第Ⅰ部 全人類の救いの必要性
ローマ人への手紙
1章8節から17節まで
Ⅰ.ローマ人への手紙の著者パウロについて
1.主イエスのしもべ(主と信者の関係)
a.感謝すること
b.仕えていること
c.祈っていること
2.福音を宣べ伝える使徒(信者と信者の関係)
Ⅱ.ローマにある主イエスの体である教会
Ⅲ.ローマ人への手紙の中で一番大切な点
1.福音とは何か
2.福音はいかに働くか
今日は、引き続いてローマ人への手紙1章8~17節を、ご一緒に読んでみたいと思います。
(8)まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。(9)私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、(10)いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。(11)私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。(12)というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
(13)兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たのと同じように、いくらかの実を得ようと思って何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。(14)私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
(15)ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(16)私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(17)なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。(ローマ1・8~17)
この箇所は、次の三つに分けて考えることができます。
Ⅰ.ローマ人への手紙の作者であるパウロについてよりよく知るということ。
Ⅱ.ローマにある教会のことについてよりよく知るということ。
Ⅲ.ローマ人への手紙のなかで一番大切な点と思われることについて。
まず著者について考えてみると、パウロは「イエス・キリストのしもべ」であり「福音を宣べ伝えるための使徒」であることがわかります。
「イエス・キリストのしもべ」としては、次の三つのことがらがその特徴となっているとパウロ自身言っています。すなわち、
1.感謝すること
2.仕えていること
3.祈っていること
です。そこでまずこの三つのことがらについて、少しばかり考えてみることにしましょう。
1.感謝すること
8節を見ると、パウロが神に「感謝」せざるを得ないと強く言っていることがわかります。なぜパウロは、豊かに祝福された人生を送ることができたのでしょうか。彼は神に感謝したからです。詩篇には、次のようにあります。
感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。(詩篇50・23)
「感謝」するということは、決してその人の恣意ではなく神の御心なのです。パウロは、神の大いなる力がローマにある教会のなかに強く働いていたことを心から喜びました。「それは、あなたがたの信仰が、全世界に言い伝えられているからです。」もちろん信仰だけでなく、信仰の現れがいたるところに見られたからです。
主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝っているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。(Iテサロニケ1・8)
信仰の実とは、全く新しい歩み、従順な行ない、忠実な歩み、日常生活における実際的な愛の奉仕などです。キリスト者にとって大切なことは、信仰と信頼であり、後のことは、そこから自然に出てくるものです。罪の都ローマにおいて、キリスト者の群れは非常に大きな影響をおよぼしました。あなたも毎日あなたの務めている職場で、このような影響をおよぼしているでしょうか。また、主イエスへの自分を無にした奉仕というものが、あなたの生活の中にも、現われているでしょうか。
我がたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103・1)
イエスのしもべであるパウロは、感謝をした人間でした。あなたの生活の特徴は何でしょうか。
2.仕えていること
次に9節でパウロは「自分が御子の福音を宣べ伝えつつ、仕えている」と言っています。パウロは、主に仕えることが許されているということこそ最高の恵みであると言っています。
私にとっては、生きることはキリスト・・・・です。(ピリピ1.21)
