わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)

十一 今、必要とされている者はだれか

その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」(ルカの福音書10章1~3節)


今日はこのみことばからご再臨も間近い今、主が必要とされているのはだれかということについてごいっしょに考えてみたいと思います。


主の器としての選びの基準


イエス様の弟子には、ペテロ、ヨハネなどのいわゆる十二使徒と呼ばれる弟子のほかにも、名も知られない多くの弟子たちがいました。ここに記された七十人もそのような弟子たちですが、主は多くの弟子たちの中から彼らを選抜なさって福音伝道に派遣されたのであります。なぜこの七十人が選ばれたのでしょうか。収穫の働き手としてお選びになった七十人とは、主イエス様が「実り(救われるべき人々)は多いが、働き手(主イエス様の救いを宣べ伝えるための働き手)は少ない」とおっしゃってお選びになった七十人とは、どのような人々であったのでしょうか、私たちは知りたいと思います。


そのことを考えるために、まずイエス様はどのような者を最初の弟子としてお選びになったのかということから順に考えを進めてみたいと思います。マルコの福音書には次のように書かれています。


ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモン(後のペテロ)とシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。(マルコの福音書1章16~18節)


また弟子のヤコブとその兄弟ヨハネも漁師でしたし、弟子のマタイは人に嫌われる取税人でした。なぜイエス様はこのような人々を弟子にお選びになったのでしょうか。


パウロは主の選びの基準がどのようなものであるか、またどうしてそのような基準でお選びになったかについて次のように説き明かしています。


兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは神の御前でだれをも誇らせないためです。(コリント人への手紙第一1章26~29節)


主はこのようにご自分の前で誇らせないために、意図的にこの世の愚かな者、この世の弱い者、この世の取るに足りないもの、人から見下されている者、無に等しい者をお選びになったのです。


イエス様を救い主として心から受け入れた人々はすべて、イエス様の選びの基準に該当しています。なぜならば自分がいかに無力で、愚かで、取るに足りない、無に等しい者であるかを知っているからであります。そしてこのような者を主は弟子として用いたいと思っておられるのです。


信者のすべてが用いられる器か


しかし、イエス様に選ばれた十二人の弟子たちも、最初は主に用いられる器ではありませんでした。次のみことばにあるとおりです。


さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。」(マルコの福音書10章35~38節)


彼らはすべてを捨ててイエス様に従ったはずなのに、まだ砕かれていない人間的な思いからこのように自分の栄光と報酬を求めてしまったのです。ほかの十人の弟子は自分の栄光を先がけて願ったヤコブとヨハネのことを聞いて腹を立てたとありますが、これも人間的な思いであります。イエス様はこの弟子たちを戒めて次のようにおっしゃいました。


あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコの福音書10章43~45節)


主は自分が取るに足りない者であること、最も小さな者であることを心から思い知った者だけがご自分の弟子にふさわしい者であるとおっしゃったのです。ペテロも人間的な思いでイエス様を慕って付き従っていました。イエス様が人々の罪の贖いのために死ななければならないことを弟子たちにお告げになったときに、ペテロはイエス様のみこころを理解できずに人間的な思いで主を諌め、このため主から、


下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マタイの福音書16章23節)


と厳しく叱責されました。


自我が砕かれた信者を主は用いられる


ペテロがほんとうに主に用いられる器となったのは、彼が牢であろうと、死であろうとイエス様といっしょにいる覚悟ができていると断言したにもかかわらず、捕らえられたイエス様の面前で三度もイエス様を知らないと否定してしまった自分の惨めさ、無力さを心から悲しみ、泣いて悔い改めてからであります。ヤコブが初代教会の信者に宛てた手紙に、


あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。(ヤコブの手紙4章9節)


とありますが、ヤコブはどうしてこのような一見矛盾すると思われることを信者に書いたのでしょうか。それは、主の用いられる器となるためには、主の通りよき管となるためには、悲しみ、苦しみを通して私たちのかたくなな自我が砕かれる必要があるということを伝えたかったからであります。


パウロも大いに主に用いられた器であることはご存じのとおりであります。彼は他の使徒とは異なり、小アジア・キリキヤ、今のトルコのタルソという町で生まれ、社会的な身分も高く、ギリシャ文化の教育を受け、ローマ市民権も持つ血筋の良いユダヤ人でした。彼自身次のように言っています。


もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら(この世的、肉的なもの、すなわち血統や経歴を拠り所とし、それを誇るなら)、私はそれ以上です。私は八日目の割礼を受け(純粋のユダヤ人を意味します)、イスラエル民族に属し、ベニヤミン(イスラエルの十二部族の中でも誇り高い部族)の分かれの者です。きっすいのヘブル人(外国に住む外国語しか話せぬユダヤ人ではなく、ヘブル語を話すユダヤ人)で、律法についてはパリサイ人(彼は高名な律法学者ガマリエルに師事パリサイ派の律法、すなわち律法を忠実に守ることをもって義とされるという律法を学んだ)、その熱心(ユダヤ教の信仰を守り行なう熱心)は教会(キリスト教会)を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ人への手紙3章4~6節)


しかし主はパウロが自分の血統や身分や経歴や知識や信仰の熱心を誇っているときには彼を器としてお用いにはなりませんでした。彼が用いられるようになったのは、自我が砕かれて、イエス様を信じる人々を迫害し、死にさえ至らしめたという、自分の犯した主に対する恐ろしい背きの罪が示され、へりくだってイエス様を救い主として心から受け入れた結果、今まで誇っていたものがイエス様の前にまったく無価値なものと思うようになってからであります。彼は前の言葉に続けて次のように言いました。


しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私は、キリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ人への手紙3章7~8節)


