わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)

十二 隠された神の奥義

私たち(イエス・キリストを信じる者)の語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主イエス・キリスト)を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊(神の霊)によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。(コリント人への手紙第一2章7~10節)


今日はこのみことばから隠された神の奥義について、ごいっしょに考えたいと思います。聖書は神のことばであると言われます。それは、創造主にして全知全能の生ける神様がご自分のお考え、ご計画、ご意志を、自らお選びになった人々の手を通して私たち人間に語ってくださっているからです。しかし、「聖書を読んでも何のことか意味が理解できないところがある」ということを聞きますが、それはどうしてでしょうか。それは私たちが神のことばである聖書を、人間の考えや経験によって書いた書物と同じように人間の知恵や知識で理解しようとするからであります。冒頭のみことばに書かれておりますとおり、聖書に記されている神様のお考えは、人間の経験や知恵ではとうてい計り知ることはできず、神様の御霊の啓示を受けてはじめてわかるのであります。


そこで、これから聖書に記されている数々の隠された神様の奥義について、御霊のお導きに従ってごいっしょに見てまいりたいと思います。


隠された神の奥義:救う者はあらかじめ定められていた


まず、隠された神の奥義は、神様がイエス様を信じる者をご自分の子として、天の御国を相続するようにと、はるか昔からあらかじめ定めておられたという驚くべき奥義であります。これについてパウロはエペソの教会の信者に宛てた手紙で次のように言っています。


神は私たち(イエス様を信じる者)を世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方(御子イエス様)によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。(エペソ人への手紙1章4~11節)


「私たちが神様のみこころによって、神様の壮大な救いのご計画の対象として生まれるはるか前から選ばれていた」ということは何という驚きでありましょうか。神の御子イエス様もご自分の弟子とする者を一人ひとりご自分でお選びになりましたが、そのとき次のようにおっしゃいました。


あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネの福音書15章16節)


弟子として選ばれた漁師のペテロやヨハネは、初めて会ったイエス様がどなたかも知りませんでした。またパウロはイエス様に敵対してイエス様を信じる者を迫害していました。そのような者たちをイエス様はお選びになって弟子とされたのであります。私たちも同様ではないでしょうか。私たちは自分から先にイエス様に目を止めて、主として選んだのでしょうか。そうでないことは自分自身がよく知っています。では神様はどうして私たちを救いの対象に選んでくださったのでしょうか。それはただ神様の一方的なあわれみによるのです。パウロはローマの信者に宛てた手紙の中で、


神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ人への手紙9章15~16節)


と言っているとおりであります。私たちは改めて、自分のような罪深い愚かな者をあわれみ、生まれるはるか前から救いの対象として選び、イエス様を信じる者として天の御国を受け継ぐようにしてくださった神様の深い、深い、救いの奥義を御霊の啓示によって知ることができたことを心から感謝したいと思います。


隠された神の奥義・・イエス・キリストご自身


また隠された神の奥義は、神の御子イエス・キリストご自身であります。これについてパウロは弟子のテモテに宛てた手紙で次のように言っています。


確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ(人間とおなじからだを持つ人として地上に来られ)、霊において義と宣言され(その霊は汚れなく、聖く正しいと証しされ)、御使いたちに見られ(仕えられ)、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに(天に)上げられた。」(テモテへの手紙第一3章16節)


神様のひとり子の神であるイエス様が、すべての人間が犯した神様に対する背きの罪を一身に負う目的で、尊いいのちを捨ててくださるために、卑しい、罪深い私たち人間と同じ血と肉のからだをお持ちになってこの世においでになったということは、私たち人間の知恵や知識による理解をはるかに越えた神様の驚くべき救いのご計画の奥義であります。この尊い目的を成し遂げるために罪のないイエス様は捕えられ、人々の恥ずかしめを受け、ののしられ、十字架の上で私たちの罪を身代わりに負って死んでくださったのです。これについてペテロは初代教会の信者に宛てた手紙に次のように書いています。


キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方(父なる神)にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために(神様に従って)生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、(罪を)いやされたのです。(ペテロの手紙第一2章22~24節)


私たちが自分ではどんなに努力をしても取り除くことのできない染み付いた罪を贖ってくださるために、イエス様はどんなにひどい恥ずかしめをお受けになったか、どんなに大きな苦しみを味わわれたかを思うときに、私たちはイエス様の前にひれ伏してただ、ただ感謝するばかりであります。


隠された神の奥義・・御霊の内在


また隠された神の奥義は、イエス様を信じるすべての者の中にイエス様の御霊が住んでくださるということであります。パウロはコロサイの信者に宛てた手紙で、


これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ人への手紙1章26~27節)


と言っています。復活されて天に戻られたイエス様は、今度は見えないイエス様である御霊として、信じる者すべての心に住んでくださり、内側からキリスト者を助け、支え、導いてくださいます。ですから、キリスト者はたとえ苦難や試練に会うことがあっても、またどこにいても、いつもともにいてくださるイエス様におゆだねし、イエス様に心から信頼していれば何の不安も恐れもありません。


あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ書43章2節)


と約束してくださるからです。このようにイエス様が信じる者の中に住んでくださることほど私たちキリスト者にとって心強いことはないのであります。しかし、そのためにはパウロがガラテヤの信者に宛てた手紙で、


私(の古い人)はキリストとともに十字架につけられました。もはや(古い)私が(罪の支配の下に生きているのではなく、キリストが新しく生まれ変わった)私のうちに生きて(支配して)おられるのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)


と言っているように、自分を明け渡しイエス様のご支配にゆだねて生きる自覚が必要であります。


隠された神の奥義・・信じる者のからだのよみがえり


また隠された神の奥義は、イエス様を信じる者に永遠のいのちと終わりの日にからだのよみがえりが与えられるということであります。イエス様はかつてマルタに、


わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。(ヨハネの福音書11章25節)


