何を求めて生きるか(2000年)
御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。主にほめ歌を歌え、シオンに住まうその方に。国々の民にみわざを告げ知らせよ。(詩篇9篇10~11節)
今日は詩篇九篇の中のこの箇所から、御名を知るとはどういうことなのか、そして御名を知った者はどのように生きたらよいのかということについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。
聖書には御名という言葉がよく出てきます。たとえば預言者エレミヤは次のように言っています。
主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。(エレミヤ書10章6節)
はじめにお読みした詩篇はダビデが作ったものですが、このダビデとエレミヤの言葉から私たちはすぐに御名とは聖書の神様の御名を指しているということがわかります。そしてその神様はご自分の御名を知る者に対して次のように仰せになっています。
彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。(詩篇91篇14節)
ここで神様が「彼がわたしの名を知っている」とおっしゃっている、「知っている」ということは私たちの知識として知っているという意味ではありません。エレミヤが「あなたの御名は力ある大いなるもの」と言っているように、また預言者のイザヤがイザヤ書の中で、
見よ。主の御名が遠くから来る。(イザヤ書30章27節)
と言っているように、ここでは主の御名とはたんなる名前ではなく主なる神ご自身を意味しております。ですから主の御名を知るということは、たんに神様とは天地万物を創造され永遠に支配しておられる、力と恵みとあわれみに富みたもう大いなる生ける神であるということを知識として知るだけではなく、その神様は自分を子どものように愛して守ってくださっていることを心から感謝して、御前にへりくだり、まったき信頼をもって神様に自分をゆだねることまで含まれるのであります。そのように神様を知って御前にへりくだる者を、神様は高く上げよう、すなわち神様の子どもとしての身分を与え、さらにご自分のご栄光を現わすための器として大いに用いようと約束しておられるのです。
イエス様の御名を知ると言う場合も同じことが言えます。それはただイエス様はマリヤから生れ、十字架にかかって死なれ、三日後に復活されたキリストであることを知識として知っているということではありません。イエス様の弟子のペテロはイエス様が復活され天に戻られてから後に神の霊、御霊を受けて、イエス様こそがキリストである、救い主であるということをエルサレム中に宣べ伝えました。そしてそれを聞いた多くの人々がイエス様を信じたことに困惑したユダヤ教の大祭司たちは、ペテロを捕らえ「おまえは何の権威によって、まただれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しました。ペテロは答えて次のように言っています。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)
ここで言われている「私たちが救われるべき名」とは、言うまでもなく主イエス・キリストの御名であります。ペテロは、イエス様が十字架にかかられるまでの三年の間寝食をともにした生活をとおして、またイエス様が復活されて天に上られた後に、イエス様の約束どおりに信じる者に遣わしてくださった聖霊によって霊の目が開かれた自らの体験をとおして、私たち人間を神様に対する罪から救い出してくださることのできる方は、神が人となられたイエス様ご自身のみであり、ほかにはだれもいないことをはっきりと知りました。ですから「私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていない」という表現によって迫害されてもイエス様を証しし続けたのであります。これが、イエス様の御名を知っているということであります。
イエス様ご自身も、回心したパウロのところに行くようにとアナニヤに命じられたとき次のようにおっしゃっています。
主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒の働き9章15節)
イエス様はご自分の名、すなわち神が人となって私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださったイエス様を世界中に伝えるため、パウロを「わたしの名」、つまり「イエス様ご自身」を運ぶ器としてお選びになったのです。私たちも一人ひとり自分の名前を持っています。そして私たちがある人の名前を知っているという場合には、たんに名前を覚えているというのではなく、その人がどんな人かを顔かたちだけでなく、人柄や経歴なども含めて頭に思い浮かべていることが多いのではないでしょうか。このように名前はその人の実体を示すものであります。それと同様に神様の御名を知っている、あるいはイエス様の御名を知っているということは、神様がどんな方か、イエス様がどんな方か、そのご人格とその力を、自分自身が体験して自分の上に現わされた大きな深い愛と、恵みと、あわれみのみわざによってよく知っているだけに止まらず、神様、イエス様に信頼して従うこと、神様、イエス様に拠り頼むこと、ゆだねることまでも意味していることなのであります。
