わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)

十 世の終わりに臨んでいるキリスト者への教訓

兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海(紅海)を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。(11節~)これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(コリント人への手紙第一10章1~5、11~12節)


今日はパウロがコリントの信者に書き送った手紙の中から、パウロが「兄弟たち。私はあなたがたにぜひ知ってもらいたい」と、手紙を通して世の終わりに臨んでいる私たちキリスト者に伝えているこのメッセージについてごいっしょに考えたいと思います。


ここでパウロは「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」と言っています。しかし彼ら、すなわちイスラエルの民に起こったことがどうして私たちキリスト者への教訓になるのでしょうか。イスラエルの民と異邦人でありながらイエス様を信じている私たちとの間にどんな共通点があるのでしょうか。そして、彼らに起こったこととはどのようなことなのでしょうか。


イスラエルの民もキリスト者も神に選ばれた民


イスラエルの民は神に選ばれた神の民であると聖書にあります。


あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。(申命記7章6~7節)


しかし、神様の選びはイスラエルの民だけに限定されたのではなく、私たち異邦人にも神様のあわれみは注がれているのです。パウロはローマ人のキリスト者に対して次のように言っています。


神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」(ローマ人への手紙9章24~26節)


このように、イスラエルの民も、また私たちのような異邦人のキリスト者も、神の民として選ばれた理由は選ばれる者の側にあるのではなく、ただ一方的な神様のあわれみによるものであるという点で共通しています。


イスラエルの民とキリスト者の共通点


また、イスラエルの民と異邦人のキリスト者との共通点は、同じように神様の手によって奴隷の状態から脱出させていただき、同じようにバプテスマを受け、同じように神様の賜物である天からの恵みの食べ物を食べ、同じように神様の賜物である岩からわき出た水を飲んだということです。


イスラエルの民は神様のあわれみを受け、神様の救いの御手に導かれて、奴隷のような苦役を強いられていたエジプトから脱出することができました。神様は次のように仰せになっています。


わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。(出エジプト記20章2節)


イスラエルの民と同じように、私たち異邦人のキリスト者も神様のあわれみを受けました。そして神様の救いの御手そのものである、ひとり子の神イエス様によって罪の奴隷から解放されたのです。パウロがガラテヤの信者に宛てて、


キリストは、自由を得させるために、私たちを(罪の奴隷から)解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ人への手紙5章1節)


と書いているとおりであります。


またイスラエルの民も私たち異邦人もバプテスマを受けました。


パウロはイスラエルの民が受けたバプテスマについて冒頭のコリント人への手紙第一十章一~二節に、


私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、・・・・(コリント人への手紙第一10章1~2節)


と記しています。パウロは神様が雲を案内役としてイスラエルの民を導き、また紅海の水を開いて彼らを安全に導いてくださった出来事を、神様のご命令によって彼らを導くモーセに従っていったイスラエルの民が、神様から雲と海とによってバプテスマを受けたと説き明しているのです。


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では異邦人の私たちは何によってバプテスマを受けたのでしょうか。それはイエス様が与えてくださる聖霊によってであります。洗礼者ヨハネは次のように証言しました。


水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方(主なる神)が、私に言われました。「聖霊がある方(御子イエス様)の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。(ヨハネの福音書1章33~34節)


イエス様ご自身も復活された後、弟子たちに、


ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。(使徒の働き1章5節)


と約束されました。私たちキリスト者はこの聖霊によってイエス様からバプテスマを授けられ、信じる者とされたのです。聖霊によるバプテスマこそがまことのバプテスマであり、

水のバプテスマはイエス様を信じた証しとして受けるものなのであります。


さてエジプトから導き出されたイスラエルの民がエジプトから約束の地カナンに向かう旅の途中、荒野で飢えたときに、神様は天からマナというパンをお降らせになり、彼らはそれを食べて満ち足りました。また彼らが荒野で飲み水がなく喉が渇いたときに、神様は岩から水を湧き出させて、彼らは飲んで満ち足りました。


主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パン(マナ)が天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」(出エジプト記16章4節)


主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。(出エジプト記17章5~6節)


パウロがイスラエルの民に与えられた天からのパン(マナ)、岩から湧き出た水について、冒頭の手紙十章三~四節で「みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです」と説き明かしているのは、神様がイエス様という岩を十字架に架けて砕かれて、いのちの水を飲ませられたということです。


イスラエルの民と同じように、私たち異邦人のキリスト者も神様から御霊の食べ物、御霊の飲み物をいただきました。それはイエス・キリストであります。


わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(54節~)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。(ヨハネの福音書6章51、54~56節)


神様は天からマナを降らせてイスラエルの民の飢えをいやし、モーセに命じて岩を打たせて水を出させ、その水を飲んだイスラエルの民は渇きをいやされましたが、キリスト者のためには愛する御子イエス様を十字架に架けられ、その肉と血を御霊の食べ物、飲み物としてお与えになったのです。


彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血(十字架の上で流されたイエス・キリストの血によって神への背きの罪を赦すという、人間に対する神様の契約)です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイの福音書26章26~28節)


