わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章34節)
私たちはまことの神様、すべてをお造りになった神様の存在について、いろいろなことを通して知ることができます。聖書のローマ人への手紙には次のように書かれています。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物(神様によって造られたもの)によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ人への手紙1章20節)
このみことばのとおり、自然を見て、これは人間が造ったなどと考える人はいないでしょう。心を謙虚にして自然界の山や海を見たときに、また数え切れぬほどの種類の植物や動物がその種類に従って自然の中に生きているのを見たときに、聖書を知らない人でも、このような美しい、あるいは壮大な、あるいは精緻な自然を造られた方がおられるに違いない、その方が神様だろうと思わずにはいられないのではないでしょうか。ですから、これらのものの造り主が神様ではないと言い切れる人はいないはずであると、ここで聖書は言っているのです。
しかし、そのようなことを通して神様の存在を感じたとしても、それだけでは意味がありません。というのは私たちがイエス・キリスト抜きで神様を知っても、それはほんとうに神様を知ることにはならないからです。私がそう言っても「それはクリスチャンの言うことであって、イエス・キリストを信じなくても神様がわかればいいではないか」とおっしゃる方が少なくないと思います。ところが、その方の考えておられる神様は聖書の神様ではないのです。その方はまだまことの神様がどんな方であるか、また自分はいったい何者であるかをご存じないと言えます。
そこで、私たちが神様をほんとうに知るためには、まず神様と人間との関係、もっと端的に言えば神様と自分自身との関係について知る必要があります。
聖書には人間とは何者であるかということがはっきり記されています。それは人間は神様がお造りになった被造物の一つであるということです。ただ他の被造物と違って、人間は神様が特別に愛して造られた被造物なのであります。その根拠は次のみことばに記されているように、神様が私たち人間をご自分に似るものとしてお造りになったということ、そしてご自分と親しく交わるために、ご自分のいのちの息、すなわち霊を私たち人間のからだの中に入れてくださったということから知ることができます。
神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・・」と仰せられた。(創世記1章26節)
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2章7節)
神様と人間の関係は、たとえれば親しい親と子の関係ということができます。神様はご自分に似る者として造られた人間をご自分の子どものように愛し、造り主であるご自分を愛し従う、父と子のような関係であることを望まれたのです。愛されている子どもは親にすなおに従います。ところが神様によって造られた最初の人間であり、私たち人間の先祖となったアダムは、神様から子どものように愛されていたにもかかわらず、神様から「この木の実だけは食べてはいけない。食べれば死ぬ」と言われていた知恵の木の実を、「この実を食べると神のように賢くなる」とサタンに誘惑され、神様と同じようになりたいと思い上がって、その禁じられていた木の実を食べるという恐ろしい行動をとってしまったのです。これが人間の神様に犯した罪のはじめであり、神様と人間の関係の断絶はここから始まってしまったのであります。これが原罪であります。これについてパウロは、
一つの違反(アダムの神様に対する背き)によってすべての人が罪に定められた・・・・(ローマ人への手紙5章18節)
ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・・・それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5章12節)
と言っています。このようにして遺伝子のように神様に対する背きの罪は人間の中にはいってしまったのです。
神様のいのちの息を吹き込まれて造られたアダムの霊は、彼が造り主である神様と正しい関係によって結ばれているときには生き生きと正しく働き、神様といつも交わることができました。しかし彼が神様から背き離れたとたんに、彼の霊はこの罪のゆえに死んだように衰え果てて神様との交わりは絶たれてしまったのです。アダムがはじめの人間であるということは、アダムが人間の根であると言ってもよいと思います。根が腐ったら木全体も腐ります。それと同様にアダムの霊が腐ったためにアダムの枝である、すなわち子孫である全人類の霊も腐ってしまったのであります。
それゆえ、私たちの肉の思いはただ自己中心的な、自分の思いや自分の欲望に従うことになってしまいました。神様からいただいた霊が死んだように衰えてしまった人間は、このように、ただ肉の思いに従って生きること、肉の思いを第一にして生きることしかできなくなってしまったのです。しかし当然のことながら、これは神様のみこころに反するものであります。パウロは次のように言っています。
肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ローマ人への手紙8章7節)
神の律法とは、私たち人間に与えられた神様のみこころを示した戒めであります。もし私たちが律法を神様のみこころどおりに守ることができれば、神様は私たちを義と認めてくださいます。しかし私たちがどんなに神様の戒めを守っていると主張しても、私たちが原罪という生まれつきの罪の性質を持っているがために、それは自分流の、自分中心の従い方になってしまい、どうしても神様の求められるような完全な従い方ではないのです。
イエス様は神様から与えられた律法、すなわち戒めを正しく守るとはこういうことであると、たとえをもって話されました。
昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。(マタイの福音書5章21~22節)
イエス様は人に腹を立てることは神様の基準では殺人であるとおっしゃっているのです。なぜなら、腹を立てた結果憎しみが湧き、それが殺人に至るからであります。また、次のようにもおっしゃいました。
「姦淫してはならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイの福音書5章27~28節)
人間は表面に現われたものによって正しいか正しくないかを判断しますが、神様は心をご覧になってその人が正しいかどうかをさばかれます。イエス様はこのことを律法を正しく守るということに当てはめて、生まれながらの罪のために人間が神様の正しさと同じ正しさで律法を守ることは不可能であるということを、これらのみことばを通して私たちに教えてくださっているのです。
また私たちは自分を誇るということは神様を知るまでは、それほど悪いこととは思っていませんでした。自分の業績、自分の生まれ育ち、自分の富、自分の権力など、すべてこれらを誇りたがるのが人間であります。しかし神様は自分を誇る人間をその高ぶりのゆえに罪ある者と見なされるのです。詩篇の作者は人間には誇るべきものは何一つなく、誇るべきは私たちを心から愛し、支え、助けてくださる私たちの主なるまことの神様だけであると言っています。
今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者(神様を信じた結果、神様の霊を注がれ、ふたたび霊的に生き返った者)を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。(詩篇20篇6~8節)
主なる神様も預言者エレミヤの口をとおして次のように仰せられました。
主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」(エレミヤ書9章23~24節)
しかし前にも申しましたように、罪のために霊が死んだようになっている人間には、肉の目に見えない神様だけを誇ること、ましてその神様を知っていることだけを誇るというようなことは、とうてい考えられないのです。
では、このように罪の結果、神様を顧みず自分を正しいと考え、自分を誇り、自分の欲を満たすことを第一としている人間を神様はどうされるでしょうか。神様はその完全に正しく完全に聖いご性質ゆえに、そのまま見過ごすことはおできになりません。罪の報酬は死であると聖書にあるように、罪を持ったまま死ぬとその人は肉体の死にとどまらず、死後にさばかれて永遠に神様から見放されて滅びるという罰を受けなければなりません。
しかし神様は全き義の方(まったく正しい方)であると同時に全き愛の方でもあります。罪のために滅びの道を知らずに歩んでいる私たち人間を心からあわれんでくださって、もう一度ご自分に立ち返らせて、私たちと父と子の関係を回復させようとお考えになりました。このために障害となるのは私たちの罪であります。神様と私たちの間に罪という隔ての壁があるかぎり、私たちが聖い神様のもとに立ち返ることはできません。人間が自分の力でこの壁を取り除くことは決してできません。もし私たちが神様からいただいた律法を正しく守り行なうことができれば、そのような力が私たちにあれば、私たちは自分の力で罪の壁を取り除けるでしょう。しかしさきほど申しましたように、人間はだれひとりとして律法を正しく守ることはできないばかりか、守ろうとすればするほど自分の罪を思い知らされることになります。先ほどのローマ人への手紙8章7節をもう一度開いてみましょう。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ローマ人への手紙8章7節)
とあったとおりです。
罪のゆえに神様から離れて滅びるものとなってしまったあわれな私たち人間を罪の中から救い出すために、神様はご自分のひとり子の御子イエス・キリストを仲介者に立てられました。これは人間にはとうてい理解することのできないほど大きな神様の愛から出たご計画でありました。ここで神様と人間との仲介者となられたイエス様のみわざの内容を少し詳しく申しますと、神様と人間を隔てている罪を取り除いて神様と人間との関係を正しく回復し、罪人であった人間を神の子どもとし、永遠の滅びの国に行くしかなかった人間を神の国の相続人とすることであります。これはまことに人知をはるかに越えたみわざであると言うほかありません。このみわざを果たすためには第一に罪の報酬である死に勝利することができなければなりません。そのためには仲介者は死ぬことのない永遠のいのちを持っている必要があります。第二に罪そのものに勝利することができなければなりません。しかし、それには仲介者に完全な義、すなわち正しさが求められます。第三にこの世の支配者であるサタンに打ち勝つことができなければなりません。しかし、それには仲介者はサタンを上回る力を持っている必要があります。神でありながら人の子としてこの世においでになったイエス様は以上の三つをすべて備えておられる、仲介者としてただひとりの最もふさわしい方なのであります。言いかえれば、イエス様以外にこのみわざを成し遂げることのできる方はないのであります。
