わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)

三 神の近くにいることが幸せ

あなた(神様)から遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。(詩篇73篇27~28節)


人間にとってほんとうの幸せとは、またほんとうの不幸とは何でしょうか。この詩篇の作者アサフは人間にとってほんとうの幸福はまことの神様の近くで生きることであり、ほんとうの不幸はまことの神様から離れていることであると言っているのです。これは真理であります。


この世の人の感じる幸せ


しかし、多くの方にとって、この言葉はまったく理解できないものでありましょう。どうしてでしょうか。それはまことの神様をご存じないからであります。そして、まことの神様をご存じない方々にとって幸せと感じられることは、あくまでも人間的な基準、願望による幸せだからであります。たとえば希望していた学校に入れたとき、希望していた会社に就職できたとき、望んでいた相手と結婚できたとき、望んでいた子どもが生まれたときなど、すべて自分の肉の願望が適えられる場合、人は幸せと思うのではないでしょうか。しかし、このような幸せがほんとうの幸せであるのか、いつまでも続く幸せであるのかといえば、どなたもそうはお考えにならないでしょう。なぜならたとえ希望の学校に入ったとしても、希望していた会社に就職したとしても、望んでいた相手と結婚できたとしても、望んでいた子どもが生まれたとしても、またどんな楽しみを得たとしても、その後に次から次と心を痛めるような問題が起こって来て、初めに抱いていた幸せ感は次第に薄らぎ、気がついてみると、さまざまな重荷を負って疲れた心で歩んでいる自分を見いだすという体験を多くの方がなさっておられるからです。このほか、富、権力、名声、健康など、この世で一生けん命努力すれば手に入れることができるすべてのものを労苦して追い求めたとしても、人間の欲によってはほんとうの心の満たし、ほんとうの幸せに到達することはできないのです。これについて世界一の知恵者と言われ、莫大な富と力と名声を得たソロモン王は聖書の中で次のように嘆いています。


私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(伝道者の書2章10~11節)


このようにこの世のさまざまな宝を内容とする幸福は、つねに不完全なものであります。


人間が完全な幸せを失った理由


これに対して、もう一つの幸福は完全なものであって、その幸福は神様の近くにのみ存在するものであります。


かつて人間は神様の近くに置かれて神様のご愛を一身に受け、幸せいっぱいでした。その人間とは神様が最初にお造りになったアダムであります。しかし、アダムとその妻は聖書に記されているように、神様から、


あなたは、(エデンの園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章16~17節)


と言われた木の実を、「食べても死ぬことはない、食べると神のようになれる」という蛇の姿をとったサタンの誘惑の言葉に負けて、神様の戒めを破った結果、エデンの園から追を破った結果、エデンの園から追放されてしまったのです。神様のみもとから離れたアダムとエバにはもう幸せはありませんでした。神様に背いた彼らは、神様の定めによって地上で一生労苦して働き、最後にはちりに帰る、すなわち死ななければならなかったのです。しかし、神様はアダムとエバをエデンの園から追放するとき、彼らの裸をおおう皮の衣を作って着せてくださいました。聖書に、


神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3章21節)


とあります。まことの神様は全き義なる方であるがゆえに、ご自分の戒めに背いたアダムとエバに厳しい罰をお与えになりましたが、そのような者をも深くあわれんでくださったのです。神様に対する罪を犯したアダムとエバのために皮の衣を作り、着せてくださったというあわれみのみわざは、アダムからすべての人間が受け継いだ一人ひとりの人間の中にある罪を、神の御子イエス様の十字架上での贖いによっておおってくださったという救いのみわざを象徴するものであります。このように、まことの神様は義なる方であるだけでなく、あわれみに富んだ愛の方でもあるのです。


アダムの罪を受け継いだ人間の不幸


さて今まで申しましたように、アダムが神様に不従順の罪を犯したきっかけは、神のようになりたいというアダムの高ぶった欲望が原因でした。そしてこの罪の性質はアダムだけにとどまらず、アダムの血を受け継いだすべての人間に、生まれつきの性質として受け継がれているのです。これが原罪といわれるものであります。


そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・・・•それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5章12節)


とパウロが言っているのはこのことであります。


しかし、この世の人々は原罪、すなわちアダムが犯した神様に対する背きの罪を自分が受け継いでいるということが理解できません。むしろそのような考えは愚かなこと、馬鹿げたこととして無視します。しかし、原罪を受け継いでいる事実は、神様を恐れずに自分を主権者として、自分を第一として、自分の主張を、自分の考えをよしとして生きている高ぶった人間の姿の中にはっきりと現われているのです。そしてその結果はどうでしょうか。創造主であり、万物の支配者であられる神様から離れ、自分を主権者とした人間は、憎み、争い、さばき、傷つけ、悲しみ、苦しむ者となってしまったのです。そのような人間にほんとうの幸せがあるはずはありません。人間のこの罪の姿が日々赤裸々に示されている今の世の中の有様を見るにつけ、私たちはみなそのことを実感しているのではないでしょうか。


そして、このように神様から離れたまま自分を主権者として、自らの思いのままにふるまいながら生き続けますと、冒頭のみことばに「神様から遠く離れた者は滅びます」とありましたように、また、パウロがテサロニケの教会の信者に宛てた手紙で、


そのとき(神様がさばかれる最後の審判の日)主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(テサロニケ人への手紙第二1章8~9節)


と記しているように、やがて来る神様のさばきの日に、神様によって永遠の滅びの刑罰を受けるという恐ろしい不幸に会わなければならないのです。


唯一の主権者はまことの神のみ


このように自分を主権者と考えることは恐るべき人間の傲慢なのであります。唯一の主権者は人間ではなく、まことの神様であります。パウロは弟子のテモテに宛てた手紙で、まことの神様について次のように述べています。


神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。(テモテへの手紙第一6章15~16節)


このみことばにあるように、まことの神様は「唯一の主権者」、すなわち唯一の絶対的な権威を持つ神であられます。神様は天地万物を創造なさり、それらの被造物をみこころのままに支配しておられる主権者であります。よく人は自分の不幸を嘆くときに、あるいは自分の思いどおりにならないときに「神などいない」と言いますが、それは自分を主権者としたまことに傲慢な言い分であります。神様はご自分が主権者であり、ご自分の自由なご意志で私たちに臨まれることを、次のようなみことばで私たち人間にはっきり宣言しておられるのです。


わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。(出エジプト記33章19節)


この神様の絶対的な権威についてパウロは次のように私たち人間を諭しています。


すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者(神様に造られた人間)が形造った者(造り主なる神)に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。(ローマ人への手紙9章19~20節)


聖く正しい神に近づくために必要な罪の贖い


また、まことの神様は先ほどのテモテへの手紙第一のみことばにあったように「近づくことも見ることもできない方」であります。まだ罪を犯していなかったときのアダムは神様のみそば近くで御顔を見ることができました。しかし、完全に聖く正しい方である神様は、そのご性質のゆえに罪に汚れてしまった人間を決して近づけられません。まして見ることも許されません。ですからもし罪を持ったままの人間が神様に近づこうとすれば、神様を見ようとすれば、生きていることはできません。しかし、預言者のイザヤは神様を見てしまったのです。そのときのことをイザヤは次のように記しています。


ウジヤ王(ユダ王朝の十代目の王)が死んだ年(紀元前七四二年)に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィム(神に仕える御使い)がその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者(罪に汚れた者)で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭(罪の聖めのために焼かれたいけにえの炭)があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの(神に対する)不義は取り去られ、あなたの(神に対する)罪も贖われた。(イザヤ書6章1~7節)


まことの神様を見たイザヤが死ななかったのはどうしてでしょうか。それは聖い神様の前に自分が汚れた者であることを認めて神様を恐れ、御前にへりくだったイザヤの態度を神様がよしとされ、罪の贖いのために神様への捧げ物として焼かれた動物の灰・・・・これはイエス・キリストの十字架の上で流された血を象徴していますが、・・・・•にイザヤが触れたことによって罪が贖われたからであります。


