第Ⅰ部 全人類の救いの必要性

1.導入部

ローマ人への手紙

1章1節から7節まで


Ⅰ.パウロの自己紹介

1.主のしもべ

2.召された使徒

3.福音を宣べ伝えるために選び分けられたこと

Ⅱ.手紙の内容

1.福音

2.旧約聖書の成就

3.神の子イエス

a.肉によればダビデの子孫

b.霊によれば復活

Ⅲ.受取り人

1.恵みと使徒の務め

2.信仰の従順

3.使徒の使命


多くの名著や古典がそうであるように、ローマ人への手紙も、多くの人によってすばらしいものだと言われますが、本当に注意深く読む人は、残念ながら極めて少ないようです。ローマ人への手紙は、キリスト者にとって最も包括的な教えが記された書であると言えます。有名な教父クリソステムスは、毎週二回ずつローマ人への手紙全体を読んだそうです。ドイツの宗教改革者ルターは、ローマ人への手紙こそ新約聖書の中心部分をなすものであり、最も純粋な形で福音を書き記したものである、と言っています。ローマ人への手紙は、一句一句暗記するべきものであり、霊の糧として味わうべき御言葉の書である、ということができましょう。ローマ人への手紙は、いくら読んでも尽きることがなく、いくら学んでもなおその深さが次々と開かれてくる書物です。ルターは、読めば読むほど味わいが深くなる、と言っています。


このローマ人への手紙を根本から学ぶことは、キリスト者一人一人にとって、どうしても欠くことのできないことです。ちょうどパウロに聖霊が臨んで働いたように、私たちも救いの事実についてはっきりとした知識をもつ必要があります。ここで誤解のないように申しあげておきたいことは、キリスト者になるためにローマ人への手紙を研究するのではなく、キリスト者の霊的な成長のためにローマ人への手紙を学ぶのだ、ということです。新約聖書の教えは、キリスト者のためであって、未信者にとっては、主イエスとの出会いこそ第一に要求されるものであることを忘れてはなりません。


ローマ人への手紙は、真理と偽りとを見分ける規準、あるいは標準となるものです。聖書全体の内容は、すべてこのローマ人への手紙の中に映し出されているといっても言いすぎではありません。旧約聖書の引用が多いことからも、このことがわかります。全ての信仰の教え、たとえば律法、福音、罪と罰、キリストと神、信仰と義、良い業と勝利の生活、救いの完成に対する生き生きとした希望、これら全てのものが、ローマ人への手紙のなかに記されているのです。


冒頭の1章1~7節までは、ローマ人への手紙の導入部であって、ローマ人への手紙全体を要約して書かれています。今日はその1~7節までの序論を見てみたいと思います。


(1)神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、(2)――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、(3)御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、(4)聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(5)このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。

(6)あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、(7)ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。(ローマ1・1~7)


パウロは、まず初めにローマにいる主にある兄弟姉妹に向って、心からの挨拶を送っています。パウロの証しは、栄光に富みたまう神の子、主イエスであります。尊い救いの御業は、全人類のためになされました。この救いの事実を心から信頼して受け入れる人は、だれでも神の救いと義をすでに受けているのです。このすばらしい事実を知らせるために、パウロはこの手紙を書き送ったのです。


