何を求めて生きるか(2000年)

十 御子を信じる者がひとりとして滅びることなく

――あるキリスト者の葬儀でのメッセージ――

ただいまご紹介いただきました吉祥寺キリスト集会に集っております重田でございます。本日、Aさんのご葬儀の場でメッセージをするようにとのご依頼を受けましたので、これから神のみことば、真理のことばである聖書は、Aさんの死をとおして何を私たちに示しているかということについて、皆様とごいっしょに考えてみたいと思います。


人間はなぜ死ななければならないのか


今日ここにお集まりの皆様方は、Aさんの心不全による突然の死の報に接してほんとうに驚かれ、また悲しんでおられることと、心からお察し申し上げます。一昨日までお元気であられた方のご遺体が、今こうしてお棺の中に横たわっておられます。死というのはいったい何なのでしょう。どうして私たち人間は死ななければいけないのでしょうか。


日頃元気なうちは、私たちは死の問題について考えることはほとんどありませんし、また、もし頭に浮かんだとしてもまだ先のことだから考えないようにしようと避けてしまうのではないでしょうか。しかし、親しい方の死を目の前にしたとき、どうして人間には死があるのだろう、どうしてこんなに悲しいことに会わなければならないのかと、どなたでも真剣に考えざるを得ないのではないかと思います。


聖書には次のような言葉が記されております


祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。(伝道者の書7章2節)


これは真理であります。死は人間の最大の敵と言ってもよいと思います。もし、この恐ろしい死を克服できたら何とすばらしいことでしょうか。昔からそのことに人間は知恵をしぼってまいりました。医学の誕生と進歩はこの人間の切なる願いに応えるためのものでもありました。ご存じのように、医学は人間の寿命をある程度延ばすことには成功いたしました。けれども、どんなに医学が進歩しても、決して死に勝つことはできません。人間は生まれたからにはかならず死ななければならないのであります。聖書の詩篇には、


いったい、生きていて死を見ない者はだれでしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう。(詩篇89篇48節)


という箇所があります。また、


風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。(伝道者の書8章8節)


とも記されています。これも真理であります。


罪から来る報酬


どうして人間には死があるのでしょうか。この問題は私たちがいくら自分の頭で、いや人間の頭で考えてもわかりません。古今東西の哲学者はこの問題を考えてきましたが、いまだに解決されておりません。


しかし、聖書は明解に「死は人間の罪の結果である」と言っております。この罪とは私たちが考えているいわゆる「人間が人間に対して犯す罪」ではなく、また法律で言っている罪でもありません。聖書で言っている罪というのは、私たちを造ってくださった創造主である神様のことをすっかり忘れ、神様に背を向けて自分勝手に、自己中心、人間中心に生きることであります。神様のみこころに従うのではなく、自分の思いに従う、これが罪であります。英語で「罪」という言葉は二つあります。クライムという言葉とシンという言葉です。日本語では「罪」という言葉は一つですから、どう違っているのかわかりませんが、CRIMEというのは法律的な罪のことであり、SINというのは私たちの心が犯す罪です。SINの綴りの真ん中にあるのはI、すなわち「自分」です。自分がいつも中心にいる、そういうわがままな、自分勝手な生き方がSINという罪とお考えになってよろしいと思います。そうであれば人間はすべてひとり残らず神様に対してSINという罪を犯していることになります。聖書の中にこういう言葉があります。


義人はいない。ひとりもいない。(ローマ人への手紙3章10節)


聖書で「義人」というのは神様から正しいと認められる人のことを指しますが、そのような人はだれひとりいないのです。


私たちすべてが出会わなければならない死は、この罪によって汚れてしまった結果として生じたものであります。聖書の神様は創造主の神様であり、完全に聖く正しい方であります。したがってSINという罪を持った者に対しては、神様はその聖く正しいご性質のゆえに厳しく裁かれるのです。罪を持ったままでいる者を見過ごすことはおできになりません。それが聖書の神様であります。それでは神様はあまりにも厳しすぎるのではないかとお思いのことでしょう。


御子イエス・キリストによって与えられた永遠のいのち


しかしながら、このまったく正しい神様は同時に、


わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。(エゼキエル書33章11節)


とおっしゃるように、まったき愛の神様でもあるのです。では、神様に背を向けたままでただ死を恐れている私たち人間を救い出すために、神様は何をしてくださったのでしょうか。神様はご自分のひとり子であるイエス・キリストを私たち人間の歴史の中に送ってくださったのであります。これこそ、まったき愛というほかありません。聖書に、


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネの福音書3章16節)


