第Ⅰ部 全人類の救いの必要性
ローマ人への手紙
1章1節から3節まで
Ⅰ.神は異邦人に何を与えるか
御自身の啓示――永遠の福音
Ⅱ.神の啓示に対して異邦人はいかに応えたか
1.神に感謝せず
2.神を偶像に取り替えた
3.真理を偽りにかえた
Ⅲ.神を拒み続けた結果は何か
引き渡されたこと
今日は、ローマ人への手紙1章の18節から終りまでを学んでみることにしましょう。
1章18節から3章20節までのテーマは、「全人類の救いの必要性」とすることができると思います。異邦人だけではなく、ユダヤ人にも救いは必要です。神の義なる、聖なる怒りは、堕落した人類を焼き尽さずにはおきません。ローマ人への手紙のこの部分を特徴づける言葉は「義のない」、「罪だらけの」、「イエス、すなわち救い主がいない」、「人間自身の行ない」です。
今日学ぶ箇所である、1章18節~32節は、「異邦人の罪に対する神の怒り」と題することができます。
(18)というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(19)なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
(20)神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(21)というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。(22)彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、(23)不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(24)それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
(25)それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
(26)こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、(27)同じように、男も、女の自然の用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
(28)また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。(29)彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、(30)そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、(31)わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
(32)彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。(ローマ1・18~32)
18節以下には、神の怒りが啓示されている、と記されていますが、この内容が前に学んだ16~17節の、神の義が啓示されている、という御言葉と著しい対照をなしていることがわかります。そこで、この18~32節までを、大きく三つに分けて考えてみましょう。
Ⅰ.18~20節――神は異邦人に何をあたえたか。
Ⅱ.21~25節――神の啓示に対して、異邦人はいかに応えたか。
Ⅲ.26~32節――神を拒み続けた結果がいかなるものであったか。
ひとことで言えば、神が異邦人に自らを啓示された、ということです。神が御自身を啓示されたということのゆえに、異邦人は神がいかなるお方であるかを知ることができるのです。つまり、被造物によって、神の永遠の力と神聖がはっきりと認められるのです。本当にまじめな人は、神の存在を認めざるをえないのです。神は、私たち人間の目には見えませんが、神の永遠の力と神聖は、「神の御業」によって見ることができるのです。だれでも神が存在しているということは知っています。18節には、神の怒りという言葉がでてきます。神の怒りは、決して感情や情熱によって動かされるものではありません。人間が神の恵みという賜物を無視するときに、神も罪人を退けざるを得なくなります。これがとりもなおさず、神の怒りです。ですから、神は何度も繰り返して「恵みの賜物を受け入れなさい、さもなければ神の裁きがくだる」と警告しておられるのです。
人間は、だれでも罪に対しては、神の怒りが下るということを知っています。ところがいまは恵みの時であるゆえに、神の怒りは保留されています。神は罪を憎みますが、罪人は愛しておられます。救いは十字架で成就されました。この救いは、悔い改めて神に立ち返り、イエスを信ぜよ、という強い勧告とともに提供されているのです。
神のない状態こそ罪です。いのちの泉から離れていることが罪なのです。神から離れていること、つまり神のない状態は、不幸であり、また、裁きでもあるのです。この神のない状態から不法と不義が生じ、それらが真理をはばんでしまうのです。人間は、まず神との関係を第一に望もうとせず、自分勝手な道を歩もうとし、神の要求を無視して自分自身を神としてしまっているのです。
真理を知るということは非常に重大なことですが、この真理を知ることは、同時に義務を課せられるものであるということを知らなければなりません。
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(Ⅱテサロニケ1・8、9)
19節は、なぜ神の怒りの裁きがくだるのかについて説明しています。「神について知りうることは、神が明らかにされました」とあります。アダムやノアの時代には正しく保たれていた神の認識が、その後すぐに、罪によって失われてしまったのでした。
では、いかにして神が啓示されたか、ということですが、それについては、20節が説明しています。「神の永遠の力と神性は、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって・・・・」とありますが、たとえば山の世界、星の世界、動物の世界、植物の世界などによって、神の創造と広大無辺な無限の力を知ることができるのです。このことは、いかなる人も否定しえない事実です。