まず、パウロは次の三つのことを書き送っています。

Ⅰ.パウロは自己紹介をしています。

Ⅱ.この手紙の内容を簡単に記しています。

Ⅲ.この手紙の受け取り人のことについて書き記しています。


Ⅰ.パウロの自己紹介


まず自己紹介をするにあたり、パウロはさらに三つのことを述べています。

1.自分が「神のしもべ」あるいはもっと強く表現するなら神の奴隷である、と断言しています。

2.自分が「使徒として召され」遣わされたものであることを明らかにしています。

3.神の「福音を宣べ伝えるために選び分かたれた」ことをも記しています。


以前のサウロは、イエスと出会って以来、イエスのしもべあるいは奴隷であることを表すために、パウロ、すなわち最も小さい者という名前を自ら好んで使いました。すなわちパウロとは、大いなる主の最も小さなしもべという意味です。パウロは、自分の名前が世界中に広まったにもかかわらず、自ら大いなる人間になりたいとは思いませんでした。イエスのしもべ、これこそパウロの喜びであり、誉れであったのです。パウロは、イエスの尊い血潮によって買いとられたゆえに、完全に主に従うことだけが彼の喜びとなったのです。主は自分を愛して、そのために御自身を捧げてくださった・・・・この思いと感謝がいつもパウロの心を満たし続けたのです。そしてパウ口もまた、主を限りなく愛し、主のために全てを捧げたのです。


あなたも、パウロと同じように主イエスのしもべとして、日々心から主を愛しておられるでしょうか。主のために全てを犠牲にすることが、あなたの喜びとなっているでしょうか。


私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(ローマ14・7~9)


最高の自由は、ただ主と結びついているときにのみ与えられるのです。パウロは、学者や賢人としてこの知恵の言葉を語ったのではなく、イエスのしもべとして自分の主、すなわち主人である主イエスの言葉を語ったのです。


第二に「使徒として召された」ことについて考えてみましょう。


いわゆる十二弟子、すなわちよみがえりの証人となった使徒とは、特別に主の御生涯と御栄光に接した人々でした。これに対してパウロは、この地上では生前のイエスに接する機会を持つことができませんでしたが、死からよみがえられ、高く引き上げられたイエスに接することができ、豊かに召されたのです。


イエスによって遣わされた者であるということは、何という光栄でしょうか。一国の大使になるということは、非常に名誉なことです。その人は豪華な家と車を与えられ、まことにすばらしい生活を保証されます。しかし、主イエスから遣わされた者の方が、比較にならないほどはるかに光栄であることを忘れてはなりません。


こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。(IIコリント5・20)


パウロの生涯の全ては、主の御心に従うことでした。パウロは使徒となり、彼を召された方の使節になりました。パウロは、高く引き上られて神の右の座に座しておられる方の最高の権威をもって語りました。私たちはローマ人への手紙を熟読するとき、このことを覚えましょう。


第三に、神の福音を宣べ伝えるために「特に選び分けられた」パウロについて考えてみましょう。


パウロの生涯の内容は、まさに主イエスの救いの福音そのものとなりました。福音は、罪人を解放し、自由な身とならせるゆえ、罪人を罪の奴隷から救い出すことができるのです。自分の罪が赦された者は、一つの課題を担うことになります。


けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき・・・・(ガラテヤ1・15~16)


救われた人は、まだ救われていない人を救いに導く義務と使命を担うのです。ですからその重荷、すなわち失われた魂を救いに導くという責任感を強く持たなければ、その人は根本的におかしいと言えるわけです。しかし、失われた魂を救いに導くためには、特に選び分けられることがどうしても必要です。この世的な一切のものから離れること、自分自身からさえも離れることが、そのためにはどうしても必要です。キリスト者はだれでも、主イエスによって召され選び分けられた使徒、使節であるはずです。各々その召しに応じて生活しなければなりません。


Ⅱ.手紙の内容


次に、2~4節に記されている手紙の内容の概略について見てみることにしましょう。


パウロは、神の喜びのおとずれ、すなわち福音を説明しています。それは喜びのおとずれでもあり、パウロが宣べ伝えた、心からわきあがってくる歓呼の叫びでもあります。そして、パウロが言っているように、これこそ旧約聖書で預言されたことの完成と成就にほかならないのです。


この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。(ローマ1・2)


