何を求めて生きるか(2000年)

十二 終わりまで歩み、休みに入れ

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。(ダニエル書12章13節)


今日はこの聖書のみことばについてごいっしょに考えてみたいと思います。


「あなた」という呼びかけ


私がこのみことばを読んだとき、これは神様が私自身に呼びかけておられるのだと思いました。どうしてそのように思えたのでしょうか。聖書の中で「あなた」という呼びかけをしている箇所がたくさんありますが、この箇所もそのように、ダニエルという預言者に対して神様が仰せになったみことばです。ですから、これはダニエルに神様がお命じになったことであると思うのがふつう一般の受け取りかたでありましょう。私もかつては聖書をそのように読んでいました。たとえば「イザヤ書は、イザヤが神様から霊的に導かれて書いたものなのだから、その中で『あなた』と書かれていればイザヤに対する神様の呼びかけである」というように考えていました。ですからイザヤ書を読んでも、自分を第三者の立場に置いて「なるほどイザヤはそうだったのか、そのように神様の呼びかけに従ってゆくイザヤの信仰は立派だな」と感心して終わっていたのです。けれども、そのような読み方をしているかぎり、聖書のみことばをとおして神様と交わることはできないのです。


神の召命を受けた人々


いっぽう聖書を読んでいるとき「このみことばは主が自分に仰せになっているのだ」と示されれば、その人は神様の召命を受けたと言ってよいのではないでしょうか。神様の召命とは何かといいますと、神様がご自分のしもべとして用いようと、ある人を呼び出されること、お召しになることです。考えてみればこれはたいへんなことであります。しかし、聖書には神様のご用のために召し出された人たちがたくさんおります。そのうちの何人かについて神様がどのように呼びかけられたのか、そして呼びかけられた人がどのように応じたのか見てみましょう。


まず預言者イザヤであります。


私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6章8節)


ここで「われわれのために」と神様が複数形で仰せになっているのは、父なる神と御子なる神であるイエス様を指しておられるのですが、その御声を聞いてイザヤはすぐこれは自分に行きなさいと神様が仰せになっているのだと示されました。そこで彼はすぐに「私がおります。私を遣わしてください」と神様に申し出たのです。


次に預言者エレミヤの例を見ましょう。


次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。―――」そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」(エレミヤ書1章4~9節)


このように、はじめエレミヤは「自分はまだ若いのでどのように語ったらよいのかわからない」と言って尻込みをしました。けれども神様は「わたしがいっしょにいて助け、言うべき言葉も教える」と約束されたので、エレミヤもようやく神様の召命を受け入れたのです。


エレミヤよりももっと神様のお召しに抵抗した人がいました。それは預言者ヨナであります。


アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネべに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。(ヨナ書1章1~3節)


ヨナは神様の召命を避けて逃げようとしました。しかし、けっきょく彼は悔い改めて神様のお召しに従い、ニネべに行って神様のみこころを伝えたのです。


以上の例でおわかりのように、神様の召命を受けたときに取った態度はそれぞれに異なりますが、けっきょくは召してくださった神様のみこころに従って、神様のしもべとして用いられる者になったのです。


このように、神様が直接ご自分のみこころを伝えるご用のために召し出されたのが預言者です。しかし、神様が御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになってからは、イエス様が弟子をお選びになりました。


イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。(マタイの福音書4章18~22節)


このようにして、イエス様は十字架と復活によって成就された罪の救いの福音を世の人々に伝えるご用のために、彼らを召されたわけであります。もうひとり、復活後のイエス様に召し出された人がいます。それはパウロ、当時の名はサウロであります。


ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(使徒の働き9章3~6節)


イエス様はパウロを召すために、アナニヤという弟子を彼のところに遣わそうとなさいますが、アナニヤはキリスト者を迫害していることで知られているパウロを恐れました。しかしイエス様はアナニヤに次のようにおっしゃいました。


主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どたしの選びの器です。彼がわたしの名のたんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒の働き9章15~16節)


イエス様は、ご自分を迫害している者さえもこのように召し出されるのであります。パウロはこの後大いに用いられて殉教の死を遂げるまでイエス様の福音を当時の世界に広く伝える働きをしました。


