わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。(詩篇40篇8節)
イスラエルの王ダビデはこのように神様のみこころを行なうことが自分の喜びとなっていると神様に感謝しました。今日は、神様のみこころに従うことを喜びとすることの大切さと、どうしたらそのようになれるかということについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。
この問題を考えるには、まず愛と恵みに富みたもう創造主なる神様が、何のために愛するご自分のひとり子の神イエス・キリストを人としてこの世に遣わし、十字架にはりつけにされたのかということを知る必要があります。「それはわかっています。神様がご自分に対する背きの罪によって滅びの死に定められている私たち人間をあわれまれ、御子イエス様を罪の身代わりに十字架に架けて私たちの罪を赦してくださるためでしょう」とおっしゃる信者の方が多いと思います。そのとおりです。しかし、ただ人間の罪の赦しのためにだけ神の御子の尊い血が流されたのではありません。十字架の贖いのみわざは、単に人間の罪の赦しのためだけになされたのではありません。では何のためでしょうか。それにはまず神様が人間をお造りになられた目的を知らなければなりません。
親を心から愛する親孝行の子どもは自分を愛してくれる親を喜ばすことによって親の喜ぶ顔を見ると自分も嬉しくなります。残念なことに親孝行という言葉は久しく耳にしなくなりましたけれども、神様はまさにそのような親しい親子の関係をお望みになって、最初の人間アダムを創造されたのです。ところがアダムはサタンにそそのかされた結果、神様のみこころを守り行なうことを喜ぶどころか、神様のみこころに逆らい、自分の思いを満たすことを喜ぶという神様に対する背きの罪を犯し、そのために神様の怒りを受けることになってしまったのです。その結果人間は死ぬべきものと神様に定められました。しかも、神様に背いたそのときからアダムの中に入った罪は、アダムの罪の遺伝子としてアダムの子孫である私たち人間すべてに受け継がれたために、人間は神様のみこころに従うことを喜ぶのではなく、自分の肉の願望を満たすことに喜びを覚えるという罪の性質を持って生れついてしまったのです。
神様がご自分の御子イエス様を十字架に架けられたのは、このように神様から離れ背いた人間を罪の中から救い出し、再び神様を愛し神様の仰せを守り行なうことを喜びとするような、神の子どもにふさわしい人間として、神様とともに永遠に生きる人間として神様のみもとに立ち返らせるためでありました。ご自分の愛の対象としてお造りになったにもかかわらず、神様に背いた人間に対して、そのようなみこころをもって御子イエス様を私たちの罪の身代わりにしてまでも私たちを救い、ご自分のもとに立ち返らせ、創造された初めから望んでくださったように、人間に対して親と子のような考えられないほどの特権を再び与えようとしてくださるとは、何というあわれみ深い神様のご愛でありましょうか。
以上のように人間に対する神様の救いの目的は、私たちが犯した背きの罪によってもたらされた死と滅びからの救出だけではありません。御子イエス様を救い主と信じ、神様のあわれみによって神の子どもという特権を与えられた者が、神様の深い愛のみこころを知って、そのみこころに従うことを自分の喜びとすることであります。これが私たち人間を限りない愛をもって愛し続けてくださる神様のみこころなのであります。
御子イエス様が十字架にお架かりになったのはまさにこの神様のみこころのためでありました。これについてパウロはコリントの教会の信者への手紙で次のように言っています。
キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方(イエス様)のために生きるためなのです。(コリント人への手紙第二5章15節)
パウロの言うとおり、イエス様を信じる者は、もはや自分のために生きるのではなく、自分のために十字架に架かって罪の代価を支払ってくださり、また復活されて永遠のいのちを与えてくださったイエス様のために生きるのであり、これこそ神様のみこころを喜ばす神の子どもとされたキリスト者の生き方なのであります。
しかし、そのために人はまず肉の思いを満たすことだけを考え、それを喜びとするという自己中心のわがままに満ちた自分にはっきりと気がつかなければなりません。そしてそのわがままが神様の御前に砕かれる必要があります。人が心砕かれて神様の前にどうしようもない自己中心の傲慢な者である自分を知ったときに、初めて神様の前にへりくだることができ、そのような自分を主のご支配におゆだねしたいと願うようになることができるからであります。
次に、信じる者のうちに住んでくださっている御霊によってキリスト者の霊が強められ、導かれることがどうしても必要になります。なぜならば御霊を宿しているキリスト者も、この世に置かれている間はなお肉の衣を着ているために、自分を主に明け渡したつもりでも、依然として肉の欲望によって動かされやすいからです。ですからパウロは次のように私たちキリスト者に勧めているのです。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5章16~25節)