とおっしゃいました。そしてこの約束をご自分の復活によって私たち信じる者に証明してくださったのです。パウロはイエス様の復活についてコリントの教会の信者に宛てた手紙で、


もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たち(イエス様を信じて死んだ者)は、滅んでしまったのです。もし、私たちが(からだのよみがえりの希望がなく)この世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂(死んだすべてのキリスト者の代表)として死者の中からよみがえられました。(コリント人への手紙第一15章17~20節)


とイエス様の復活の大きな意義を説き明かしています。そして、キリスト者の肉体のよみがえりについてコリント人への手紙で次のように言っています。


聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠って(死んで)しまうのではなく、みな変えられるのです。(ご再臨の合図の)終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者(すでに主を信じて死んだ者)は朽ちないもの(からだ)によみがえり、(その時生きている)私たちは(みな朽ちないからだに)変えられるのです。(コリント人への手紙第一15章51~52節)


さらにキリスト者のからだのよみがえりについて、パウロはもっと詳しくテサロニケの信者に宛てた手紙に書いています。


主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(テサロニケ人への手紙第一4章16~17節)


からだのよみがえりの希望が確かなものであることを御霊によって確信できる私たちは世にも幸せな者ではないでしょうか。


隠された神の奥義・・ユダヤ人と異邦人は御国の共同相続人


また隠された神の奥義は、神様に最初に選ばれた民であるユダヤ人と私たちのようなユダヤ人以外の異邦人が、やがてイエス様によって一つとされ、ともに天の御国の相続人とされるということであります。パウロはこれについてエペソの教会の信者に宛てた手紙で次のように書いています。


先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の(神の御国の)相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに(天の御国の)約束にあずかる者となるということです。(エペソ人への手紙3章3~6節)


ここに「先に簡単に書いたとおり」とあるのは、同じ手紙の二章一一~一九節に書かれていることであります。すなわち、


あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々(ユダヤ人)からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。・・・・(18節~)私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父(父なる神)のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ人への手紙2章11~19節)


とあるとおりであります。しかし、神様から遣わされた御子イエス様を今もって救い主と認めず、いまだにユダヤ教を信じているユダヤ人は果たして救われるのかと思っておられる方も少なくないと思います。これについてパウロはローマの信者に宛てた手紙で次のように説き明かししています。


兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、(選びの民である)イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の(救いの)完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者(贖い主キリスト)がシオン(天における神の都)から出て、ヤコブ(イスラエルの民)から不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたし(主なる神)の契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」彼らは、(キリストの福音によれば、あなたがた(異邦人)のゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、(イスラエル人の)先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けた(神の)あわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、(ユダヤ人も異邦人も)すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ人への手紙11章25~33節)


パウロが感嘆しているように、何と神様の救いの奥義は奥深いことでありましょうか。


隠された神の奥義・・世の終わりに救いのご計画が成就する


また隠された神の奥義は世の終わりの時に神の救いのご計画が成就するということであります。ヨハネの黙示録は次のように記しています。


第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。(ヨハネの黙示録10章7節)


第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」(ヨハネの黙示録11章15節)


第七の御使いの吹き鳴らすラッパは神様に逆らう者をイエス様が滅ぼされて、神様のさばきが終わったことを表わす合図です。そしてその日に神様の救いのご計画はすべて成就するのであります。パウロはこれについてコリントの信者に宛てた手紙に、


それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼(キリスト)は万物をその足の下に従わせた。」からです。・・・・(28節)しかし、万物が御子に従うとき御子自身も、ご自分に万物を従わせた方(父なる神)に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(コリント人への手紙第一15章24~28節)


と書いています。


そして最終的な神様のご計画が実現します。神様の啓示によって新しい天と地、および新しい天の都エルサレムを見る恵みを与えられたヨハネは、御霊に導かれて次のように黙示録に書き記しました。


私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、(天の)御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼ら(イエス様を信じる人々)とともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(ヨハネの黙示録21章1~5節)


「これらのことばは信ずべきものであり、真実である」と神様が仰せになった神様の奥義は、はじめの天地創造から新しい天と地に至るまで、とうてい人間の知恵によって知ることはできないということ、しかし、この奥義は主権者なる神様からの啓示をいただいたキリスト者の霊に御霊によって示されてはじめて明らかにされるということを改めて知ることができたこと、そしてまた、私たちのような者が永遠から永遠にわたる神様のご計画の中に置かれており、救いの奥義の中で永遠の昔から神様によって救われるべき者と定められていたこと、またそのご計画は御子イエス様において実現し、霊肉ともにイエス様のご再臨の日に完成させられることを御霊の導きによって知ることができたことを心から感謝いたします。


この世の終わりの近いことを実感をもって感じる今のとき、世の始まる前から主の選びの中にあったという恐れ多い事実を知った私たちは、改めて主のあわれみと恵みとご愛に深く感謝をささげたいと思います。それとともにまだこのような大きな神様の恵みに与かるべく選ばれ、招かれていながら、それを知らずにこの世の混迷の中をさまよっている人々を、ひとりでも多く主のみもとにお連れすることが今の時の私たちキリスト者に与えられた務めであることを深く心に刻んで、残された日を主にあって忠実に歩ませていただけるよう、主の導きを切に祈りたいと思います。そして主のご再臨に備えて御霊の満たしを日々祈り求めながら喜んで主を見上げつつ主に従って歩み、やがて天の御国でともに主をほめたたえたいと心から願う次第であります。




わたしはあなたの名を呼んだ 前の章 次の章 メッセージ書庫