わたしはあなたの名を呼んだ(2002年)

一 「わたしはあなたの名を呼んだ」

あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贈ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書4章1~3節)


今日は聖書のこの箇所から「あなたの名を呼ぶ方」はどなたかということについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。


神が人間を造られた目的


ここに「あなたを形造った方、主」と書いてあります。これは天地万物の創造主なる神様があなたもお造りになったということなのですが、ただあなたの肉体をお造りになっただけではありません。肉体を造られてから、その中に霊を入れてくださったのです。創世記には神様が天地、宇宙そしてすべての生き物をお造りになり、最後に人間を造られたことが書かれていますが、人間がそれらの生き物と決定的に異なる点は、人間にだけ神様が吹き込んでくださった霊があるということです。


神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2章7節)


このように、神様はまず土地のちり、すなわち物質で人間のからだを造ってくださり、それからいのちの息をからだに吹き込まれたのです。このいのちの息が霊であります。なぜ神様は人間に霊を与えられたのでしょうか。それは神様と交わるためなのです。神様はご自分がお造りになった人間と親子のような親しい人格的な交わりをなさろうとご自分の霊を授けられたのです。神様との親しい交わりは霊を通してなされるものであり、そのために人間にも霊が必要であったのです。


ところがそのように造られた最初の人アダムとエバは神様の仰せに背いて自分の欲に従い、神様との交わりを絶って身を隠したのであります。神様はご自分からそのように背き離れたアダムとエバに対してどうされたでしょうか。聖書には次のように書かれています。


そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3章8~9節)


名を呼んでくださる神


ご自分を避けて身を隠したアダムとエバに向かって神様は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけてくださっているのです。しかしこの呼びかけはアダムとエバだけにではありません。創造主である神様は、ご自分がお造りになったすべての人間を愛してくださり、ご自分と人格的な交わりをしようと、ご自分に背を向けている私たち人間一人ひとりの名を呼んでくださるのであります。しかも神様は私たちを母の胎内で形造ってくださったそのときから名を呼んでくださっているとイザヤは次のように言っています。


主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。(イザヤ書49章1節)


聖書を見ますと、主なる神様はいろいろな人に名前で呼びかけておられます。アブラハムもモーセも神様から名前を呼ばれました。


神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。(創世記22章1節)


主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。(出エジプト記3章4節)


神様から名前を呼ばれたときに二人はどうしたでしょうか。すなおに「はい。ここにおります」と答えました。この応答から私たちは神様と彼らがほんとうに親しい交わりの関係にあったことを知ることができます。


名前は人格の象徴


名前というのは固有名詞であり、その人の人格の象徴です。かつて私は講義のときに学生にときどき質問することがありました。ところが私は学生の名前を覚えるのが苦手で、質問するときには指でさして「君」と呼ぶことが多かったのです。しかし「君」と呼ばれるのと名前を呼ばれるのとでは、呼ばれる学生の心証はたいへん違います。名前を呼ばれれば、その学生は先生に自分が覚えられている、認められているという思いが起こり、名前を呼んでくれた教師に親近感を持つでしょう。もし、ほんとうに私がひとりの人格としての学生に関心を持っていれば、意識してその学生の名前を覚えたはずであります。そう考えると私は一人ひとりの学生の人格を尊重する心に欠けていた自分を反省せざるを得ません。


名前がその人の人格を象徴するものであるという、一つのエピソードをご紹介します。外国であった話です。ひとりの妊娠している女性がいました。その女性が産婦人科の医者におなかの子を堕してほしいと頼みました。いろいろな事情があったのだと思います。その医者は彼女に思い止どまるように説得しましたが、彼女はどうしても聞き入れません。医者は最後に彼女にこう言いました。「あなたのおなかにいる赤ちゃんが生まれたら、何と言う名前をつけますか」。それを聞いて彼女はうつむいてしばらく黙って考えていましたが、やがて顔を上げて「先生、私はこの子を生みます」とはっきり言いました。彼女の心の中にどんな変化が起こったのでしょうか。おなかの子を堕したいと思っていたときには、その母親にとっておなかの子は人格のない細胞のかたまりに過ぎなかったのです。れども医者にその子につける名前を聞かれたときに、母親にとってその子は細胞のかたまりではなく、ひとりの人格を持った人間となったのであります。名前をつけるということは、このようにひとりの人の人格を認める大切な意味を持っているのであります。