パウロがコリントの教会の信者に宛てた手紙の中で、
かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(コリント人への手紙第二5章16節)
と言っているのはまさにそのことを指しているのであります。
ヨハン・セバスチャン・バッハはご承知のようにマタイ、ヨハネの二大受難曲のほか、数多くのカンタータやコラールなどの教会音楽をはじめとして、クラヴィーアやオルガンやフルートやチェロなどのための独奏曲や協奏曲、管弦楽曲など多くの美しい音楽を作曲した偉大な作曲家です。偉大な作曲家はほかにも大勢いますが、バッハの音楽を聴くとなぜかほかの作曲家の音楽からは得られない深い心の安らぎと喜びを覚えるとおっしゃる方はたくさんおられます。いったいどうしてなのでしょうか。私は最近バッハの妻アンナ・マクダレーナの書いた「バッハの思い出」という本を読んだとき、その理由はここにあると思わせる箇所に目が留まりました。そこにはバッハは自分の作った曲の大小を問わず、楽譜の冒頭に「イン・ノミネ・エス」という言葉を書き入れていたと書いてあったのです。「イン・ノミネ・エス」とは「イエスの御名において」という意味です。
ふつうならば作曲家は自分の作った曲には自分の名前、あるいは自分であることがわかる記号を書き入れるのが常識であります。私たちは音楽にも著作権があることを知っていますが、これは自分の作った曲は自分のものと主張する権利があるということであります。この権利を主張するために作曲家は自分の名前を楽譜に書き入れるのです。しかしバッハは自分の名前の代わりに「イエスの御名において」という言葉を書き入れました。バッハはどうしてこんなことをしたのでしょうか。それは彼がイエス様の御名を知っていた人であったからであります。バッハが自分の罪を贖うために十字架にかかってくださったイエス様を主と信じ、主なるイエス様に従って生きていたからであります。ですからバッハが楽譜に「イエスの御名において」と書き入れたのは、「私はこの曲を自分のためではなく、イエス様の御名において作りました」というバッハの信仰告白を現わしていると考えてよいと思います。このバッハの信仰をイエス様はたいへんに喜ばれ、大いに彼の音楽を用いてご自身のご栄光を現わされたのであります。このようにイエス様の御名において作られたバッハの音楽だからこそ、神様はバッハの音楽を聴く私たちの霊の耳に御霊によって安らぎと喜びを与えてくださるのであろうと思います。
パウロはガラテヤの教会の信者への手紙の中で、
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)
と言っており、またコリントの信者への手紙の中では、
キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(コリント人への手紙第二5章15節)
とも言っています。またパウロの協力者テモテへの手紙には、
もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。(テモテへの手紙第二2章11節)
と書いています。ここにある「彼」とはイエス様であります。
晩年、眼の病のために失明し、いよいよ死期が近いことを知ったバッハは、口述筆記によって最後の曲を作ったと伝えられています。その曲は「汝の御座の前に、われいま進み出で」と題したオルガン・コラールでした。このように作曲はバッハにとっていのちそのものであったのです。しかし、バッハは作曲を自分の肉のいのちのためにしたのではありませんでした。パウロが今お読みしたガラテヤやコリントの人々やテモテに宛てた手紙に書いていると同様に、バッハも「自分の古い人は十字架の上でイエス様とともに死んだ。だから自分が作曲するのは、もはや自分のためではなく、自分のうちに生きておられるイエス様のためであり、さらに自分の力で作曲しているのではなく、自分のうちに生きておられるイエス様の御霊が自分を動かして作曲しておられるのだ」という信仰によって曲を作ったのではないかと思われます。まさにバッハは「主の御名において」生きた人でありました。
さて、このように「イエスの御名において」作曲したバッハの信仰の姿勢、生き方は、実はイエス様を信じる私たちがどのように生きるべきかという、キリスト者の生き方の良い手本を示しているのではないかと思います。