とあります。「世」とはまさに神様に背を向けて自分中心に生きるという罪に満ちたこの世界とそこに住む人々のことを指しています。神様はそのような人々をも愛してくださって、


それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)


と約束してくださったのです。


さらに次のようなみことばによっても、イエス・キリストを信じる者に永遠のいのちがはっきり約束されています。


罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローーマ人への手紙6章23節)


もうすでに皆様方もおわかりのことと思いますが、この神様のかぎりない愛をいただくためには、私たちがしなければならない大切なことがあります。そこでイエス様のおっしゃった次のみことばについて考えてみたいと思います。


医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。(ルカの福音書5章31~32節)


私たちは自分は丈夫だとか、健康だとか思っております。とくに健康診断で異常がないと言われた方々は、「自分は健康だ、丈夫だ」と思っておられるでしょうが、実はそうではないのです。なぜでしょうか。それはみな罪という病気にかかっているからなのです。この病気はガンよりも怖い病気です。なぜなら医学では治せないからです。この罪という病気を治すことのできる唯一の名医は神が人となられたイエス・キリストであります。私たちがその罪という病気にかかっている自分に気づいて、「自分は神様をないがしろにしていたどうしようもない人間で、隣人を自分と同じように愛することなどとてもできないし、正しいこと、立派なこと、善いことをしたいと思っても、実は何もできない。またそんなことを少しでもするとかえって傲慢になって、自分は人よりも優れた者、立派な者だと思い上がり、傲慢の罪を犯してしまう」というように、どうしても離れることのない自分の罪を認めて、「神様あわれんでください、こんな者を赦してください」と心から悔い改めて神様の前に出たとき、神様は何とおっしゃるでしょう。「それがわかればよい。あなたの罪は癒された。もうあなたは聖いのだ」と言ってくださるのです。このように、私たちが神様のかぎりない愛をいただくためにしなければならない大切なことはこの悔い改めであります。では、悔い改めたとき罪が赦され、聖くしていただけるのはいったいどうしてなのでしょうか。


それは神の御子でありながら人となられたイエス様が身代わりとなってその罪を負って十字架で死んでくださったからなのであります。私たちの罪が聖められるには完全に聖いお方によって罪の代価が支払われなければならなかったのです。ですからイエス様にこの罪という病気を治していただくしかないのであります。私たちが自分の罪に気づき、心から悔い改めて救いを求めるとき、イエス様はご自分が流された血潮で私たちを聖めてくださいます。こうして罪が聖められた者を神様はご自分の子どもとしての身分をくださるばかりか、この世の歩みに終止符が打たれたとき、その人の霊は黄泉(よみ)に下ることは決してなく、神の子どもとして直ちに神様のもと、すなわち天の御国に引き上げられるのであります。


霊のよみがえりと肉体のよみがえり


「それではいったい肉体のほうはどうなるのか。霊だけが天国に行っても、霊は裸ではないか。肉体はお墓に入って霊とは別れわかれになるのか」というように思う方がおられるのではないでしょうか。これはたいへんな問題です。作家の司馬遼太郎さんは皆さんご存じと思います。司馬さんは北陸の方で、浄土真宗を信じておられました。その司馬さんがある日、有名なお坊さんに「いったい人間は死んだら霊と、からだはどこへ行くのですか」と質問したそうです。しかし、そのお坊さんは司馬さんに納得がいくように答えられなかった。それで司馬さんは「仏教はこんな立派なお坊さんでも、いちばん人間が知りたい、心配している問題に何らはっきりとした解決の道を与えてくれないではないか」と失望し、今度は聖書を読まれたそうです。そして自分の疑問に答えてくれたのは聖書だけだ、と本に書いておられました。


ではその重大な問題について聖書には何と書いてあるのかということを、これから少しお話ししたいと思います。聖書にはイエス様を信じて死んだ者の肉体はやがてよみがえると書いてあります。「そんなことはあるはずがない、人間は死んだら生き返るなどということはあり得ない」とお思いのことでしょう。私も医者ですから医学の基準で考えれば、それにはまったく同意見です。


しかし、イエス様は十字架にかけられて墓に葬られ、事実、三日後に復活なさったのです。作り話ではないかと思われるかもしれませんが、そうではないのです。復活されてから天に昇られるまでの間のイエス様のお姿をたくさんの人が見ております。聖書には五百人以上と書かれています。その中にははもちろん、イエス様に終始つき従っていた弟子たも含まれております。しかし、トマスという弟子は他の弟子たちの前に復活されたイエス様がお姿を現わされたとき、そこにはいませんでした。そして弟子たちからイエス様が復活されたということを聞いて、「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきばらに差し入れてみなければ決して信じません」と言いました。するとそこにイエス様が現われて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばしてわたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とおっしゃったのです。トマスはたちどころに「わたしの主、私の神」と復活のイエス様の前にひれ伏しました。そのトマスにイエス様は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と仰せになったのであります。


