わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)

六 「眠りからさめるべき時刻がもう来ている」

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。(ローマ人への手紙13章11節)


今日はこのみことばから、私たちキリスト者にとって今はどんな時であるかをごいっしょに考えたいと思います。


パウロはここでローマにいるイエス様を信じる人々に「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから」と言っています。しかし、これは現在のキリスト者に対して言われていることでもあるのです。では、私たちキリスト者は今がどのような時か知っているでしょうか。さらに一歩進んで、どのような時かを私たちははっきり自覚しているでありましょうか。


今の時は救いの完成が間近な時


今はどのような時か、それはパウロが言っているように、私たちキリスト者が霊的な眠りから覚めるべき時であり、その理由は「今は救いが私たちにもっと近づいているから」なのであります。けれども「今は救いがもっと近づいている」というのはどういうことでしょうか。イエス様の救いのみわざは、人としてこの世においでになった神の御子イエス様が二千年前に十字架に架かってくださり、三日後に復活されたことによって、すでに完成したのではないのか、それなのに救いが近づいているというのはどういうわけなのだろうと思う方もおありでしょう。しかし、救いのみわざは十字架と復活だけによって完成するのではないのです。イエス様による救いは十字架の贖いに始まり、復活を経て、ご再臨によって完成するのであり、その救いの完成の時、すなわちご再臨の時が間近に迫っているとパウロは言っているのであります。これについてはヘブル人への手紙に、


キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(ヘブル人への手紙9章28節)


と書かれています。神の御子イエス様は一度目には私たち人間を神様に対する背きの罪から救い出すため、私たちの罪を身代わりに負って十字架の上で死んでくださるために、すでに二千年前にこの世に人としておいでになりました。そして、この考えられないような恵みが自分のためであったと信じ、イエス様を自分の救い主として受け入れた人々には神の子としての身分が与えられ、信じた瞬間にその人の霊は完全に聖いものに変えられるのです。


しかし、イエス様を信じた者も、パウロがローマ人への手紙七章一八~一九節で、


私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善(主に従うこと)が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。


と言っているように、私たちはこの世に生きている間は肉体のほうはまだ不完全な、朽ちるからだのままであるために、生まれ変わった霊はイエス様に従いたいと思っても、肉の要求に負けて罪を犯してしまうのであります。


そして先ほどのみことばに、「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのため」とありますように、今度イエス様はイエス様を信じる者の罪を犯しやすい、不完全な朽ちるからだを、聖い朽ちないからだ(イエス様と同じ完全な聖いからだ)によみがえらせるために、すなわち救いのみわざを完成させるために再び来てくださるのです。こうしてキリスト者は霊、肉ともに完全にされ、イエス様の救いのみわざは完成するのであります。パウロはキリスト者のからだのよみがえりについて、コリントの教会の信者に宛てた手紙で次のように言っています。


聞きなさい。私は(イエス様を信じる)あなたがたに(信者の復活の)奥義を告げましょう。私たちはみなが眠って死んでしまうのではなく、みな(朽ちない、聖いからだに)変えられるのです。終わりの世の終わりを告げる合図の)ラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、(イエス様を信じてすでに死んだ)死者(のからだ)は朽ちないもの(からだ)によみがえり、(そのときまで生きていた私たち(キリスト者)は(朽ちないからだに)変えられるのです。(コリント人への手紙第一15章51~52節)

死者の復活、すなわちからだのよみがえりは人間の知恵ではとうてい考えられないことですが、イエス様はご自分の復活を通して信じる者にそれが確かなことであると証ししてくださったのであります。今お読みしたコリント人への手紙第一の箇所の少し前の一九~二四節でパウロは、


もし、私たち(キリスト者)がこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂(死んだキリスト者がよみがえるときの象徴)として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあって(アダムの罪を受け継いだ)すべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が(キリストを信じたすべての人がキリストの復活と同じように)生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者(キリスト者)です。それから終わりが来ます。(コリント人への手紙第一15章19~24節)


と言っています。キリスト者がイエス様を信じる者に与えられた神の御霊によって、完全なからだのよみがえりを確信できるのは何という幸いなことでありましょうか。今はその時が近いのです。そういうわけで私たちキリスト者はイエス様のご再臨が間近いことを大いに喜び、その日、その時の来ることを心から待ち望んでいるのです。