後になってパウロは子どものように愛していた弟子のテモテに宛てた手紙で、自分は罪人のかしらであると書いています。


私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、(イエス・キリストを救い主と信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(テモテへの手紙第一1章13~16節)


パウロは復活の主に出会って霊の目が開かれたとき、今まで自分の頭で考えたことがすべて正しいと信じて生きてきた自分がほんとうに愚かで、まったく取るに足りない者であることを心の底から思い知ったのです。そして自分のような取るに足りない愚かな者を主が救い、弟子としてくださったのは、ただ主が自分をあわれみの見本とされるためであると告白することができたのです。主の弟子とされたパウロは、それから殉教の死を遂げるまで幾多の迫害に会いながら、主に用いられる器として福音を宣べ伝え続けました。また新約聖書の後半に掲載されている手紙類はイエス様を主と受け入れたキリスト者の信仰の成長にとってたいへん重要な指針ですが、これらの手紙の大半はパウロによるものです。自我が砕かれ、主の前に取るに足りない者と心からへりくだったパウロを主が大いにお用いになって私たち信者のために必要なこれらの手紙をお書かせになったのであります。


自分の栄光を誇る信者と主の栄光を喜ぶ信者


ここで自分の栄光を誇る信者と主のご栄光を喜ぶ信者について考えてみたいと思います。自分たちが福音伝道の成果を挙げたのに、ご再臨の日に主から報いを受けられなかったと主張する者に対して、主は次のように厳しい態度をお取りになりました。


その日(ご再臨の日)には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイの福音書7章22~23節)


この人々と対照的なのはイエス様に選ばれ、町に村に遣わされた、あの七十人の弟子たちでした。


さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカの福音書10章17~20節)


イエス様から遣わされた七十人も前に挙げた人々と同じようにイエス様の御名を使って伝道し、悪霊どもを服従させました。にもかかわらず、イエス様の評価はまったく違ったのです。前者はイエス様から「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と叱責され、後者は「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と褒められたのです。この違いはどうして起こったのでしょうか。イエス様は行ないや、その結果によって人を評価される方ではありません。心の中までお見通しになる方です。前者は自分の栄光を現わすためにイエス様の御名を利用し、後者はイエス様の御名によってただイエス様のご栄光が現わされたことを喜んだのです。前者は自分を誇り、後者はイエス様を誇ったのです。前者は自分たちの福音活動を高く自己評価し、後者は自分たちが取るに足りない者であることを自覚し、ただイエス様のおっしゃるとおりに行動したのです。そのような彼らにイエス様はサタンに打ち勝つ権威をお授けになり、ご自分の器としてお用いになったのです。


イエス様は主人に仕えるしもべの態度について、たとえをもって次のようにおっしゃっています。


あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。」としもべに言うでしょうか。かえって、「私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。」と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、(主人が)そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と言いなさい。(ルカの福音書17章7~10節)


イエス様は七十人をお遣わしになるとき、


財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。(ルカの福音書10章4節)


とおっしゃいました。旅に必要と思われる物を何一つ持たずに行きなさい、とイエス様はおっしゃったのです。いったい、これはどのようなことを意味するのでありましょうか。それはイエス様が「あなたがたが持っているこの世のもの(その中には持ち物だけではなく、自分の知恵も含まれていますが)には一切頼らないで、ただわたしの言うことにだけ従って行きなさい」という意味であります。自分が取るに足りない者であることをわきまえていた彼らは、主の仰せに忠実に従って自分の物は何一つ持たず、主にのみ拠り頼んで出かけました。その彼らの信仰をよしとされた主は、主に敵するあらゆる力に打ち勝つ権威をお授けになり、また彼らにとって必要なすべてのものもお与えになったのです。そして七十人の弟子たちはただ主のご栄光を拝し、喜びながら自分たちは主が仰せになったことをしただけの相変わらず無力な、取るに足りない者であることを自覚しつつ帰って来たのであります。


主が必要とされるキリスト者


今ここで私たちについて考えてみたとき、果たして私たちはこの七十人のように、ほんとうに主のご栄光のみを喜ぶ信者になっているでしょうか。この七十人のように自分に拠り頼むことなく、主のしもべとして主にのみ拠り頼んでいるでしょうか。果たして私たちは自分は愚かであり、無力であり、取るに足りない者であると心の底から思っているでありましょうか。もし私たちの自我が砕かれ、自分は無きに等しい者であると、心から思っているならば、主はその私たちを通りよき管としてお用いになるのであります。


終わりの日の近い今、主は働き人として遣わそうと、用いられる器を求めておられます。そして主が必要とされるのは、自分を誇るキリスト者ではなく、この七十人のような人には名も知られない、しかし主に忠実なキリスト者であります。冒頭のみことばの中でイエス様は七十人を送り出すときに、


わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。(ルカの福音書10章3節)


とおっしゃいました。この主のみことばから私たちはイエス様がどんな思いで祈って彼らを送り出されたのか、彼らに対するイエス様の深いご愛の一端をうかがい知ることができます。そして今も終わりの近いこの時に、主は無きに等しい者となったキリスト者を、このように祈って、収穫の日のための働き手として福音を宣べ伝えるためにお遣わしになるのであります。私たちはここで改めて自分を吟味し、主の救いの恵みを、ただいただいて喜んでいるだけではなく、収穫の時、すなわちご再臨の日のために、「実りは多いが働き手は少ない」と働き手を求めておられる主の求めにふさわしい者として、自らを無にして主に従う働き手となることを喜ぶことができたなら、どんなに幸いなことでありましょうか。そのような収穫のための働き手として整えられ、主ご自身が実を結んでくださるための管として用いられるように、私たちは今心から祈りたいと思う次第です。


最後に主のみことばをお読みして終わります。


あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。(ヨハネの福音書4章35~36節)




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