であるかよくわきまえること」について考えてみましょう。聖書の中の御言葉は、次のように語っています。


すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5・21)


それらの霊が、神からのものかどうかを、ためしなさい。(第一ヨハネ4・1)


私たちは、ものごとを吟味して、はっきりとした判断を持つべきです。集会にくる人を、すべて見分けることなしに受け入れたり、その人の言うことを簡単に信じこんでしまったりすることは、大いに考えなおさなければなりません。そのためにパウロは次のように書き送っています。


あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。(ピリピ1・10)


堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル5・14)


したがって、霊的な人の特徴は、見分ける能力があるということです。


いままでのところを要約してみますと、

1.自らを義とする者は、神を知り、御心をも知っています。

2.自らを義とする者は、なすべきことをわきまえる能力を持っています。

3.自らを義とする者は、自分が神から遣わされた者だという認識を強く持っている人です。


すなわち、1の神と神の御心を知っているということ、そして2の識別力を持っていることから、当然に導かれるのが3の認識、すなわち自分が他の人を教えるために神から遣わされた者である、という認識です。


19~20節には「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚か者の導き手、幼子の教師・・・・」とあり、また21節には「どうして人を教えながら、自分自身を教えないのですか。」とあります。ある人が、ほかの人々の教師であるということは、非常に重い責任をになうことです。


私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。(ヤコブ3・1)


私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(第一コリント9・27)


自らを義とする者は、他の人々に対しては、教えたり、訓戒したりすることに熱心です。また、自らを義とする者は、表面の見せかけだけは信心深そうにしています。大切なことは、自分自身を偽らずに素直に自分の罪を認め、いつも主によって自分が吟味される用意があることです。


Ⅲ.ユダヤ人に対する神の判断はいかなるものであるか


この問いに対しては、25~29節までの御言葉が答えています。3章9節を見ると、ユダヤ人もギリシャ人もすべての人がひとりのこらず、例外なく罪の下にあることがわかります。「義人はいない、ひとりもいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益なものとなった」とある通り、神の御言葉によると、だれひとり神の前に立つことができず、また義と認められることはないのです。そこでパウロは、ユダヤ人から彼らの最大の誇りと高慢な心を打ち砕き、ユダヤ人と異邦人の区別を示す割礼というものによってこのことを解き明かしたのです。28~29節がそれです。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠されたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」。


言いかえれば、中身がなければ外側の形式は何の意味もなく、何の価値もないということです。ここでパウロは、外見上の割礼と心の割礼について述べています。つまりだれが本当に神の民に属し、だれが外見上神の民に属するかということが明らかにされています。この割礼とは、主のイスラエルの民との契約のしるしを意味するものです。つまり当時は割礼を受けた者が神の民に属し、割礼を受けていない者は神の民ではないとされていたのです。


主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。(ヨシュア5・7~9)


主は、エジプトのそしりをイスラエルから取り除きました。つまり、エジプトから離れるということは、この世から離れるということであり、これこそ割礼が意味することでした。したがって本当に神の民に属したいと思う者は、あらゆるこの世のもの、偶像、肉的なことから離れなければなりません。


キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。(コロサイ2・11)


割礼が真に意味するところは、自分自身の思いや考えを捨てて、主の御心と戒めに従っていくことです。神は人の外側を御覧になるのではなく、常にその人の心を見ておられます。別の言葉で言うならば、主の御心に従って従順に生きる者は、心の割礼を受けていると言えるわけです。外見上主の民に属することに価値があるのではなく、内面的に真に主の御心にかなった歩みをすることこそが、本当の意味での神の民に属することなのです。


新約聖書によると、いったいだれが本当のユダヤ人なのでしょうか。ここで「ユダヤ人」とは神によってほめたたえられる者という意味です。ですから本当のユダヤ人とは、心の割礼を受けた者です。本当のユダヤ人、すなわち御心にかなった歩みをする者とは、自分を無にして全く自分を大切にせず、すべてを主にゆだね、主に明け渡した者にほかなりません。これはすなわち、前に述べた自らを義とする者とは正反対の者です。自らを義とする者は心の割礼を受けておらず、新しい生まれかわりをも体験していないのです。


その当時、ローマの教会には、異邦人よりも主を信じたユダヤ人の方が多かったと思われます。しかしユダヤ人たちは、信者といえども自分がユダヤ人、すなわち神から選ばれた民であることに自信過剰、意識過剰であったため、霊的な成長がまことにおそく遅々たるものでした。それと同じように、今日の私たちも、霊的な成長においては遅々たるものです。自分自身の思いや考えが主によって支配されてゆく歩みは、まさに一歩一歩と進んでゆく道です。


したがって、パウロが切に望んだことは、ローマのキリスト者たちが神の御心を正しく認識して真に謙遜な者となることでした。ユダヤ人は、盲人の案内人、闇の中にいる者の光としての召しを受けましたが、実際は自からの高慢と思いあがりによって全くだめになってしまったのです。


自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(箴言26・12)


ああ。おのれを知恵ある者と見なし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。(イザヤ5・21)


パウロは新しく生まれかわった信者のために、自らを義とし自らを誇る者を恐れました。彼らは、確かに聖書の知識を持ってはいても、形はよいが中身がなかったのです。彼らは愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任している者たちだったのですが、実は「羊の群れを荒らしまわる狂暴なおおかみ」となってしまったのです。


