何を求めて生きるか(2000年)

十一 天の御国目指して歩む旅人

私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。(詩篇39篇12節)


旅行と旅


この詩篇はダビデ`の作と言われております。ダビデはここで自分は神様とともに旅する旅人ですと言っています。そこで今日はこの「私はあなたとともにいる旅人」ということについてごいっしょに考えてみたいと思います。最近はあまり使わなくなった旅人という言葉はなつかしさを覚える、私も好きな言葉です。それとともに旅という言葉も使わなくなり、それに代わって使われるようになったのは旅行という言葉です。旅行という言葉からは、名所を見物したり、美しい景色や珍しい風物を観賞したり、あるいは美味しい食べものを賞味したり、温泉につかってゆっくり休息するというような、楽しいものを私たちは想像します。それに対して旅という言葉から私たちは何を想像するでしょうか。ある辞書を引いてみましたら、「旅とは住んでいるところから離れてよその土地に行く」とありました。そうなると、これは今の旅行とはだいぶ違うものであります。そう考えますと昔の人は旅行ではなく、みな旅をしていたのです。旅ということになると、それなりの覚悟が必要になります。昔、旅立ちのときには水さかずきを交わしたそうですが、それは帰って来れないかも知れない可能性もあるからです。旅の間にはいろいろなことが起こりますから、出かける方も、送る方も覚悟して出かけたのです。今日では旅行には飛行機や列車や車などいろいろな乗り物があって快適な旅行ができますが、昔は乗り物といえばせいぜい駕籠や馬に乗る程度でほとんどは自分の足で歩いて旅をしたのです。ですから快適どころか汗を流したり、凍えたり、足にまめを作ったりというようにたいへんな苦労をしながら旅を続けたのだと思われます。道にしても平坦な道だけではなく、険しい山坂あり、流れの急な川ありという道でありました。また道に迷うこともあれば、旅の途中で病気になったり怪我をしたり、あるいは強盗に会うこともあったでしょう。このような苦しい目やときには生命の危険にさらされながら目的地に向かって一歩一歩進んで行く、これが旅であります。そのような旅の中でも私たち一人ひとりが今でもしている旅があります。それは人生の旅であります。では人生の旅はいつが出発のときかといえば、言うまでもなく生まれたときであります。では人生の旅の終着点はどこでしょうか。これも言うまでもなく死であります。


キリスト者の旅


今、人生の旅は生まれたときにはじまって死をもって終わると申しましたが、人生の旅にはもう一つの旅があります。それは生けるまことの神を主と仰ぐ信仰者の旅、イエス・キリストを救い主と信じ、従う者の旅であります。


冒頭の詩篇は前にも申しました、まことの神を主と仰ぎ、主とともに旅をした信仰者ダビデの作った詩ですが、同時にこの詩はイエス・キリストを主として従う私たちの思いでもあるといえましょう。ではこれから私たちイエス・キリストを信じる信仰者の旅についてごいっしょに考えてみたいと思います。


まず信仰者の旅はどこからはじまるのでしょうか。イエス様を信じる者も信じる以前は他の人とまったく同様に、この世に生まれたときからはじまる人生の旅を旅していました。しかし、イエス様を信じてからの信仰者の旅はキリスト者として生まれ変わったときから新たにはじまるのです。ではキリスト者の旅の終わりはどこでしょうか。それは人生の旅が死という暗いやみで終わるのとは違って、神様のまばゆい光に包まれた天の御国という目的地に入るところで終わります。キリスト者の誕生については聖書は次のように言っています。


この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネの福音書1章12~13節)


「この方」とはイエス様であります。私たち人間を愛してくださっている神様に背を向けて自分勝手に我がまま放題に生きるという罪を犯したために滅びに定められているすべての人間を救い出すために、神様から遣わされて私たちの罪を身代わりに負って十字架で死んでくださり、三日後に復活された神のひとり子イエス様であります。自分にもこの罪があることを率直に認め、心からこの罪を悔い改め、イエス様こそ、自分ではどうすることもできない罪を身代わりに負って十字架の上で死んでくださった方と心から信じたとき、神様はそれまで罪の奴隷であったその人を神の子どもに生まれ変わらせてくださいます。神によって生まれた者、これがキリスト者であります。


このようにして新しく生まれ変わった信仰者は、そのときから旅の目的地、ゴールである天の御国目指して信仰の旅に出るのであります。しかし、天の御国目指しての旅路も先ほど挙げたこの世の旅路と同じように決して楽ではなく、その道は狭く、険しく、迷いやすく、途中には荒れ果てた土地や大きな穴や深い泥沼や大きな川があります。また旅の途中では誘惑されたり迫害を受ける危険がいつも伴ないます。そのような道を信仰者は旅をするのであります。


神様の仰せに従って信仰の旅に出た人々


ヘブル人への手紙には主なる神様の仰せに従って信仰の旅に出た多くの人々について書かれていますが、そのうちアブラハムについては次のように記されています。


信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(ヘブル人への手紙11章8~10節)