すなわちパウロにとって、生きることは主イエスに仕えることにほかならなかったのです。しかも主に仕えるということは、パウロにとってかたくるしい形式や義務ではなく、どうしてもそうせざるをえないというやむにやまれぬ思いから喜んでしていたことだったのです。
3.祈っていること
イエス・キリストのしもべパウロは、感謝し、そして仕えている人でしたが、第三に、また祈りの人でもあった、と聖書は言っています。「私はあなたがたのことを思わぬときはなく、いつも祈っている」と9節にあります。
私たちが使徒パウロの手紙を読むときに、主の御霊が本当に豊かに注がれていたことがわかりますが、その秘訣は、まさに祈ることにあったのです。主イエスの愛が強くせまったために、使徒パウロは祈らざるをえなかったのです。キリスト者の霊的な成長こそ、パウロの切に願い求めたものでした。パウロは決して自分のことだけを思うことなく、その心はいつも他のキリスト者のために熱く燃えていたのです。私たちも、ほかのキリスト者を深く愛するならば、それが毎日の深い祈りとなってあらわれてくるはずです。パウロはまだ知らない人のためにも、絶えず祈り続けました。しかし、私たちの場合はどうでしょうか。知っているキリスト者のためにすら祈らないことがあるのではないでしょうか。
パウロの奉仕は福音を広く宣べ伝えることでした。しかし、その中心をなしているものは、まさに祈り以外の何ものでもなかったのです。奉仕の中心は常に祈りです。私は最近ダービーという人の文章を読んで、非常に大きな感銘を受けました。それには次のように書かれています。
「神の御霊との結びつきなしに御言葉を語り、御言葉とかかわりあいを持つことほど危険なことはありません。神との交わりなしに聖書の真理について語るということほど神からはなれることはないと思います。まさにそこにこそ、もっとも恐ろしい危険が潜んでいるのです」。
そこで私たちもこのことを静かに考えてみようではありませんか。私たちは本当に主との交わりを持っているでしょうか。本当に御霊によって導かれているでしょうか。確かに私たちは神との交わりなしに御言葉を語ったり、御言葉とかかわりあいを持つことができましょう。しかしそれは、つきつめれば悪魔に仕えることになるということを知らなければなりません。イエスのしもべであるパウロは、感謝の人であり、奉仕の人であり、祈りの人でありました。彼はキリスト者と親しく交わるためにローマへ行きたいと思いました。しかしその場合にも、彼は自分の思いや考えでそうしようとしたのではなく、御霊によってそのように導びかれたに違いありません。パウロは多くの願いを持っていましたが、その中心は自分の思いではなく、主の御心が行なわれ御名があがめられることでした。
いままで私たちは、イエスのしもべとしてのパウロについてご一緒に考えてきました。パウロはしもべとして、徹頭徹尾、完全に主に拠り頼んでいたことがわかります。パウロは、主からあたえられた使命を果たし、主の御心を行いました。これこそまさに主とキリスト者との正しい関係にほかなりません。私たちの場合、主との関係は一体どうでしょうか。
次に、福音を宣べ伝える使徒としてのパウロについて、聖書から学んでみましょう。主から遣わされた使徒として、パウロは主からあたえられた使命を責任を持って担うものでした。つまりパウロは、ローマにいるキリスト者たちのためにもつねに責任をもち続けていました。これは、キリスト者がほかのキリスト者との間にもつ正しい関係がいかなるものかを示しています。特に9~15節までの間に、この責任のことについて書き記されています。
9節――私は、「あなたがた」のことを思わぬときはなく、
10節――いつも祈りのたびごとに、「あなたがた」のところに行けるようにと願っています。
11節――私は、「あなたがた」に会いたいと切に望むのは、「あなたがた」を強くしたいからです。
12節――「あなたがた」の間にいて、ともに励ましを受けたいのです。
13節――私は、「あなたがた」のところに行こうとしたのですが、
14節――私は(全ての人々すなわち)「あなたがた」にも返さなければならない負債を負っています。
15節――「あなたがた」にも、ぜひ福音を伝えたいのです。
この御言葉からわかることは、パウロが全く知らない集会をも愛し、そのために真剣に祈ったということです。パウロは祈りによって教会を建て、御言葉によって強くしたいと願っていました。しかし、ローマにたどりつくまでには、囚われの身となって送られるまで実に三年半の歳月を要したのです。パウロはローマに行こうとしてそれを妨げられたわけですが、その妨げたものが何であったかはよくわかりません。たとえばテサロニケ人への手紙第一にある通り、悪魔がその妨げとなったのかもしれません。
それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。(Ⅰテサロニケ2・18)
また、神の御霊もその道を止めることがあるのです。
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(使徒16・6~10)
