わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)
主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」(出エジプト記4章2~5節)
今日は聖書のこの箇所を通して神様がモーセに与えられた杖について、そしてまた今日の私たちキリスト者に与えられている神の杖について、ごいっしょに考えてみたいと思います。
モーセの生い立ちはたいへん波乱に富んだものでした。出エジプト記の一章から二章には彼の生い立ちが書かれています。かつてアブラハムの時代、イスラエル人は神様が与えると約束してくださったカナンに移り、その地に住んでいました。しかしその後カナンは大きな飢饉に襲われ、そのためエジプトに逃れ住んだイスラエル人は、そのエジプトの地でどんどん増え広がりました。イスラエル人が増えてエジプトを脅かすようになるのではないかと恐れたパロ(ギリシャ語ではファラオ、エジプトの王)は、イスラエル人を虐待して奴隷のように苦役で苦しめ、またイスラエル人の男の子が生まれたらナイル川に投げ込んで殺すように命じました。しかし、モーセの両親は生まれたばかりの彼を殺すに忍びず、パロの命令に背いてモーセをパピルスで編んだ籠に入れてそっとナイルの岸辺に置いたのです。そして、そこに水浴びに来たパロの娘がモーセを見付け、彼は宮殿に連れて行かれ、それからパロの娘の養子として育てられることになりました。しかし自分の生い立ちを知ったモーセは、四十才のとき、ひとりのイスラエル人がエジプト人に打ち叩かれているのを見て、自分と同国人であるイスラエル人の男を助けるために、彼を打ち叩いていたエジプト人を殺してしまいます。そのためパロの怒りを恐れた彼はミデヤンの地に逃れ、そこで祭司レウエルの娘と結婚し、それから四十年の間荒れ野で羊を飼ってひっそりと暮らしていました。
神様はその八十才の年老いたモーセをご自分のしもべとして一方的にお選びになり、ホレブの山(シナイ山)で燃える柴の中から声をかけられ、モーセにエジプトで虐げられているイスラエルの民を率いてエジプトから連れ出すようにお命じになったのです。
今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。(出エジプト記3章10節)
モーセはどんなに驚いたことでしょうか。どうして神様は自分のような羊飼いの老人にそのような大役をお命じになるのか、とても自分にはできないと思った彼は神様に申し上げました。
私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。(出エジプト記3章11節)
神様はモーセに仰せになりました。
わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。(出エジプト記3章12節)
神様は冒頭のみことばにあるように、彼の持っている杖によってご自分の力をお示しになりました。そして「これがわたしはあなたとともにいるしるしである」と励まされたモーセは、ようやく仰せに従う決心をしました。
羊飼いの杖は羊を狼から守るためや羊を導くためになくてはならぬ道具でした。その杖を神様は蛇に変え、神様に命じられたように彼がその蛇の尾をつかむと、彼の手の中でそれはまた杖になったのです。蛇はアダムを惑わしたサタンを象徴するものであり、またそれはイスラエルの民を苦しめるパロをも象徴するものでした。神様はご自分を信頼し、ご自分に拠り頼んでいれば、パロもイスラエルの民も恐れることはないと、モーセに力ある証拠をもってお示しになったのです。モーセは神様の仰せに従ってミデヤンの地からエジプトに帰りました。そしてその手には神様が「これでしるしを行わなければならない」と仰せになった杖、神様が「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」と仰せになったあの杖を持っていたのです。
モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。(出エジプト記4章20節)
彼にとってこの杖はそれまでのようなただの羊飼いの杖ではなく、神様がともにいてくださるしるしとして、イスラエルの民を率いて行くためになくてはならない大切な杖となったのです。
神様が仰せになったように、モーセはそれから後、この神の杖によって数々の力あるわざを現わしましたが、そのうちのもっとも大いなるわざは何と言ってもイスラエルの民が紅海を渡ったときの出来事でありましょう。
モーセはイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、紅海(聖書では葦の海)のほとりまで来ましたが、そのときパロに率いられたエジプトの大軍が彼らを追跡して来るのが見えました。イスラエルの民は恐怖の叫びを上げましたが、神様はモーセに次のように仰せになったのです。
なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。(出エジプト記14章15~17節)
神様に言われたようにモーセが杖を上げ、手を差し伸ばすと海は分かれてイスラエルの民は海の真中の乾いた地を渡りきり、その後を追いかけてきたエジプト全軍が海の中に入ったとき、神様はモーセにもう一度手を海の上に差し伸べ、水がエジプト軍の上に返るようにせよとお命じになりました。モーセがその通りすると水はもとに戻りエジプト全軍は溺れ死にました。出エジプト記には次のように記してあります。
イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト記14章31節)
このように、神様は一方的にモーセをイスラエルの指導者としてお選びになり、モーセの手にお与えになった神の杖によってご自身のご栄光をお現わしになったのです。
ところがモーセは神の杖を使って何度となく大いなるわざを現わすうちに、とうとう、その力を神様の栄光に帰するのではなく、自分の栄光に帰するという大きな過ちを犯してしまったのです。それは次のようなことでした。イスラエルの民は旅を続けてツィンの荒野についたとき、喉を潤す飲み水が見つからず、そのためにモーセとアロンに次のように逆らいました。
なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪いところに引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。(民数記20章4~5節)
モーセとアロンは神様に祈りました。すると神様はモーセに告げられました。
杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。(民数記20章8節)
モーセとアロンはどうしたでしょうか
モーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。(民数記20章10~11節)
しかし、そのとき神様はモーセとアロンに次のように仰せになったのです。
あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(民数記20章12節)
ここでモーセは大きな過ちを犯したのです。一つは10節の「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」という言葉に表されているように、彼はこのときあたかも自分の力で水を出すかのように高慢にふるまったことであります。二つ目は岩を一度ではなく二度も打ったことであります。二度も打ったということは神様が「わたしを信ぜず」と仰せになったように、神様の力を信じなかったために取った行動でありました。三つ目は神様が「わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」と仰せになったように、この力あるしるしを自らの栄光に帰し、神様にご栄光を帰さなかったことであります。この過ちによって、モーセとアロンは神様が仰せになったとおり、目的の地カナンを目の前にしながら入ることができなかったのであります。
さて、モーセと神様が与えられた杖との関係は、イエス様を信じてこの世に属する者から神に属する者、イエス様のものとされたキリスト者にも当てはまることであります。というのはキリスト者にも神様は神の杖をお与えになっているからであります。ではキリスト者に与えられた神の杖とはいったい何でありましょうか。キリスト者に与えられた「わたしはあなたとともにいる」というしるしは何でありましょうか。それは神様からキリスト者に与えられた霊的な力であります。パウロは次のように言っています。
神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ人への手紙1章19節)
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。(エペソ人への手紙3章20~21節)
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人をキリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ人への手紙1章28~29節)
キリスト者に与えられる神の杖、「わたしはあなたとともにいる」というしるしは、ここに記されているようにキリスト者の霊に働くキリストの御霊の力であります。
ではその力をキリスト者がどのように使うことを神様は、イエス様は望んでおられるのでしょうか。それはキリスト者が神の杖であるイエス様の御霊の力に頼って、神に属する者、イエス様に属する者にふさわしく生きることであります。そしてそのように生きることを通して、神様やイエス様のご栄光が現わされることなのであります。しかし、イエス様を信じる私たちは果たして与えられている神の杖をこのように使っているのでありましょうか。そうでなく、神の杖を与えられていることも忘れて、相変わらず自分の力や知恵に頼って生きているのではないでしょうか。ここで改めて自分を顧みることが大切であります。
