わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)

九 主の旗を掲げよう

あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。(詩篇60篇4節)


これは旧約聖書の時代、イスラエルがアラムと戦って散々打ちのめされ、不安と恐怖のとりこになったときのダビデの祈りです。イスラエルがなぜ敗北したか、それは主なる神に拠り頼まずに自分の力で戦ったからです。ダビデはそのことに気づき、このように祈ったのです。ダビデは敵と戦う武器を弓矢にかえて、主なる神を恐れる者に授かった主の旗を高くひらめかせ、主の御力に拠り頼んで戦った結果、勝利を得ることができました。これについてダビデは詩篇二十篇で、


苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神(主なる神)の名が、あなたを高く上げますように。主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。(4~7節)主があなたの願いどおりにしてくださいますように、あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。今こそ、私は知る(確信する)。主は、油をそそがれた者(神によって御霊の注ぎを受け、聖なる職務に任命された者)を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20篇1~7節)


と主を賛美しました。ダビデは敵に勝つことができたのは、主を恐れる者に授かった旗を高く掲げて戦ったからであり、自分の力によってではなく主から授かった旗によって戦ったダビデに主が応えてくださり、彼に代わって主ご自身が戦ってくださったからであることを体験しました。そしてダビデの口から主の御名を心から賛美し、誇ろうという思いがあふれてこの詩となったのです。


神に属する者に授けられる旗


しかし、このことを通して私たちキリスト者は、主が神の民としてお選びになったイスラエルの民だけにこの旗を授けられるのではなく、神の御子イエス様を救い主と信じ受け入れたことによって、この世に属する者から神に属する者とされたキリスト者にもこの旗を授けてくださっていることを覚える必要があります。


その前にまず、旗とは何を表わすものであるかということを少し考えてみたいと思います。国家には国の旗、国旗があります。国旗はその国の威力、権威を象徴するしるしであります。したがって旗を掲げることは自分がその国の権威の下に帰属しているという意志を、自分がその国のルールに忠実に従うという意志を表わしています。いっぽう国旗を破ったり焼いたりする行為は、その国の権威に従わないこと、その国の方針に反対することを意味します。また軍隊には軍旗が授けられます。軍隊はその軍旗を先頭にして進軍し、敵と戦います。そして軍旗を高く掲げることは戦いに勝利した合図を、あるいは敵に向かって意気盛んに進むことを意味しています。反対に軍旗を下ろす、あるいは軍旗を巻くということは、敗北すること、あるいは退却することを表わすものであります。


アドナイ・ニシ「主はわが旗」


このように国家には国旗があり、軍隊には軍旗が授けられますが、では神の民に授けられる旗とはいったいどのような旗なのでしょうか。出エジプト記一七章一五~一六節に、モーセは神様の力によってアマレクを打ち破ったとき、祭壇を築き、それを「アドナイ・ニシ」すなわち「主はわが旗」と呼んだと書かれています。すなわち、神の民に授けられた旗は主なる神の御名であり、神ご自身のご栄光であり、人となられた神の光であるイエス・キリストであります。


しかし、主はイスラエルの民だけに「アドナイ・ニシ」の旗をお授けになったのではありません。実はイエス・キリストを救い主と信じ受け入れたすべての者にも、神の民、主に属する者としてこの旗をお授けになっているのです。しかし神の民、主に属する者とされたキリスト者に、神のご栄光を表わす旗が授けられているということについて、私たちは果たしてどれほど自覚しているでしょうか。かつての私自身はそのことをまったく自覚していないキリスト者でありました。


旗幟(きし)を鮮明にしないキリスト者


旗幟(きし)鮮明という言葉があります。これは自分の旗印を高く掲げて自分がその旗に属する者であるという、自分の立場、態度を鮮明にすることであります。しかし、私たちは「アドナイ・ニシ」、すなわち「主はわが旗」という神のご栄光を表わす旗をいつも高く掲げて、自分が主に属する者であることを鮮明にして生活をしているでありましょうか。あるいはこれとは反対に、この世を憚って主の旗を巻き、人を恐れて主の旗を伏せ、自分が主に属する者であることを明らかにしないで生活しているのではないのでしょうか。イエス様は、


だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。(ルカの福音書11章33節)


とご自分を光にたとえておっしゃっています。尊いいのちを捨てて私たちを滅びに至る罪から贖い出してくださったイエス様は使徒の働き四章一二節でペテロが証ししたように、


この方(イエス様)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)


と、贖い出された私たちが主に属する者として、だれの目にも見えるように、光であるご自分を高く掲げて証しをするようにと命じておられるのです。そしてイエス様はまた、


わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイの福音書10章32~33節)


ともおっしゃっています。人の前でわたし、すなわちイエス様を知らないと言うような者とは、あかりを穴倉や枡の下に置く者であり、主の旗を隠して自分が主に属する者であり、主イエス様のしもべであることを人前で証しをすることを恐れ、口をつぐんでしまう者であります。そしてそのような者はイエス様から「そんな者は知らない」と言われてしまうのです。


