何を求めて生きるか(2000年)
このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。(サムエル記第二9章8節)
今日はこのメフィボシェテの言葉から、無価値な者を顧みられる神様と、神様の顧みの対象とされている私たちの態度について、ごいっしょに考えてみたいと思います。
メフィボシェテはサウル王の子、ヨナタンの子です。五才のとき、ペリシテ人と戦った祖父サウル王と父ヨナタンは戦いに敗れて死に、メフィボシェテは乳母に抱かれて逃げたとき、乳母が彼を落としたので、それから足が不自由になりました。
さて、サウルの子ヨナタンに、足の不自由な息子がひとりいた。その子は、サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされたとき五才であった。うばがこの子を抱いて逃げるとき、あまり急いで逃げたので、この子を落とし、そのためにこの子は足なえになった。この子の名はメフィボシェテといった。(サムエル記第二4章4節)
サウルとヨナタンが死んでから七年半後、ユダとイスラエルを統一して王となったダビデは、自分の無二の親友であったヨナタンのためにサウル家で生き残った者に恵みを施したいと考えました。そしてヨナタンの子で足の不自由なメフィボシェテがいるのを知ったダビデは人を遣わして彼を連れて来させました。
サウルの子ョナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなた父のヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」彼は礼をして言った。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」(サムエル記第二9章6~8節)
メフィボシェテは、かつては王子として多くのしもべに侍づかれ、富も権力も保証されて、この世的にはこの上ない恵まれた境遇にありました。ところが祖父と父はペリシテ人と戦って敗れて死に、その結果王家は没落し、それ以来彼はかつての家臣の家に隠れるように身を寄せてひっそりと暮らしていました。その上、幼いときに落とされて骨折した両足は萎縮してしまい、成長しても歩くことも不自由なからだになっていました。このようにして彼からは親も富も権力も健康もすべて取り去られてしまったのです。彼はどんなに寂しく、惨めに、悲しい思いで生きて来たことでしょうか。そのような自分を彼は「死んだ犬」のようなものだと思うほどだったのです。イスラエルではどういうわけか犬は卑しむべき動物として、人を蔑む表現に使われています。たとえば、
犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。(箴言26章11節)
という箴言の言葉もそうです。何回も懲りずに過ちをくり返すような愚かな者を犬にたとえて軽蔑しているのです。しかし、わが国でも恥ずべき行ないを「犬にも劣る」というように言いますから、このようなときに使われる犬の評価もイスラエルと相通じるものがあるのは不思議な気がします。さてその評価の低い犬の、さらに死んだ犬となると、これはもう無価値もいいところではないでしょうか。すなわち彼は自分はもう死んだ犬に等しい、生きていても何の価値もないような者だと思うほどに、自我が砕かれ、低められていたのです。
その彼にまったく思いがけないことが起こりました。ある日ダビデ王から呼び出された彼は、祖父のサウル王がかつて部下であったダビデを殺そうとしたことがあったのを知っていたので、自分にも何かの罰が加えられるのではないかと恐れたのです。しかし、恐る恐るダビデ王の前に出てひれ伏したメフィボシェテに、ダビデは祖父サウル王の財産を全部返そうと言ったばかりか、いつもダビデ王の食卓で王とともに食事をしてよいと言ったのです。彼は自分の耳を疑ったほど驚いたに違いありません。自分に与えられた恵みが信じられなかったからです。そこで彼の口をついて出た言葉が「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」という問いだったのです。
このエピソードは、私たちに二つのことを示唆しているのではないかと思います。一つは無価値な者を心にかけてくださる神様と御子イエス様の恵みであり、もう一つはその恵みをいただく私たちの態度であります。
まず無価値な者を顧みてくださる、心にかけてくださる、神様ならびにイエス様の恵みについて考えてみたいと思います。
神様はかつてモーセに次のように言われました。
わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しょう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。(出エジプト記33章19節)
神様の恵みはこのように私たち人間の基準とはまったく違い、神様のみこころ次第なのであります。神様は私たちに価値があるから、私たちが何か努力をしたから、また何かりっぱな行ないをしたから、その報いとして恵んでくださるのではなく、ただ神様ご自身のお考え、ご意思によって恵んでくださるのです。
イエス様が取税人ザアカイに示された恵みも、イエス様からの一方的なご意思による恵みでした。
イエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。(ルカの福音書19章1~6節)
このエピソードでもわかるように、ザアカイはそれまでイエス様の評判を噂で聞いていただけで一度もお会いしたことがなかったので、まさかイエス様から自分の名を呼ばれるとは思いもよらなかったのです。しかも「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたので、彼は大喜びしてイエス様を家にお迎えしたのです。イエス様は彼が金持ちだから、あるいは町で尊敬されているりっぱな人物だから、彼の家に泊まろうと思われたのでしょうか。そうではありません。というのは、今のみことばに続いて七節から八節に、