また神様、イエス様はキリスト者が神の杖によってイエス様を証しすることを望んでおられます。復活されたイエス様が天に戻られる前に、弟子たちに次のようにおっしゃいました。
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1章8節)
このようにイエス様は、キリスト者に与えられた神の杖であるイエス様の御霊の力によって、ご自分を証しするようにとお命じになっているのです。パウロはこれについて次のように言っています。
主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。(テモテへの手紙第二4章17節)
しかし、イエス様を証しすることがどうして神の杖である御霊の力によるのでありましょうか。それは使徒の働きの中に詳しく記されている、イエス様の仰せに従ってイエス様を証しし、イエス様を宣べ伝えたペテロやヨハネ、ステパノ、ピリポ、パウロらの数々の成果を見れば明らかであります。彼らは自分の力や知恵でイエス様を証しし、宣べ伝えたのではありませんでした。もしそうであれば、決して多くの人々がイエス様を信じ、救い主として受け入れることはなかったでしょう。パウロはコリント人への手紙第一の中で次のように証ししています。
さて兄弟たち、私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現われでした。(コリント人への手紙第一2章1~4節)
このパウロの証しにあるように、キリスト者に与えられた神の杖である御霊の力は自分の無力を知り、自分が心砕かれたときにはじめて現われます。イエス様がパウロに、
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント人への手紙第二12章9節)
と言われたとおりであります。イエス様のみこころを知ったパウロは、
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙第二12章9節)
と自我を砕くために弱さを与えてくださったイエス様に感謝したのです。
私たちはモーセよりもパウロよりもはるかに自我が強くまた愚かな者です。にもかかわらず神様が一方的に私たちに目を留めてくださり、十字架の贖いを信じる信仰によって新しく生まれ変わり、イエス様に属する者としてくださいました。そして相変わらずまだ自我が強くて愚かな私たちにもモーセやヨハネやペテロやパウロたちと同じように神の杖である御霊を与えてくださって、その力によってイエス様を証しし、またご自分のご栄光を現わそうとされているのです。
けれども私たちが注意しなければならないことがあります。私たちは岩のように堅い心を持った方が砕かれてイエス様を信じられるのは、まさに奇蹟であって、それは御霊が働かれた結果であり、とうてい自分の努力では成し得ないことをよく知っているはずであります。にもかかわらず、そのような堅い心を持った方にイエス様をお伝えしているうちに、岩のような心が次第に砕かれて、ついにその心の中からいのちの水がわき出るのを見たときに、私たちは神の杖である御霊の力の働きによってひとりの尊いいのちが救われたことをつい忘れ、傲慢にも自分の努力でその方を救いに導くことができたと思ってしまうことがありはしないでしょうか。もしそのように思うならば、モーセが自分の力で岩から水を出したと考えたのと同じような過ちを犯していることになり、それは自分を誇ることになり、主にではなく、自分に栄光を帰していることになるのです。
これまでごいっしょにモーセに与えられた神の杖について聖書から考えて来ましたが、このことはただ愛とあわれみによって神様に一方的に選ばれてイエス様を信じ、永遠のいのちと天国の国籍を与えられるという大きな恵みに与かった私たちが、イエス様に従う者としてどのように生きていくべきかという大切な問題について、深い示唆を与えていると思います。すなわち、このことは、救われた私たち一人ひとりが、単に救われた者として生きることにとどまらず、主から与えられた神の杖に頼って生きるように、そしてまだ救われていない方々に神の杖によってイエス様を伝えながら生きるようにと、主が示してくださっているのではないでしょうか。
主のご再臨が間近に迫っている今の時、神様が私たちのような弱く愚かな者にも「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」と仰せになり、そのしるしとして神の杖であるイエス様の御霊の力をお与えくださって、ご自身のご栄光を現わそうと望んでおられることを深く心に刻みたいと思います。そして自らに栄光を帰することなく、ただ主にのみご栄光が帰されることだけを自分の喜びとして、授けられた神の杖である御霊の満たしと導きを求めながら日々主に従って歩むことができれば、この上ない幸いであろうと確信いたします。