主なる神様がアブラハムに「あなたは、生まれ故郷から出て、わたしの示す地に行きなさい」と仰せになったとき、彼はすでに七十五才でした。けれども彼は神様の仰せにすなおに従って住み慣れた生まれ故郷を出て示された土地であるカナンに旅立ちました。そして彼は約束の地カナンに着いてからも、その土地で他国人、旅人として家族たちとともに天幕生活を続けたのです。それはカナンの地もアブラハムにとって最終の目的地ではなかったからです。アブラハムらは、この地上にはほんとうの故郷はなく、この世にある間はどこにいても旅をしている旅人であることを自覚していました。そして目に見えない天の都をまことの故郷として、目で見ているように確信し、日々主なる神様に信頼しながらこの世の旅路を歩んでいたのであります。


これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出てきた故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル人への手紙11章13~16節)


このみことばどおり、主なる神様に信頼して、主の仰せに従って信仰の旅を旅した信仰の先輩たちは、地上における旅路の終わりに、主が用意されたまことの故郷である天の都に入ることができたのであります。


イエス様を信じる旅人がこの世から迫害される理由


しかし、前に申しましたように、天の御国への旅を妨げるものはたくさんあります。がなかでもサタンはいろいろな手段を使って信仰者の旅を妨害してきます。かつて自分の支配下にあった私たちがイエス様を信じて神に属する者に生れ変わったことを憎むからです。信仰者の旅人がこの世の人からあざけられ、うとまれ、場合によっては迫害されるのもサタンのしわざであります。しかし、この世の人々はどうして信仰者の旅人を迫害するのでしょうか。それはイエス様を信じている旅人がこの世の人々と違うからであります。


イエス様を信じる旅人は衣服が違う


どこが違うかといえば、まず身に着けている衣服が違います。この衣服は私たちがからだにまとう、目に見える衣服ではなく、霊が着る霊的な衣服のことを指しています。


ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」(ゼカリヤ書3章3~4節)


このヨシュアとはバビロンにユダヤの民とともに捕らえられていたユダヤの民の指導者、大祭司ヨシュアですが、イエス様を信じた私たちも、イエス様によって罪に汚れた不義という服を脱がせていただき、礼服を着せていただいた者です。この礼服はイエス様を救い主と信じる信仰によって与えられた義の礼服であります。イエス様を信じた者はこの義の礼服を着て天の御国に向かって旅立つのであり、信じてから天の御国に着くまではずっと義の礼服を着て旅を続けるのであります。


イエス様を信じる旅人は語る言葉が違う


またイエス様を信じる旅人がこの世から迫害されるのは、語る言葉が違うからです。パウロは次のように言っています。


十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(コリント人への手紙第一1章18節)


「十字架のことば」とはイエス・キリストの十字架上の贖いのみわざによって、人間が神様に犯した背きの罪の刑罰から救われるという良き知らせを指します。イエス様を信じる者は与えられた御霊によって、この十字架の言葉を語るごとに喜びを覚え、また慰められ、元気が与えられます。けれどもこの世の人は、この世の知恵の言葉には聞く耳を持っていますし、この世の賢人とか知者といわれる人の言うことには耳を傾けますが、御霊を持っていないために十字架の言葉はわからず、愚かに聞こえるのであります。


イエス様を信じる旅人は価値観が違う


またイエス様を信じる旅人がこの世から迫害されるのは、この世と違う価値観を持っているからであります。パウロは次のように言っています。


しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ人への手紙3章7~9節)


イエス様を信じる私たちはパウロのように、この世の一切のものをちりあくたと思うほどまだ信仰は強くありません。しかし、そのような私たちでもイエス様を信じる前と後では、この世に対する価値観が知らず知らずのうちに変っており、主イエス様のすばらしさのゆえに、それまで大切だと考えていた、この世的に価値あるものを空しく思う自分に気づいて、我ながら驚くのであります。そして同時にこの価値観の変化は自分の意思の力によってもたらされたものでなく、信じる者の中に住んでくださるイエス様の御霊のお働きによるものであることを知って、改めて主の恵みにただ心から感謝するのであります。


イエス様を信じる旅人にささやくサタン


このように、イエス様を信じる旅人は、この世の人々と衣服も違い、言葉も違い、価値観も違います。しかし目的地は違っても、イエス様を信じる旅人の道もこの世を通っていますから、旅の道中で人生の旅をしているこの世の旅人との出会いや交わりは常にあります。そこで、衣服が違い、語る言葉が違い、価値観が違うがゆえのいろいろな迫害が起こるのです。そのときサタンはイエス様を信じる旅人に対して次のようにささやきます。「あなたはどうして世の中の人々と違う服を着ているのですか、どうして世の中の人々と違う言葉を語るのですか、どうして世の中の人々と違う価値観を持つのですか。世の中の人々があなたを受け入れず、馬鹿にしたり、敬遠したり、迫害するのはそのためなのですから、ときにはあなたの今着ているイエス・キリストによる義という礼服を脱いで、彼らと同じ善行や慈善による義という服を着たらどうですか、ときにはあなたが語る十字架の愛という言葉の代わりに彼らが使っている人間愛という言葉で話したらどうですか、あなたが持っているイエス・キリストの信仰に基づく価値観を捨てて、ときには彼らと同じような学問、道徳、倫理に基づく価値観を持ったらどうですか、そのようにして世の中の人々と調子を合わせれば彼らはあなたを受け入れ、お互い仲良く、楽しい旅ができますよ」。しかし、これこそ天の御国への旅を妨げようとするサタンの落とし穴であります。