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカの福音書19章7~8節)
とあるように、イエス様は彼が町の人たちからどんな目で見られているかをとっくにご存じであり、またザアカイ自身も自分がどんなに罪深い人間かということも、また町の人みなが自分を軽蔑していることもよく知っていたのです。そんな価値のない自分のところにイエス様が来てくださり、そのような自分を顧みてくださったという恵みを感謝する気持ちから、すなおに「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」という表現で、イエス様に罪の悔い改めを告白したのです。
イエス様は、好んでこの世的に言えば価値があるとは思えない人々と食事をされています。
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書9章10~13節)
イエス様が取税人や罪人といっしょに食卓に着くということは、ただ食事をともにするというのではなく、彼らと親しい交わりをするという意味を持っております。ここでイエス様ははっきり、ご自分を必要としているのはこの世の基準からみて立派な人、価値ある人ではなく、罪人であり、また無価値な人であって、そのような人々を招待するために、そしてそのような人々と親しく交わるために、この世に来たとおっしゃっているのです。私たちはここに罪人に仕えるためにおいでになった、愛とあわれみに満ち満ちたイエス様のお姿を見るのであります。
いっぽう、このイエス様の恵みをいただく私たちキリスト者の態度はどうでしょうか。イエス様の御前に、自分は死んだ犬のような無価値な者というように、ほんとうに砕かれ、低められた態度をいつも取っているでしょうか。自分自身を振り返ってみたとき、残念ながらそれどころか、イエス様の前に大きな顔をしている自分に気づいて、はっとします。日々イエス様からの恵みをいただきイエス様に支えられながら歩んでいるにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて自分の足で歩いているような気持になっている自分に気づいて、また口では主の恵みを感謝しますと言いながら、その恵みをほんとうに感謝していない自分に気づいてはっとするのであります。
アブラハムは神様に、
私はちりや灰にすぎません・・・・(創世記18章27節)
と言っていますが、私たちは自分がちりや灰のような吹けば飛んでしまうような価値のない者であるにもかかわらず、そのような者をイエス様がご自分の尊いいのちを代価として滅びから救い出してくださったことをすっかり忘れて、イエス様が私たちを恵んでくださるのがとうぜんであるかのような傲慢な態度でイエス様の前にいるのではないでしょうか。自分がイエス様とともに食事の席に着くにはまったくふさわしくない者であるにもかかわらず、そのような自分をイエス様が招待してくださることがどんなに恐れ多いことか、どんなに光栄なことか、どんなに大きな恵みかも忘れて、平気で平服のまま食卓に着こうとしているのではないでしょうか。
ダビデは、
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。(詩篇8篇3~4節)
と宇宙万物を創造され、支配しておられる偉大な神様がちっぽけな人間を特別に扱っててくださっていることへの驚きを込めてこのように賛美していますが、これはいかに自分が神様の前に無に等しい存在であるかを知って、主なる神を心から恐れ尊んではじめて言えることだと思います。
さて、メフィボシェテはどうなったでしょうか。サムエル記第二には、
メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。(サムエル記第二9章13節)
と書かれています。彼はその後王の都でダビデ王と同じ食卓で王とともにいつも食事をする恵みに与かっていたのです。そしてその彼の足は依然として砕かれたままであったのです。それではイエス様を信じる私たちはどうでしょうか。私たちにはどんな王にも勝る王の王、主の主であられるイエス様と同じ食卓でいつも食事をするというたいへんな恵みが与えられているのです。何という恐れ多いことでしょうか。何という光栄なことでしょうか。しかし、そのようなすばらしい恵みに与かる私たちは、ほんとうにメフィボシェテの足のようにいつも砕かれたままでありましょうか。私たちはいつも心砕かれ低くなって、自分の力では一歩も歩けない足のなえた者であることを自覚しているでしょうか。もし私たちがそれを自覚していれば、イエス様はヨハネの黙示録の中に記されているように、
見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3章20節)
と信じる者に呼びかけられることはないはずです。私たちが砕かれて自分が足の萎えている者であり、何の価値もない者であることを知って心の戸を開けたときこそ、ほんとうにそのような無価値な者を顧みて食事をともにして親しく語りかけてくださる王の王、主の主であられるイエス様のかぎりない愛とあわれみを身にしみて覚えることができ、そのイエス様に心からの感謝をささげる者となれるのではないでしょうか。
聖歌五二二番は地のちりに等しいような価値のない者に救いの恵みを与えてくださったイエス様に対する賛美の歌です。この歌詞をお読みし、ともに心から主を賛美して終わりたいと思います。
地のちりに等しかり、なにひとつとりえなし、
今あるはただ主の愛に生くるわれぞ。
み救いを受けし罪人に過ぎず、
されどわれ、人に伝えん、恵みふかきイエスを。
罪の世を望みなく、いくとせか迷いしを、
ただ君が愛もて救いませるわれぞ。
み救いを受けし罪人に過ぎず、
されどわれ、人に伝えん、恵みふかきイエスを。
もし恵みなかりせば、はや滅びはてしならん、
あるはただ罪のみ、功なきわれは。
み救いを受けし罪人に過ぎず、
されどわれ、人に伝えん、恵みふかきイエスを。
されば世にあるかぎり、主をうたい、主をたたえん、
滅びよりいのちに、移されたるわれは。
み救いを受けし罪人に過ぎず、
されどわれ、人に伝えん、恵みふかきイエスを。