わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)

四 「九人はどこにいるのか」

ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」(ルカの福音書17章12~18節)


今日は聖書のこの箇所から、イエス様がおっしゃった「九人はどこにいるのか」というみことばの意味について、ごいっしょに考えたいと思います。


らい病をいやされた人々の取った態度


聖書にはイエス様が三年にわたる福音伝道のご生涯の間に、じつに多くの病人をいやされたことが記されています。とくにルカは医者だったからでしょうか、ルカの福音書にはイエス様がいろいろな病人をいやされた様子がくわしく記されています。そのうちの一つがここにある十人のらい病人のいやしの記事であります。そしてこの記事の重点はイエス様がらい病をいやされたということにあるのではなく、病気をいやされた後の十人の行動についてイエス様がおっしゃったことにあるのです。


主イエスに病をいやされた三人の例


イエス様に病気をいやしていただいた者が、いやされたときにどのような行動を取ったかについて、ルカの福音書にはこの十人のらい病人の例のほかにも次の三人の例が記されています。


まずイエス様によって悪霊を追い出していただいた人の例を見てみましょう。


そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。」(ルカの福音書8章38~38節)


彼はイエス様のお供をしたいと心から望んだのですが、イエス様のお考えは彼の望みとは違ったものでした。彼は自分の思いを通すことなく、イエス様の仰せにすなおに従って家に帰り、自分の身の上に起こった大いなるイエス様のご栄光の現われとしてのみわざを町中に証ししたのです。


次は曲がった腰を直していただいた女の例であります。


イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。(ルカの福音書13章10~13節)


このように彼女は長年苦しんでいた腰の病気が直ったとき、神様に感謝し、神様をあがめたのです。


三番目は目を直していただいた盲人の例です。


イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。(ルカの福音書18章38~43節)


彼は目が見えるようになった後、神様をあがめながらイエス様に従って行きました。以上のように、これらの三人はイエス様に病気を直していただいたことをただ喜んだだけではありませんでした。病気がいやされたことを神様に感謝し、神様をあがめ、ひとりはイエス様の仰せに従って自分の上に起こされた神様の大きなみわざを証しし、またふたりはイエス様に従って行ったのです。自分の身の上に起こった大いなる主のみわざを臆することなく証しすること、自分の病をいやしてくださった主に心から信頼して従うこと、このような態度をイエス様は喜ばれるのです。


らいの病をいやされたことを感謝しに戻って来た者は十人中わずかひとり


ところが、冒頭に挙げた例ではどうだったでしょうか。らい病を直していただいた十人のうち、イエス様のところに感謝しに戻ってきた者は、たったひとり、しかも異邦人であるサマリヤ人だけだったのであります。


十人のらい病人は前々からイエス様のうわさを伝え聞いていて、この方こそ自分の病気をいやしてくださる方と堅く信じていたのだと思われます。だからこそ、イエス様が目の前にいる自分たちに手もくだされずに、ただ「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」とおっしゃった、そのみことばにすなおに従って自分のからだを祭司に見せに行ったのであります。イエス様が彼らに自分のからだを祭司に見せなさいとおっしゃったわけは、当時ユダヤではらい病が直ったかどうかの判定は祭司だけが行なっており、祭司が認めてはじめてらい病人は公に直ったことが認められて社会に戻ることができるからなのです。イエス様の前にいたときには彼らのからだにはまだらいの症状がはっきり出ていたのですから、彼らはなぜ直ってもいないからだを祭司に見せに行くのか、イエス様のみこころはとんと理解できなかったでしょう。しかし彼らはどうしてですかと聞くこともせず、ただイエス様を信じ、仰せに従ったのです。


今でこそらい病は抗生物質の開発によって完全に直せるようになり、まったく恐れることはなくなりましたけれども、この病気は昔から長い間世界中でもっとも恐れられていた伝染病の一つでした。ですからこの病気に罹った人は、一生世間の人々との接触も許されず、人々から忌み嫌われながら小さくなって生きていかなければならなかったのです。らい病に罹った人々の苦しみ、悲しみはどれほどだったか、今の私たちには想像もできません。