イスラエルの民のむさぼった悪


今まで見てまいりましたように、イスラエルの民は神様から選ばれて神の民とされ、神様から御霊の食べ物、御霊の飲み物をいただくという大きな恵みを受けました。「にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました」とパウロは冒頭の手紙十章五節に書いています。なぜでしょうか。それはイスラエルの民が苦役に苦しめられていたエジプトから救い出されたにもかかわらず、約束の地カナンへ向かう荒野の旅でいつもつぶやき神様に従わなかったからです。そして、パウロは神様がイスラエルの民の中の多くの者を荒野で滅ぼされたのは彼らが数々の悪をむさぼったからであり、そのことを世の終わりに臨んでいるあなたがた異邦人のキリスト者は自分たちの教訓にしなさいと書いています。


ではイスラエルの民のむさぼった悪とは何でしょうか。まずパウロは冒頭の手紙十章七節に彼らの偶像崇拝を挙げています。


あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。(コリント人への手紙第一10章7節)


これについて出エジプト記には次のように詳しく記されています。


民はモーセが山(神から神のおしえと命令を記した石の板を授かるために上って行ったシナイ山)から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先だって行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトから連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。」(出エジプト記32章1~7節)


またパウロは冒頭の手紙十章八節にイスラエルの民の姦淫を挙げています。


私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることがないようにしましょう。(コリント人への手紙第一10章8節)


これについて民数記には次のように記されています。


イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブ(異教徒)の娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、(イスラエルの)民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオル(偶像の神)を慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。(民数記25章1~3節)


神様は偶像の神々を礼拝する異邦人の女と交わり、彼女たちの神々を慕うようになったイスラエルの民を、姦淫の罪を犯した者として厳しくさばかれたのです。


またパウロは冒頭の手紙十章九、十節にイスラエルの民が神様を試み、また不平不満を言ったことを挙げて次のように言っています。


私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。(10節)また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。(コリント人への手紙第一章9、10節)


神様を試みるとは、親が子を愛するように愛してくださる真実な神様を疑うこと、信頼しないことであります。


また神様を疑い、つぶやいたイスラエルの民についてアサフは詩篇七八篇で次のように言っています。


神は、彼らの先祖たちの前で、エジプトの地、ツォアンの野で、奇しいわざを行なわれた。神は海を分けて彼らを通らせ、せきのように水を立てられた。神は、昼は雲をもって、彼らを導き、夜は、夜通し炎の光で彼らを導いた。荒野では岩を割り、深い水からのように豊かに飲ませられた。また、岩から数々の流れを出し、水を川のように流された。それなのに、彼らはなおも神に罪を犯し、砂漠(約束の地への旅の途上)で、いと高き方に逆らった。彼らは欲するままに食べ物を求め、心のうちで神を試みた。そのとき彼らは神に逆らって、こう言った。「神は荒野の中で食事を備えることができようか。確かに、岩を打たれると、水がほとばしり出て、流れがあふれた。だが、神は、パンをも与えることができようか。ご自分の民に肉を備えることができようか。」それゆえ、主は、これを聞いて激しく怒られた。(詩篇78篇12~21節)


以上に挙げましたように、イスラエルの民は神様から選ばれ、神様によって奴隷の苦役から脱出させていただき、その後も彼らをずっと支え導いてくださったにもかかわらず、その恵みを忘れて神様に信頼せず、神様を疑い、神様に従わずに神様の怒りを引き起こすようなさまざまな悪をむさぼりました。そのために神様はご自分を恐れず、ご自分に従わない多くのイスラエルの民に対して目的の地であるカナンにはいることをお許しになりませんでした。パウロがイスラエルの民に起こったことを世の終わりに臨んでいるあなたがたキリスト者の教訓にしなさいと言っているのは、じつにこのことであります。ヘブル人への手紙には次のようなキリスト者に対する戒めの言葉があります。


兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心(主に従わない不従順の心)になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息(天の御国における永遠の安息)にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが(天の御国における)安息にはいれなかったのは、不信仰(主に対する不従順)のためであったことがわかります。(ヘブル人への手紙3章12~19節)


さらにヘブル人への手紙の著者は四章一一節において、


ですから、私たちは、この(天の御国における永遠の)安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル人への手紙4章11節)


とイスラエルの民のように、主に対する不従順によって天の御国にはいれないようなことにならないよう、ご再臨の時取り残されることのないよう、力を尽くして主に従おうではないかと、今まさに世の終わりに臨んでいる私たちキリスト者に呼びかけているのです。


最後に私たちはパウロが冒頭のコリント人への手紙第一、十章一二節で「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と言っていることに注目したいと思います。これは神の民であるイスラエル人の不信仰をさげすみ、自分の信仰を誇ってはならないという、私たち異邦人のキリスト者を戒めるメッセージであります。パウロはイスラエルの民を台木のオリーブの枝、異邦人を野生種のオリーブの枝にたとえて次のように説き明かしをしています。


もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなた(異邦人)がその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝(イスラエルの民)が折られたのは、(異邦人の)私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。(ローマ人への手紙11章17~22節)


ご再臨の間近い今、私たちキリスト者はイスラエルの民に起こったことを自分自身への大切な教訓として、改めて神の民に選ばれた幸いな者であることをしっかり自覚し、ますます主を恐れ、主の前にへりくだって、ご再臨を心から待ち望みつつ、日々主に忠実に従う信仰の歩みを進めたいと切に祈る次第です。




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