したがって、ユダヤ人はこのことをあらかじめ知っていたわけです。しかし、イエスこそほかならぬ救い主であるということを本当に知っていた人は、ほとんどいませんでした。ただ、ザカリヤ、エリサベツ、ハンナ、シメオン、マリヤ、ヨセフ、羊飼いたち、博士たちだけがこのことを知っていたにすぎなかったのです。彼らは旧約聖書で預言されたことを正しく理解していたゆえに、この出来事が起ったときにこの事実を認めることができ、卑しいしもべのかたちをとってこの世にこられた主イエスを信じて受け入れることができたのです。旧約聖書全体の内容はイエス・キリストです。


定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖いだすためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。(ガラテヤ4・4~5)


3節を見ると、これが御子に関する福音であることがわかります。すなわち福音とは、とりもなおさず御子イエス・キリストの人格にほかならないのです。また、パウロは御子がダビデの子孫として生まれたとも書いています。マタイ1章を見るとイエスの系図が出ていますが、それを見ればイエスが確かにダビデの子孫であることがわかります。また、黙示録22章16節を見ると、イエスがダビデの根、また子孫、輝く明けの明星であることがわかります。すなわちイエスは、約束されたダビデの子孫なのです。


ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(ルカ1・31~33)


イエスがダビデの子孫として生まれ、ダビデの王位を受け継ぐものであることからも、イエスがイスラエルの王となる資格をもっていることは明らかです。イエスは天に引き上げられたあとで、再び私たちを迎えに空中まで降りてこられ、私たちイエスを信じる者も、主イエスと同じかたちに変えられるのです。さらにそのあとで、主イエスは目に見えるかたちで公に再臨なさり、全てを支配なさるのです。


人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。(マタイ25・31~33)


主イエスこそ、旧約聖書の成就であり、約束されたメシヤです。


4節には、イエスは「大能によって公に神の御子として示された方」だとあります。パウロはまずはじめに、イエスがダビデの子孫、すなわち人の子であると述べ、そのあとで「神の御子」であることを公にしているのです。


ナタナエルはイエスにむかって「先生、神の子よ」とさけびました。ペテロもイエスこそ約束されたメシヤ、神の子と言いました。ヨハネは私たちは神のひとり子の栄光を拝した、と言いました。主イエス御自身も私は神の子であると仰せられました。神御自身も、イエスこそ我が愛する子、また私の心にかなう者であると仰せになりました。


主イエスの中には、神の生ける力と聖い御霊が宿っていましたから、死に打ち勝つ力があったのです。主イエスだけが、私はよみがえりです、いのちです、と言うことができたのです。


ナインの若者を、主イエスは生きかえらせました。ヤイロの娘は、死からいのちへと移されました。ラザロも、墓と腐敗から立ち返ることができました。


イエスは言われました。


だれもわたしからいのちを取ったものはいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。(ヨハネ10・18)


イエスは、神の子です。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)


御子を持つ者はいのちを持っており、御子を持たない者はいのちを持っていません。(Ⅰヨハネ5・22)


イエスは聖なる方です。なんという栄光、なんという聖なる光、なんという聖霊の力が主イエスから出ていることでしょうか。イエスとは、人としての名前であり、キリストとは、約束されたメシヤの称号であり、我らの主とは、王としての尊厳を表す言葉であり、また死といのちに対して絶対的な権威をもち、教会のなかで中心的な座を占められるべきお方なのです。


人間として、また神の子羊として、イエスは救いを成就してくださいました。その救いの完成を証明するものは、復活にほかならないのです。今日イエスは、全てを支配しておられ、全ての権威を持っておられます。


それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2・9~11)


あなたも、このイエスを自分の主としておられますか。


Ⅲ.受取り人


最後に、ローマ人への手紙5~7節で、この手紙を受け取る人たちについてパウロが書き記したことを見てみましょう。


すべてはイエスにより、イエスから出て、イエスに至るものですが、パウロと異邦人との関係、あるいは、パウロとローマにいるキリスト者との関係も、イエスにより、イエスから出て、イエスに至るものでした。パウロは、恵みと使徒の務めを受けた、と述べています。「恵み」とは、個人的な恩寵であり、イエスとの出会いによってあたえられた恵みです。「使徒の務め」とは、奉仕するために召されていることです。


このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」私が「主よ。あなたはどなたですか。」と言いますと、主がこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上って、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。(使徒26・12~20)


恵みと使徒の務めとは、第一テサロニケ1章9節の言葉、すなわち「生けるまことの神に仕えるようになり」神に立ち返った、という言葉によって簡単に表現することができます。すでに得た恵み、あるいはすでに体験した恵みこそ、奉仕するための最大の装備です。絶えず奉仕するためには、絶えず恵みを受ける必要があります。パウロの使命は一体何だったのでしょうか。神を知らない人々が、パウロによって主イエスと出会う機会を与えられることでした。それだけでなく、信仰の従順、あるいは信頼の従順に至ることも、非常に大切なことです。「信仰の従順」とは、ひとりの人格、すなわち、イエスとしっかりと結びついていることを意味しています。もちろん、これは恵みによってなされるものですが、それと同時にキリスト者一人一人の意志の行為によっても決められるのです。


5節には、あらゆる国の人々の中に信仰の従順がもたらされることが書かれています。イエスと出会って、救いを必要としない人は一人もいません。もちろん、あらゆる国の人をキリスト教化すること、教会の会員にすることが大切なのではなく、あらゆる国の人々のなかに信仰の従順があらわれることが大切なのです。


あなたも、すでに主イエスにとらえられ、明るみにだされ、主イエスのものとなられたでしょうか。


ローマには、すでに神の光と愛によって救われた人たちがいました。彼らはキリストによって召された人々の群れに属する者でした。すなわち、彼らは、ローマにおける召された証し人、そしてイエスの使節だったのです。パウロとローマにいるキリスト者達は、召された者だったのです。彼らは、自分の職業のほかにひとつの使命を持っていました。彼らにとってこの使命こそ、生活の全てだったのです。キリスト者はだれでも同じ使命を持っています。私たちも、この使命をしっかりと持っているでしょうか。またあなたはこの使命に従順であり、そのためにすべてを捧げているでしょうか。いろいろな場にあって、あなたの周囲にいる人々は、あなたが「イエスの使節」であると分かるでしょうか。そのためには、一分一秒といえどもおろそかにせず、主に忠実でなければなりません。


従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なる者とされなさい。(第一ペテロ1.14、15)


7節によれば、この手紙を受け取った人たちは「神に愛されている人々であり、召された聖徒たち」でした。主イエスにあって愛され、きよめられた人々でした。彼らが「主にある」人々だって愛され、きよめられた人々でした。彼らが「主にある」人々がたゆえに、神は彼らを愛すべき人々、きよめられた人々と見られたのです。神に愛されている人々が滅びの都であるローマにいたのです。


どんな人々が神に愛されているのでしょうか。どんな人々が神の愛を本当に知ることができ、また体験的に知りえるのでしょうか。「私たちは罪を赦されています。私たちは神によって愛されています。」このように言うことのできる人々だけが本当に富んでいるのです。では召された聖徒とは、一体どういう人々なのでしょうか。召された聖徒とは、決してなにかかけはなれた人々でもなく、なにか特別な人々でもなく、日常生活のなかでいろいろな考えや行ないにおいて常に主イエスを自分のものとしている人です。すなわち、

•主が行なわれるように、ものごとを行ない、

•主が愛されるように、人々を愛し、

•主が助けられるように、人々を助け、

•主が沈黙されるように、沈黙し、

•主が語られるように、語る者です。


さらに、パウロは恵みと平安について書き記しています。恵みと平安とは、新しい生活の特徴です。あなたも主イエスの恵みと平安とを、すでに体験なさいましたでしょうか。恵みと平安とが、あなたから出ているでしょうか。私たちが日々主の恵みと平安に対して心を開き、それらを豊かに受け取るならば、私たちはそれらを他の人々にも与えることができるのです。


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