イエス様は病人をいやされたときに、よく「あなたの信仰があなたを直したのです」とおっしゃいますが、イエス様はこの十人のらい病人にも、ご自分を信じたその信仰をお認めになって病気をおいやしになりました。彼らは祭司のところに行く道の途中で自分のからだに現われていたらい病の症状がすっかり消えていることに気づきました。彼らの喜びはどんなに大きかったことでしょうか。「一生直らないと思って悲しみ苦しんでいた病気が直った。イエス様を信じてほんとうによかった」と彼らはみな心から感謝したことでしょう。


しかし九人のユダヤ人が感謝したのはそのときだけでした。彼らはいやされたからだによってこの世の快楽をおおいに味わおうと喜び勇んで行ってしまいました。ひとり異邦人であるサマリヤ人だけが引き返してきて、イエス様の足元にひれ伏していやされたことを心からイエス様に感謝したのです。そのときイエス様は「あとの九人はどこにいるのか。神をあがめるために、戻ってきた者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」とお嘆きになったのです。


病をいやされた者に対して主イエスは何を求められるか


イエス様がお嘆きになった理由は何でしょうか。九人がご自分に礼を言うために戻って来なかったからでしょうか。そうではありません。彼らが神様をあがめなかったからであります。イエス様はご自分のすることはすべて主なる神様のなさることであると次のようにおっしゃっています。


わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。(ヨハネの福音書6章38節)


このようにイエス様はご自分のなさったいやしのみわざは、神様のみこころによるものだから、病気をいやされた者はイエス様をあがめるのではなく、神様に感謝し、神様を主とあがめることを望んでおられるのです。しかしイエス様のところに戻ってきたのは九人のユダヤ人ではなく、彼らから異邦人と軽蔑されていたサマリヤ人ひとりでした。ユダヤ人は自ら認めるように、神様の一方的な恵みによって多くの民の中から神の民として選ばれた人々であります。ですからユダヤ人はその恵みに応えて日々の生活の中で主なる神様を礼拝し、神様の戒めを守って心から従うことが求められています。聖書には次のように記されています。


イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。(申命記10章12~13節)


しかし彼らは自分たちが神様に選ばれた民であることを誇るだけで、神様を主とあがめることも、主なる神様の戒めを守ることもしませんでした。


人間の罪を身代わりに負うために神の御座から下りて、この世に人となっておいでになったイエス様は、たんなるあわれみによって多くの病人をいやされたのではありません。イエス様のみこころは、病気のために長いこと苦しみ悩んでいた人が、ご自分を信じて病気がいやされた体験をとおして主なる神様の愛を知り、神様から離れていた自分に気づいて神様に立ち返り、心から神様に感謝し、神様を主とあがめることなのであります。


罪がいやされた後に取る行動


しかし、この十人のらい病人のいやしの記事は、イエス様を信じる者にも大切なことを示唆しているのではないでしょうか。それはらい病とは比較できないほど恐ろしい病気、医学がどんなに進歩しても決して直すことのできない罪という病気をイエス様によっていやしていただいた者が、罪いやされた後どんな態度を、どんな行動を取ったかを改めて考えるように私たちに示唆しているのだと思うのです。イエス様は、


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)


と招いてくださっています。人生の重荷は罪から生じます。罪とは私たち人間を造ってくださり、ご自分の子どものように愛してくださる、生けるまことの神様を認めずに自分中心に生きることであります。しかし、人生を自分の考えで歩み、すべてを人間的な基準で判断することしかできなければ、人は生きることの中で悩み、また病気や死の問題で恐れ、苦しまなければなりません。イエス様はこのように自己中心に生きた結果、多くの重荷を負ってあえぎ苦しみ、疲れ果てた私たちをご覧になり、深くあわれんでくださって、神様のもとに立ち返って神様を主とあがめるように、自ら私たちの罪を身代わりに負って十字架に架かって、私たちを罪の重荷から解放してくださったばかりか、ご自身の復活に与かるよみがえりのいのちまで与えてくださったのです。


イエス様を信じた私たちは、ただイエス様のお招きに応じて罪の重荷を、人生の重荷を負ったそのままでイエス様のみもとに行き、自分が神様に背いていたことを心から悔い改め、イエス様の前にへりくだって救いを求めた結果、みことばどおり、イエス様は罪の重荷を身代わりに負ってくださり、霊的な休息と安らぎをいただくことができました。聖書に、


罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)


