わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)
預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。あなたがたは多くを期待したが、見よ。わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・・・万軍の主の御告げ。・・・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」(ハガイ書1章3~9節)
今日は聖書のこの箇所から、恵みによって神の民とされた者は、何を優先順位の第一として生きるべきかということについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。
紀元前五三九年、主なる神様はペルシャのクロス王を用いて、栄華を誇っていたバビロニヤ帝国を滅ぼし、バビロニヤに征服され捕虜として首都バビロンに移住させられていたイスラエルの民は解放され、七十七年ぶりに故国に帰還することができたのです。故国に帰った彼らが、神の民としてまず最初になすべきことは、主なる神様に対する感謝の証しとして、バビロニヤによって破壊され、荒廃した神殿を再建することでした。しかし、さまざまな妨げに会って工事が遅々として進まないうちに、イスラエルの民の気持は変わってしまいました。すなわち信仰に基づく故国再建という意識は失せ、神殿の再建によって自分たちの信仰を神様に証ししようとすることに無関心となり、それよりもまず板造りの立派な自分の家を建てようという、自分のこと、地上のことを第一にする自己中心的な生活に戻ってしまったのです。このようなときに、イスラエルの民に対して神様が預言者ハガイを通して仰せられたのが冒頭のみことばであります。
神様はこう仰せになったのです。「わたしの住まいが荒れ果てたままなのに、あなたがただけがぜいたくな家に住むべき時なのだろうか。その結果はどうか。あなたがたの現状をよく考えて見なさい。いくら種を蒔いても、ほんのわずかしか収穫がなく、飲食にも事欠き、寒さを防ぐ衣服さえもない有様ではないか。収入はまるで底の抜けた財布に入れるように、すぐなくなってしまうではないか。自分たちがどんなことをして来たか、またその結果どうなったかをよく考えなさい。さあ、山に登り、材木を切り出し、わたしの住まいを再建しなさい。わたしは喜んで受け入れ、わたしの栄光をそこに現わそう。あなたがたは多くを望んでも、少ししか得られない。それを家に持ち帰っても、わたしが吹き飛ばすからなくなってしまう。どうしてか、それはわたしの住まいが廃墟のままなのに、あなたがたは心にもかけず、自分の家をよくすることばかり考えているからだ」。
イスラエルの民は神様の一方的な恵みによって神の民として選ばれた人々でありますこの恵みに応えてイスラエルの民は礼拝と生活のすべてにおいて神様にご栄光を帰し、神様の戒めを守って心から神様に従うことが求められていました。しかし彼らはたびたび主なる神様に背き、そのたびに厳しい懲らしめを受けました。イスラエルがバビロニヤに征服され、彼らが捕虜として都バビロンに連れて行かれ、異国で七十七年もの間苦難の生活を送らなければならなかったのも、主なる神様に背き、神様の戒めを破った結果でありました。しかし恵み深い神様は、バビロンでの長い囚われの年月の間にもエレミヤやエゼキエルなどの預言者をお用いになって、イスラエルの民に悔い改めを求められ、ようやく彼らは長い間の囚われから解放され故国に帰ることが許されたのです。故国に帰還したイスラエルの民のなすべきことは、主なる神様に感謝し、廃墟になった神殿をまず再建するという行為によって、自分たちの信仰が立て直されたのを証しすることでした。しかし今述べたように彼らの決心はすぐに挫折して、主なる神様を第一とするのではなく、自分のこと、地上のことを第一とするという生き方に戻ってしまったのです。
けれども、このイスラエルの民の行動は、主イエス様の一方的な愛とあわれみによって罪を贖われた私たちキリスト者にも当てはまるのではないでしょうか。パウロはピリピの教会の信者に宛てた手紙に、
だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ人への手紙2章21節)
と書いていますが、これはまさに自分に対して言われている言葉のようで、心を刺される思いがします。私たちはイエス様のご愛とあわれみによって、主の尊いいのちを代価として、長い間囚われていた罪の捕虜から解放され、神の民として、神の子どもとして新しく生まれ変わった者であります。そして私たちは、この主の恵みに心から感謝し、信じてからはイエス様にお仕えして、イエス様のみこころに従うことを第一とすることこそが主のご愛にお応えする唯一の証しであると決心したのではなかったでしょうか。にもかかわらず、信じてから時が経つにつれてその熱い感謝の思いが次第に薄れていって、イエス様にお仕えするよりも自分の肉に、自我に仕えることを第一として生活するように変わってしまったのではないでしょうか。