キリスト者も召しに与かっている


しかし、以上に挙げた人々だけが神様やイエス様から召命を受けたのではありません。イエス様を信じて罪が赦され、この世から聖め別れた私たちも、神様の救いに与かった聖徒として、その救いのみわざを人々に宣べ伝えるために召しに与かっているのです。ペテロは次のように言っています。


ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。(ペテロの手紙第二1章10節)


イエス様を信じた私たちは、このように召されたこと、選ばれたことを確かなものにするよう勧められています。「召されたこと、選ばれたことを確かにする」ということは、イエス様の十字架と復活による救いのみわざを日々の生活をとおして世の人に熱心に証しするということによって、自分がイエス様に選ばれ、召し出された者としての自覚を確かなのとするということであります。


けれども、たいへん悲しいことに、イエス様を信じ受け入れた人々すべてにその自覚があるかと言えば、そうではないのです。それは、かつての私自身の経験からも言えることであります。私は若い頃から教会に行っており洗礼も受けていたのですけれども、神様から、あるいはイエス様から召し出されたという自覚はまったくありませんでした。その理由はイエス様に出会っていなかったからであります。復活されて後天に戻られたイエス様は肉眼では見ることはできず、御霊によって開かれた霊の目によってはじめて見ることができます。しかし、その当時の私は霊的に盲目でした。このような私でしたから洗礼は受けましたけれども、それは形だけの洗礼であって救いの確信どころか救われていたかどうかもわからない状態でした。そのような者がイエス様のご用に役立たないのはとうぜんです。しかし、その私をイエス様はお見捨てになりませんでした。後年になって試練を与えてくださり、自我を砕いて霊の目を開いてくださって、イエス様と霊的な出会いを体験させてくださったのです。


イエス様との出会いを体験すると、この世は自分にとってもはや大切ではなくなり、自分はこの世に属する者からイエス様の恵みによってイエス様に属する者に移し変えていただいたという実感が湧いてきます。イエス様はご自分の弟子たちについて次のようにおっしゃっています。


わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。(ヨハネの福音書17章16節)


イエス様の恵みによって、この世のものでなくなったキリスト者は、もはやこの世を愛することも、この世に執着することも、この世と妥協することもなくなるはずであります。しかし、実際はどうでしょうか。ヤコブは当時のキリスト者に宛てた手紙の中で、


貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブの手紙4章4節)


と書いています。ヤコブは世を愛するキリスト者を「貞操のない人たち」と嘆いています。私もかつては貞操のないキリスト者でした。「この世も大切である」と平気で言っていたような者でありました。しかし、イエス様のあわれみによってイエス様と出会った結果、冒頭のみことばの中で「あなた」とはイエス様が私を指しておっしゃっているのだということがようやくわかったのです。そして、そのように「あなた」という言葉を受け止めることができるようになったときにはじめて、ではどうしたらイエス様が私に仰せられた「終わりまで歩め」という歩みができるのだろうかと考えるようになりました。


終わりまで歩むには


さて、ここに言うところの「終わり」とは、イエス様から召し出された者一人ひとりのこの世のいのちの終わりのことであり、この世の旅路の終わりであります。イエス様によって罪から贖い出され、永遠のいのちを与えられた者には、天国に国籍が与えられていますから、この世はイエス様を信じる者にとっては寄留地であり、信じる者はこの世を旅する旅人であります。そしてその旅の終わりのときと場所は、一人ひとりイエス様がお決めになります。ですから冒頭のみことば、「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ」とは、イエス様が私に「あなたは、この世での信仰の旅路をわたしが定めたときまで歩みなさいそしてその後は天の御国でわたしのそばで憩いなさい」とおっしゃっているのだと思います。ということはイエス様が「もうよい」とおっしゃるまでは勝手に休むわけにはいかないということです。


このみことばが与えられた年は私の定年退官の年でありました。定年は人生の一つの区切りですから少し休みたいという肉の思いがありました。そのとき与えられたのが「終わりまで歩め」というみことばです。イエス様が「あなたの歩みは、まだ終わりではない」とおっしゃるのでしたら、私の肉は休みたくても休めないのであります。ではどのように歩んだらよいかといえば、パウロが、


さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ人への手紙4章1節)


愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。(ペテロの手紙第一2章11節)


と言っているように歩まなければなりません。しかし、召しにふさわしく歩むことも、肉の欲を遠ざけることも、救われてはいてもまだ肉の衣を着ている者にとっては難しいことです。自分の努力では決してできません。ではどうしたらよいでしょうか。神様はソロモン王を用いて次のようなみことばをくださっています。


心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3章5~6節)


このみことばのとおりであります。霊の目をイエス様にしっかり向けて、イエス様に信頼することだけです。自分に頼らずイエス様に信頼するときに、イエス様は御霊を遣わしてくださり、私たちの霊に欲に打ち勝つ力を与えて御霊に従って歩むようにしてくださいます。パウロが、


どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。(エペソ人への手紙3章16~17節)


私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤ人への手紙5章16節)


と言っているとおり、御霊に拠り頼むことができるように真剣に祈り求めれば主がそれを可能にしてくださいます。


さらに、イエス様を信じる私たちが疲れて足がよろめくとき、もう休みたいと思うときに、主のみことばが私たちの霊の足を支え、力づけてくださいます。


胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ書4章3~4節)


主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。こうして主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63章8~9節)


「足跡」という詩があります。あるキリスト者が夢の中で自分の苦しいときに、振り返って自分のたどってきた足跡を見たら、ひとりの足跡しかなかった。そういうときになぜイエス様がともにいてくださらなかったのかと悲しんでいたら、イエス様は「それはわたしの足跡である。あなたの苦しいときに、わたしはあなたを抱いていたのである」とおっしゃった、という意味の詩であります。私たちも「主がどんなときにも私を背負ってくださり、抱いてくださっている」と確信するならば、イエス様にすがって終わりまで歩むことができます。


神の相続人の証拠


私たちがイエス様から遣わされた者として福音を伝えようとすればするほどサタンの攻撃は激しくなります。しかし、そのような試練こそ神様の相続人であるという証拠だとパウロは言っています。


私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ人への手紙8章16~17節)


そして何よりも、イエス様の召しに従って歩む者にはすべてにまさる大きな希望が与えられています。それはイエス様が約束してくださった天国への希望であります。


義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイの福音書5章10~12節)


この希望がありますから、たとえこの世において迫害に会っても、イエス様を信じる私たちはパウロが言っているように天国を待ち望みつつ耐え忍ぶことができるのです。


今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ人への手紙8章18節)


あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ


イエス様はご自分のメッセージ、すなわち福音を伝える使命を私たちキリスト者に託されました。福音を伝えるにはサタンと戦わなければなりません。しかし、この戦いのために召し出された者は、足ものろく、知恵も力も勇気もありません。けれどもイエス様はこのような者を用いてご自身の栄光を現わされます。


兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(コリント人への手紙第一1章25~29節)


イエス様の前でだれをも誇らせないようにするために、私たちのような愚かで無力な者をイエス様はご自分の戦いのために召されたのであります。ですから私たちはそのようなことで恐れることも、思い煩うこともないのです。私たちはただつぶやかないで、疑わないで、イエス様に結びついて終わりまで歩めばよいということであります。そのように歩む者に対してイエス様は冒頭のみことばのように、


あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。(ダニエル書12章13節)


と約束してくださっているのです。


私たちにはイエス様を信じる者に恵みとして約束されている割り当ての地が天の御国に用意されています。そしてイエス様から「もう歩まなくてもよい。休みに入れ」と言われたそのときに、このすばらしい天の御国に割り当てられた相続地にはいることができるのです。なんと光栄なことでありませんか。


休みたいと思っていた私も、このような多くのさとしと励ましを主イエス様からいただいて、それ以来八年の間貧しい歩みではありましたが、このような者を召してくださったイエス様の一方的な恵みとあわれみに感謝しながら日々歩ませていただいてまいりました。これからもイエス様が私の前に敷いてくださった天の御国を目指すこの世の旅路を終わりまで主にしっかり拠り頼みながら歩み続けさせていただけるようにと祈る毎日であります。




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