私たちが、全てを御霊の導きにゆだねる備えができており、切にそう望むならば、御霊の導きが非常にはっきりとわかるものです。
パウロは、主イエスと同じように刈り入れのときが熟すこと、すなわち失われた魂が心から主に立ち返ることを、常に心にとめていたのです。私たちは、私たちの周囲にいる人々、つまり、家族、友人、知人に対して本当に重荷を感じているでしょうか。
パウロは福音を宣べ伝える時に、ただ一つの救いの道以外には「滅びからいのちに至る道」はないということを強く説きました。つまりそれは、主イエスを信じる信仰が本当に生き生きとした真剣なものである、ということです。ローマの役人であれ、牢屋の獄吏であれ、誉れ高きパリサイ人であれ、貧しい奴隷であれ、だれであっても、その人のために救いの道はただ一つ、すなわち、主イエスを信じる、ということ以外にないのです。今日、私たちはこの意味で当時と同じ状態にあります。有名な学者は貧しい靴磨きと同じように、老人は若者と同じように、男は女と同じように、形だけのクリスチャンは未信者と同じように、だれであろうが罪の赦しを必要としていることにかわりはないのです。
まことの教会に属する者は、だれでも聖霊によって新しく生まれかわった者です。聖霊の働きにより、また共同生活を通して、あるいは同じ使命によって彼らは一つに結ばれていました。6~7節から明らかなことは、彼らが主イエスによって召された人々であり、神に愛されている人々であり、召された聖徒たちであったということです。これらの人々は主の招きを正しく理解し、それに従順に従い、信仰の従順に至った人々でした。この生活体験の結果は8節~12節にはっきりと記されています。8節には、いたるところで彼らの信仰が、全世界に言い伝えられているということ、そして12節には、パウロ自身彼らとの主にある交わりによって、ともに励ましを受けたいと思ったことが書かれています。彼らはかつては失われた罪人であり、神の怒りのもとにいた者であり、神から遠くはなれて全く望みのなかった者でした。ところがいまや、彼らは主イエスによって召され、神に愛され、神によって義とされた者となっているのです。そしてパウロは、ここにこそ一つのしっかりとしたゆるぎない教会を建てたいと願ったのです。それは次の御言葉によっても明らかです。
11節――「あなたがた」を強くしたい。
13節――いくらかの「実を得よう」と思った。
15節――ローマにいるあなたがたにも「ぜひ福音を伝えたい」のです。
福音を宣べ伝えるということは、とりもなおさず主イエスに栄光を帰するということです。
最後にローマ人への手紙のなかで一番大切なことを16~17節から学ぶわけですが、その前に、今まで学んできたことを簡単にまとめてみたいと思います。
まず1~7節までから、手紙のテーマについて序論的に記されていることを学びました。つまりこれが神の福音、喜びのおとずれであるということです。そして福音とは、ひとりの人格すなわちイエス・キリストにほかなりません。
・イエスを見る者は、福音を見るのです。また、
・イエスを持つ者は、福音を持つのです。そして、
・イエスを宣べ伝える者は、福音を宣べ伝えるのです。
そのほかの福音は絶対にありえません。
パウロは、主イエスというお方がいかなる方であられたかを、はっきりと言っています。すなわち2節を見ると、イエスが「約束された方」であると記されていますが、このことを旧約聖書全体がはっきりと言っているわけです。次に、3節を見ると、約束された方が「生まれた」と記されていますが、このことは四福音書が明らかにしています。第三に4節を見ると、このイエスが御子として「示された方」であると記されていますが、このことは使徒の働きや多くの手紙と黙示録が明らかにしています。すなわち「イエス・キリストこそ聖書全体の中心」なのです。
次いで8~15節までには、ローマ人への手紙の作者について主に記されています。ローマ人への手紙は、最も完全な聖書の教えです。もちろんこれはキリスト者のための教えです。キリスト者になるためには、決して多くの御言葉は必要ではありません。ただ幼児のような信仰がありさえすればそれで十分なのです。祝福のうちに入るためには、たったひとことの御言葉でも十分ですが、祝福のうちに生きるためには、聖書全体が必要です。パウロは、ただ単に教会の土台を据えるために福音を宣べ伝えただけではなく、さらにその土台の上に教会を建てるため、すなわちキリスト者が成長するために福音をさらに深く教えたのです。
そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神の言葉を教え続けた。(使徒18・11)
私が、三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けてきたことを、思い出してください。(使徒20・31)
こうしてパウロは、満二年の間・・・・神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。(使徒28・30、31)