今の時は惑わしの時


しかし、私たちはただ喜んでばかりもいられません。ペテロは初代教会の信者に宛てた手紙に次のように書いています。


あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救い(からだのよみがえり)をいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(ペテロの手紙第一1章5~7節)


ペテロが「あなたがたは、今は、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならない」と言っているように、キリスト者にとって今の時は主のご再臨を待ち望む希望の時であると同時に、信仰の試練の時でもあるのです。というのは世の終わりが近いのを知っているサタンはさまざまな方法を使ってキリスト者を主から引き離そうと惑わし、また迫害するからであります。


ではこの終わりの時に、キリスト者はどのような心構えで日々の生活を過ごしたらよいのでしょうか。それにはパウロが冒頭の手紙の箇所で「あなたがたが眠りから覚めるべき時刻がもう来ています」と言っているように、まず私たちキリスト者は今こそ霊的な眠りから目を覚ます時であるというはっきりとした自覚を持つことが必要であります。霊が眠っていればこの世に現われて来る終わりの前兆である様々な現象も見落としてしまうからです。私がここで申し上げるまでもなく、昨年九月のアフガン・イスラム過激派によるニューヨークとワシントンの同時多発テロに始まった全世界を巻き込むような出来事は、私たちキリスト者にイエス様のご再臨がほんとうに間近いことをはっきりと知らしめるものでありました。マルコの福音書一三章二八~二九節でイエス様は次のようにおっしゃっています。


いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子(イエス様)が戸口まで近づいていると知りなさい。


いちじくの木とはイスラエルを指しています。この紛争の根には、一九四八年のイスラエル国家再建の時からのイスラエルとパレスチナとの争い、さらにはイスラエル民族とアラブ民族との争い、また別の言い方をしますとイスラエルとイスラム諸国との争い、憎しみ合いがきわめて深く存在しています。昨年来の紛争は表面的にはアフガンのテロ組織とアメリカとの戦いのように見えますが、イスラム諸国の過激派のほんとうの敵はイスラエルとその支持国なのであります。このようにイスラエル国家にかかわる紛争が全世界の人々の目の前に明らかに起こって来たこと、すなわちいちじくの葉が出て来た今こそ、イエス様が戸口まで近づいていらっしゃることを霊の目の覚めているキリスト者は知るのであります。しかし、キリスト者であっても、もし霊が眠っていればこのようなはっきりとしたイエス様から出される終末の時のサインも見逃してしまいます。霊が眠っていては主のみこころもわからないばかりか、サタンの惑わしにかかり、しかも眠っている自分の霊的な状態も自分ではまったく気がつかないという恐ろしい状態に陥ってしまいます。私たちキリスト者の霊の目がはっきり目覚めているときにだけ、キリスト者として具体的に今はどのような時なのか、そしてこのような終末の時にいかにして日々生きるべきかを、主の御霊が示してくださり、導いてくださるのです。


今の時は光の武具を身に着け、サタンと戦う時


今の時のキリスト者の生き方について、パウロは冒頭の手紙の「今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい」と言う言葉に続けて次のように書いています。


夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(ローマ人への手紙13章12~14節)


この世に罪と悪に満ちた夜の闇がますます濃くなっていることは、私たちが毎日の生活の中で、とくに新聞やテレビのニュースを通して痛感するところであります。しかしそれはまた、光であるイエス様のご再臨が近づいている証拠でもあります。そのことを私たちキリスト者は目覚めた霊によってのみ知ることができます。私たちキリスト者はこの世の人々と同じように日に日に混乱を深めているこの世に無感覚になることなく、またサタンの支配下にあるこの世に心を惑わされて罪の生活に妥協することなく、そこからはっきり訣別して、光の武具をしっかりと身に着けて主に従う正しい生活をしなければなりません。これが今の時に主がキリスト者に求めておられることなのであります。


では光の武具とはどんな武具でしょうか。パウロはエペソの教会の信者に宛てた手紙で次のように言っています。


腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ人への手紙6章14~18節)