キリスト者に対するサタンの攻撃


私たちキリスト者は天の御国に召されるまでは、まだサタンが支配しているこの世で生きて行かなければなりません。サタンはかつては自分の支配下にあった私たちがイエス様によって主に属する者とされたことを怒り、イエス様を憎み、私たちを憎み、私たちを主に用いられないように、そして主から引き離してふたたび自分の奴隷にしようと、あの手この手を使って日夜攻撃を仕掛けて来ます。イエス様はこの世の人々がなぜ主に属する者を憎むのかその理由を弟子たちに説明しておられます。


もし世(この世の支配者であるサタンと、その支配下にあるこの世の人々)があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネの福音書15章18~19節)


前にも申しましたように、かつての私はイエス様を信じたと言っても、名ばかりの信者であり、主に属する者としての自覚はまったくなく、この世の人と何ら変わることのない生活をしていても心に少しの咎めも感じていませんでした。そしてそのときは親類、友人、知人との関係はたいへん良く、何の問題もありませんでした。しかし、このような名ばかりの信者はサタンにとってはもはや憎むべき相手ではなく、怖くも恐ろしくもない、自分の手で自由に操ることのできるこの世の人間と同様な存在にしか過ぎないのです。


イエス様が、


だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイの福音書6章24節)


とおっしゃっているとおり、またヤコブがその手紙で、


貞操のない人(信者)たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブの手紙4章4節)


と言っているように、洗礼を受けてはいても、教会に通ってはいても、それが形だけのものに過ぎず、日常生活の上ではこの世を愛し、この世と妥協しても、この世の基準で物事を考えても、何のやましさも感じないような信者は主から授かった旗を汚す者であり、そのような名ばかりの信者は自分を神の敵であるサタンに属する者としているのです。


旗幟(きし)を鮮明にしたキリスト者


いっぽう、自分が主に属する者であることを旗幟鮮明にしたキリスト者に対しては、サタンは憎むべき敵としてあらゆる手を使って攻撃して来ます。私にも同じことが起こりました。私が御霊の導きをいただき、イエス様の贖いのみわざが私のためであったことをはっきり知って、今までの名ばかりのキリスト者であった自分と訣別し、はっきり主の旗を掲げて主を証しし始めてからは、親族や友人たちの態度が一変しました。それまでのように私に対する親しい、打ち解けた態度を示すことがなくなり、敬遠するようになったのです。パウロが、


生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(コリント人への手紙第一2章14~15節)


と言っているとおりであります。この体験を通して私は御霊をいただいて主に属する者とされている自分が、サタンから敵とみなされる者となったことをはっきり知ったのです。そしてサタンに囚われていることも知らないで滅びに至る道を歩んでいる親族、友人らの救いを真剣に祈らなければならないと強く思わされたのであります。


神の義と愛の旗印


では主に属する者が掲げて進む主の旗の旗印とは具体的にはどんな旗印なのでしょうか。それは神の義(正しさ)と神の愛であります。パウロは神の義について次のようにローマ人への手紙で言っています。


今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義(正しさ)が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ人への手紙3章21~26節)


このように、主はパウロを通して主に属する者が掲げる旗印は御子イエス様によって現わされた神の義であることを私たちにお示しになっておられるのです。主に属する者はこの神の義の旗印を翻して進むのであります。


また主に属する者の旗印は御子イエス様によって現わされた神の愛であります。ヨハネは次のように言っています。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(罪に汚れた世と人々)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)


これこそご自分に逆らい、罪に汚れ果てた世の人々に、尊いひとり子の神イエス様を十字架に架けてまで罪からの救いを与えてくださる神様のご愛であります。主に属する者はこの旗印、すなわち神の義と愛である主イエス・キリストを掲げて進軍し、戦うのであります。


戦いの目的


では主に属する者は何のために、何の目的で主の旗を掲げて戦うのでありましょうか。ユダの手紙には次のように記しています。


愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。(ユダの手紙20~23節)


このように主に属する者の戦いは、主のさばきの日が迫っているとも知らずに、滅びに至る道を歩んでいる多くの人々を火の中、すなわちサタンの手から取り戻すための戦いなのであります。


当然のことながらこの戦いは容易なものではなく、多くの患難があることを覚悟しなければなりません。というのは前にも申しましたように、サタンは主のご栄光の現われを妨げようと必死になって私たちの進軍を妨害して来るからであります。しかし恐れることはありません。私たちがこの戦いを自分の力によってではなく、神の義と愛の旗印を高く掲げ、主に信頼して戦うならば、私たちに代わって主ご自身が戦ってくださるからです。


あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あながたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主でる。(申命記20章1~4節)


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。(イザヤ書41章10~12節)


このように、私たちはただ「アドナイ・ニシ」という主の旗を高々と掲げて、その旗の下で主に信頼し、主におゆだねして信仰の戦いを進めれば、主ご自身が戦って勝利してくださるのです。


主がご自分に背き逆らう者をおさばきになる終わりの日が迫っていることを私たちは今日の混乱した世界の情勢から、また社会の情勢から日々強く覚えます。このときこそ、私たちキリスト者はともに主のご再臨を心から待ち望みつつ、主に属する者であることを示す主の旗を高く掲げて、神の義と愛そのものの方であるイエス様を世の人々に力強く証しして行きたいと切に祈る次第です。最後にイザヤ書一一章十節のみことばをお読みして終わります。


その日(終末の日、主がご栄光を現わされる日)、エッサイの根(イエス・キリスト)は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。(イザヤ書11章10節)




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