このように、神様から離れたために不幸になった私たち人間が、聖く正しい神様に近づくためには、神様に対する罪が贖われていることがどうしても必要であります。しかし、神様のご愛は完全でありました。この拭うことのできない原罪という罪を完全に贈ってくださるために、神様は動物のいのちではなく、尊い神の御子イエス様のいのちを私たちの身代わりとして十字架に架けてくださったのです。これについてパウロは、コロサイ人の信者に宛てた手紙で、


あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ない(自分中心の生き方)の中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ人への手紙1章21~22節)


と言っています。神様から離れて不幸になった私たちを、もう一度ご自分の近くに置き、ほんとうの幸いを与えようとして、このような考えられない救いのご計画を成就してくださった神様と御子イエス様の深い深いご愛に、私たちはただ心から感謝するばかりです。


神の近くに置かれた者の幸せ


このようにして罪から贖い出されて神様の近くに置いていただいた者の幸せについて、もっと具体的にごいっしょに考えたいと思います。


その幸せとはまず、神様の近くに置いていただいた者は永遠のいのちを与えられて、天の御国の相続人とされているという確かな希望に基づく幸せであります。ペテロはイエス様を救い主と信じた人々に宛てた手紙の中で、


私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです(ペテロの手紙第一1章3~4節)


と言っています。神の御子イエス様は私たちの罪の身代わりに死んでくださったばかりか、三日後によみがえられて、信じる者にご自分の永遠のいのちを与えてくださり、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐ者」、すなわち天の御国の相続人としてくださり、すでに信じる者の名は天の御国に登録されているのです。


また、神様の近くに置いていただいた者の幸せは、神様の力によってすべての災いから永遠にいのちが守られているという幸せであります。詩篇一二一篇の作者は、これについて次のように感謝しています。


主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(詩篇121篇5~8節)


また、神様の近くに置いていただいた者の幸せは、神様から決して忘れられることはないという幸せであります。神様が御子のいのちによって罪から贖い出して、ご自分の近くに置かれた者を神様はご自分の手のひらに刻んだ、すなわち決して忘れないと預言者イザヤの口を通して仰せになっています。


女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。(イザヤ書49章15~16節)


また、神様の近くに置いていただいた者の幸せは、神様のものとされ、いつも神様が共にいてくださり、どんな試練のときも守ってくださるという幸せであります。イザヤはこれについて次のように言っています。


あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ書4章1~2節)


冒頭の詩篇七三篇の作者アサフも試練を受けた人でした。彼は先ほどお読みした前のところで、試練に会ったときの心の葛藤と、そのときに神様が彼を守ってくださったことを次のように言い表しています。


私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなた(神様)の前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに、私はだれをも望みません。(詩篇73篇21~25節)


このように神様の近くに置かれている者も、地上にいる間はさまざまな試練がありますが、その試練をとおして神様はご自分を心から信頼し、ご自分にしっかり拠り頼む者にますますご自分の愛を現わしてくださり、ほんとうの幸せとはご自分の近くにいることであり、ご自分を避けどころとすることであるとはっきりわからせてくださるのです。


そして神様の近くに置いていただいている者の幸せとは、


わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43章4節)


と個人的にいつも呼びかけてくださる神様の愛に包まれている幸せ、そのような神様にこよなく愛されているという事実に基づく幸せであります。


もし、まだこの世のものに幸せがあると思って探し求めておられる方がありましたら、ほんとうの幸せはこの世のものに求めても得ることはできないこと、ほんとうの幸せはまことの神様の近くにいることにこそあることをどうか知っていただきたいと思います。そしてまことの神様の近くに行くために、すなおに神様の前にへりくだって神様に犯して来た自分を主権者として生きるという背きの罪を悔い改め、あなたの罪の身代わりとなって十字架に架かってくださったイエス様を救い主として信じ受け入れてくださいますように、心からお祈りいたします。


最後に詩篇六五篇をお読みして終わります。


幸いなことよ。あなた(まことの神様)が選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(詩篇65篇4節)




わたしはあなたの名を呼んだ 前の章 次の章 メッセージ書庫