神様の真理という帯、神様の正しさである正義という胸当て、神様との和解を伝える福音の靴、主に信頼しておゆだねする信仰の大盾、御霊の剣である神様のみことば、これが光の武具であります。何とこの世の武具とは異なるでしょうか。しかし、私たちが今の時にあってサタンやサタンに支配されて神様に反抗している者と戦って勝利するには、この光の武具こそが必要なのであります。私たちキリスト者はこの武具をしっかり身に着け、その上で絶えず霊の目を覚まして御霊によって祈るとき、サタンの攻撃に必ず打ち勝つことができるのです。


またパウロがテサロニケの信者に宛てた手紙にも、今の時にキリスト者のなすべきことが次のように書かれています。


兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日(イエス・キリストのご再臨と、さばきを含む世の終わりの時)が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼ら(神様を拒み続けた者)に襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみ(神様に背いている霊的な暗やみの状態)の中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、(イエス・キリストを信じる信仰によって生まれ変わった)光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの(この世の人々のように(霊が)眠っていないで、(霊の)目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たち(キリスト者)は昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。(テサロニケ人への手紙第一5章1~8節)


ここでもキリスト者はイエス様のご再臨の日に備えて、その日がいつ来てもよいように、この世の人々のように霊的に眠っていないで、神様からいただいた光の武具を身に着け、しっかりと霊の目を覚まして、慎み深くしていることが必要であると言っています。


今の時は恵みの時、救いの日


ここまでは主にイエス様を信じている者、すなわちキリスト者にとって今がどのように大切な時であるかについて考えて来ました。ではまだイエス様を信じておられない方々にとって、今はどのような時なのでありましょうか。イエス様をまだ信じていない方々にとって、今の時は恵みの時なのであります。どうしてでしょうか。サタンの支配下にあって神様を恐れず、神様に反抗する人々は、イエス様のご再臨を待ち望んでいるキリスト者をあざ笑い、そんなことは起こらないと言ってキリスト者の信仰をあざけります。このことは終わりの日が近いという証拠であるとペテロは初代教会の信者に宛てた手紙で次のように言っています。


まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。(旧約時代のユダヤ人の)先祖たちが眠った(死んだ時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(ペテロの手紙第二3章3~9節)


神の御子イエス様は義そのものの正しい方であり、また真実な方ですから、決して約束を違えることはなさいません。ですから最後まで神様を拒み続ける不敬虔な人々は、お約束どおり必ず世の終わりの日にイエス様によってさばかれ、永遠の滅びに入れられます。しかしイエス様はさばきの日を今日まで延ばしておられるのです。そのわけはペテロが言っているように、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」からです。イエス様は一人でも多くの人に救いの機会を与えようと大きなあわれみとご愛により忍耐をもって、神様に背を向けて自分勝手な道を歩んでいる者が心砕かれてご自分の前に罪を悔い改めて来るのを待っていてくださるからであります。ペテロが初代教会の信者に宛てた手紙で、


私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。(ペテロの手紙第二3章15節)


と言っているとおりであります。何というイエス様の深いあわれみでありましょうか。その意味で、まさに今の時はまだイエス様を信じていない方々にとって、パウロがコリントの教会への手紙に書いているとおり、


確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(コリント人への手紙第二6章2節)


なのであります。そしてこのみことばは、神様からの愛とあわれみに満ちた警告にほかなりません。


しかしながら、イエス様はいつまでもさばきの時を延ばして待っていてくださるでしょうか。そうではないのです。前にお読みしたマタイの福音書二四章一四節で、イエス様は「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とおっしゃいました。今は神の国の福音は各国の言葉に訳された聖書を通して、また御霊の力に助けられたキリスト者の伝道を通して、すでに世界中に宣べ伝えられたと言ってよいでありましょう。ですからご再臨はいつあっても不思議ではありません。どうかまだイエス様を信じておられない方は、忍耐をもってみもとに来るようにと待っておられるイエス様の大きな恵みとあわれみのこの時を無駄になさることのないように、世の終わりが間近に迫っている今の時に心を開いてイエス様の十字架による救いのみわざが自分のためであったことを心から信じ、一日も早くイエス様を救い主として受け入れていただきたいと心から切に祈る次第です。またすでに救われた私たちキリスト者は、世の終わりの今の時に霊の目をはっきりと覚まして、イエス様の兵士として、イエス様に従い、光の武具をしっかりと身に着け、サタンの支配下にある人々を火の中から救い出す戦いを闘い抜くことができるように、日々さらなる御霊の満たしを祈り求める者でありたいと切に願う次第であります。




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