人間はいったい何を目的として生きているのでしょうか。何を目的として生きるかなど考える余裕もなく、その日その日を追われるように生きている人も多いでありましょう。けれども目標を立ててそれに向かって頑張って生きている人も少なくないと思います。その中には世のため、人のためにという目標を立てて生きている人々もあるでしょう。しかし、その目標もつまるところはすべて自分のために立てたもの、自分が満足するため、あるいは自分を喜ばすために立てたものであると言ってもよいのではないでしょうか。たとえば事業をしている人は自分を満足させるために事業が成功することを目的として生きており、サラリーマンは自分を満足させるために昇進し、昇給することを目的として生きており、研究者も自分の探求心を満足させるために研究することを目的として生きており、また学生は自分を満足させるために進学し、就職することを目的として生きているのではないでしょうか。子どもを育てるのもそうだと言えば反対されるかも知れませんが、果たして自分を満足させるためでないと言い切れるでしょうか。そしてそのように自分が立てた目標に向かって頑張って生きるうちに、そこに矛盾や空しさを感じ、生きる張り合いを失う人もまた少なくないのではないでしょうか。
ではイエス様を信じている私たちはどうでしょうか。私自身、胸に手を当てて静かに自分の心を吟味したときに、イエス様を信じ、イエス様に従いたいと思っていながら、空しいと知っていても、つい自分を喜ばすために何かをしてしまう自分、自分を満足させるためについ行動してしまう自分の姿を見い出して嘆かざるを得ません。
いったいイエス様を信じる私たちは日常の生活の中でどれだけ自覚して「イエス様の御名において」生活しているでしょうか。私たちはどれだけ意識して「イエス様の御名において」仕事をしているでしょうか。どれだけ意識して「イエス様の御名において」勉強しているでしょうか。どれだけ意識して「イエス様の御名において」子育てをしているでしょうか。一言で言えばどれだけ意識して「イエス様の御名において」生きようとしているでありましょうか。私たちにとってそのようにはっきりとイエス様を意識して日々生きることはとても難しいことかも知れません。しかし、もし私たちがイエス様の御名を知って、意識してイエス様の御名において生きたいと心から願うならば、イエス様は私たちを御霊で満たしてくださり、私たちをとおしてご自身のご栄光を現わしてくださるはずであります。けれどもイエス様のためでなく自分のために、言いかえればイエス様の御名のためでなく自分の名のために生きているのであれば、そのようなキリスト者をとおしてイエス様はご栄光を現わすことはなさいません。
詩篇115篇の作者は、
私たちにではなく、主よ。私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩篇115篇1節)
と祈っていますが、イエス様を信じる私たちも日々の生活の中で心からこのように祈りながら一つ一つの物事に対処するならば、生きるならば、かならずイエス様は喜んで私たちの祈りをかなえて御霊によって導いてくださり、私たちにご自身のご栄光を見せてくださるに違いありません。
では私たちが「私たちにではなく、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」と心から祈れるようになるためにはどうすればよいか、もう少し詳しく考えてみたいと思います。それにはまずイエス様を信じた私たちの中にも、まだまだ自我が強く残っていることを正直に認め、悔い改めてイエス様の前にもっと、もっと自我が砕かれるように、そして自分自身を自分の思いで満たすのではなく、御霊によって満たしていただけるようにと心から祈ることであります。私たちがそのようなへりくだった姿勢に整えられていなければ、心から「ただあなたの御名にのみ栄光がありますように」という祈りはできないからです。主なる神様は預言者エレミヤの口をとおして次のように仰せになっています。
主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。(エレミヤ書17章5~8節)
これは神様、イエス様を信じていない方にではなく、信じている私たちに対しておっしゃっているみことばであります。ここに書かれているとおり、イエス様を信じてはいても、なおイエス様よりも自分に拠り頼む者は主から祝福を受けることはできず、いっぽうイエス様に信頼し、ぶどうの木にしっかり結びついている枝のように、イエス様にしっかり結びつき、拠り頼む者だけが主から祝福を受け、豊かに御霊の実を実らせることができるということを私たちはいつも心に銘じていなければならないと思います。
テサロニケの信者への手紙の中でパウロは、
どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(テサロニケ人への手紙第二11章1~12節)
と言っています。このように私たちは、主イエス様が信じる私たちを召しにふさわしい者にしてくださるために、ますます私たちの自我を砕いてくださり、御名において生きる者となることができるようにへりくだらせてくださり、それによって自分ではなく、イエス様がご栄光を現わされることを喜び、イエス様の御名のみを誇ることができるように、そしてイエス様の御名だけがあがめられますようにと常に心から祈り求めたいと思います。
もう一度冒頭のみことばをお読みして終わります。
御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てにはなりませんでした。主にほめ歌を歌え。シオンに住まうその方に。(詩篇9篇10~11節)