イエス様はご自分を主と信じて従って行きたいと思っている者は、どのような心構えで生きなければならないかを、たとえによってわかりやすく教えてくださいました。
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人(まことの神様を信じない人々)が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国(神のご支配)とその義(神に従うこと)とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイの福音書6章24~33節)
イエス様はこのように、「もしわたしに従って行きたいと思うなら、まずわたしにゆだね、わたしに信頼することを第一にして生活しなさい」と命じておられます。そして、私たちが自分をイエス様に明け渡して、ただイエス様に従って歩めば、豊かに祝福しようと約束してくださっているのです。しかし私たちは果たしてイエス様に従うことを第一にして一心にイエス様について行っているでしょうか。先ほども申したとおり、それがなかなかできないことは自分自身が一番よく承知しているのではないでしょうか。イエス様に従うと口では言いながらも、その決心が鈍ってしまった人々の例がルカの福音書に出ています。
さて、彼ら(イエス様と弟子たち)が道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(イエス様)には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカの福音書9章5~6節)
ここに記されている三人の人は、それぞれ理由は異なっていても、みなイエス様よりも自分のこと、地上のことを優先しています。「イエス様がおいでになるところなら、どこにでもついて行きます」と断言した人は、イエス様に「わたしはこの地上には寝るところもないけれども、それでもわたしについて来ますか」と言われてどうしたでしょうか。それでも彼はイエス様について行ったでしょうか。もう一人は父親の葬儀を優先したいと言って尻込みしました。また三番目の人は、家族との別れを優先したいと言いました。イエス様に救っていただいた私たちも、もしこの三人のように自分のこと、地上のことをイエス様よりも優先するような態度を取るのであれば、イエス様は私たちに対しても「あなたがたは神の国にふさわしくない」とおっしゃるのです。
いっぽうこれと対照的な態度を取った者がいます。それはイエス様によって召し出された時のシモン(ペテロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの取った態度でした。
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。(マルコの福音書1章16~20節)
イエス様に声をかけられた彼らは、イエス様がどんな方か知らず、またイエス様が「人を取る漁師にしてあげよう」とおっしゃった意味がどんなことか理解できなかったにもかかわらず、すなおにイエス様の御声に聞き従い、ただちに仕事を捨て、親を残してその場からイエス様に従って行きました。それはイエス様が神の御子としての権威を持っておられる方であることが、誇るべきものは何一つ持っていない心貧しい彼らには直観的にわかったからであります。彼らはそれからはイエス様の忠実な弟子として、ずっとイエス様と寝食を共にしながら付き従い、イエス様が十字架の死を遂げられてからも、御霊によって力を与えられて、イエス様こそすべての人間を罪から救い出してくださるために人となられて十字架に架かり、よみがえられた救い主であるという福音を、迫害されてもひるむことなく宣べ伝え続けたのであります。
パウロは愛する同労者テモテに宛てた手紙の中でキリスト者を兵士にたとえて次のように言っています。
キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者(私たちを主の兵士として召してくださったイエス様)を喜ばせるためです。(テモテへの手紙第二2章3~4節)
イエス様を信じる私たちも、イエス様に招集された兵士として、自分のこと、地上のことを顧みずにイエス様に従って信仰の戦いを進めて行き、イエス様に喜んでいただきたいと心から思います。
しかし、もしイエス様の十字架の血によって罪の汚れが聖められた者が、イエス様よりも自分のこと、地上のことを第一とすれば、その結果はどうなるでしょうか。これについてイエス様は次のようにおっしゃっています。
