第Ⅰ部 全人類の救いの必要性

6.誰ひとり神の前に義と認められない

ローマ人への手紙

3章1節から20節まで


Ⅰ.自らを義とする者への三つの質問

1.ユダヤ人の優れたところは何か

2.不真実によって神の約束が無に帰するか

3.不義が神の義を明らかにするとしたら、怒りを下す神は不正か

Ⅱ.神の究極的な裁き

1.罪の支配のもとにある人間(五つの事実)

2.滅びに向う人間のa.言葉、b.道、c.業


今日は、引き続いてローマ人への手紙3章1~20節について学んでみましょう。


(1)では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。(2)それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。(3)では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。(4)絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。

(5)しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。(6)絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。(7)でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「(8)善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。

(9)では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。(10)それは、次のように書いてあるとおりです。

「(11)義人はいない。ひとりもいない。(12)悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

「(13)彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」

「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」

「(14)彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

「(15)彼らの足は血を流すのに速く、(16)彼らの道には破壊と悲惨がある。(17)また、彼らは平和の道を知らない。」

「(18)彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

(19)さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(20)なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3・1~20)


本論に入る前に、少しばかり前置きをしてみましょう。かつて未信者の人が友達に向かって次のように言ったそうです。「私には、ひとつの大きな恐れがあるのです」。そこでその友達が「それは何ですか」と聞きますと、次のように答えたそうです。「私が恐れているのは、聖書は真理であるということなのです」。


聖書は私たちに、私たちの本当の状態を明らかにします。人間はそのままでは失われた状態であり、神の呪いとなっています。ところが、主イエスのみもとに行き罪を告白して悔い改めた者には、永遠のいのちが与えられます。したがって人間は、自分の罪の状態を認めようとせず、罪が明るみに出されるのを本能的に恐れます。このことを証明するものとして、次のような実話をご紹介しましょう。ドイツのある町でいたずら好きなある人が、その町で最も尊敬されている三人の人たちに匿名の手紙を出しました。その手紙の内容は「すべて明らかになった。」というたった一行の文章でした。ところがこの手紙を受けとった三人のうち、一人はすぐに自殺し、他の二人は訴訟や処分を恐れてその町から姿を消したということです。人間は光の中に出、すべてを明かるみに出されることを恐れますから、主イエスをも拒むようになってしまうのです。


私たちは、まえにローマ人への手紙2章17~29節で、自らを義とする者についてご一緒に学びました。自らを義とする者は、人の目はごまかせても、神を偽ることはできません。自らを義とする者は、実際そうではないことをもあたかもそうであるかのように見せかける偽善者なのです。今日、ご一緒に学ぼうとしているところは、二つに分けて考えることができます。

Ⅰ.1~8節、自らを義とする者への三つの質問

Ⅱ.9~20節、神の究極的なさばき


Ⅰ.自らを義とする者への三つの質問


1~8節までには、自らを義とする者への三つの大きな質問が出されています。それは次のようにまとめることができましょう。

1.ユダヤ人の優れたところは何か。(1~2節)

2.不真実によって神の約束が無に帰するか。(3~4節)

3.不義が神の義を明らかにするとしたら、怒りを下す神は不正か。(5~8節)


1.ユダヤ人の優れたところは何か


第一の問いは、ユダヤ人の優れたところは何か、割礼にどんな益があるのか、ということです。言葉をかえて言うならば、外見上神の民に属するということがいったいどれほどの益を持っているのかということです。これに対してパウロは肯定的な答と否定的な答を与えています。そのうち否定的な答は2章28~29節ですでに学びました。体の割礼が真に神に喜ばれるものではなく、心の割礼こそ真の意味で神に喜ばれる本当のユダヤ人である、と聖書は言っています。つまり心の割礼とは、新しく生まれかわることを意味しているのです。洗礼やパン裂きや教会の会員になるということが大切なのではなく、新しく生まれかわることこそが大切なのです。イエスに出会ってしっかりとイエスに結びついている者は、手による体の割礼ではなく心の割礼を受けているのです。


キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2・9~14)


しかしそれと同時に、他方においてパウロは、肯定的な答も出しています。すなわち神によって選ばれた民には、特に優れたところがあるというのです。それは、2節に書いてあるように、彼らは神のいろいろな御言葉を委ねられている、ということです。もちろんそれは人間の手柄によるのではなく、ただ神の恵みによるのです。


彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。また、キリストも、人としては彼らから出られたのです。(ローマ9・4~5)


今日、聖書を持っている人は、すばらしい特権と宝物をもっています。しかし、神の御言葉に対して無関心でいるということは、まことに無責任なことです。御言葉に対して無関心でいる者は、闇を照らすただひとつの光を捨てるようなものです。やがてその人は暗やみの中に一人さまよい、全く絶望的な状態に陥ってしまうのです。主は今日も御言葉によって、私たちに語りかけたいと思っておられます。御言葉を真剣に受け取る者ははかりしれない祝福にあずかることができるのです。主の御言葉は神に至る道を示し、救いに至る道を示し、主との幸いな交わりに至る道を示します。