そのほか、聖書に記されている数々の証拠を復活されたイエス様はお示しになりました。イエス・キリストは聖霊によってマリアからお生まれになった血と肉を持った方ですけれども、同時に神の御子ですから神様であります。神様は何でもおできになる全知全能の方です。イエス・キリストも神様でありますから、そのイエス様が復活されても何ら不思議はありません。イエス様は人としてこの世にお生まれになったのですから死ぬこともおできになそれと同時に復活することもおできになった。それは神と人との両方のご性質を持っておられたからです。そのイエス様がご自分を信じる者に対して、「あなたはわたしを信じているから、やがてわたしがもう一度あなたがたを迎えに来るときに、わたしの復活のからだと同じからだによみがえらせてあげよう」とはっきり約束してくださっているのです。聖書にはそのことが次のように書かれております。


わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書11章25節)


これは霊のよみがえりのことだけでなく、肉体のよみがえりのことも言っておられるのであります。別の箇所ではまた、


わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネの福音書6章38~40節)


とはっきりおっしゃっています。


人が「死に勝利する」ということは、このようにイエス・キリストを信じることによって、霊だけでなく、肉体もよみがえることであります。その時期はいつなのか、明日なのか、私たちにはわかりませんけれども、それは前にも申しましたように、復活された後、天に戻られたイエス様が信じる者を迎えにふたたび来られるときと聖書に書かれております。そのとき、イエス様は天国でご自分のそばに置かれた方々の霊を連れて来られるのです。Aさんもそのひとりであります。そして墓の中に納められていたAさんのお骨を、死ぬことのない体、朽ちない体、聖い完全な体、栄光の体、すなわちイエス・キリストの復活の体と同じ体によみがえらせ、いっしょに連れて来られたAさんの霊とよみがえりの体とが一つにされて、ふたたびイエス様とともに天に引き上げられ、もう死ぬことのない、また罪を犯す可能性のない、完全な霊とからだで永遠に神様とともに生きるのであります。これが聖書に記されている「死からの勝利」であります。聖書はこれについて次のようにはっきりと言っております。


私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3章20~21節)


イエス様を信じる者はこの日を心から待ち望んでいるのであります。


このようにイエス・キリストは十字架の死と復活のみわざによって人間を罪から救い出し、霊と肉体のよみがえりを与えるために、神であられながら人としてこの世に来てくださったのであります。したがいまして、このイエス様をご自分の心に救い主としてお受け入れになるかならないかは、永遠のいのちか、永遠の滅びかの分かれ目であります。天の御国を仰ぎ見ながら希望を持って、喜んでこの世の死を迎えるか、あるいは絶望しながら、恐れながら、悲しみながら死を迎えるかの分かれ目であります。


ほんとうに安心して死を迎えることができるためには


最近、医療の現場では、どうしたら患者さんが安らかに死を迎えることができるかという、いわゆる終末医療、ターミナルケアに力を入れはじめております。しかし、人間がほんとうに安らかに死を迎えることができるためには、これまでお話しいたしましたように、罪の病の問題を解決しておかなければなりません。この問題の解決は医療によって、医学によって、あるいはもっと端的に申しますと、人間の手によっては決してできません。けれども心砕かれ悔い改めてイエス様の前にお出になる方にはすべて、この罪の病からの解放と死からの完全な勝利が与えられるのです。イエス様を信じ、この罪の病と死から解放されておられたAさんは今天国におられます。イエス様と顔と顔を合わせて、ご自分を天国に召してくださったイエス様に感謝して、どんなに喜んでおられることでしょう。聖書に、


見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録2章3~4節)


と記されているとおりであります。


本日ご列席の皆様も、生前親しく交わられたAさんに天国でふたたびお会いになることが可能であります。けれどもそのためにはAさんのように、ご自分も神が人となられ、お一人おひとりのために身代わりに罪を負って死んでくださったイエス・キリストを信じていただくことが必要であることを、どうかAさんのご召天をとおして知っていただきたいと存じます。


人間は生まれたときからひとり残らず死に向かって歩きはじめます。例外はないのです。そして人間は自分がいつ死ぬのか、自分ではわからないのです。私たちはいつ神様にお会いしてもいいように、今からその準備をしておく必要があると思います。天国におられるAさんも愛する親しい皆様がイエス・キリストを信じ、死の問題を解決されて、やがてすばらしい天国で喜びの再会ができるように心から願っておられることと確信いたします。




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