とあるように、イエス様を信じて罪から生じた重荷から解放され、また罪の報酬である死への恐怖から解放されたとき、私たちは大いに喜び、神様の恵みに心から感謝したのではなかったでしょうか。しかし、その後私たちはどうしたでしょうか。重荷を下ろして自由になってから時間がたつにつれて、だんだんと重荷を負っていたときの苦しみを忘れ、イエス様のいのちと引き替えにいただいた罪からの救いに対する深い感謝の思いも薄れ、神様やイエス様から心が離れ、ふたたびこの世に心を奪われてしまっているのではないでしょうか。イエス様を信じ、その証しとして洗礼を受け、規則正しく礼拝に出席してはいても、もし心が主なる神様やイエス様から離れているようでは、らい病をいやされたあの九人のユダヤ人と何ら変わりがないのです。なぜなら神様は形式だけの受洗や礼拝はお認めにならないからです。イエス様が、


神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネの福音書4章24節)


とおっしゃっているとおりであります。そしてイエス様はご自分のいのちをもって罪から贖い出したにもかかわらず、恵みだけを受けて心がご自分から離れ去った者に対して、九人のユダヤ人のときと同じように「あなたはどこに行ったのか」とお嘆きになるのであります。


いっぽう、サマリヤ人の取った態度は、罪という恐ろしい病気から解放してくださったイエス様に心からの賛美と感謝をささげ、神様をあがめ、イエス様に従う者の態度であります。詩篇一〇七篇には罪から救い出された者のなすべきことが歌われています。


愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。彼らは、主の恵みと、人の子らへの寄しいわざを主に感謝せよ。彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。(詩篇107篇17~22節)


ここに「主はみことばを送って」とある「みことば」とは、ヨハネの福音書に、


ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネの福音書1章14節)


とあるように神の御子イエス様のことであります。この詩篇の作者は、ここでイエス様によって滅びの穴である罪から助け出された者は、神様とイエス様に感謝し、喜びながら臆することなくその救いのみわざを語り広めなさいと言っているのであります。イエス様はこのような信仰をお喜びになり、そのような者を用いてご自身のご栄光を現わされるのであります。


あなたはどちらに属しているか


これまでごいっしょに考えてきましたように、イエス様を信じる信仰によって、永遠の滅びに至る罪という恐ろしい病気をいやされたばかりか、イエス様ご自身のよみがえりのいのちをも与えていただいた者は、神様とイエス様の大きな愛とあわれみに触れて、自分の考えや思いに従ってきたそれまでの生き方が、いかに恐ろしいものであったかをつづく知ったはずであります。そして、神様とイエス様にただ感謝と賛美をささげるだけではなく、神様とイエス様を自分の主とし、自分をそれほどまでに愛してくださる主を第一とする生き方、言いかえれば主の前にへりくだって主に従う者としていただきたいと心から望むのではないでしょうか。イエス様はそのような者をみこころにかなう者として喜んで弟子としてくださるのであります。


しかし、前にも申しましたように、今日でも神様、イエス様のご愛とあわれみによって恐ろしい罪という病気を直していただいた十人中九人は、イエス様に罪の病の苦しみから解放していただいたそのときは大いに喜びましたが、そのうちに主の愛を、恵みを感謝する思いも冷めて、またイエス様から心が遠くに離れて行ってしまっているのではないでしょうか。イエス様はその人たちに「あなたはどこに行ったのか」と嘆きつつ呼びかけておられ、またそのような者に、


あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。(ヨハネの黙示録2章4~5節)


と諭しておられるのであります。


私たちはらい病がいやされたことを喜んだだけで、イエス様から離れ去って行った九人のユダヤ人のように、救い主、いやし主イエス様を嘆かせるような恩知らずな者なのでありましょうか、それともいやされたことを知ってイエス様のみもとに帰ってきて神様をあがめたサマリヤ人のような、イエス様のみこころにかなう者なのでありましょうか。主のご再臨が間近に迫っている今、ここでごいっしょに自分の信仰を吟味し、もし自分も九人のユダヤ人と同じだと示されたならば、ただちに心から悔い改めてイエス様に立ち返り、神様やイエス様に喜んでいただけるような、主に従う信仰の歩みをすることができるように御霊の助けとお導きを祈ろうではありませんか。




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