私たちはどうでしょうか。ただうわべだけ聖書を持っているにすぎない者なのでしょうか。それともその御言葉を通して主に語りかけていただくことを切に願っているでしょうか。御言葉は、私たちにとって、いのちと救いを与えるものでしょうか。


2.不真実によって神の約束は無に帰するか


第二の問いは、ユダヤ人のうちに不真実なものがあったら、その不真実によって神の約束が無に帰するか、ということです。その答えは明らかです。つまり神の真実は、ユダヤ人の不真実によっても決して恥をこうむらないということです。たとえ多くのユダヤ人が信じなくても、神は真実をもって取り扱われ、約束を成就なさるのです。神は、全く人間から独立しておられ、決して偽ることがありません。主の御言葉は完全に信頼することができます。そしてユダヤ人の不真実にもかかわらず、主の御言葉は確実に成就されるのです。


過去において、特に「士師」の時代とイエスの時代にあって、ユダヤ人はまことに不真実でした。しかしそれにもかかわらず、主は御自分の民を見捨てず、千年王国に至るまで彼らを導いていかれるのです。このようにして御言葉が成就され、彼らは大いなる祝福にあずかることができるのです。神は御言葉に忠実であられ、忠実であり続ける方なのです。


私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。(第二テモテ2・13)


まことに、主の言葉は正しく、そのわざはことごとく真実である。(詩篇33・4)


この御言葉は、キリスト者にとって大きな慰めです。その反面、主の御言葉は必ず成就されるゆえに、未信者にとっては厳しい警告でもあります。


3章4節には次のように記されています。「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」


人間は、神と論じあおうとするかもしれません。また、自分を神の前に義としようとするかもしれません。あるいは御言葉を自分の都合のよいように変えようとするかもしれません。しかしこれらのことは、すべて価値のないむなしいことです。新しく生まれかわり、主によって新しく造られ、永遠のいのちを与えられたものだけが、神の前に義とされるのです。神が不真実なのではなく、人間が不真実なのです。人間は、不真実であり、神のために何の役にもたたない者です。すべての人は偽り者である、と聖書は言っています。自分が偽り者だとまだ認めようとしない人は、神も知らなければ、自分のことも知らないのです。


私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51・4)


ここでは一方において人間の罪、他方において神の完全さが記されています。ダビデのように自分を低くしてすべてを主に明け渡す者は、永遠のいのちを与えられるのです。まず罪を認め、自分のどうしようもない状態を認め、悔い改めると罪の赦しを体験することができるのです。


今日、うわべだけのクリスチャンは大勢います。しかしそれが本物であるか、にせものであるかは、遅かれ早かれ明らかになるのです。初代教会においてもこれと同じような問題があったのです。


彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。(第一ヨハネ2・19)


光の中に来て、本当に悔い改めることをしないかぎり、真の解放を得ることはできません。


3.不義が神の義を明らかにするとしたら、怒りを下す神は不正か。


第三の問いは、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、怒りを下す神は不正かどうかということです。これに対してパウロは、はっきりと次のように答えています。神の神聖さが悪を罰しなければならないゆえに、罪に対する神の怒りは決して不正ではないと。自分自身というものが粉々に打ち砕かれる者は幸いです。聖書によると、すべてのものは偽り者です。この聖書の御言葉を素直に認めて受け入れることこそ神の恵みを受けるための必要条件です。


・神は聖なる御方であられ、罪を憎まざるを得ません。

・神は罪を憎むゆえに、罪を罰せざるを得ません。

・神は義なる、聖なる御方であられるゆえに、罪を犯した者は罰を受けなければなりません。


まだ新しく生まれかわっていない人は、罪の恐ろしさも知らなければ、神が聖なる御方であることも知りません。罪人はたとえいかなる弁解をしても、結局は罪人にすぎないのです。神は裁き主であられるゆえに、罰がやってきます。


2章4節に、神の慈愛は罪人を悔い改めに導くとありますが、この悔い改めによって救いに至ることができるのです。罪を悔い改めようとしない人は、神の裁きを受けなければなりません。神を恐れ、主に全き信頼を置く者だけが神のあわれみを受けるのです。神に対する私たちの態度がこのようになったかどうか、私たちは問いなおしてみましょう。


Ⅱ.神の究極的な裁き


私たちはいままで、自らを義とする者についての三つの質問について考えてきました。そこで次に、この箇所の第二の部分である9~20節までを考えてみましょう。ここでは神の究極的な裁きが中心になっています。ユダヤ人も異邦人も、すべての人が債務を負っている、と記されています。しかし人間は自分の債務を思い出すことはいやなものです。また罪についても考えることはいやなものです。しかし人間は、自分が債務を負っているものであることを認めるべきであり、罪を悔い改めて神に罪の許しを願い求めるべきです。ですからパウロは、すべての者が神の前に債務を負っているということをそのように強調したのです。9節では、例外なくすべての人が罪の支配の下にあり、神の恐るべき判決のもとにいるのだと言っています。旧約聖書に従って、パウロは罪人の姿をはっきりと記しております。


彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。(詩篇5・9)


彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。(詩篇10・7)


愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。(詩篇14・1~3)


彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。(詩篇36・2~4)


蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。(詩篇140・3)


彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。(箴言1・16)


彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。(イザヤ59・7~8)


人間だれしもが遭遇するのは、次の五つの事実です。


第一は「義人はいない、ひとりもいない」ということです。すなわちこうあるべきだと思うことを実行できる者はひとりもおらず、したがって債務のない者はひとりもいないということです。


第二は「悟りのある人はいない」ということです。エペソ4章18節に記されているとおり、すべての人は罪のゆえにその知性において暗くなっているのです。


第三は「神を求める人はいない」ということです。本当に真剣に神を求める人は事実いないのです。


第四は「善を行なう人はひとりもいない」ということです。善とは何か。善とは神の使命にかなうことです。神を第一として自分自身を全く明け渡すことこそ善を行なうことです。ですから人間の中に善があるという考えかたは根本的に間違っているのです。


第五は「すべての人が迷い出て、神の道から離れ、みなともに無益なものとなった」ということです。無益なものとは神にとって価値のないものということです。神の道から離れてしまっている者には神に対するまことの恐れがありません。


この神の判断には例外がありません。すべてのものがそのようなものである、と聖書は言っています。


人が滅びに向かっていることは、次の三つによって明らかです。

彼らの「言葉」(13~14節)

彼らの「道」(15~17節)

彼らの「業」(18節)


言葉によって人は偽りあざむきます。彼らの口は呪いと苦さで満ちているとパウロは言っています。


血を流すことと平和のないこととは、彼らの道をよくあらわしています。私たちは剣によってのみならず、いろいろな考えをあらわす言葉、あるいは舌によっても人を傷つけたり、ある場合には殺害することもしてしまっています。すべての人はたとえ実際に血を流さないとしても、その本質上潜在的に殺害者である、と聖書は言っています。


ある有名な医者が、ある日、絞首刑になった殺人犯の死体のそばに立っていました。死体に近づくと、その医者の顔はみるまにまっさおになり、指はわなわなとふるえました。それを見た人が「先生。どうなさいましたか」と聞きますと、医者は静かに次のように話しました。「死んだこの殺人犯は、私の幼な友達でした。このことを思うとなぜ私が彼と同じようにならなかったか、 神の恵みなくしてはとうていその理由を見い出すことはできないのです」。


パウロがローマ人への手紙で描いた人間像は、なんと暗いものでしょうか。しかし、これこそ人間の偽らざる本当の姿なのです。


またパウロは、19節から律法のことについて述べています。律法は神の御心を示すために与えられました。律法は神の御心を示しますが、人間は神の御心を行なおうとする力はなく、ただせいぜいその意志を持つにとどまるのです。そこで起ってくる疑問は、人間が行なうことのできないことをなぜ、何のために神は律法を通して人間に要求なさるのでしょうか。19節は、すべての口がふさがれるためである、と言っています。つまり、自らを義とすることをやめるため、すべての口をふさぐ、と主は言っておられます。神の律法の光に照らされて自分のすべてが明るみに出されるならば、人間はもはや自らを義とすることができなくなり、自分が神の前に債務を負っていることを認めざるをえないようになるのです。すなわち神は、人間が行なうことができる律法をお与えになられたのではなく、むしろ「自分の罪を知るようになるため、実行不可能な律法をお与えになった」のです。


ちょうど医者が病人を診察して悪いところを指摘するように、神も人間の罪を指摘なさるのです。そのための手段が律法にほかならないのです。


大部分の人は、聖書とかかわりあいを持ちたくないと思っています。本当に聖書を神の言葉として受けいれたものだけが自分の罪を知り、救い主を必要とするのであって、このように真剣に求めない者には、このことは全くわからないのです。


この箇所の目的は、人間が自分自身を本当に知るように導かれるということです。20節に、人間は自分自身の人間的道徳的な努力によっては決して神の前における義に達することができないとあります。律法によってはかえって罪の意識が生じるのです。この御言葉の中に、私たち人間の恐るべき真実の姿が描かれているのです。


いかなる動物も、人間のような悪を行なうことはありません。


いかなる猛獣も、人間ほど残虐ではありません。


また、人間ほど汚いことを言う生きものもありません。平和なときには、これらのことがらが表面上隠されていますが、戦争のときになると、すべてが表われてくるのです。


聖書は例外なく、すべての人間に判決を下しています。いかなる人間にも根強い自我と、消すことのできない抑えることのできない高慢が宿っています。たとえば、山上の垂訓のような律法においては、絶対的な愛、正直な心、清さ、自分を無にすることが要求されています。これらの律法を正直に行なおうとする者は、自分自身のことを知るようになります。神の御霊は、私たちの罪をすでに明るみに出したでしょうか。自分が滅び行く者であること、債務を負っている者であることがあなたにおわかりになったでしょうか。


御言葉によって自分の生活を見ることができ、自分が聖なる神のさばきのもとにあり「滅びる者は禍いなるかな」ということを正しく知ることができた者が、神の豊かな恵みを体験することができるのです。


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