私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。(使徒20・29、30)


終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3・1~5)


しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。(第二ペテロ2・1~3)


神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。・・・・小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって今が終わりの時であることがわかります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。(第一ヨハネ2・4、5、6、18、19)


しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。忌まわしいことです。彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。(ユダ10・13)


パウロ、ペテロ、ヨハネ、ユダは、うわべだけ信心深そうな惑わす者に対していつも警告を発していました。イエス御自身も、またそのような者を警戒しておられました。


にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることができないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7・15~23)


忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。(マタイ23・23~26)


さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」(ルカ16・14~15)


最後に、ここの箇所が私たちに何を言わんとしているかについて考えてみましょう。神は、私たちに何をお与えになったのでしょうか。神は私たちに対して、被造物を通して、あるいは心に書かれている律法や良心を通して御自身を現わされました。すべての人は、うそをつくこと、盗むこと、殺すことが悪いことである、ということをよく知っています。人は良いことをすれば、心静かでいられますが、悪いことをすれば良心の呵責にさいなまれるのです。


私たちは、被造物や心に書かれている律法、あるいは良心によってのみならず、御言葉によっても、主を知ることができます。それらを通して私たちはよりよく知ることができるようになりますが、同時に、責任がますます重くなってきます。ただ単に行ないによる罪だけでなく、心のなかの思いによる罪もまた、良心の呵責となります。ところが私たちには、神の言葉である聖書だけでなく、主イエス御自身をも与えられたのですから、ましてやその責任はますます重いものとなっているのです。イエスによる救いは成就されました。私たちはあらゆる罪や債務から解放され、神によって聖い者とされることを知っています。神が私たちに与えてくださった賜物に対して、私たちはいったい何をしたでしょうか。あなたはいったい主イエスに対して何をしたのでしょうか。主イエスこそあなたに対する神の賜物にほかなりません。イエスについての知識が私たちを救うのでもなく、イエスについて語ることが私たちを義とするのでもなく、ただひとつのこと、すなわち主を受け入ることが私たちを救い、義としてくれるのです。


この箇所で出てくる「ユダヤ人」のかわりに「キリスト者」という言葉を置き換えてみると、いままで述べたことが生き生きとしたものになります。何としばしば私たちの行ないによって、主の御名が汚されたことでしょうか。多くの者が、自ら「キリスト者」であると自称し、そのことを誇りにしています。しかし私たちはそのような思いあがった高慢な心を完全に打ち砕かれなければ主のあわれみを受けることはできません。なぜならば、主は謙遜な者に恵みを施すのに対して、思いあがった高慢な者には徹底的に対決なさるからです。


今日学んだこの箇所から明らかなことは、人は外側を見るのに対し、主は内側、すなわち心の奥底を御覧になる、ということです。人は、罪を犯すならば、割礼を受けていても何の意味も価値もありません。


キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく愛によって働く信仰だけが大事なのです。(ガラテヤ5・6)


割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6・15)


ですから、あなたが本当に主によって新しく造りかえられた者であるかないかということは、非常に大きな問題なのです。もしも新しいいのちがないならば、たとえいくら熱心に集会に通い聖書を読んでも、神から遠ざかっているのです。主イエスは新しいいのちを受けるようにと今日もあなたにこのすばらしい賜物を提供しておられるのです。この贈り物に対してあなたはどのような態度をお取りになられるでしょうか。


主イエスは、永遠のいのちを提供しておられるだけでなく、あふれるばかりのいのちをも提供しておられるのです。主イエスは、私たちがローマ人への手紙5章17節に記されているように「いのちにあって支配するようになり」、「圧倒的な勝利者」となることを望んでおられます。


最後に、出エジプト記4章の御言葉を考えてみましょう。


さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。(出エジプト4・24、25)


主は男の子が生まれた場合は、八日目に必ずその男の子に割礼を施さなければならないと命令なさいました。しかしモーセとその妻チッポラはその子を非常に大切にしていたため、子どもが苦しまないようにといろいろ思いめぐらして割礼をしないようにと考えたところ、その瞬間主はモーセを殺そうとなさいました。我が子かわいさゆえの甘さと不従順のために、モーセはいのちを奪われる危険に直面したのです。このことからわかるように、割礼とは徹頭徹尾主によりたのみ、すべてを主にささげ明け渡すことを意味しています。したがって割礼とは、罪から生じるあらゆるもの、すなわち古い性質からでてくるあらゆる人間的な考えや思いから全く離れるということを意味しているわけです。


これは、とりもなおさず、自らに死ぬこと、すなわち自らの心の破産を意味しています。それゆえイエスの割礼とは、イエスとともに死に、そのことによってイエスのよみがえりのいのちがあふれでることを意味するわけです。


多くのキリスト者は、主イエスのよみがえりの力にあずかることを切に望みますが、その実、このときのモーセやチッポラのように苦しむことを恐れ、主とともに苦しむことを避けてしまうのです。


私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3・10)


これこそまさに主イエスの割礼を受けることです。この割礼を受けた者はパウロと同じように、次のように言うことができるのです。


肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(第二コリント5・9)


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