神様も私たち一人ひとりの人格を認めておられるからこそ、親しく名前を呼んでくださるのであります。そして、その神様が私たち人間に目に見える人格としてご自身を現わしてくださったのが、人となってこの世に来てくださったイエス様であります。イエス様は私たち人間と人格的な親しい交わりができるようにと私たちと同じ血と肉のからだを持ってこの地上に来てくださったのです。パウロはこれについて次のように言っています。


キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ人への手紙2章6~8節)


イエス様は神様であるにもかかわらず、私たち人間と同じ肉体を持ってこの世においでになりましたが、それは私たちと同じレベルにまで降りて、私たちに目で見ることのできる神ご自身の人格を現わしてくださるためでありました。


名を呼んで救ってくださるイエス様


神の御子が人となられたイエス様も、私たちがイエス様に出会う前から私たちの名前をご存じで名前を呼んでくださいます。聖書にはこのような例がたくさんあります。イエス様がはじめてシモン・ペテロにお会いになったときに、次のように言われました。


彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(ヨハネの福音書1章42節)


キリスト者を迫害していた当時、サウロという名で呼ばれていたパウロは、キリスト者を迫害に行く途中の道でイエス様に名前を呼ばれました。


ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。(使徒の働き9章3~4節)


これが復活されたイエス様とパウロとの出会いでありました。


ザアカイもイエス様に名前を呼ばれたひとりです。


それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19章1~10節)


ザアカイはそれまで一度もイエス様に会ったことはありませんでした。ですからイエス様が自分の名前を知っておられるだろうなどとは思ってもいませんでした。そのイエス様に突然自分の名前を呼ばれたとき、彼はどんなに驚いたことでしょう。イエス様はザアカイの名をお呼びになって「今晩あなたの家に泊まる」と言われました。泊まるというのは、ほんとうに親しい交わりを意味します。彼はイエス様にそう言われただけでイエス様を自分の主と信じました。ザアカイは自分がどんなに罪深い人間であるかをよく知っていました。皆が自分を軽蔑し、自分を避けていることも知っていました。そしてイエス様の評判を聞いて一目だけでも見たいという思いで木に登っていたのです。ですからイエス様が罪深い、だれも相手にしてくれない自分のような人間を認めてくださったということが、名前を呼ばれたときにわかったのです。


これまでお話しした人たちと同様に、人はイエス様が何十億人の中から自分を名指しで呼んでくださり、自分を滅びに至る罪から救い出すために十字架に架かって死んでくださったということを知ったときに、イエス様を自分の主と信ぜざるを得なくなるのです。イエス様はこう言っておられます。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(ヨハネの福音書10章1~4節)


牧者がイエス様で羊がイエス様を信じる一人ひとりであることは説明するまでもありません。なぜ羊はイエス様の声を知って、ついて行くのでしょうか。それは一匹一匹の羊の名前を覚えておられ、一匹一匹の名を呼んで「わたしについて来なさい」とおっしゃるイエス様を信頼しているからです。羊がイエス様を知っているとは、そういうことなのです。パウロは次のように言っています。


私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。(テモテへの手紙第二1章12節)


「私は自分の信じて来た方をよく知っている」ということは、「イエス様という方は、自分の罪のために身代わりに死んでくださったばかりか、今も日々名を呼んで守ってくださる方であることをよく知っている」ということであります。私たちも同じです。イエス様との人格的な交わりに入れられたときに、私たちはだれでも「私はイエス様をよく知っています」と確信をもって言うことができるのです。