これらの御言葉からわかることは、パウロがコリントにおいて、エペソにおいて、またローマにおいて神の御言葉を教えたということ、つまり教会を建てることに一生懸命であったということです。私たちは、ただ単にキリスト者になることで満足したり十分だと思ったりするのではなく、さらに霊的に成長することを要求されているのです。
さて、最後にローマ人への手紙の中で、一番大切な点について学んでみましょう。まず、次の二つの問いについて考えてみたいと思います。
1.福音とは何か
2.福音はいかに働くか
1.福音とは何か
ローマと福音とは、性質の合わないものでした。ローマは当時国家権力、文化、富、教養の最高の都でした。福音は、十字架につけられた方の完全な勝利にほかなりません。ローマには何らの救いも福音もありませんでした。しかしパウロは、ローマに行こうとしたのです。「私は福音を恥と思いません。」とパウロは言ったのです。パウロはこの福音の中にどれほどの富と力が宿されているかをよく知っていました。私たちの場合はどうでしょうか。福音を恥と思うようなことがないでしょうか。それともパウロと同じように、福音を恥と思わないでしょうか。
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。(マルコ8・36~38)
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示24・6~8)
これは大変厳しい言葉です。ローマが福音を必要としているために、パウロはローマへ行こうとしたのです。福音とはあらゆる喜び、知恵、救いと力を表わすものにほかなりません。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6・14)
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1・18)
十字架の御業、これこそが福音であり、主イエスが救いの御業を成就してくださった喜びのおとずれであり、滅びゆく罪人をあがなうための犠牲の死にほかなりません。パウロは「福音が救いを得させる神の力である。」とはっきり言っています。福音は、教えであるよりはむしろ神の力の現われです。そして福音そのものであるイエスこそ、私たちを救うことができ、また解放することができる唯一のお方なのです。
今日、この世に多く見られるものは破壊する力ですが、イエスそのものである福音は、「築き上げる力」です。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)
福音の救う力は、すべての人のために提供されております。ですから、一人一人は感謝して、福音であるイエスを受け入れさえすればよいのです。
信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)
信ずる者は、すなわちそれを切に望む者は、福音を体験するのです。
2.福音はいかに働くか
次に、福音はいかに働くか、すなわち福音が何をもたらすかについて考えてみましょう。
福音はまず第一に、神の前に有効である義、すなわち神御自身の義を現わしています。ローマ人への手紙の中には、義という言葉が何回も何回も出てきます。たとえば3章5、21、22、25、26節、10章3節などです。神の義は、主イエスにおいて現わされました。私たちが主イエスを見るとき、ほかならぬ神の義を見ているわけです。聖書を通してすべての人に神の義が提供されているのです。神の義がイエスにおいて現わされただけであったならば、それは大変恐しいことだったでしょう。というのは、それによって私たちの罪にけがれた本当の姿が明らかにされるだけだからです。しかし実際は、それを私たちが受け入れることができるように、神の賜物としてイエスにある神の義が提供されているのです。17節に「神の義は、信仰にはじまり、信仰に進ませる。」とある通りです。
私たちは、イエスを信じることによって神の義を得ることができます。信仰とは完全にイエス・キリストに信頼し、イエス・キリストを受け入れることです。イエス・キリストを意識的に受け入れることは信仰の始まりです。そのことによって、私たちは神との新しい関係を持つことができるようになります。今まで知らなかった他人としての神が、信仰によって「アバ、父よ。」と言うことのできるお方になるのです。
しかし信仰が始まれば、そのあとで進むことが要求されるのは当然です。「信仰に進ませる」という御言葉は、その意味で使われています。聖書は、キリスト者の成長の段階をあらわすために、乳飲み児、幼子、若者、完全な大人という表現を用いています。
イエスは神の義であり、このことを私たちは日々新たに信仰によって体験すべきです。ただし義とは、私たち人間の義ではなく、あくまでも神の義である以上、私たちは常に神の義である主イエスにより頼まなければならないのです。「信仰によって生きる」とは、自分のことを少しも考えず全く無になって、ただ、主のことを思い、主のために瞬間瞬間を生きるということを意味しているのです。