肉の衣を着ているキリスト者はパウロが勧めているように、いつも御霊に拠り頼み、御霊の力によって強められ、肉の欲望に一つ一つ打ち勝って霊的に成長することができるように日々祈り続けることがどうしても必要です。
次に信者が神様のみこころを喜ばすには、信じたことによって罪の奴隷から解放され与えられた自由を神様に従うために用いることを自分の喜びとすることであります。神様はイエス様を信じる者に完全な自由を与えてくださいました。イエス様は次のように約束してくださいました。
もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネの福音書8章36節)
このみことばのとおり、イエス様を信じた瞬間に、私たちは罪の束縛から完全に解放されて罪からも死からも自由になったのです。しかし、もし私たちがその自由を自分の思いのままに使えば、また罪を犯すことになります。ペテロはイエス様によって信じる者に与えられた自由をどのように用いるかについて初代教会の信者に次のように勧めています。
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。(ペテロの手紙第一2章16節)
またパウロはローマのキリスト者に宛てた手紙の中で、神の奴隷と同じ意味で義の奴隷という言葉を使って次のように言っています。
神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(ローマ人への手紙6章17~19節)
奴隷は買い取られた主人に誠心誠意仕えることが求められます。イエス様を信じる私たちキリスト者は、主イエス様にいのちの代価を支払っていただいて罪の中から買い取られた者ですから、代価を払って自分のものとしてくださったご主人である義なる神様と御子イエス様にまごころから仕えるように求められているのであります。
しかし、残念なことにはキリスト者の中には、救われた後の自分に神様が何を望んでおられるかをよくご存じない人々が少なくありません。ヘブル人への手紙に、
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。(ヘブル人への手紙5章12~13節)
と指摘されている信者は神様のみこころがわからない信仰の幼い信者なのです。神様の愛と恵みを受けてただ喜んでいるだけでは、成長しない幼子のような信者であって、それでは神様のみこころ、すなわち、イエス様がどんな方か、私たち人間のために何をしてくださったかを人々に証しすることはできません。もし親が自分の子が生まれても成長しないのを見たらどんなに悲しむことでしょう。そのように生まれたままで成長しない信者は神様を悲しませる者となってしまいます。
信仰的な幼子の状態のままで霊的に成長しない信者は、何か困難な問題が起こるとそのことに心が奪われ、すぐにイエス様から心が離れ自分の肉の思いに従ってしまいます。そのような信者についてイエス様はたとえによって次のようにおっしゃっています。
岩地に(種を蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。(マタイの福音書13章20~22節)
ヘブル人への手紙に、
ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。(ヘブル人への手紙6章1節)
とあるように、私たちはいつまでも信仰の幼子にとどまるのではなく、信仰の成長した者、すなわち神様のみこころを知りそれに従うことによって主が喜んでくださることを自分の一番の喜びとする霊的に成長したキリスト者となりたいものであります。
では、どうすれば神様のみこころを知ることができるのでしょうか。それにはまず神の御前にへりくだって霊の耳を主に向け、心からどうぞみこころをお示しくださいという態度を取ることが必要です。聖書から預言者サムエルの例を見てみましょう。
サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。サムエルは行って、自分の所で寝た。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。(サムエル記第一3章7~10節)
もし私たちが神様からみこころを示していただきたいと心から望むならば、サムエルのように神の御前にへりくだりと従順の心をもって「主よ。お話しください。私は聞いております」という姿勢を取ることが必要です。そうしたとき、きっと神様はご自身のみこころを知ることができるように導いてくださいます。