イエス様を信じる旅人はともに旅してくださるイエス様によって常に守られる


イエス様を信じる旅人である私たちは、この世の旅人とは衣服も、語る言葉も、価値観も違うとはいえ、まだまだ信仰が弱く、ときには旅に疲れて足がふらつき、またサタンのささやきに気を取られてサタンの仕掛けた穴に、泥沼に落ち込むことがあります。しかし、幸いなことに私たちはそのときどうするかを知っています。穴や泥沼に落ちたと知ったらすぐに、イエス様に助けを叫び求めればよいのです。私たちの叫び声をお聞きになったイエス様はすぐに穴から、泥沼から引き上げて安全なところに置いてくださるからです。ダビデは次のように神様に感謝の祈りをささげました。


私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。(詩篇40篇1~2節)


もう一つ、天の御国にはいる前にイエス様を信じる旅人は死の川を渡らなければなりません。死の川は天の御国への旅路の中で最大の難所であるといえましょう。けれどもイエス様がともにいてくださるという確信をしっかり持っていれば、私たちはイエス様にすがって死の川も恐れることなく渡ることができます。主が次のように私たちを励ましてくださるからです。


恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。(イザヤ書43章1~2節)


「死の川の水の中を過ぎるときも、死の川を渡るときもあなたは溺れない。それはわたしがあなたとともにいるからだ」これがイエス様の私たちに対する約束であります。そのイエス様のみことばを確信して死の川を渡れば恐れることはないのです。


聖歌四九一番の歌詞は天の御国に旅する私たちイエス様を信じる者への大切な心構えが歌われています。


天つ国をさして、なれはたどるや、

イエスにゆだねまつれ、汝がすべてを。

見失うなかれ、導く君を、

昼も夜もなれがそばにます主を。


見よ、主は進みたもう、狭き道をば、

目を奪う迷いの原、行くときに。

見失うなかれ、導く君を、

昼も夜もなれがそばにます主を。


「われはともにあり」と、イエスはささやく、

雲も暗き夜も、など恐るべき。

見失うなかれ、導く君を、

昼も夜もなれがそばにます主を。


天つ国にはいる、朝は間近し、

主なる君の姿、なお見つづけよ。

見失うなかれ、導く君を、

昼も夜もなれがそばにます主を。


この歌詞のとおり、イエス様を信じる旅人の私たちは昼も夜もともにいて導いてくださるイエス様を見失わないよう、祈りながら旅をすることがもっとも大切であります。この歌詞にあるように天の御国に入る朝はもう間近かであります。険しい長い旅で足が弱り、よろめきがちな私たちにとって、天の御国が近いということは大きな希望であり、その希望によって私たちはふたたび元気を出して旅を続けることができるのです。


イエス様を信じる旅人に託されている大切な務め


さて最後に、天の御国目指して旅する私たちイエス様を信じる者は、神様からたいへん重要な任務が与えられているということを忘れてはならないと思います。それは主イエ

ス・キリストを証しするということであります。天の御国への旅路はこの世を通っています。したがって旅の道中で多くの旅人に出会います。これらの人々の中には私たちを軽蔑したり、敬遠したり、迫害したりする人があると先ほど申しましたが、そのような人ばかりではなく、人生の旅をたどる間にいろいろな苦難に会って自分の無力さ、愚かさを知った旅人、人生に絶望した旅人、悲しみ、苦しんでいる旅人にも出会います。それらの旅人の中には彼らから見て変わった服を着て、変わった言葉を使い、変わった価値観を持つイエス様を信じる私たちが、苦しい目にあって、よろめきそうになっても倒れずに希望を持って旅を続けるのを見て不思議に思い、心を開いて来る人がいます。神様がその旅人の心を砕いて導いておられるからです。そのときがイエス様を証しする機会であります。その旅人にとってイエス様を知る機会はただ一度しかないかも知れません。ですからその機会を逃さないようにイエス様を信じる旅人はいつも目を覚ましていることが大切です。ペテロは天の御国目指して旅を続ける私たちイエス様を信じる者に対して次のように勧めています。


愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。(ペテロの手紙第一2章11~12節)


ここに記されているような「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざける」ことも、また「異邦人の中にあって、りっぱなふるまいをする」ことも自分の意思や力で決してできないことは私たち自身がすでに痛いほど知っています。ただひたすら、ともにいてくださるイエス様におゆだねして、祈りながら日々の旅を歩み続けるときに、信じる私たちの中で御霊が働いてくださり、おのずとこの世の旅人の証しとなるような歩みができるのではないでしょうか。このようにして、天の御国への旅の間に、次々と新しいキリスト者が誕生して、天の御国目指す旅人としてともに手を携えて旅することができたならば何と幸せなことでありましょうか。




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