汚れた霊(主なる神に反逆して人間を神様から引き離そうと働く霊)が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、「出て来た自分の家に帰ろう。」と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。(マタイの福音書23章43~45節)
イエス様はかつてサタンに支配され、サタンを入れていた器である私たちからサタンを追い出し、ご自分の尊い血潮で汚れた器を聖めてくださいました。それは聖められた器を御霊を入れる器としてお用いになるためであります。しかし、せっかく聖められた器も器の口をイエス様にしっかり向けていないと、きれいになった器にまたサタンが喜んで住みついてしまい、聖められた器は再びサタンによって汚されてしまうのです。このようなキリスト者についてペテロは初代教会の信者に宛てた手紙で次のように言っています。
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(ペテロの手紙第二2章20節)
イエス様は私たちキリスト者がこのような状態にならないように心を配ってくださり、私たちにいろいろな試練を与え、自分を第一としたいという自我を砕いて主の方に目を向けさせてくださるのであります。ペテロの手紙第一の一章七節に、
信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(ペテロの手紙第一1章7節)
とあります。何というありがたい主のみこころでありましょうか。
さて、預言者ハガイの口を通して、自分たちの現状の窮乏は、神様を第一とせずに自分を第一としたことに対する神様の懲らしめであることを知ったイスラエルの民は、心から悔い改めて再び神殿再建の工事に取りかかりました。それをご覧になった神様はハガイを通してイスラエルの民に次のようにお告げになりました。
さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前(神殿の基礎工事が始められる前)は、あなたがたはどうであったか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。――主の御告げ。――さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。(ハガイ書2章15~19節)
神様はイスラエルの民に「あなたがたが神殿の再建工事を始める前は、二十束の麦の収穫を期待しても半分しかとれず、五十桶分のブドウ酒を汲もうとしても、わずか二十桶分のぶどう酒しか汲めなかった。それは、わたしのところに立ち返らせようと、麦やぶどうに病気をおこし、また雹を降らして、あなたがたの目をわたしに向けさせるためであった。だが、いま、これからのことに心を留めなさい。あなたがたがわたしの警告を聞き入れて悔い改め、神殿再建工事を再開し、神殿の土台を据えた今日という日から、わたしはあなたがたを祝福しよう。まだ穀物を刈り入れる前に、まだぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブが実を結ぶ前に、このことをはっきり約束しておく。悔い改めたこの日から、あなたがたを祝福する」と仰せになったのです。神様は人の心の奥底までお見通しになる方であります。ですからイスラエルの民の悔い改めが心からのものであることをお知りになった神様は、神殿が完成してからではなく、神殿の礎が据えられたその日からイスラエルの民を祝福するとはっきり約束されたのであります。これは私たちキリスト者に対するイエス様のお約束でもあるのです。何と恐れ多くありがたいことでありましょうか。
さてイエス様は、イエス様を第一にして生きる者にどのような祝福をくださるのでしょうか。イエス様の弟子たちの例を見てみましょう。
ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」(ルカの福音書18章28~30節)
ペテロをはじめ、イエス様の弟子たちはイエス様からこのような祝福を約束されました。そしてこの祝福の約束は、もし私たちキリスト者がイエス様を第一にして生きれば、私たちにも与えられているのであります。何という深い主のみこころでありましょうか。
ご再臨が間近に迫りつつある前兆が明らかに示されている今、私たちキリスト者は「あなたの現状をよく考えなさい」という主の警告を心を開いて謙虚に受け止め、もし私たちがまだ自分のこと、地上のことを第一にしていることに気づいたならば、ただちに悔い改めて、自分をイエス様に明け渡し、イエス様を第一にして生きることができるように、そのためにますます自我が砕かれ、霊が強められ、イエス様から「あなたを祝福する」と言っていただけるよう、御霊の満たしと導きをいただきながら一日一日を歩んで行きたいと思う次第です。