このように神の御前に心砕かれ、へりくだってみこころを求める姿勢が整えられた者は、祈りによって神様のみこころを問う者となります。祈りは神様と神のしもべとされた者の交わりのために神様が備えてくださったもっとも大きな恵みの手段であります。しかし私たちキリスト者はこの祈りをどのように日々の信仰生活に生かしているでしょうか。ともすれば「ああしてください、こうしてください」というような、肉の思いによる祈りが多くなってしまうのではないでしょうか。あるいは心を尽くしてみこころを問う祈りではなく、習慣的、惰性的な祈りになってしまっているのではないでしょうか。詩篇の作家は次のように祈っています。
朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。(詩篇44篇8節)
あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。(詩篇143篇10節)
このように祈るときに、主は御霊によってみこころをその人に現わされ、行くべき道を啓示してくださいます。イザヤ書に、
あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。(イザヤ書30章21節)
とあるとおりであります。
ここでキリスト者が注意しなければならない大切なことがあります。それは次のことであります。私たちは信仰の歩みにおいて、とかく自分の思いどおりに事が進むときに、主のみこころにかなっていると思い込み、反対に自分が思ったように事が運ばない場合には、これはみこころでないと勝手に考えてしまうことがありはしないでしょうか。しかし、神様のみこころは必ずしも私たちの思いとは一致しません。いやむしろ私たちの思いとは逆であることが少なくありません。神様のみこころは私たちの思いをはるかに越えて高いので人間の知恵では知り得ないからであります。それはイザヤ書に、
天が地よりも高いように、わたし(神様)の道(お考え)は、あなたがたの道よも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ書55章9節)
とあるとおりです。
ここでパウロとテモテの例を見てみましょう。
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。(使徒の働き16章6~8節)
パウロたちは、二度にわたって自分たちの伝道の行く先を変更させられました。その理由は彼らにはわかりませんでしたが、彼らはすなおに御霊に示されるままに、目的地を変更することが神様のみこころであると知って、それに従ったのであります。私たちは自分の肉にとって都合のよいほうを選びたいときに、みこころだからという理由をつけて、自分の考えを正当化することがないでしょうか。私たちは聖霊の導きを大切にして、何がほんとうに主のみこころなのかを熱心に祈り求め、教えをいただく必要があります。そして祈りをとおして教えていただいたならば、自分の思いを捨てて主のみこころに従う決心をし、それを実行することが大切です。
前にも申しましたように、私たちキリスト者はイエス様に罪の代価を払って買い取られた主の奴隷、主のしもべであります。その主の奴隷、しもべに対してイエス様は、
天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイの福音書12章50節)
と言ってくださるのであります。何というありがたいみことばでしょうか。私たちは弱い者で、自分の力ではとうてい主の深いみこころを知り、それに従うことはできません。ですから「神様のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母です」と言ってくださるイエス様にただ感謝して、主の前にへりくだり主にお聞きすることによってみこころを知り、かつみこころに従うことによってほんとうの霊的な喜びを体験することができるように、御霊によって私たちの姿勢を整えていただく必要があります。
これまでに申しましたように、神様はご自分の御子イエス様の尊いいのちによって私たち人間を滅びの罪から救い出してくださいました。そしてその大きなご愛のゆえに、神の子どもとしていただいた私たちキリスト者が、主のみこころを知り、みこころに従うことを喜ぶようにと望んでおられます。もし私たちキリスト者が神様に従いたいと心から願って日々の歩みを続けるならば、必ず御霊なるイエス様は私たちの霊を強め、成長させてくださり、ますます深く神様のみこころを知り、それに従うことを喜びとする者としてくださいます。ペテロが初代教会の信者に書き送った手紙に、
こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(ペテロの手紙第一4章2節)
とあります。このようなキリスト者はほんとうに主によって祝福された者であります。ご再臨が間近い今、私たちも残された地上の時を、このように豊かに祝福されて主のみこころのために過ごし、迎えに来てくださるイエス様にお会いできたならばどんなに喜ばしいことでありましょうか。
最後にもう一度冒頭の箇所をお読みして終わりたいと思います。
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。(詩篇40篇8節)