私はかつて祈りをするときには形式的に「神様」という言葉から始めていました。祈りとはそのようにするものだと教会で教えられていたからです。けれども、形式的な祈りには神様との霊的な交わりが感じられません。長い間そのような状態が続きました。しかし吉祥寺キリスト集会に集うようになり、イエス様の十字架による贖いと復活による永遠のいのちのみわざがほんとうに個人的に私自身のためであったということがわかってからは、私自身を救うために人となって死んでよみがえってくださった方であるイエス様のお名前を自然にお呼びして祈るようになりました。それからは不思議にイエス様が身近に感じられるようになったのです。私の名を「定義」と呼んで救い出してくださったイエス様に、私も「イエス様」と呼んで祈るようになってから、イエス様と私の関係はほんとうに親しいものになったのです。


イエス様の名を呼んで祈る


私たちの名前は生まれたときに名づけられます。イエス様のお名前も御子なる神が私たち人間と同じ姿をとってくださって、聖霊によってマリヤからお生まれになったときに名づけられたものでありました。


イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイの福音書1章18~21節)


このイエス様に私たちが「イエス様」と心から御名を呼んで祈るときに、私たちの心はイエス様と結びついて、喜びに満たされます。しかし、悲しいことに喜びのないキリスト者も少なくありません。かつての私もそうでしたが、そのような方はまだイエス様との人格的な交わりを体験なさっていないのです。それではイエス様に信頼し、拠り頼むことができませんから、喜びも希望も平安もなくて当然でしょう。それでは自分の身の上に何かの問題、たとえば健康の問題、仕事の問題、家族の問題などが起こるとすぐに動揺し、自分の肉の力で対処しようとして焦ったり、苛立ったり、失望したりしてしまいます。このような状態でイエス様と霊的な出会いがないまま、ただ口先だけで「イエス様」とお名前をお呼びしても、心に喜びが起こらないのは仕方のないことです。


もし神様がたんなる観念的な存在であるならば、あるいは冷たい非人格的な存在であるならば、私たちはそのような神様を信じても、慰めも希望も励ましも与えられなくて当然です。けれども創造主なる神様は人となって私たちと交わってくださる人格を持った神様であります。その方が私たちの主イエス様です。聖書に、


主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(ローマ人への手紙10章13節)


とあるように、私たちがそのイエス様を信じたい、とすなおに心の戸を開いて祈り願うならば、イエス様はすぐに私たちと人格的に出会ってくださり、ひとたびイエス様に出会う体験をしてイエス様の愛を知った者は、もう決して離れることはないのです。


それはさきほど引用した聖書の箇所にある羊のように、イエス様に信頼して自分の名を呼んでくださるイエス様の声を聞き分けながら、また自分もイエス様のお名前を呼びながら従って行くのがいちばん幸せである、ということを頭ではなく体験的に知るからであります。私自身は相変わらず信仰が弱くて、試練に会うとついめげそうになってしまいがちな者ですけれども、そのときイエス様が私の名を呼んでくださり、冒頭のみことばどおり、


恐れるな。わたしがあなたを贈ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43章1~3節)


と励まし、支えてくださるので、また元気を取り戻すことができるのであります。


名を呼ばれた者は福音の使者


イエス様に名を呼ばれるということは、言いかえればイエス様から指名されることでもあります。何のために指名されるかと言えば、神様がイザヤやエレミヤを、またパウロやペテロをご自分の使者として指名されたように、イエス様も私たちをイエス様の福音の使者として世に遣わすためであります。特別な賜物を持ったキリスト者でなければイエス様を人に伝えることができないと考えておられる方が少なくありませんが、そうではありません。イエス様はすべての人の名前を呼んでおられます。そしてイエス様に名を呼ばれてイエス様のいのちによって罪を贖われた者は、ひとり残らずイエス様の証人として、福音の使者として、まだイエス様を知らない方々にイエス様を、その人にできる何らかの方法で紹介することを、イエス様が求めておられるのです。イエス様に救われた私たちはそのことを覚え、信仰の弱い私たちのためにいつも名を呼んで祈ってくださっているイエス様に、私たちも「イエス様」と御名をお呼びしつつ付き従って行けるように心から祈りたいと思います。




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