ですから、まだイエスのことを知らない異邦人にも「弁解の余地はない」のです。だれでも、人間は創造主なる神に感謝を捧げる義務をもっているのです。異邦人の無神論は、神の存在が被造物によってはっきりと認知されるゆえに誤っていて弁解の余地がない、と神は言っておられます。また異邦人の偶像崇拝は、同じように人間の良心が唯一の神の存在を認めているゆえに、弁解の余地がないと神は言っておられます。被造物の存在や人間の良心というものが、神の存在を認めないわけにはゆかないのです。
だれでも人間は、神の存在、あるいは神がいかなるお方であるか、ということを知ろうと思えば知ることができます。ところが異邦人は神の啓示に対して堅く心を閉ざし、感謝もしなければ賛美することもしないのです。これはまさに、神を否定する決心をしてしまったことを意味しています。「異邦人の思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです」と21節にあります。
神に感謝をしない者は高慢になり、心がおごり高ぶることをどうすることもできません。神に対して幼子のように素直な態度を示さないならば、その人の思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなってしまうのです。
22節を見ると「彼らが愚かな者となってしまった」ことがわかります。もちろん、彼らといえども人間的には立派な人もおり、名誉ある地位についている場合もあるでしょうが、神に感謝し、神を賛美しなければ、神の目には愚かな者にすぎません。異邦人の理解力と思いは、神に感謝せず、賛美しなかったゆえに堕落してしまったのです。
神を知ることがなければ、自分自身を本当の意味で正しく知ることはできません。人間は、神を拒むことによって自己を偽る者となってしまうのです。神なき人間は、たとえ人間的な尺度で見れば賢く思われても、本当はあわれな愚か者以外のなにものでもありません。
自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(箴言26・12)
23節を見ると、無知な者の心が暗くなったゆえに、その理解力も暗くなったことがわかります。このことは、とくに世の中の多くの宗教界がよく表しています。つまり彼らは、神の御栄えを人間や獣などの形に似せた偶像に置きかえてしまっているのです。
彼らは、ホレブで子牛を造り、鋳物の像を拝んだ。こうして彼らは彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像にとりかえた。彼らは自分たちの救い主である神を忘れた。エジプトで大いなることをなさった方を。(詩篇106・19~21)
人間は、自分が拝んでいるものに似たものとなります。神を礼拝すれば高められ、神に似たものとされます。死んだ偶像を拝めばその人の心は死んだものとなってしまいます。動物を拝めばその人は動物のようになり下ってしまいます。金や銀を拝めばその人の心も金や銀のように冷く固いものになってしまいます。私たちの心は一体何に向けられ、いかなる方に向けられているのでしょうか。
永遠にして崇高な目に見えない神は、決して目に見えるものの形には表すことができません。異邦人は、目に見えない神を目に見える物の形に表し、それによって神にではなく偶像に仕える結果になってしまいました。
それでは異邦人は、神の啓示に対して何をしたのでしょうか。
1.彼らは神に感謝せず、賛美もしませんでした。
2.彼らは生ける神を偶像に取り替えてしまいました。
3.彼らは神の真理を偽りと取り替えてしまいました。
「彼らは造り主のかわりに、造られたものを拝み、これに仕えました」。これこそ、いわゆる「宗教」といわれるものの本質なのです。すなわち「目に見えないものを、目に見えるものにかえ」、「真理を偽りと取り替え」、「造り主を、造られたものにかえてしまう」のです。ですから、これらはもはや「神の啓示」ではなく、「人間が感じ考えるもの」以外の何ものでもありません。異邦人は、神の真理を偽りとしてしまっています。あらゆる宗教は、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えています。神は被造物を通して異邦人に御自身を現わされました。彼らはそのつもりであれば神に感謝することができ、神を知ることによって神を賛美することもできたにもかかわらず、それを拒んだのですから、彼らに弁解の余地はないのです。
神を真剣に求めないこと、神の前にひざまずかないことは罪です。
異邦人の罪に対する神の怒りは、彼らを悪に引き渡されたことによって現わされました。24~28節を見ると「神が彼らを悪に引き渡された」ことがわかります。神が、人間を勝手にさせ、なすがままにまかせるということは、まことに恐るべき罰です。
それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんばかりのままに歩かせた。(詩篇81・12)
これは、決して人間の望む自由ではなく、天罰です。被造物(偶像)をあがめるということは、異邦人的な不道徳の結果生じるものです。彼らは造り主を拝まず、人間の肉の快楽の奴隷になってしまったのです。神が人間を罪に引き渡すと、人間は罪に沈んでしまうのです。異邦人は、自分が非常に賢いように思いこんでしまい、その結果神を信じることができなくなってしまうのです。彼らは、神を知りたいとは思いませんでした。彼らの無知な心は、このようにして暗くなってしまったのです。
ここで引用されている罪は、神の罰にほかなりません。彼らが神をかたくなに拒み続けたため、神は彼らを罪に引き渡されたのです。
人間が、自分勝手なことをすれば、神もそれにまかせ、人間が心をかたくなにすれば、神もかたくなにならざるをえないのです。