また仲介者は一方だけに属するものでなく、双方の立場を十分に理解できる方でなければふさわしいと言うことはできません。イエス・キリストはその意味でも神と人との仲介者として唯一ふさわしい方と言えるのです。なぜならば、イエス様は神であられるのに人となって地上に降りて来てくださったお方であるからです。
イエス様が神様である証拠は聖書の至るところに見られますが、とくにイエス様の誕生や復活に関する事柄は人間には絶対に起こり得ないものであります。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。(マタイの福音書1章1~2節)
イエス様の復活の様子は次のようなものでした。
さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めにった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。(マルコの福音書16章9~14節)
またイエス様が人である証拠もたくさんあります。人間であればだれでも空腹を覚え、疲れを感じ、また喉も渇きますが、イエス様も同様でした。
イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。(マタイの福音書4章1~2節)
イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。(ヨハネの福音書4章6~7節)
人間ならばだれでも死を恐れます。イエス様も捕えられて十字架に架かる時が迫って来たときに、死の恐怖に苦しみもだえながら祈られました。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカの福音書22章42~44節)
人間は生まれた以上だれでも一度肉体的に死にます。イエス様も私たちの罪を身代わりに負ってくださるために人として死を味わわれました。
そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られ(ルカの福音書23章44~46節)
なぜ神様と人との仲介者が神であると同時に人として私たちのところに来てくださったイエス様でなければならないのでしょうか。その理由は神ならば永遠のいのちを持った方ですから死ぬことはできず、また人であるだけならば死んでから再びよみがえることは決してできないからです。すなわち、神としての属性と人としての属性を併せ持つイエス・キリストだけが、人として私たち一人ひとりの罪のために身代わりとなって死んでくださることがおできになり、かつ神としての力によって死に勝利して死からよみがえり、そのいのちを私たちに与えてくださることがおできになるただひとりの方なのです。
イエス様はご自分が神と人との仲介者としての権威を持っておられることを次のようにおっしゃっています。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。(ヨハネの福音書10章18節)
死に勝利し、よみがえられたイエス様は今もご自分を信じ、ご自分に従おうとする一人ひとりのために仲介者として、いつも神様にとりなしてくださいます。それはイエス様を信じた後も、信仰の弱い私たちは肉の誘惑に惑わされて罪を犯してしまうことが多いからです。冒頭でもお読みしましたが、パウロは次のように言っています。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章34節)
また聖書のヘブル人への手紙の中にも次のように記されています。
キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル人への手紙7章24~25節)
けれども人間は愚かにも神様と私たちとの間のとりなしを、肉の目では見ることのできないイエス様ではなく、目に見えるもの、たとえば、いわゆる聖人の像などの偶像や聖職者などの人間に求めてしまうことが多いものです。しかし、そのようなものに頼っても神様と私たちの間の壁は決して取り去られません。私たちは改めて私たちの主イエス・キリストだけがただおひとりのまことの仲介者として、私たちが罪から解放され、永遠に生きる者となるために十字架上での罪の身代わりの死という尊い犠牲を払って、父なる神様と私たち人間を和解させてくださったことを心から感謝せずにはいられません。そしてお一人でも多くの方が、そのイエス様をご自分の救い主と心から信じ、従うことがおできになるように心からお祈りいたします。最後に次のみことばを読んで終わりたいと思います。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)