神を捨てる者は彼自身捨てられた者であり、神を拒む者は彼自身拒まれた者なのです。神から誉れを取り去る者は彼自身誉れを取り去られるのです。神に栄光を帰さない者は、動物よりも低くなり下ってしまうのです。(26~27節)偶像崇拝は常に肉の行ない、肉の思いから出てくるものです。神と真理を拒む者は悪におもむきます。神に栄光を帰さない人たちは義と不義を見分ける力を失ってしまっているのです。(28~31節)
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7・21~23)
これこそ、人間の心と生活に対する神の判決です。これらのいくつかの罪を犯さなかった者であっても、それはただそのように守られたにすぎないのであって、人間はだれでもその内に罪の芽を宿しているのであり、罪の性質をもった罪人なのであって、それが表に出てくるか出てこないかの違いにすぎないのです。
誰でも、最初から大酒飲み、人殺し、あるいは姦淫を犯す者になろうと考えた人はいないはずです。しかし真剣に神を求めず、神を拒み続ける人は悪に引き渡され、その思いは低いものになり下ってしまうのです。
28~31節までには、いろいろな罪が記されています。ここではそのうちのいくつかを取り出して考えてみることにしましょう。
「不義」とは、神の側から見て正しくないものすべてを意味しています。もちろん神の戒めに対して不従順であることも不義であります。
「むさぼり」は、悪意や悪だくみと同じ種類のものです。むさぼりとは偶像崇拝にほかなりません。むさぼりを求める者は最後には結局なにも残らずにすべてを取られてしまうあわれな存在なのです。
「ねたみ」は、喰いつくす悪です。ねたみは人を不幸にし、喜びを奪い取るものです。ねたみは神に奉仕する力を駄目にしてしまいます。
「悪事をたくらむ者」は、始めから終りまで自分のことだけを考え自分の思いを通そうとする者です。今日、悪事をたくらむ者はなんと多いことでしょうか。
私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中で頭になりたがっているデオテレパスが、私たちの言うことを聞きいれません。それで、私が行ったら、彼のしている行為を取りあげるつもりです。彼は意地悪い言葉で私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。(Ⅲヨハネ9~10)
デオテレパスは支配欲に満ちた人だったため、使徒ヨハネの訓戒をも受け入れず、主も祝福することができなくなってしまったのです。「高ぶる心」は、いかなる人間にも奥深いところに根ざしている、恐るべきものです。人間のあらゆる性質のなかで最後まで残るのは、この高ぶる心です。しかし高ぶる者は神が最も憎まれる者です。
「大言壮語する者」も、30節にあげられています。人間は高くうぬぼれて、自分を人より大きく見せたがるものです。そのような人は真理の意味を理解できなくなってしまっており、自分自身をすら正しく評価することができなくなってしまっているのです。
「わきまえのない者」の特徴は、神を恐れないことです。「神を恐れることは、知識のはじめである」。まことに神を恐れる者には、知恵と分別がありますが、主を恐れない者は無知な者になってしまうのです。無知は神に対する罪と債務から出てくるものです。賢くなりたいと切に望む者は、実際、賢くなることができます。
32節によると、人は神の定めを知っています。しかしそれにもかかわらず、人間は意識的に罪を犯してしまうために、動物よりも低い者になり下ってしまうのです。すなわち彼らはいつのまにか悪魔の道具になってしまい、ほかの人をも惑わすようになってしまうのです。
ですから、私たちの内側から出てくるものが、ほかの人々に対していかなる影響をおよぼすか、ということは非常に大切な問題です。
ここでもう一度、ここの箇所の主題についてふりかえってみましょう。
神は、異邦人に対して何を啓示されたか。造り主なる神は被造物を通して御自身を啓示なさいました。これこそすべての人に被造物を通して伝えられた「永遠の福音」です。多くの人はこの永遠の福音によって、神を礼拝するように導かれました。人は被造物によって神を知ることができる、と聖書は言っています。ヨブは被造物によって神を知るにいたった人間であり、それによって神を礼拝するものとなったのです。ヨブは神を恐れたゆえに、神はさらに多くのことを啓示することができたのです。
また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」(黙示録14・6、7)
永遠の福音とは、造り主なる神の福音です。この福音は、神が造られた被造物によって宣べ伝えられています。人間はだれでもこの福音を知ることができます。この永遠の福音は「一体イエスを知らなかった者はどうなるのか」という質問に対して答えています。この福音を聞いていない人はいないはずであり、したがってだれでもこの福音によって救われる機会があったわけです。その意味で、以前にイエス・キリストを知らなかった人であっても、被造物によって神の神聖を認め、感謝して本当に神を恐れた人は救われるわけです。しかし注意すべきことは、その人が自分の気持から神に感謝した結果、救われるのではなく、彼の知らないところでイエス・キリストの十字架による救いが成就するゆえに救われるのです。つまり救いは決して人間の側から生じるのではなく、神の側から行われるのであり、その土台はイエス・キリストの十字架にほかならないのです。神は、御自身を啓示なさいましたが、異邦人は、神に感謝もせず、ほめたたえることもせず、賛美もしなかったため、神の怒りが彼らの上にある、とローマ人の手紙1章は言っております。
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3・36)
私たちは、永遠のいのちをもっているか、神の怒りのもとにあるか、のどちらかです。
こういうわけで、いまはキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)
この確信をもっている者は、幸いです。